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第二章:走る騎士と魔女の館
第8話 廊下と、走る騎士
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騎士。未完。なかよく。
ミカは、小さく会釈した。
「では、こちらへ」
肘を支えられたまま、篝は部屋の外に一歩踏み出す。
そこは、廊下というには、あまりに長かった。
左右どちらを向いても、同じ石壁と同じ窓が、遠くの暗がりの中に延々と並んでいる。
いくつかの壁の灯りが、等間隔に灯っているはずなのに、最後のひとつがどこにあるのか、目では掴めない。
「館の中の廊下」というより、「館の形を借りた、別の何か」のように思えた。
窓の外には暗い森が張りついていて、その合間に、ごく遠くの灯りが細く切り取られている。
そこに覗く夜もまた、どこまでも続いているように見えた。
ミカは廊下を数歩進んでから、ふっと足を止める。
「ここから、あちらの灯りの下まで」
指さした先の壁際には、小さなランプと、その真下に背もたれだけの椅子が一脚、壁に向かって置かれていた。
座るためのものというより、誰かがそこに座っているところだけは想像したくないような、妙な置かれ方だ。
ランプに照らされるたび、背もたれの影が、さっきと少し違う形に見える。篝は「自分の目がおかしいだけだ」と言い聞かせた。
そこまでの距離は、体育館よりは短いはずなのに、この廊下の長さの中では妙に遠く見えた。
「最初は、私が一度だけ往復して見せます。速度の目安になさってください」
そう言うと、ミカは軽くスカートの裾を押さえ、ランタンを持ち直した。
次の瞬間には、石畳を蹴る音が、一気に速いリズムで鳴りはじめている。
ランタンの光が、すっと遠ざかり、廊下の奥で小さな光の点になって、すぐにこちら側へ戻ってくる。
距離のわりに戻ってくるまでの時間が短すぎて、篝の感覚のほうがずれた気がした。
やがて、光は最初と同じ位置に止まった。
ミカは、走る前とほとんど変わらない呼吸のまま、篝のほうに向き直る。
「今のが、一往復です」
「……は、や……」
口からこぼれた感想は、それだけだった。
ミカは、特に誇るでもなく、事務的にうなずく。
「では、次は周防様の番です」
そう言ってから、少しだけ言葉を足した。
「先ほどの私の動きを、できるかぎり早く真似してみてください。
あちらの椅子のところまで行って戻る動きを、三度ほど繰り返していただきます」
篝が「はい」と答えるより先に、心臓のあたりが、すでに少しきゅっとする。
ランプに照らされるたび、背もたれの影が、さっきと少し違う形に見える。
篝は「自分の目がおかしいだけだ」と言い聞かせた。
半拍遅れて、背後からもう一つの足音が重なる。
最初の数歩だけは、かろうじてリズムが揃っていた。
けれどすぐに、ミカの足音だけがすっと軽くなり、篝の横を抜けて、廊下の奥へと離れていく。
やがて、距離が離れすぎて、その足音も薄れていき、篝の耳には、自分の足音と呼吸の音だけがはっきり残った。
石の床を蹴るたびに、足の裏にじんとした衝撃が返ってくる。
灯りと椅子までの距離は、見た目よりもずっと遠く感じられた。
「……は、はぁ……」
息が上がりはじめたころ、ようやく目印のランプと椅子の下にたどり着く。
「はい、そこで折り返しです。そのままお戻りください」
振り向くと、ミカは廊下の端――さっき出てきた扉の近くに、まっすぐ立っていた。
ランタンを持った腕も、肩も、少しも上下していない。
二往復目に入るころには、ミカも篝のいる側の壁際まで歩み出てきていた。
篝の少し斜めうしろに並ぶようにして、同じ向きで走り出す。
二往復目の途中で、足が少し重くなってきた。
速度が落ちかけたところで、横から、つん、と軽く合図が入る。
ふくらはぎの外側に、靴先がそっと触れた。
並走したまま、リズムだけを少し前に押し出すような、ごく控えめな力加減だった。
「……?」
篝が思わずそちらを見ると、ミカは淡々と説明した。
「騎士の方が走っておられるとき、速度が落ちてきたら、よくここを軽く触れていました」
言いながら、一瞬だけ自分のつま先を見下ろす。
「力の加減をしろと、よく注意されましたので。本日は、かなり抑えております」
言われてみれば、本当に「合図」程度の力しか入っていない。
それでも、「もっと走れるはずですよ」と言われた気がして、篝は少しだけ足に力を込めた。
どう返事をしていいか分からずにいるあいだに、三往復目が終わる。
視界の端が、少しだけ白く霞んできたところで――
「はい。ここまでです」
ちょうど限界の少し手前で、ミカの声が飛んでくる。
篝は、勢いを殺しきれずに、数歩だけ余計に進んでから立ち止まった。
息が荒い。
けれど、不思議と、さっき暗い部屋の中で感じていた息苦しさとは違う種類の苦しさだった。
生きていたときの体育の時間で感じた、あの嫌な疲れに近い。
「大丈夫ですか」
横に来たミカが、必要以上に近づかない距離で立ち止まる。
篝は、ぜいぜいしながらも、なんとかうなずいた。
「……はい。倒れそう、ってほどではないです」
自分で言って、自分で少しおかしくなってくる。
ミカは、ほんのわずかに口元をゆるめた。
「それは、何よりです」
その笑い方も、人形にあとから感情の線を描き足したみたいに控えめだった。
「魔女様には、『よく走ります』とお伝えしておきます。
潰れる前に止めましたので、怒られることはないはずです」
「潰れる前」という表現に、篝は一瞬だけ肩をすくめる。
けれど、「怒られることはないはず」という言い方には、変な優しさがあった。
誰が怒るのか、どこまでが潰れたとみなされるのか、その辺は曖昧なままだ。
ミカは、ランタンを持ち直し、もう一度篝の方を向いた。
「このあと、少しだけお休みいただいてから、魔女様のところへお連れします」
「……また、質問されるんでしょうか」
つい口からこぼれた疑問に、ミカはほんの少しだけ首を傾げる。
「質問も、あるかもしれませんが」
そこで言葉を切って、淡々と続けた。
「今日はどちらかというと、魔女様のほうから『なさること』が多いかと」
なさること。
その言い方が、白い部屋の「手続き」とは違う種類のものを指しているのは分かった。
いいことなのか悪いことなのかは、まだ分からない。
それでも、さっき走ったせいか、胸のざわつきは、ほんの少しだけおとなしくなっていた。
ミカは、小さく会釈した。
「では、こちらへ」
肘を支えられたまま、篝は部屋の外に一歩踏み出す。
そこは、廊下というには、あまりに長かった。
左右どちらを向いても、同じ石壁と同じ窓が、遠くの暗がりの中に延々と並んでいる。
いくつかの壁の灯りが、等間隔に灯っているはずなのに、最後のひとつがどこにあるのか、目では掴めない。
「館の中の廊下」というより、「館の形を借りた、別の何か」のように思えた。
窓の外には暗い森が張りついていて、その合間に、ごく遠くの灯りが細く切り取られている。
そこに覗く夜もまた、どこまでも続いているように見えた。
ミカは廊下を数歩進んでから、ふっと足を止める。
「ここから、あちらの灯りの下まで」
指さした先の壁際には、小さなランプと、その真下に背もたれだけの椅子が一脚、壁に向かって置かれていた。
座るためのものというより、誰かがそこに座っているところだけは想像したくないような、妙な置かれ方だ。
ランプに照らされるたび、背もたれの影が、さっきと少し違う形に見える。篝は「自分の目がおかしいだけだ」と言い聞かせた。
そこまでの距離は、体育館よりは短いはずなのに、この廊下の長さの中では妙に遠く見えた。
「最初は、私が一度だけ往復して見せます。速度の目安になさってください」
そう言うと、ミカは軽くスカートの裾を押さえ、ランタンを持ち直した。
次の瞬間には、石畳を蹴る音が、一気に速いリズムで鳴りはじめている。
ランタンの光が、すっと遠ざかり、廊下の奥で小さな光の点になって、すぐにこちら側へ戻ってくる。
距離のわりに戻ってくるまでの時間が短すぎて、篝の感覚のほうがずれた気がした。
やがて、光は最初と同じ位置に止まった。
ミカは、走る前とほとんど変わらない呼吸のまま、篝のほうに向き直る。
「今のが、一往復です」
「……は、や……」
口からこぼれた感想は、それだけだった。
ミカは、特に誇るでもなく、事務的にうなずく。
「では、次は周防様の番です」
そう言ってから、少しだけ言葉を足した。
「先ほどの私の動きを、できるかぎり早く真似してみてください。
あちらの椅子のところまで行って戻る動きを、三度ほど繰り返していただきます」
篝が「はい」と答えるより先に、心臓のあたりが、すでに少しきゅっとする。
ランプに照らされるたび、背もたれの影が、さっきと少し違う形に見える。
篝は「自分の目がおかしいだけだ」と言い聞かせた。
半拍遅れて、背後からもう一つの足音が重なる。
最初の数歩だけは、かろうじてリズムが揃っていた。
けれどすぐに、ミカの足音だけがすっと軽くなり、篝の横を抜けて、廊下の奥へと離れていく。
やがて、距離が離れすぎて、その足音も薄れていき、篝の耳には、自分の足音と呼吸の音だけがはっきり残った。
石の床を蹴るたびに、足の裏にじんとした衝撃が返ってくる。
灯りと椅子までの距離は、見た目よりもずっと遠く感じられた。
「……は、はぁ……」
息が上がりはじめたころ、ようやく目印のランプと椅子の下にたどり着く。
「はい、そこで折り返しです。そのままお戻りください」
振り向くと、ミカは廊下の端――さっき出てきた扉の近くに、まっすぐ立っていた。
ランタンを持った腕も、肩も、少しも上下していない。
二往復目に入るころには、ミカも篝のいる側の壁際まで歩み出てきていた。
篝の少し斜めうしろに並ぶようにして、同じ向きで走り出す。
二往復目の途中で、足が少し重くなってきた。
速度が落ちかけたところで、横から、つん、と軽く合図が入る。
ふくらはぎの外側に、靴先がそっと触れた。
並走したまま、リズムだけを少し前に押し出すような、ごく控えめな力加減だった。
「……?」
篝が思わずそちらを見ると、ミカは淡々と説明した。
「騎士の方が走っておられるとき、速度が落ちてきたら、よくここを軽く触れていました」
言いながら、一瞬だけ自分のつま先を見下ろす。
「力の加減をしろと、よく注意されましたので。本日は、かなり抑えております」
言われてみれば、本当に「合図」程度の力しか入っていない。
それでも、「もっと走れるはずですよ」と言われた気がして、篝は少しだけ足に力を込めた。
どう返事をしていいか分からずにいるあいだに、三往復目が終わる。
視界の端が、少しだけ白く霞んできたところで――
「はい。ここまでです」
ちょうど限界の少し手前で、ミカの声が飛んでくる。
篝は、勢いを殺しきれずに、数歩だけ余計に進んでから立ち止まった。
息が荒い。
けれど、不思議と、さっき暗い部屋の中で感じていた息苦しさとは違う種類の苦しさだった。
生きていたときの体育の時間で感じた、あの嫌な疲れに近い。
「大丈夫ですか」
横に来たミカが、必要以上に近づかない距離で立ち止まる。
篝は、ぜいぜいしながらも、なんとかうなずいた。
「……はい。倒れそう、ってほどではないです」
自分で言って、自分で少しおかしくなってくる。
ミカは、ほんのわずかに口元をゆるめた。
「それは、何よりです」
その笑い方も、人形にあとから感情の線を描き足したみたいに控えめだった。
「魔女様には、『よく走ります』とお伝えしておきます。
潰れる前に止めましたので、怒られることはないはずです」
「潰れる前」という表現に、篝は一瞬だけ肩をすくめる。
けれど、「怒られることはないはず」という言い方には、変な優しさがあった。
誰が怒るのか、どこまでが潰れたとみなされるのか、その辺は曖昧なままだ。
ミカは、ランタンを持ち直し、もう一度篝の方を向いた。
「このあと、少しだけお休みいただいてから、魔女様のところへお連れします」
「……また、質問されるんでしょうか」
つい口からこぼれた疑問に、ミカはほんの少しだけ首を傾げる。
「質問も、あるかもしれませんが」
そこで言葉を切って、淡々と続けた。
「今日はどちらかというと、魔女様のほうから『なさること』が多いかと」
なさること。
その言い方が、白い部屋の「手続き」とは違う種類のものを指しているのは分かった。
いいことなのか悪いことなのかは、まだ分からない。
それでも、さっき走ったせいか、胸のざわつきは、ほんの少しだけおとなしくなっていた。
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