鋼殻牙龍ドラグリヲ

南蛮蜥蜴

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第68話 余燼

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 雪兎は久しぶりに夢を見た。 首領のお気に入りとして列せられ、特別待遇という名のしごきを受けていた過酷な日々の事を。

 誰がいつ死んでもおかしくない生存圏外にて建造されたキャンプ地の中で、害獣の血潮に塗れた鎧の上からエプロンを纏った在りし日の女傑が、焚き火の周囲でへばったまま動けないでいる若かりし男女達を褒めに褒める。

「今回の散策、まさか脱落者無しとは感心したよ。 教官連中の指導が良かったのか、それともお前さん等のガッツが並みじゃなかったのか、それともその両方なのか。 いずれにしても良くやったぞ若人共」

 上機嫌に語りつつ首領が振る舞ったのは、滅多なことでは手に入らない貴重な天然牛肉。 次いつ食えるか分からないからがっつり食っとけと首領がお達しを出すと、雪兎と同じく不幸にもお気に入りに列され、ハイキングという名の地獄に引っ張り出された若者達は、飢餓に狂った肉食獣が如く大きな肉へ喰らい付き始めた。

 勿論当時の雪兎も、ほどよく焼けた肉の心に染みるような旨味を存分に味わった。 こんな美味いものがこの世にあったのかとだらしなく頬を緩ませながら、無心になって肉を喰らっていた。

 そんな純真な若者達の様子を眺めながら、首領は愛用のスキットルに入っていた琥珀色の液体を一気に飲み干すと、改まって皆に言い聞かせる。

「アタシがお前さん等に課したカリキュラムもこれで修了だ。 明日からアタシのツラを拝むこともなくなってさぞかし嬉しいだろうが、安全圏でぬくぬくと過ごした輩は何の根拠も無くお前さん等を蔑み嗤うだろう。アタシに媚びへつらって身の丈に合わない立場になったと。 お前さん等が流した血と汗と涙の故も知ろうともせずにな。 ……だが、たとえ理不尽な目に遭わされたとしても、法で定められた以上の報復はしてくれるな」

 それが力を持ってしまった我々に課せられた宿命なのだと語る首領の顔には、訓練の際には決して見せなかった陰りが浮かぶ。 それを視界に入れた瞬間、雪兎は食事の手を止めて思わず顔を上げた。

「あの……どうされたのです……?」

 人類最強という誉れをほしいままにする人物にしては似つかわしくない表情を見て、雪兎は恐る恐る彼女の側まで歩み寄り様子を伺う。 すると首領は何事も無かったかのように雪兎の頭を遠慮無くワシワシと撫で、再び豪快な笑みを浮かべた。

「すっとろい癖にいつもいつも他人の心配ばかりだな坊や。 優しいのは実に結構だが、時には必要な主張をしなければいつか全てを奪われてしまうぞ。 さっきまでお前さんの手の中にあった肉のようにな」
「あっ!? やめろよコラ! わざわざ人の取らなくたって自分のがあるだろ!!!」

 首領からの指摘を受け、堪らず自分に割り当てられた椅子のそばへ駆け戻ろうとする雪兎。 だが、そんな雪兎を首領は背後から抱き締めるようにして押し留めると、雪兎だけに聞こえる声で囁く。

「……首領?」
「いいか雪兎、これがアタシがお前さんにしてやれる最後のアドバイスだ。 他人に全てを委ねるな。 自分の考えや意志をもっと尊重しろ。 そして自分自身をもっと大切にしてやれ。 多少運も絡むだろうが、最終的に自分の人生を幸せに導けるのは他でもない、自分自身の決意と行動だけなのだからね」

 在りし日の首領から賜った言葉。 それは微睡みの中に沈んでいた雪兎の意識へ目覚めを促す。

 あの日語った言葉の真意を今一度自分の中で考えてみろと、直々に叱咤を受けたような気がして雪兎は半ば反射的に瞼を押し上げた。

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「夢か……そうだろうな……」

 ふと目覚めた雪兎の身体を受け止めたのは、固い砂地の地面では無くカルマが臨時の住居と共にわざわざ拵えたベッドのクッション。 柔らかで暖かな感触の中、雪兎は今現在の自分の立場を思い出すと、再び全身の力を抜いて二度寝の姿勢に入った。

 今の自分は既に社会を動かす歯車の一員ではない。 つまり今のところは時間に背中を蹴られて行動する必要も無い。 なら今はまだ眠っていたいと、無意識のうちに寝返りを打って胎児の姿勢を取る。

 ……が、その瞬間寝ぼけていた意識は一気に沸騰し、雪兎は思わず顔面を紅潮させながら上ずった奇声をあげた。

「へぇあっ!?……哀華さん……!?」

 雪兎がベッドの中で目にしたのは、異性の大きくふくよかな胸。 それもただ単に大きいだけでなく、瑞々しい果実のように張りがあり整った美麗な胸。 薄い寝間着を押し上げて自らの存在を強調していたそれの合間に、寝返りを打った雪兎の顔がちょうど埋まり、本能に訴えかける匂いがたちまち雪兎の鼻孔を満たす。

 そう、そこには何故か艶やかな身体を無防備に横たえて小さな寝息を立てる哀華の姿があった。

「すみません! すみません! わざとじゃないんです!」

 このザマを目撃されたら怒られると、堪らずその場から逃げ出そうと雪兎はベッドに手を這わせるが、その中から生えてきた銀色の液体にすかさず捕獲され、さらに強く哀華の身体へ自身の身体を無理矢理に押し付けられた。

「んぐぅううう!!!」

「カルマテメーふざけんな!」と、言葉にならない声を上げて生意気にちょっかいを出しに来たお転婆娘を罵倒するが、肝心の身体はテコでも動かない。 そういったくだらない小競り合いを二人で繰り返すうちにそれらの振動が哀華にも伝わったのか、彼女は上品に顔を隠して一度欠伸をすると眠い目をこすりながら瞼を開けた。

 当然その視界に入るのは、カルマに捕縛されてセクハラまがいの行為を強要される雪兎の醜態である。

「あの聞いて下さい違うんですこれはカルマが無理矢理僕を陥れようとしてやった悪戯であってまだ入籍どころかまともにデート一つ出来たこともないのにいきなり身体を求めるなんてそんな不埒でいかがわしいことを僕が率先して出来るなんて滅相もないわけで」

 要約すると自分に過失はないから許して下さいというだけの話を、わざわざ余計な言い訳をしながらするせいでどんどん本筋から話題が逸れていき、らしくもなく混乱していく雪兎。 普通ならビンタの一発くらいかまされてもしょうがない状況であるが、対する哀華は一切動じること無く雪兎を愛おしそうに抱き締めると、寝癖のついた鋼色の長い髪に手櫛を入れてやりながら微笑んだ。

「おはよう雪兎、昨日はよく眠れた?」
「ええまぁ……、そんな事よりどうして僕は今こんな事になっているのでしょう?」

 一言二言お叱りを受けると覚悟していたはずが思わぬ展開に動揺し、雪兎はただ為すがままに流されながらも問いかける。 すると哀華は、液状化して部屋の外へ逃げていったカルマの後ろ姿を見送りながら口を開いた。

「あのおちびさん達にお願いされたのよ。 すべてをボロボロにされた貴方のことを頼めるのはお姉ちゃんしかいないんだって」

 そう哀華が語るうちにも、彼女の身体に宿った植物組織が何らかの作用しているのか、上品でしなやかな指先から生まれた仄かな光が、互いに触れ合った肌を介して雪兎の身体の中へ消えていく。

「これは……」
「今の私なら、他の誰かの細胞に働きかけて傷の治りを適切に促進させることが出来る。 だからあの子達は自分達じゃ無く私に貴方の身を任せたんだと思うの」
「いや多分、理由はそれだけでないと思います」

 哀華が絡むと何故かカルマの挙動が露骨におかしくなるのは今に始まったことではない。 どうせ何かの悪戯の仕込みだったのだろうと雪兎は一人早合点すると、ちょうどいい機会だとばかりに自分からも哀華に向かってもたれかかった。

「あら? せっかく起きたのにどうしたのかしら?」
「大したことじゃありません。 今まで溜めに溜めた疲れがドッと出たような気がしただけです」
「そう、今までずっと無理を続けてきたのね。 だったら今日の一日くらいは“何もしない”をしましょうか。 たまにはのんびり休むことも大事なことよ」
「休む……ですか……、だったら今日はずっと哀華さんと一緒にいたいです」
「まぁっ」

 他人が見れば砂糖を一面に吐き散らすような初々しく甘ったるいやりとりに夢中になり、現在自分達を取り巻く厳しい現実を一時的に忘れるうら若き男女。

 その様をセンサー越しに見守もっていたのは、シェルターの外で今後の方策を練っていた人外二人。 彼らは半径数百キロにも及ぶ高機能レーダーを用いて用心深く敵の動きを伺いながらネットワーク上で対話を続けていた。

『やはりというべきか、あれだけの騒動が起こったにも関わらず目立った動きはないね。 都市間ネットワーク上でも話題になっていないし、何より他人の醜聞が大好きなメディアが沈黙を守っているのも不気味だ』
『別に不思議でもないです。 ゴミの連中は今も昔も変わらず、如何に有力者に媚びを売って自分達の権益を維持できるかしか考えていませんし、かよわい大衆とやらも自分達が損を被らない限りは誰かの為に行動なんて起こさないでしょう』

 周辺勢力のネットワークから抽出した情報を吟味していたグレイスが呟くと、付近の埋没資源の所在を入念にマークしていたカルマが辛辣に応える。 雪兎に見せる隙だらけの態度とは打って変わって、どこまでも冷淡で無関心な態度。 しかしそれでも、カルマとは世界崩壊以前からの長い付き合いであるグレイスにとっては意外な対応だったらしく、彼はカルマの横顔を不思議そうに眺めながら再び問いかけた。

『しばらく会わないうちに変わったなカルマ。 俺が知っている君だったならば、人様に3Kを押し付けておいて安全地帯で偉そうに騙るウジ野郎は徹底して理詰めで嬲った後、街頭に吊るし上げていただろうに。 俺があの牢獄で幽閉されている間に君は一体何を見せられてきたんだい?』
『別に何も。 私はただ人の輝きもドス黒さもずっとそばで見てきただけ。 ユーザーのような善人が何度も踏み躙られ、迫害されてきたのを』

 作業に専念しようとグレイスの視線からそっぽを向き、真面目にスキャンデータと向き合いながらも、カルマの人間より遙かに優れた電子頭脳の中ではっきりと投影されるのは、自分が分からないことには無責任に口出しせず、自分に課せられた使命を責任をもって遂行し続けた知性の光を宿した人々。 そして、責任を果たさぬまま権利だけを声高に振りかざし、人に対してマウントを取るだけの畜生に成り下がった悪魔の猿共の姿。

 その中で一際眩く輝く雪兎の傷だらけの背中を思い出しながら、カルマはぎこちなく微笑みながら口を開く。

『だから、これからはユーザーには幸せになって欲しいのです。 誰よりも強いのに脆くて、優しいのに恐ろしくて、勇気があるのに臆病な彼だけには。 これ以上あの悪魔の猿共のくだらない思惑なんかに振り回されて傷付いて欲しくないんです』

 本人の前では気恥ずかしくて決して言えないことを、同類相手故に気安く遠慮無く語って聞かせるカルマ。 それに対して黙って相槌を打ってやるグレイスだが、その態度とは裏腹に漠然とした不安感が背筋を駆けのぼるのを彼は感じていた。

 グレイスの不安を駆り立てたのは、カルマのあまりに不安定過ぎる情操の変化。

 その兆候をグレイスは見逃さなかった。 ほんの一瞬だが、よく晴れた空の如く蒼かったカルマの瞳が、不意に鮮血のように赤黒く輝いたのを。

 ただの警告とは一線を画する、機械としては異常な挙動を。
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