恋を失った私と、恋を知らない彼女

雄樹

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第17話 媚薬に溺れたくなんてない、と思った。

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 自宅に着いた時、すでに時計の針は陽をまたいでいた。
 身体の奥が熱い。詩織さんのお店で飲んだウィスキーがまだ身体の中に残っている。

(そういえば…今夜は、7月7日…七夕なんだな)

 アルコールに染まった頭で、ふと、そう思った。
 窓の外を見る。
 乳白色の月の光が差し込んでくる。

(同じ空を)

 見ているのだろうか。
 私がいるのは、東京。夜でも明るい街。星の瞬きはほとんど見えない。同じ空を見ていても、ここから見える星と、地元で見える星とでは違うのかもしれない。

(それに…)

 私は1人で、あの子は…1人じゃない。
 傍に…先生がいると思う。私が1人で見上げている空を、あの子は恋人と2人で一緒に見上げているのかもしれない。

(寒い)

 アルコールで身体は暖かいはずなのに、なぜか、震えが来てしまった。身体が寒い。心が寒い。
 私はポケットに手を入れて、指先にあたるものの感触を感じた。
 そっと、出す。
 カプセルが、2つ。

(詩織さん)

 媚薬、って言っていたよね。媚薬…本当にあるのかな。指先で触る。少し、弾力性がある。押して、つまんで、転がす。
 これを…人に、使うの?
 怪しくない?
 捨てようか。

(あの瞳)

 詩織さんの瞳を思い出す。まだ2回しかあったことがない人。まだよく知らない人。けれど…あの人のことは信用できると、私は思っていた。
 私は騙されやすいのかもしれない。こんな東京なんて都会にいていい人間じゃないのかもしれない。
 2つのカプセル。
 1つだけ手に取る。

「ねぇ、あなた、本当に媚薬なの?」

 語り掛けてみる。
 もちろん、答えはない。月明りに照らされたその白いカプセルは、何も言うことなく、私の指先の上にある。
 だから。
 これは、私の意志だ。

 興味が…ないわけではない。心が本当に勝手に動かされるのか、試してみたい、と思った。
 自分で試してみて、本物なら…本物なら、どうするのだろう。
 今日は7月7日。
 七夕。
 私は1人。

 カプセルを照らしてみる。
 白い。
 舌を伸ばす。触れる。
 味は…当然しない。
 少しだけ、ひんやりとしている。
 私はカプセルを舌で巻き込み、そのまま口の中に入れ、水もなく、ただ唾液だけで、ごくんと飲み込んだ。

「…」

 何も起こらない。身体の奥が熱くなってくるなんてこともない。指先がしびれてくるなんてこともない。胃袋のあたりに手をやってみる。この中で、たぶん今、詩織さんからもらったカプセルが溶けている。中身が出てきて、私の身体の中にしみわたってきている…はずだ。

(騙されたかな)

 そう思い、自嘲して、笑う。
 騙されたのなら、それでいい。調子に乗って…誰かに飲ませて、何かを期待して、ピエロになるところだった。
 馬鹿だな、私。
 もう一度時計を見る。針が動いている。ちく、たく、ちく、たく。
 頭の中で、針の音を数えてみる。
 何も変わらない。

(…お風呂、はいろうかな)

 もう夜も遅いし、明日もまた大学がある。
 身体を暖めて、そして寝よう。
 先に湯船にお湯をはることにする。

 お湯を出して、音を聞く。
 最初は空のお風呂の底にあたったお湯が跳ねて、だんだんと少しずつ溜まってきて、お湯が増えていくのをじーっと見ていた。

(白い湯気)

 湯気で、頭がぼぅっとしてきた気がする。
 そのまま、お風呂場を出る。
 喉が渇いた気がする。
 お酒…はもういいや。お酒やめる。
 何度思ったかな…お酒を飲むたびに、毎回、断酒を決意してしまう。

(初めて、紫苑さんのバーでの呑んだ日の翌朝が一番ひどかったな…)

 生まれて初めて経験した二日酔い。もう2度と飲まないと決めた朝。硬い硬い決心をしたはずなのに、いつの間にか決心は破られて、私は酒におぼれる日々を繰り返しているような気がする。

(私、意志が弱いのかな)

 そんなはずは…無い。私は意志が強い方だと思う。昔から、ずっと同じ人が好きで、ずっと忘れられなくて、その人の幸せだけを願っていて、ブレない。ほら、こんなに、意志が強い。

 手を伸ばす。
 肌に触れる空気が、まるで誰かの湿った手の平のように重く、粘りついてくる。

(あれ?)

 まだお風呂に入っていないのに、空気がお湯に変わったような気がしてきた。まとわりついてくる。空気が、ぬるい。暑いわけでもなく、寒いわけでもない。ただ、ぬるい。ぬるくて、心地よくて、ぞわっとする。

(なんか…変)

 ただ呼吸をするだけで、肺の奥が震えているような気がしてきた。空気が甘い。甘さが肺を満たしている。身体が震えている。寒くないのに。

 お腹に手をあてる。
 熱い泥のような塊が、血管を逆流していっているような気がする。
 なんだろう。おかしい。
 指先を動かす。
 指先が空気にこすれる。
 まるで、粘膜をこすり合わせたかのような…過敏な感覚が指先を刺激する。

(駄目…立っていられない)

 よろめく。
 床に倒れたら…駄目。ちゃんと、もう少し、考えて、身体を動かして。

 ベッドの上に、倒れこんだ。
 シーツの感触が、指先のように生々しく感じられる。
 全身が触られているような気がする。
 誰に…?

「…はぁ」

 息を吐く。自分の吐息が、まるで誰かのささやきのように聞こえてくる。
 私は今、部屋に1人でいるのに。
 まるで誰かに包み込まれているような、そんな感覚に襲われる。

(あれ、あれ、なんで)

 脳の奥がしびれている。どろり、と溶けていくような気がする。何か液体に脳が浮かび、そのまま心地よく、身体をだんだんと痺れさせてきている。

(もしかして)

 もしかしなくても。
 あの、媚薬のせいだ。
 偽物じゃなかったの?
 ううん。
 心の奥で、たぶん私、期待していた。心を裏切るくらいの、身体の疼きを期待していた。

(駄目)

 駄目、じゃない。
 私が求めていたのは…たぶん、理由。

(仕方がなかったんだ)

 そう、自分に言い聞かせることができる、言い訳。私がしたいわけじゃない…私はただ、媚薬に、そうさせられているだけなんだ。
 脈打つ音が聞こえる。
 耳の奥で、血液が流れている音が聞こえる。
 ぼんやりした頭で、時計を見上げた。
 針が動いている…ゆっくりと、少しずつ。

「あ」

 なに、今の声。
 あんな声出したの…誰?
 私?
 私が…あんな声…出すの?出すわけがない。

「…ん」

 出た。
 声を出したくないのに、勝手に出てくる。自分で自分の声を聞いて、耳から入ってきた声がそのまま脳を撫でて、たぶん脳から何か液が出ている。溶けてる。

 ベッドの上で、横たわったまま、シーツの感触を感じる。
 触れるところが全部、触られているみたいで、たくさんの手に全身をまさぐられてりうような気がしてくる。
 …自分でそう、思ってしまっている。

(…て)
(…触って)

 触ってほしい、と思ってしまった。
 わざと身体を動かして、身体をこすりつけて、触れたところがしびれてくるのが分かって、それが…

「気持ち、い」

 い。
 わざと声に出す。
 駄目。駄目。
 やめよう。
 とめよう。
 ここから先は…なんか、怖い。

 歩いていた足元が、ふいに、海底にいて、クレバスに落ちて、そのままひゅーんって、墜ちて行って、そこが見えない。

 墜ちながら…ぞくぞくする。
 背中を駆け上がってくるなにかがある。

 どこを触っても気持ちいい。
 うん。
 私…痺れてる。

 ベッドの上で、丸くなる。
 身体をできるだけ、小さくする。
 両手で、服の上から、自分の胸を触ってみた。

「あ」

 それだけで、身体が跳ねた。
 本当に、文字通り、びくんと跳ねたのが分かって、自分でもびっくりする。
 私の身体なのに、私じゃないみたい。
 勝手に動かないで。私の身体を勝手に支配しないで。
 服の上から、こすってみる。
 指先で、かりかりと、最初は円を描くようにして、自ら触ってほしいところは出来るだけ触らずに、でも我慢できなくなって、先を、ちょん、と。

「ん」

 変な声変な声変な声。
 誰?私は首を伸ばして、舌を伸ばす。
 わざと、そのまま唾液をこぼす。
 糸が見えて、匂いを嗅いでみる。何してるの、私。駄目だから、やめよ?

 シーツを舐める。
 シーツの感触が舌先に触れて、味もないのに、鉄を感じた。
 ぺろぺろ、って舐めながら、ぼんやりと、陽花里のことを考えた。

(犬みたい)

 可愛い犬。わんこ。あの子はいつも舐めてくる。舌先が触れて、唾液を感じて、空気と混ざって、その匂いを感じるのが…好き。
 身体の中の匂いが、少しだけおすそわけしてもらっているみたいで、ぞくってする。

 
(気持ちよくなんかない)

 自分に言い聞かせながら、シーツを足の間に入れて、そのままぎゅうっと身体全体をつかって締め上げていく。
 たぶん、直接触ったら、駄目。
 もう戻れなくなる。
 今でも十分だめかもしれないけど、でも、駄目。

「私は気持ちよくなんてなってない。なってない。大丈夫。気持ちよくなんてない…あ、あ、あ、。きもちよくなん。あ、て、あああ、あ、ない」

 言い聞かせる。
 口でそう言いながら、身体が動くのをやめられない。

 音が聞こえる。
 時計の針の音が、すごく大きく聞こえてくる。感覚が鋭敏になっている。脳内で暴力的なまでの拍動が響いている。考えるのをやめたい。考えたくない。

(薬のせい…薬のせいだから)

 言い訳、できた。
 悪いのは私じゃないから、だから、仕方ないよね。

 薬が無理やり、私の神経を逆なでして、私はただの、女なんだって、教えてくれる。

 指をくわえる。
 自分の指を、舌で舐める。
 口の中に指を入れて、口の中を触る。濡れてる。だらぁ、ってしてる。

(好きな人のことを想っちゃいけない)

 いつも、後で後悔する。
 自分で自分を慰めた後の夜は、いつもむなしくて、寂しくて、しなけりゃよかった、と後悔してしまう。

 あの子のことは考えない。
 考えずに…ただ、

(身体のことだけ、委ねよう)

 たぶん私、墜ちた。
 墜ちてる。
 心で気持ちよくなろうとしているんじゃなくて、身体だけを使おうとしている。薬で無理やり、身体を鋭敏にさせて、モノみたいに使ってしまいたい。
 口から、指を抜く。

(濡れてる)

 私の唾液で、指がてらりとしている。鼻を近づけて、匂いを嗅ぐ。私の身体の中の匂い。液体って、なんか、えっちだと思う。
 身体の中の水分って、なんか、どろりとしていて、人に見せちゃいけないもののような気がする。

 くんくん。
 ぺろり。
 よく濡れてる。

(濡れてる)

 もっと、濡れてる場所、あるよね。
 駄目駄目駄目駄目。
 もう戻れなくなる。

 戻る気なんて、最初からないくせに。
 薬のせい?
 薬のおかげ?

 頭が、ぼぅっとしてくる。
 今だけで、もう、気持ちいい。

「…溶けたい」

 ああ、言っちゃった。
 私、溶けて、どろどろになりたい。
 どろどろになって、濡れて、溶けて、ひとつの穴になりたい。
 私、っていう穴の内側を触って、そのざらざらを感じたい。

 自分で自分を慰める。
 慰めるって、本当、それ。

 可愛そうだな、私。
 空が綺麗だな。
 ミルキーウェイっていうのかな、天の川のこと。
 今夜は、七夕。
 ミルクの川。
 白い川。

「あ」

 入れたら、濡れてた。
 口内よりもさらに、熱い。

 やめよう、やめよう、やめよう。
 もっと、もっと、もっと。

 身体が私を裏切っているのが分かる。
 ううん。
 裏切ってなんていない。
 答えてくれている。
 いつもより、すごい。

 あ。

 意識と記憶が混濁していく。
 どろり。
 溶けて。
 背中がお腹にくっついたみたい。

 私は今、ただの、穴。

 ただの、モノ。






 何度も何度も何度も何度も。
 終わったと思ったら、また次の波が来て。

「終わらせてくれない」

 終わりたくないって思う私は、たぶんもう終わっている。
 泣いてる。
 泣きながら、声にならない声を上げている。

 お風呂からお湯が零れる音が聞こえてくる。
 出しっぱなしだった。
 お湯がたぶん床に零れている。

 濡れてる。

 零れっぱなしになるなんて、なんて、駄目で、はしたない。
 溢れてるのに、蛇口を止めない。
 止めようともしない。

 自分で自分の蛇口を開けっ放しにしているのに、何を言っているのだろう。

「…もう、終わって…」

 終わらない。
 動いている。
 止まらない。

 水の音。
 お湯の音。
 薄ら目をあけて、ぼうっと痺れている頭をこすって、脳の奥から何か出ているのが分かって、溺れて。

 薬のせいだから。
 私は悪くないから。
 痺れる。
 零れる。

 私の中の液体はたぶん全部零れてる。

 「終わって…終わってよ…」

 終わらない。

 もう、しんどい。
 気持ちよくなんてない。
 白くて、どろっとしていて、全身浸かっていて。

「もう、嫌」

 あ。
 いや。
 いや、いや、いや。

 どうして止まらないの。
 液体の音。
 お風呂場から聞こえるお湯の音。
 噴き出す音。
 びちゃびちゃに零れてる。蛇口、閉めなくちゃ。

 時計を見る。
 針が何回まわったのだろう?

 脳の奥がしびれて、溶けて、どろりとして。
 気持ちいいから、気持ち悪い。
 もう何も残っていないのに、それをかきだすように動いている。

「…お風呂、いかなくちゃ」

 私は立ちあがって、そして、こける。
 シーツに顔をうちつけて、そのシーツが濡れそぼっているのが分かって、恥ずかしくなる。

 誰がこんなに濡らしたの?
 見ると、シーツだけじゃなくって、床にも、いろいろ。

「お湯、止めなくちゃ」

 濡れてる床の上をあるいて、手を伸ばす。
 お風呂場にようやくついて、扉を開けて、白いもやにつつまれる。

 蛇口に手を触れて、ぬるりとして、滑る。
 蛇口がぬるぬるしている…
 糸を引く指先を何とか動かして、止める。

 やっと、お湯が止まった。
 私はお湯で濡れていて、濡れているのは…お湯のせいで。

 服を着たまま、半分脱げていたけど、半分っていうのは、上だけ来ていて、下は着ていないってことで。

 でも、まだ。
 こんなになっているのに。

「…まだ、止まらない」

 湯船に顔をあてながら、まだ私の指は動いていた。







■■■■■


 翌朝。
 一人きりの私は、重い頭をあげた。

 身体に力が残っていない。
 全部…出し切ってしまった気がする。

 思い出したくない。
 今はただ、この身体が、ただの湿った肉の塊にしか思えない。

 指先についていた昨夜の証拠が、夢ではなかったのだと私に冷酷に告げてきている。

 まるで、醜い呪いみたいだ。

(こんなものを)

 私は、他人に使おうと思っているのだろうか。
 自分で試してみて、自分で自分を慰めてみて、こんなにも暗い静寂の中に落ち込んでいるというのに。

 冷えた汗。
 汚れたシーツ。
 駄目な女のあと。

 
 私はただの、モノ。


 やめよう。
 もう、やめよう。

 そう思いながら…

 私は、カプセルを大事にくるむと、ポケットの中に入れて。

 着替えて、そして。

 大学へと、向かった。
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