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第17話 媚薬に溺れたくなんてない、と思った。
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自宅に着いた時、すでに時計の針は陽をまたいでいた。
身体の奥が熱い。詩織さんのお店で飲んだウィスキーがまだ身体の中に残っている。
(そういえば…今夜は、7月7日…七夕なんだな)
アルコールに染まった頭で、ふと、そう思った。
窓の外を見る。
乳白色の月の光が差し込んでくる。
(同じ空を)
見ているのだろうか。
私がいるのは、東京。夜でも明るい街。星の瞬きはほとんど見えない。同じ空を見ていても、ここから見える星と、地元で見える星とでは違うのかもしれない。
(それに…)
私は1人で、あの子は…1人じゃない。
傍に…先生がいると思う。私が1人で見上げている空を、あの子は恋人と2人で一緒に見上げているのかもしれない。
(寒い)
アルコールで身体は暖かいはずなのに、なぜか、震えが来てしまった。身体が寒い。心が寒い。
私はポケットに手を入れて、指先にあたるものの感触を感じた。
そっと、出す。
カプセルが、2つ。
(詩織さん)
媚薬、って言っていたよね。媚薬…本当にあるのかな。指先で触る。少し、弾力性がある。押して、つまんで、転がす。
これを…人に、使うの?
怪しくない?
捨てようか。
(あの瞳)
詩織さんの瞳を思い出す。まだ2回しかあったことがない人。まだよく知らない人。けれど…あの人のことは信用できると、私は思っていた。
私は騙されやすいのかもしれない。こんな東京なんて都会にいていい人間じゃないのかもしれない。
2つのカプセル。
1つだけ手に取る。
「ねぇ、あなた、本当に媚薬なの?」
語り掛けてみる。
もちろん、答えはない。月明りに照らされたその白いカプセルは、何も言うことなく、私の指先の上にある。
だから。
これは、私の意志だ。
興味が…ないわけではない。心が本当に勝手に動かされるのか、試してみたい、と思った。
自分で試してみて、本物なら…本物なら、どうするのだろう。
今日は7月7日。
七夕。
私は1人。
カプセルを照らしてみる。
白い。
舌を伸ばす。触れる。
味は…当然しない。
少しだけ、ひんやりとしている。
私はカプセルを舌で巻き込み、そのまま口の中に入れ、水もなく、ただ唾液だけで、ごくんと飲み込んだ。
「…」
何も起こらない。身体の奥が熱くなってくるなんてこともない。指先がしびれてくるなんてこともない。胃袋のあたりに手をやってみる。この中で、たぶん今、詩織さんからもらったカプセルが溶けている。中身が出てきて、私の身体の中にしみわたってきている…はずだ。
(騙されたかな)
そう思い、自嘲して、笑う。
騙されたのなら、それでいい。調子に乗って…誰かに飲ませて、何かを期待して、ピエロになるところだった。
馬鹿だな、私。
もう一度時計を見る。針が動いている。ちく、たく、ちく、たく。
頭の中で、針の音を数えてみる。
何も変わらない。
(…お風呂、はいろうかな)
もう夜も遅いし、明日もまた大学がある。
身体を暖めて、そして寝よう。
先に湯船にお湯をはることにする。
お湯を出して、音を聞く。
最初は空のお風呂の底にあたったお湯が跳ねて、だんだんと少しずつ溜まってきて、お湯が増えていくのをじーっと見ていた。
(白い湯気)
湯気で、頭がぼぅっとしてきた気がする。
そのまま、お風呂場を出る。
喉が渇いた気がする。
お酒…はもういいや。お酒やめる。
何度思ったかな…お酒を飲むたびに、毎回、断酒を決意してしまう。
(初めて、紫苑さんのバーでの呑んだ日の翌朝が一番ひどかったな…)
生まれて初めて経験した二日酔い。もう2度と飲まないと決めた朝。硬い硬い決心をしたはずなのに、いつの間にか決心は破られて、私は酒におぼれる日々を繰り返しているような気がする。
(私、意志が弱いのかな)
そんなはずは…無い。私は意志が強い方だと思う。昔から、ずっと同じ人が好きで、ずっと忘れられなくて、その人の幸せだけを願っていて、ブレない。ほら、こんなに、意志が強い。
手を伸ばす。
肌に触れる空気が、まるで誰かの湿った手の平のように重く、粘りついてくる。
(あれ?)
まだお風呂に入っていないのに、空気がお湯に変わったような気がしてきた。まとわりついてくる。空気が、ぬるい。暑いわけでもなく、寒いわけでもない。ただ、ぬるい。ぬるくて、心地よくて、ぞわっとする。
(なんか…変)
ただ呼吸をするだけで、肺の奥が震えているような気がしてきた。空気が甘い。甘さが肺を満たしている。身体が震えている。寒くないのに。
お腹に手をあてる。
熱い泥のような塊が、血管を逆流していっているような気がする。
なんだろう。おかしい。
指先を動かす。
指先が空気にこすれる。
まるで、粘膜をこすり合わせたかのような…過敏な感覚が指先を刺激する。
(駄目…立っていられない)
よろめく。
床に倒れたら…駄目。ちゃんと、もう少し、考えて、身体を動かして。
ベッドの上に、倒れこんだ。
シーツの感触が、指先のように生々しく感じられる。
全身が触られているような気がする。
誰に…?
「…はぁ」
息を吐く。自分の吐息が、まるで誰かのささやきのように聞こえてくる。
私は今、部屋に1人でいるのに。
まるで誰かに包み込まれているような、そんな感覚に襲われる。
(あれ、あれ、なんで)
脳の奥がしびれている。どろり、と溶けていくような気がする。何か液体に脳が浮かび、そのまま心地よく、身体をだんだんと痺れさせてきている。
(もしかして)
もしかしなくても。
あの、媚薬のせいだ。
偽物じゃなかったの?
ううん。
心の奥で、たぶん私、期待していた。心を裏切るくらいの、身体の疼きを期待していた。
(駄目)
駄目、じゃない。
私が求めていたのは…たぶん、理由。
(仕方がなかったんだ)
そう、自分に言い聞かせることができる、言い訳。私がしたいわけじゃない…私はただ、媚薬に、そうさせられているだけなんだ。
脈打つ音が聞こえる。
耳の奥で、血液が流れている音が聞こえる。
ぼんやりした頭で、時計を見上げた。
針が動いている…ゆっくりと、少しずつ。
「あ」
なに、今の声。
あんな声出したの…誰?
私?
私が…あんな声…出すの?出すわけがない。
「…ん」
出た。
声を出したくないのに、勝手に出てくる。自分で自分の声を聞いて、耳から入ってきた声がそのまま脳を撫でて、たぶん脳から何か液が出ている。溶けてる。
ベッドの上で、横たわったまま、シーツの感触を感じる。
触れるところが全部、触られているみたいで、たくさんの手に全身をまさぐられてりうような気がしてくる。
…自分でそう、思ってしまっている。
(…て)
(…触って)
触ってほしい、と思ってしまった。
わざと身体を動かして、身体をこすりつけて、触れたところがしびれてくるのが分かって、それが…
「気持ち、い」
い。
わざと声に出す。
駄目。駄目。
やめよう。
とめよう。
ここから先は…なんか、怖い。
歩いていた足元が、ふいに、海底にいて、クレバスに落ちて、そのままひゅーんって、墜ちて行って、そこが見えない。
墜ちながら…ぞくぞくする。
背中を駆け上がってくるなにかがある。
どこを触っても気持ちいい。
うん。
私…痺れてる。
ベッドの上で、丸くなる。
身体をできるだけ、小さくする。
両手で、服の上から、自分の胸を触ってみた。
「あ」
それだけで、身体が跳ねた。
本当に、文字通り、びくんと跳ねたのが分かって、自分でもびっくりする。
私の身体なのに、私じゃないみたい。
勝手に動かないで。私の身体を勝手に支配しないで。
服の上から、こすってみる。
指先で、かりかりと、最初は円を描くようにして、自ら触ってほしいところは出来るだけ触らずに、でも我慢できなくなって、先を、ちょん、と。
「ん」
変な声変な声変な声。
誰?私は首を伸ばして、舌を伸ばす。
わざと、そのまま唾液をこぼす。
糸が見えて、匂いを嗅いでみる。何してるの、私。駄目だから、やめよ?
シーツを舐める。
シーツの感触が舌先に触れて、味もないのに、鉄を感じた。
ぺろぺろ、って舐めながら、ぼんやりと、陽花里のことを考えた。
(犬みたい)
可愛い犬。わんこ。あの子はいつも舐めてくる。舌先が触れて、唾液を感じて、空気と混ざって、その匂いを感じるのが…好き。
身体の中の匂いが、少しだけおすそわけしてもらっているみたいで、ぞくってする。
(気持ちよくなんかない)
自分に言い聞かせながら、シーツを足の間に入れて、そのままぎゅうっと身体全体をつかって締め上げていく。
たぶん、直接触ったら、駄目。
もう戻れなくなる。
今でも十分だめかもしれないけど、でも、駄目。
「私は気持ちよくなんてなってない。なってない。大丈夫。気持ちよくなんてない…あ、あ、あ、。きもちよくなん。あ、て、あああ、あ、ない」
言い聞かせる。
口でそう言いながら、身体が動くのをやめられない。
音が聞こえる。
時計の針の音が、すごく大きく聞こえてくる。感覚が鋭敏になっている。脳内で暴力的なまでの拍動が響いている。考えるのをやめたい。考えたくない。
(薬のせい…薬のせいだから)
言い訳、できた。
悪いのは私じゃないから、だから、仕方ないよね。
薬が無理やり、私の神経を逆なでして、私はただの、女なんだって、教えてくれる。
指をくわえる。
自分の指を、舌で舐める。
口の中に指を入れて、口の中を触る。濡れてる。だらぁ、ってしてる。
(好きな人のことを想っちゃいけない)
いつも、後で後悔する。
自分で自分を慰めた後の夜は、いつもむなしくて、寂しくて、しなけりゃよかった、と後悔してしまう。
あの子のことは考えない。
考えずに…ただ、
(身体のことだけ、委ねよう)
たぶん私、墜ちた。
墜ちてる。
心で気持ちよくなろうとしているんじゃなくて、身体だけを使おうとしている。薬で無理やり、身体を鋭敏にさせて、モノみたいに使ってしまいたい。
口から、指を抜く。
(濡れてる)
私の唾液で、指がてらりとしている。鼻を近づけて、匂いを嗅ぐ。私の身体の中の匂い。液体って、なんか、えっちだと思う。
身体の中の水分って、なんか、どろりとしていて、人に見せちゃいけないもののような気がする。
くんくん。
ぺろり。
よく濡れてる。
(濡れてる)
もっと、濡れてる場所、あるよね。
駄目駄目駄目駄目。
もう戻れなくなる。
戻る気なんて、最初からないくせに。
薬のせい?
薬のおかげ?
頭が、ぼぅっとしてくる。
今だけで、もう、気持ちいい。
「…溶けたい」
ああ、言っちゃった。
私、溶けて、どろどろになりたい。
どろどろになって、濡れて、溶けて、ひとつの穴になりたい。
私、っていう穴の内側を触って、そのざらざらを感じたい。
自分で自分を慰める。
慰めるって、本当、それ。
可愛そうだな、私。
空が綺麗だな。
ミルキーウェイっていうのかな、天の川のこと。
今夜は、七夕。
ミルクの川。
白い川。
「あ」
入れたら、濡れてた。
口内よりもさらに、熱い。
やめよう、やめよう、やめよう。
もっと、もっと、もっと。
身体が私を裏切っているのが分かる。
ううん。
裏切ってなんていない。
答えてくれている。
いつもより、すごい。
あ。
意識と記憶が混濁していく。
どろり。
溶けて。
背中がお腹にくっついたみたい。
私は今、ただの、穴。
ただの、モノ。
何度も何度も何度も何度も。
終わったと思ったら、また次の波が来て。
「終わらせてくれない」
終わりたくないって思う私は、たぶんもう終わっている。
泣いてる。
泣きながら、声にならない声を上げている。
お風呂からお湯が零れる音が聞こえてくる。
出しっぱなしだった。
お湯がたぶん床に零れている。
濡れてる。
零れっぱなしになるなんて、なんて、駄目で、はしたない。
溢れてるのに、蛇口を止めない。
止めようともしない。
自分で自分の蛇口を開けっ放しにしているのに、何を言っているのだろう。
「…もう、終わって…」
終わらない。
動いている。
止まらない。
水の音。
お湯の音。
薄ら目をあけて、ぼうっと痺れている頭をこすって、脳の奥から何か出ているのが分かって、溺れて。
薬のせいだから。
私は悪くないから。
痺れる。
零れる。
私の中の液体はたぶん全部零れてる。
「終わって…終わってよ…」
終わらない。
もう、しんどい。
気持ちよくなんてない。
白くて、どろっとしていて、全身浸かっていて。
「もう、嫌」
あ。
いや。
いや、いや、いや。
どうして止まらないの。
液体の音。
お風呂場から聞こえるお湯の音。
噴き出す音。
びちゃびちゃに零れてる。蛇口、閉めなくちゃ。
時計を見る。
針が何回まわったのだろう?
脳の奥がしびれて、溶けて、どろりとして。
気持ちいいから、気持ち悪い。
もう何も残っていないのに、それをかきだすように動いている。
「…お風呂、いかなくちゃ」
私は立ちあがって、そして、こける。
シーツに顔をうちつけて、そのシーツが濡れそぼっているのが分かって、恥ずかしくなる。
誰がこんなに濡らしたの?
見ると、シーツだけじゃなくって、床にも、いろいろ。
「お湯、止めなくちゃ」
濡れてる床の上をあるいて、手を伸ばす。
お風呂場にようやくついて、扉を開けて、白いもやにつつまれる。
蛇口に手を触れて、ぬるりとして、滑る。
蛇口がぬるぬるしている…
糸を引く指先を何とか動かして、止める。
やっと、お湯が止まった。
私はお湯で濡れていて、濡れているのは…お湯のせいで。
服を着たまま、半分脱げていたけど、半分っていうのは、上だけ来ていて、下は着ていないってことで。
でも、まだ。
こんなになっているのに。
「…まだ、止まらない」
湯船に顔をあてながら、まだ私の指は動いていた。
■■■■■
翌朝。
一人きりの私は、重い頭をあげた。
身体に力が残っていない。
全部…出し切ってしまった気がする。
思い出したくない。
今はただ、この身体が、ただの湿った肉の塊にしか思えない。
指先についていた昨夜の証拠が、夢ではなかったのだと私に冷酷に告げてきている。
まるで、醜い呪いみたいだ。
(こんなものを)
私は、他人に使おうと思っているのだろうか。
自分で試してみて、自分で自分を慰めてみて、こんなにも暗い静寂の中に落ち込んでいるというのに。
冷えた汗。
汚れたシーツ。
駄目な女のあと。
私はただの、モノ。
やめよう。
もう、やめよう。
そう思いながら…
私は、カプセルを大事にくるむと、ポケットの中に入れて。
着替えて、そして。
大学へと、向かった。
身体の奥が熱い。詩織さんのお店で飲んだウィスキーがまだ身体の中に残っている。
(そういえば…今夜は、7月7日…七夕なんだな)
アルコールに染まった頭で、ふと、そう思った。
窓の外を見る。
乳白色の月の光が差し込んでくる。
(同じ空を)
見ているのだろうか。
私がいるのは、東京。夜でも明るい街。星の瞬きはほとんど見えない。同じ空を見ていても、ここから見える星と、地元で見える星とでは違うのかもしれない。
(それに…)
私は1人で、あの子は…1人じゃない。
傍に…先生がいると思う。私が1人で見上げている空を、あの子は恋人と2人で一緒に見上げているのかもしれない。
(寒い)
アルコールで身体は暖かいはずなのに、なぜか、震えが来てしまった。身体が寒い。心が寒い。
私はポケットに手を入れて、指先にあたるものの感触を感じた。
そっと、出す。
カプセルが、2つ。
(詩織さん)
媚薬、って言っていたよね。媚薬…本当にあるのかな。指先で触る。少し、弾力性がある。押して、つまんで、転がす。
これを…人に、使うの?
怪しくない?
捨てようか。
(あの瞳)
詩織さんの瞳を思い出す。まだ2回しかあったことがない人。まだよく知らない人。けれど…あの人のことは信用できると、私は思っていた。
私は騙されやすいのかもしれない。こんな東京なんて都会にいていい人間じゃないのかもしれない。
2つのカプセル。
1つだけ手に取る。
「ねぇ、あなた、本当に媚薬なの?」
語り掛けてみる。
もちろん、答えはない。月明りに照らされたその白いカプセルは、何も言うことなく、私の指先の上にある。
だから。
これは、私の意志だ。
興味が…ないわけではない。心が本当に勝手に動かされるのか、試してみたい、と思った。
自分で試してみて、本物なら…本物なら、どうするのだろう。
今日は7月7日。
七夕。
私は1人。
カプセルを照らしてみる。
白い。
舌を伸ばす。触れる。
味は…当然しない。
少しだけ、ひんやりとしている。
私はカプセルを舌で巻き込み、そのまま口の中に入れ、水もなく、ただ唾液だけで、ごくんと飲み込んだ。
「…」
何も起こらない。身体の奥が熱くなってくるなんてこともない。指先がしびれてくるなんてこともない。胃袋のあたりに手をやってみる。この中で、たぶん今、詩織さんからもらったカプセルが溶けている。中身が出てきて、私の身体の中にしみわたってきている…はずだ。
(騙されたかな)
そう思い、自嘲して、笑う。
騙されたのなら、それでいい。調子に乗って…誰かに飲ませて、何かを期待して、ピエロになるところだった。
馬鹿だな、私。
もう一度時計を見る。針が動いている。ちく、たく、ちく、たく。
頭の中で、針の音を数えてみる。
何も変わらない。
(…お風呂、はいろうかな)
もう夜も遅いし、明日もまた大学がある。
身体を暖めて、そして寝よう。
先に湯船にお湯をはることにする。
お湯を出して、音を聞く。
最初は空のお風呂の底にあたったお湯が跳ねて、だんだんと少しずつ溜まってきて、お湯が増えていくのをじーっと見ていた。
(白い湯気)
湯気で、頭がぼぅっとしてきた気がする。
そのまま、お風呂場を出る。
喉が渇いた気がする。
お酒…はもういいや。お酒やめる。
何度思ったかな…お酒を飲むたびに、毎回、断酒を決意してしまう。
(初めて、紫苑さんのバーでの呑んだ日の翌朝が一番ひどかったな…)
生まれて初めて経験した二日酔い。もう2度と飲まないと決めた朝。硬い硬い決心をしたはずなのに、いつの間にか決心は破られて、私は酒におぼれる日々を繰り返しているような気がする。
(私、意志が弱いのかな)
そんなはずは…無い。私は意志が強い方だと思う。昔から、ずっと同じ人が好きで、ずっと忘れられなくて、その人の幸せだけを願っていて、ブレない。ほら、こんなに、意志が強い。
手を伸ばす。
肌に触れる空気が、まるで誰かの湿った手の平のように重く、粘りついてくる。
(あれ?)
まだお風呂に入っていないのに、空気がお湯に変わったような気がしてきた。まとわりついてくる。空気が、ぬるい。暑いわけでもなく、寒いわけでもない。ただ、ぬるい。ぬるくて、心地よくて、ぞわっとする。
(なんか…変)
ただ呼吸をするだけで、肺の奥が震えているような気がしてきた。空気が甘い。甘さが肺を満たしている。身体が震えている。寒くないのに。
お腹に手をあてる。
熱い泥のような塊が、血管を逆流していっているような気がする。
なんだろう。おかしい。
指先を動かす。
指先が空気にこすれる。
まるで、粘膜をこすり合わせたかのような…過敏な感覚が指先を刺激する。
(駄目…立っていられない)
よろめく。
床に倒れたら…駄目。ちゃんと、もう少し、考えて、身体を動かして。
ベッドの上に、倒れこんだ。
シーツの感触が、指先のように生々しく感じられる。
全身が触られているような気がする。
誰に…?
「…はぁ」
息を吐く。自分の吐息が、まるで誰かのささやきのように聞こえてくる。
私は今、部屋に1人でいるのに。
まるで誰かに包み込まれているような、そんな感覚に襲われる。
(あれ、あれ、なんで)
脳の奥がしびれている。どろり、と溶けていくような気がする。何か液体に脳が浮かび、そのまま心地よく、身体をだんだんと痺れさせてきている。
(もしかして)
もしかしなくても。
あの、媚薬のせいだ。
偽物じゃなかったの?
ううん。
心の奥で、たぶん私、期待していた。心を裏切るくらいの、身体の疼きを期待していた。
(駄目)
駄目、じゃない。
私が求めていたのは…たぶん、理由。
(仕方がなかったんだ)
そう、自分に言い聞かせることができる、言い訳。私がしたいわけじゃない…私はただ、媚薬に、そうさせられているだけなんだ。
脈打つ音が聞こえる。
耳の奥で、血液が流れている音が聞こえる。
ぼんやりした頭で、時計を見上げた。
針が動いている…ゆっくりと、少しずつ。
「あ」
なに、今の声。
あんな声出したの…誰?
私?
私が…あんな声…出すの?出すわけがない。
「…ん」
出た。
声を出したくないのに、勝手に出てくる。自分で自分の声を聞いて、耳から入ってきた声がそのまま脳を撫でて、たぶん脳から何か液が出ている。溶けてる。
ベッドの上で、横たわったまま、シーツの感触を感じる。
触れるところが全部、触られているみたいで、たくさんの手に全身をまさぐられてりうような気がしてくる。
…自分でそう、思ってしまっている。
(…て)
(…触って)
触ってほしい、と思ってしまった。
わざと身体を動かして、身体をこすりつけて、触れたところがしびれてくるのが分かって、それが…
「気持ち、い」
い。
わざと声に出す。
駄目。駄目。
やめよう。
とめよう。
ここから先は…なんか、怖い。
歩いていた足元が、ふいに、海底にいて、クレバスに落ちて、そのままひゅーんって、墜ちて行って、そこが見えない。
墜ちながら…ぞくぞくする。
背中を駆け上がってくるなにかがある。
どこを触っても気持ちいい。
うん。
私…痺れてる。
ベッドの上で、丸くなる。
身体をできるだけ、小さくする。
両手で、服の上から、自分の胸を触ってみた。
「あ」
それだけで、身体が跳ねた。
本当に、文字通り、びくんと跳ねたのが分かって、自分でもびっくりする。
私の身体なのに、私じゃないみたい。
勝手に動かないで。私の身体を勝手に支配しないで。
服の上から、こすってみる。
指先で、かりかりと、最初は円を描くようにして、自ら触ってほしいところは出来るだけ触らずに、でも我慢できなくなって、先を、ちょん、と。
「ん」
変な声変な声変な声。
誰?私は首を伸ばして、舌を伸ばす。
わざと、そのまま唾液をこぼす。
糸が見えて、匂いを嗅いでみる。何してるの、私。駄目だから、やめよ?
シーツを舐める。
シーツの感触が舌先に触れて、味もないのに、鉄を感じた。
ぺろぺろ、って舐めながら、ぼんやりと、陽花里のことを考えた。
(犬みたい)
可愛い犬。わんこ。あの子はいつも舐めてくる。舌先が触れて、唾液を感じて、空気と混ざって、その匂いを感じるのが…好き。
身体の中の匂いが、少しだけおすそわけしてもらっているみたいで、ぞくってする。
(気持ちよくなんかない)
自分に言い聞かせながら、シーツを足の間に入れて、そのままぎゅうっと身体全体をつかって締め上げていく。
たぶん、直接触ったら、駄目。
もう戻れなくなる。
今でも十分だめかもしれないけど、でも、駄目。
「私は気持ちよくなんてなってない。なってない。大丈夫。気持ちよくなんてない…あ、あ、あ、。きもちよくなん。あ、て、あああ、あ、ない」
言い聞かせる。
口でそう言いながら、身体が動くのをやめられない。
音が聞こえる。
時計の針の音が、すごく大きく聞こえてくる。感覚が鋭敏になっている。脳内で暴力的なまでの拍動が響いている。考えるのをやめたい。考えたくない。
(薬のせい…薬のせいだから)
言い訳、できた。
悪いのは私じゃないから、だから、仕方ないよね。
薬が無理やり、私の神経を逆なでして、私はただの、女なんだって、教えてくれる。
指をくわえる。
自分の指を、舌で舐める。
口の中に指を入れて、口の中を触る。濡れてる。だらぁ、ってしてる。
(好きな人のことを想っちゃいけない)
いつも、後で後悔する。
自分で自分を慰めた後の夜は、いつもむなしくて、寂しくて、しなけりゃよかった、と後悔してしまう。
あの子のことは考えない。
考えずに…ただ、
(身体のことだけ、委ねよう)
たぶん私、墜ちた。
墜ちてる。
心で気持ちよくなろうとしているんじゃなくて、身体だけを使おうとしている。薬で無理やり、身体を鋭敏にさせて、モノみたいに使ってしまいたい。
口から、指を抜く。
(濡れてる)
私の唾液で、指がてらりとしている。鼻を近づけて、匂いを嗅ぐ。私の身体の中の匂い。液体って、なんか、えっちだと思う。
身体の中の水分って、なんか、どろりとしていて、人に見せちゃいけないもののような気がする。
くんくん。
ぺろり。
よく濡れてる。
(濡れてる)
もっと、濡れてる場所、あるよね。
駄目駄目駄目駄目。
もう戻れなくなる。
戻る気なんて、最初からないくせに。
薬のせい?
薬のおかげ?
頭が、ぼぅっとしてくる。
今だけで、もう、気持ちいい。
「…溶けたい」
ああ、言っちゃった。
私、溶けて、どろどろになりたい。
どろどろになって、濡れて、溶けて、ひとつの穴になりたい。
私、っていう穴の内側を触って、そのざらざらを感じたい。
自分で自分を慰める。
慰めるって、本当、それ。
可愛そうだな、私。
空が綺麗だな。
ミルキーウェイっていうのかな、天の川のこと。
今夜は、七夕。
ミルクの川。
白い川。
「あ」
入れたら、濡れてた。
口内よりもさらに、熱い。
やめよう、やめよう、やめよう。
もっと、もっと、もっと。
身体が私を裏切っているのが分かる。
ううん。
裏切ってなんていない。
答えてくれている。
いつもより、すごい。
あ。
意識と記憶が混濁していく。
どろり。
溶けて。
背中がお腹にくっついたみたい。
私は今、ただの、穴。
ただの、モノ。
何度も何度も何度も何度も。
終わったと思ったら、また次の波が来て。
「終わらせてくれない」
終わりたくないって思う私は、たぶんもう終わっている。
泣いてる。
泣きながら、声にならない声を上げている。
お風呂からお湯が零れる音が聞こえてくる。
出しっぱなしだった。
お湯がたぶん床に零れている。
濡れてる。
零れっぱなしになるなんて、なんて、駄目で、はしたない。
溢れてるのに、蛇口を止めない。
止めようともしない。
自分で自分の蛇口を開けっ放しにしているのに、何を言っているのだろう。
「…もう、終わって…」
終わらない。
動いている。
止まらない。
水の音。
お湯の音。
薄ら目をあけて、ぼうっと痺れている頭をこすって、脳の奥から何か出ているのが分かって、溺れて。
薬のせいだから。
私は悪くないから。
痺れる。
零れる。
私の中の液体はたぶん全部零れてる。
「終わって…終わってよ…」
終わらない。
もう、しんどい。
気持ちよくなんてない。
白くて、どろっとしていて、全身浸かっていて。
「もう、嫌」
あ。
いや。
いや、いや、いや。
どうして止まらないの。
液体の音。
お風呂場から聞こえるお湯の音。
噴き出す音。
びちゃびちゃに零れてる。蛇口、閉めなくちゃ。
時計を見る。
針が何回まわったのだろう?
脳の奥がしびれて、溶けて、どろりとして。
気持ちいいから、気持ち悪い。
もう何も残っていないのに、それをかきだすように動いている。
「…お風呂、いかなくちゃ」
私は立ちあがって、そして、こける。
シーツに顔をうちつけて、そのシーツが濡れそぼっているのが分かって、恥ずかしくなる。
誰がこんなに濡らしたの?
見ると、シーツだけじゃなくって、床にも、いろいろ。
「お湯、止めなくちゃ」
濡れてる床の上をあるいて、手を伸ばす。
お風呂場にようやくついて、扉を開けて、白いもやにつつまれる。
蛇口に手を触れて、ぬるりとして、滑る。
蛇口がぬるぬるしている…
糸を引く指先を何とか動かして、止める。
やっと、お湯が止まった。
私はお湯で濡れていて、濡れているのは…お湯のせいで。
服を着たまま、半分脱げていたけど、半分っていうのは、上だけ来ていて、下は着ていないってことで。
でも、まだ。
こんなになっているのに。
「…まだ、止まらない」
湯船に顔をあてながら、まだ私の指は動いていた。
■■■■■
翌朝。
一人きりの私は、重い頭をあげた。
身体に力が残っていない。
全部…出し切ってしまった気がする。
思い出したくない。
今はただ、この身体が、ただの湿った肉の塊にしか思えない。
指先についていた昨夜の証拠が、夢ではなかったのだと私に冷酷に告げてきている。
まるで、醜い呪いみたいだ。
(こんなものを)
私は、他人に使おうと思っているのだろうか。
自分で試してみて、自分で自分を慰めてみて、こんなにも暗い静寂の中に落ち込んでいるというのに。
冷えた汗。
汚れたシーツ。
駄目な女のあと。
私はただの、モノ。
やめよう。
もう、やめよう。
そう思いながら…
私は、カプセルを大事にくるむと、ポケットの中に入れて。
着替えて、そして。
大学へと、向かった。
10
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