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第二章:走る騎士と魔女の館
第9話 静かな夜宴と宝箱
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ベンチに腰を下ろして、どれくらい時間がたったのか分からない。
背中には冷たい石の感触があって、走った後の足の重さが、じんわりと残っている。
脛のあたりがじんじんして、太ももには、運動後のだるさがまとわりついていた。
胸の奥では、まだ心臓がいつもより少し早いリズムで動いている。
深く息を吸おうとすると、肺の奥がじんと痛む。
それでも、暗い廊下を走っていたときよりは、だいぶましだった。
少し離れたところで控えていたミカが、頃合いを見計らったように口を開く。
「周防様。そろそろ、魔女様のところへご案内いたします」
篝は、ベンチからそっと立ち上がった。
まだ足は重いが、廊下を走っていたときよりはまっすぐ歩ける気がする。
ミカが先に立って歩き出す。
長い廊下をいくつか曲がった先に、ほかの扉より少しだけ装飾の多いドアがあった。
濃い木目の板に、金色の取っ手と、古い紋章みたいな模様が刻まれている。
ほかの扉より、空気がわずかに重たい気がした。
ミカがノックをして、静かに名乗る。
「ミカです。周防様をお連れいたしました」
扉の向こうから返ってきた声は、小さくて、ここまで届くころにはかすかににじんでいた。
「入っていい」
子供のような高さの声。
それなのに、どこか古い本のページから立ち上がってきたみたいな響きがある。
ミカが扉を押し開ける。
中は、それほど広くない部屋だった。
壁一面に、本棚のようなものが並んでいる。
背表紙の文字は読めないが、分厚い本や、箱のようなものが隙間なく詰め込まれていた。
部屋の中央には、小さなテーブルと、その手前に置かれた椅子が一脚。
テーブルの向こう側には、背の低い影がひとつ。
黒いワンピースみたいな服。
白い肌。
年齢で言えば、小学校の高学年くらいに見える女の子。
「あの絵本の、森の奥の人……」
篝の頭のどこかで、そんな連想だけがぼんやりと浮かんでは消えた。
部屋の隅に置かれたランプの光が、その姿を照らしている。
ただ、その影だけが、おかしかった。
床に落ちる影が、ほんの少しだけ伸びたり、ねじれたりする。
細い子供の輪郭の、その外側に、何か別のものが重なっているみたいに。
篝は、まばたきをひとつした。
影は、元のとおり、ただの小さな人の形に戻っている。
女の子は、椅子から立ち上がりながら、あっさりと言った。
「転ばないように、おまじない」
声は、思っていたよりも幼くて、やわらかかった。
同時に、どこか遠くから、小さくざらついた別の声が重なって聞こえた気がする。
おばあさんみたいな、古びた声。
それが本当に耳に届いているのか、それとも頭の中で鳴っているだけなのか、自分でもよく分からない。
気づけば、女の子――魔女は、もう目の前に立っていた。
細い指先が、そっと篝の額に触れる。
ひんやりとした感触が、肌の上をすべる。
続けて、胸元にも、軽く指先が押し当てられた。
心臓の少し上。
鼓動がいちばん強く響いている場所。
魔女は、小さな声で、聞いたことのない言葉をいくつか続けた。
意味は分からない。
でも、その音の並びには、どこか聞き覚えがある気がした。
絵本のページの端に、小さく書いてあった、あの呪文の文字列。
視界の端で、子供のような魔女の姿と、歪んだ影を引く「怖い魔女」の姿が、一瞬だけずれる。
細い腕と、乾いた枝みたいな腕。
小さな足と、床を引きずる長い裾。
二つの像が、一瞬だけ重なって、すぐにひとつに戻った。
篝は、首を振る代わりに、まばたきを何度か繰り返した。
走ったせいで、まだ頭に血が上っている。
そのせいで変なものが見えただけだ、と無理やり思い込む。
額から指が離れる。
胸元からも、そっと手が離れていく。
ふっと、肺の奥に乗っていた重石が、いくらか軽くなった気がした。
ついさっきまで鉛みたいだった足の感覚も、じわじわと薄れていく。
今なら、あの廊下と同じ距離を、もう一度くらいは走れそうだとさえ思えた。
「……気のせい、かな」
思わず、小さく息が漏れた。
魔女は、そのつぶやきを聞いていたのかいないのか分からない顔で、わずかに目を細めた。
「すぐには転ばない。杖、杖。ふふふ」
その言い方の意味までは、篝には分からない。
それだけ言って、魔女は篝から半歩だけ離れる。
入口近くで控えていたミカが、そこでようやく口を開いた。
「……そこまでする必要があるのでしょうか」
声は控えめで、責めるというほど強くはない。
それでも、その一言には「いつものおまじないと違う」というニュアンスが滲んでいるように聞こえた。
魔女は、ミカのほうをちらりとも見ない。
「この子は、よく走るから」
子供のような声と、どこかで耳にした古い声が、やはり薄く重なっていた。
間を置いてから、ミカが慎重に言葉を選ぶ。
「……先ほどの廊下の椅子のことですが。この館には、あのようなものが多数ございます。周防様はともかく、ほかのお客様の前に現れれば、やはり危ういかと」
先ほどランプの下にあった、背もたれだけの椅子の姿が、篝の頭に浮かぶ。
あの椅子一つだけでなく、「ああいう椅子たち」のことを言っているのか。
それとも、この館のどこかにいる、別の「誰か」たちのことなのか。
自分でもよく分からないまま、ぼんやりと想像だけが揺れた。
魔女は、今度は少しだけミカのほうに視線を向けた。
「言っておく。知らない人の前では、遠くで見るだけ」
「あの子たち」という言い方が、椅子を指しているのかどうか、篝には確信が持てない。
魔女は、当たり前のことを確認するみたいに続けた。
「この子は、こっちの子。壊れない箱に入れる」
箱、という言い方が、篝の耳に残る。
ミカは、ほんのわずかに目を伏せてから、深く頭を下げた。
「畏まりました。では、周防様には、あのお部屋を」
椅子に向かって話しているのか、人に向かって話しているのか分からない会話が、そこで途切れた。
魔女は、篝の額と胸元をもう一度だけ、確認するように見てから、踵を返した。
黒い裾が、床の近くでふわりと揺れる。
影は、やはりどこかで歪んでいるように見えたが、今度はあえて目で追わなかった。
扉が閉まる音とともに、部屋の空気がほんの少し軽くなる。
静けさが戻ってきたところで、ミカが篝のほうを向いた。
「周防様。これから、お部屋へご案内いたします。ひとまずお休みいただいてから、軽いお食事をお持ちいたします」
篝がうなずくと、ミカは安心したように小さく会釈した。
ふたたび廊下を歩き、先ほどとは別の曲がり角をいくつか抜ける。
やがて、先ほどの魔女の部屋とは違う、落ち着いた色合いの扉の前で、ミカが足を止めた。
ほかの扉より少しだけ装飾は多いが、取っ手は銀色で、木目も柔らかい色をしている。
先ほどの扉よりも、わずかに「客間らしい」雰囲気があった。
「こちらが、周防様にお使いいただくお部屋です」
扉が開く。
中に足を踏み入れた瞬間、篝は思わず目を瞬いた。
そこは、どこかの物語で見た古い貴族の部屋みたいだった。
分厚い布で覆われた大きなベッド。
足元には暗い色の絨毯が敷かれていて、壁には金色の縁取りの鏡と、油絵のようなものが掛かっている。
窓はなく、その代わりに天井から吊るされた小さなシャンデリアと、壁のランプが柔らかい光を落としていた。
机の上には、使われていない羽ペンとインク瓶。
棚の上には、小さな箱やガラス瓶がいくつも並んでいる。
どれも、今すぐ使われる予定のない「大事なもの」をしまっておく場所みたいに見えた。
この部屋全体が、壊れ物をそっと並べておくための、大きな箱の中みたいだ、と篝は思う。
「こちらのベッドでお休みいただけます。のどが渇きましたら、こちらのお水を。
本来ならきちんとしたお食事をお出しすべきところですが、本日はお疲れでしょうから、軽いものを後ほどお持ちいたします。……本当は、もっとたくさんお出ししたいところなのですが、まずは様子を見させてください」
低い机の上には、ガラスのコップと、水の入ったポットが置かれている。
ミカの「もっとお出ししたい」という響きの中に、騎士たちの食卓をよく知っている人の、控えめな張り切りが混じっているように感じた。
篝がうなずくのを確認してから、ミカは一度だけ頭を下げた。
「少しのあいだ、お一人にしてしまいますが、どうぞおくつろぎください」
そう言って、いったん扉が静かに閉じられる。
足音はすぐに遠ざかっていった。
小さな部屋の中に、篝だけが残される。
ベッドの端に座ったまま、背中をそっと壁にもたせかける。
走っていた足の感覚が、じわじわと現実に戻ってくる。
あのときの「鉛みたいな重さ」ではなく、運動後に残る鈍い痛みと、ほぐれかけの筋肉のだるさが、足全体に広がっていた。
それに、うっすらとした眠気も混じってくる。
どれくらいそうしていたか分からないころ、こんこん、と控えめなノックの音がした。
「周防様。失礼いたします」
ミカの声とともに、扉が少しだけ開く。
手には、小さな盆が乗っていた。
湯気の立つカップと、半分に切られたサンドイッチが、白い皿の上に並んでいる。
「ハーブスープと、簡単なサンドイッチをご用意いたしました。無理のない範囲で、少しだけでもお召し上がりください。明日からは、もう少し多めにお持ちいたしますね」
最後の一言だけが、どこか嬉しそうだった。
篝の前の小さな机に、盆がそっと置かれる。
淡い緑色のスープから、知らない草の匂いがふわっと立ちのぼった。
それでも、鼻につくほど強くはなくて、どこか落ち着くような香りだった。
サンドイッチの切り口からは、薄く切られた野菜と、白いチーズの層が見えている。
「ありがとうございます」
そう言って、篝はカップの取っ手を両手で包むように持った。
指先から、じんわりとした温かさが伝わってくる。
ひと口飲むと、喉の奥から胸のあたりまで、ゆっくりと熱が降りていく。
おまじないで軽くなっていたはずの体に、その熱がもう一枚、柔らかい毛布をかけるみたいに広がっていく。
残っていた足のだるさも、どこか「疲れていて当たり前だ」と許されたように感じた。
ミカは、その様子を確かめるように一度だけうなずくと、静かに口を開いた。
「周防様。これより、少しだけお祈りの時間をいただきます。明日も走っていただくことになりますので、本日はゆっくりお休みください」
お祈り。
さっき魔女に触れられたときの、おまじないの言葉とは違う。
誰かの名前も出さないまま、見えないどこかへ向けて手を合わせるような、静かな儀式の気配だけが、その言葉のまわりにまとわりついていた。
それがこの館のどこに向かっているのかは分からない。
神様なのか、魔女なのか、それともまったく別の何かに対してなのか。
篝がうなずくと、ミカは安心したように小さく会釈した。
「扉の鍵はかけませんので、ご気分が悪くなったときは、廊下に出ていただければすぐに参ります」
最後にそれだけ告げて、扉が静かに閉じられる。
足音はすぐに遠ざかっていった。
小さな部屋の中に、再び篝だけが残された。
ベッドの端に座ったまま、カップをテーブルに戻す。
あの走りの感覚が、またじわじわと現実に戻ってくる。
今度は、走らされた直後の苦しさではなく、布団の中に持ち込んでもいいくらいの疲れ方だった。
まぶたの裏には、ときどき、あの白い部屋の光がちらついた。
良い場所なのか悪い場所なのかなんて、分からない。
分からないまま、まだ少し荒い息を吐きながら、篝はただ胸の上下だけを感じていた。
背中には冷たい石の感触があって、走った後の足の重さが、じんわりと残っている。
脛のあたりがじんじんして、太ももには、運動後のだるさがまとわりついていた。
胸の奥では、まだ心臓がいつもより少し早いリズムで動いている。
深く息を吸おうとすると、肺の奥がじんと痛む。
それでも、暗い廊下を走っていたときよりは、だいぶましだった。
少し離れたところで控えていたミカが、頃合いを見計らったように口を開く。
「周防様。そろそろ、魔女様のところへご案内いたします」
篝は、ベンチからそっと立ち上がった。
まだ足は重いが、廊下を走っていたときよりはまっすぐ歩ける気がする。
ミカが先に立って歩き出す。
長い廊下をいくつか曲がった先に、ほかの扉より少しだけ装飾の多いドアがあった。
濃い木目の板に、金色の取っ手と、古い紋章みたいな模様が刻まれている。
ほかの扉より、空気がわずかに重たい気がした。
ミカがノックをして、静かに名乗る。
「ミカです。周防様をお連れいたしました」
扉の向こうから返ってきた声は、小さくて、ここまで届くころにはかすかににじんでいた。
「入っていい」
子供のような高さの声。
それなのに、どこか古い本のページから立ち上がってきたみたいな響きがある。
ミカが扉を押し開ける。
中は、それほど広くない部屋だった。
壁一面に、本棚のようなものが並んでいる。
背表紙の文字は読めないが、分厚い本や、箱のようなものが隙間なく詰め込まれていた。
部屋の中央には、小さなテーブルと、その手前に置かれた椅子が一脚。
テーブルの向こう側には、背の低い影がひとつ。
黒いワンピースみたいな服。
白い肌。
年齢で言えば、小学校の高学年くらいに見える女の子。
「あの絵本の、森の奥の人……」
篝の頭のどこかで、そんな連想だけがぼんやりと浮かんでは消えた。
部屋の隅に置かれたランプの光が、その姿を照らしている。
ただ、その影だけが、おかしかった。
床に落ちる影が、ほんの少しだけ伸びたり、ねじれたりする。
細い子供の輪郭の、その外側に、何か別のものが重なっているみたいに。
篝は、まばたきをひとつした。
影は、元のとおり、ただの小さな人の形に戻っている。
女の子は、椅子から立ち上がりながら、あっさりと言った。
「転ばないように、おまじない」
声は、思っていたよりも幼くて、やわらかかった。
同時に、どこか遠くから、小さくざらついた別の声が重なって聞こえた気がする。
おばあさんみたいな、古びた声。
それが本当に耳に届いているのか、それとも頭の中で鳴っているだけなのか、自分でもよく分からない。
気づけば、女の子――魔女は、もう目の前に立っていた。
細い指先が、そっと篝の額に触れる。
ひんやりとした感触が、肌の上をすべる。
続けて、胸元にも、軽く指先が押し当てられた。
心臓の少し上。
鼓動がいちばん強く響いている場所。
魔女は、小さな声で、聞いたことのない言葉をいくつか続けた。
意味は分からない。
でも、その音の並びには、どこか聞き覚えがある気がした。
絵本のページの端に、小さく書いてあった、あの呪文の文字列。
視界の端で、子供のような魔女の姿と、歪んだ影を引く「怖い魔女」の姿が、一瞬だけずれる。
細い腕と、乾いた枝みたいな腕。
小さな足と、床を引きずる長い裾。
二つの像が、一瞬だけ重なって、すぐにひとつに戻った。
篝は、首を振る代わりに、まばたきを何度か繰り返した。
走ったせいで、まだ頭に血が上っている。
そのせいで変なものが見えただけだ、と無理やり思い込む。
額から指が離れる。
胸元からも、そっと手が離れていく。
ふっと、肺の奥に乗っていた重石が、いくらか軽くなった気がした。
ついさっきまで鉛みたいだった足の感覚も、じわじわと薄れていく。
今なら、あの廊下と同じ距離を、もう一度くらいは走れそうだとさえ思えた。
「……気のせい、かな」
思わず、小さく息が漏れた。
魔女は、そのつぶやきを聞いていたのかいないのか分からない顔で、わずかに目を細めた。
「すぐには転ばない。杖、杖。ふふふ」
その言い方の意味までは、篝には分からない。
それだけ言って、魔女は篝から半歩だけ離れる。
入口近くで控えていたミカが、そこでようやく口を開いた。
「……そこまでする必要があるのでしょうか」
声は控えめで、責めるというほど強くはない。
それでも、その一言には「いつものおまじないと違う」というニュアンスが滲んでいるように聞こえた。
魔女は、ミカのほうをちらりとも見ない。
「この子は、よく走るから」
子供のような声と、どこかで耳にした古い声が、やはり薄く重なっていた。
間を置いてから、ミカが慎重に言葉を選ぶ。
「……先ほどの廊下の椅子のことですが。この館には、あのようなものが多数ございます。周防様はともかく、ほかのお客様の前に現れれば、やはり危ういかと」
先ほどランプの下にあった、背もたれだけの椅子の姿が、篝の頭に浮かぶ。
あの椅子一つだけでなく、「ああいう椅子たち」のことを言っているのか。
それとも、この館のどこかにいる、別の「誰か」たちのことなのか。
自分でもよく分からないまま、ぼんやりと想像だけが揺れた。
魔女は、今度は少しだけミカのほうに視線を向けた。
「言っておく。知らない人の前では、遠くで見るだけ」
「あの子たち」という言い方が、椅子を指しているのかどうか、篝には確信が持てない。
魔女は、当たり前のことを確認するみたいに続けた。
「この子は、こっちの子。壊れない箱に入れる」
箱、という言い方が、篝の耳に残る。
ミカは、ほんのわずかに目を伏せてから、深く頭を下げた。
「畏まりました。では、周防様には、あのお部屋を」
椅子に向かって話しているのか、人に向かって話しているのか分からない会話が、そこで途切れた。
魔女は、篝の額と胸元をもう一度だけ、確認するように見てから、踵を返した。
黒い裾が、床の近くでふわりと揺れる。
影は、やはりどこかで歪んでいるように見えたが、今度はあえて目で追わなかった。
扉が閉まる音とともに、部屋の空気がほんの少し軽くなる。
静けさが戻ってきたところで、ミカが篝のほうを向いた。
「周防様。これから、お部屋へご案内いたします。ひとまずお休みいただいてから、軽いお食事をお持ちいたします」
篝がうなずくと、ミカは安心したように小さく会釈した。
ふたたび廊下を歩き、先ほどとは別の曲がり角をいくつか抜ける。
やがて、先ほどの魔女の部屋とは違う、落ち着いた色合いの扉の前で、ミカが足を止めた。
ほかの扉より少しだけ装飾は多いが、取っ手は銀色で、木目も柔らかい色をしている。
先ほどの扉よりも、わずかに「客間らしい」雰囲気があった。
「こちらが、周防様にお使いいただくお部屋です」
扉が開く。
中に足を踏み入れた瞬間、篝は思わず目を瞬いた。
そこは、どこかの物語で見た古い貴族の部屋みたいだった。
分厚い布で覆われた大きなベッド。
足元には暗い色の絨毯が敷かれていて、壁には金色の縁取りの鏡と、油絵のようなものが掛かっている。
窓はなく、その代わりに天井から吊るされた小さなシャンデリアと、壁のランプが柔らかい光を落としていた。
机の上には、使われていない羽ペンとインク瓶。
棚の上には、小さな箱やガラス瓶がいくつも並んでいる。
どれも、今すぐ使われる予定のない「大事なもの」をしまっておく場所みたいに見えた。
この部屋全体が、壊れ物をそっと並べておくための、大きな箱の中みたいだ、と篝は思う。
「こちらのベッドでお休みいただけます。のどが渇きましたら、こちらのお水を。
本来ならきちんとしたお食事をお出しすべきところですが、本日はお疲れでしょうから、軽いものを後ほどお持ちいたします。……本当は、もっとたくさんお出ししたいところなのですが、まずは様子を見させてください」
低い机の上には、ガラスのコップと、水の入ったポットが置かれている。
ミカの「もっとお出ししたい」という響きの中に、騎士たちの食卓をよく知っている人の、控えめな張り切りが混じっているように感じた。
篝がうなずくのを確認してから、ミカは一度だけ頭を下げた。
「少しのあいだ、お一人にしてしまいますが、どうぞおくつろぎください」
そう言って、いったん扉が静かに閉じられる。
足音はすぐに遠ざかっていった。
小さな部屋の中に、篝だけが残される。
ベッドの端に座ったまま、背中をそっと壁にもたせかける。
走っていた足の感覚が、じわじわと現実に戻ってくる。
あのときの「鉛みたいな重さ」ではなく、運動後に残る鈍い痛みと、ほぐれかけの筋肉のだるさが、足全体に広がっていた。
それに、うっすらとした眠気も混じってくる。
どれくらいそうしていたか分からないころ、こんこん、と控えめなノックの音がした。
「周防様。失礼いたします」
ミカの声とともに、扉が少しだけ開く。
手には、小さな盆が乗っていた。
湯気の立つカップと、半分に切られたサンドイッチが、白い皿の上に並んでいる。
「ハーブスープと、簡単なサンドイッチをご用意いたしました。無理のない範囲で、少しだけでもお召し上がりください。明日からは、もう少し多めにお持ちいたしますね」
最後の一言だけが、どこか嬉しそうだった。
篝の前の小さな机に、盆がそっと置かれる。
淡い緑色のスープから、知らない草の匂いがふわっと立ちのぼった。
それでも、鼻につくほど強くはなくて、どこか落ち着くような香りだった。
サンドイッチの切り口からは、薄く切られた野菜と、白いチーズの層が見えている。
「ありがとうございます」
そう言って、篝はカップの取っ手を両手で包むように持った。
指先から、じんわりとした温かさが伝わってくる。
ひと口飲むと、喉の奥から胸のあたりまで、ゆっくりと熱が降りていく。
おまじないで軽くなっていたはずの体に、その熱がもう一枚、柔らかい毛布をかけるみたいに広がっていく。
残っていた足のだるさも、どこか「疲れていて当たり前だ」と許されたように感じた。
ミカは、その様子を確かめるように一度だけうなずくと、静かに口を開いた。
「周防様。これより、少しだけお祈りの時間をいただきます。明日も走っていただくことになりますので、本日はゆっくりお休みください」
お祈り。
さっき魔女に触れられたときの、おまじないの言葉とは違う。
誰かの名前も出さないまま、見えないどこかへ向けて手を合わせるような、静かな儀式の気配だけが、その言葉のまわりにまとわりついていた。
それがこの館のどこに向かっているのかは分からない。
神様なのか、魔女なのか、それともまったく別の何かに対してなのか。
篝がうなずくと、ミカは安心したように小さく会釈した。
「扉の鍵はかけませんので、ご気分が悪くなったときは、廊下に出ていただければすぐに参ります」
最後にそれだけ告げて、扉が静かに閉じられる。
足音はすぐに遠ざかっていった。
小さな部屋の中に、再び篝だけが残された。
ベッドの端に座ったまま、カップをテーブルに戻す。
あの走りの感覚が、またじわじわと現実に戻ってくる。
今度は、走らされた直後の苦しさではなく、布団の中に持ち込んでもいいくらいの疲れ方だった。
まぶたの裏には、ときどき、あの白い部屋の光がちらついた。
良い場所なのか悪い場所なのかなんて、分からない。
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