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ゆうべには白骨となる
【五】たりない二人
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時計の針は午後の二時に差し掛かっていた。
「ちょ、ちょっと待ってください ! ……いま、なんて言いました?」
佐和子の思いもよらぬ一言をきっかけに誠人の目の色が変わる。
「田中さんはまだ火葬されてない? それ、本当ですか?」
どうしてそんなことがわかるんですか――という問いかけに、佐和子は無言でこちらの手元にある資料を指さした。
「じ、受注書……?」
こっくり、と彼女が頷く。
「その受注書と日報はね、あたしも毎朝目を通してるから内容は頭に入ってるの。あんたがベソかいて濡らした四月六日の頁も当然ね。そこに書かれてる内容をふまえれば、さっきからガタガタガタガタせわしなく震えてるあんたの足が訴えてることくらい見当がつくわ。『大変だ! きっと田中さん同士で遺体の取り違えが起こったんだ! どうしよう!』――ってね。誰だってわかるっつーの」
「あ、いや……そうじゃなくて――」
無論、そんなことが聞きたかったわけではない。なぜ誠人が抱える不安の種をぴたりと言い当てられたのか――ではなく、なぜ「まだ火葬されてない」などと言い切れるのか。その根拠が聞きたかったのだ。
とはいえ、彼女に窘められた後も無意識につづけていた貧乏ゆすりが、少なからず佐和子の気に障っていたことに罪悪感を覚えたので――
「――そ、そんなにうるさかったですか? す、すみません」と、せめてもの謝辞を述べたのちに、改めてその訳を聞いてみた。
すると佐和子は「あれを見て」と、壁に掛けられたカレンダーを指さす。
「今日は何の日?」
「え、き、今日ですか? えーっと……」
誠人は目を凝らして日付の横に小さく書かれた文字を読み上げた。
今日、四月七日は――
て……――
「――……鉄腕アトムの、誕生日?」
ぺしん!――いてぇ。日誌で頭をはたかれた。
佐和子は呆れ顔で前のめりに腰を浮かせている。
「おバカ。六曜だと何の日かって聞いてんの」
六曜は「大安」や「仏滅」などの、行事の日取りを決める際に吉凶を占うための指標となるものだ。誠人は頭をさすりながら改めてカレンダーに目を向ける。
「えっと、今日は『友引』……ですね」
「でしょ? 友引の日は火葬場は?」
「……『お休み』、です」
都内の火葬場はほとんどの場合、友引の日は火葬業務を行っていない。
友を引くという字面が「道連れ」を連想させて縁起が悪いとされているからだ。結婚式は「仏滅」を避けて執り行われるが、葬儀では「友引」がそれにあたる。
火葬場が休みで葬儀もできないため、葬祭業者の休暇は友引と、その前日である「引き前」に合わせてとることが多い。
「そう。今日は友引だから火葬ができない。じゃあ、昨日は?」
「昨日はビキマエだから、午後三時の受付が最終……ですね」
「ということはつまり、昨日の午後三時から今日の終わりまで火葬を執り行うことはできない。ここまではいいわね?」
誠人は首を傾げて、いやいや――と手を振った。
「あの……話がまだ見えないんですが。たしかに友引を挟む都合上、六日の三時から八日の朝九時まで火葬場の業務が止まっていることはわかりますよ? でも、田中敦さんの火葬は六日の朝十時だったじゃないですか。その時間は普通に火葬場も営業してますけど、それが三時以降の話とどう関係があるんですか?」
すると佐和子が、今度は書類棚の上に注意を促す。遺影写真の箱のことを指しているようだ。
「あの遺影写真の原本――お花見の写真のことね――は、田中家の喪主さまが昨日わざわざここへ届けにきてくれたの。それが何時のことだったか、わかる?」
昨日会館にいなかった人間でもそれくらいはすぐに調べがつく。誠人は「ちょっと待ってください」と断りを入れ、業務日報をぱらぱらとめくった。
「あ、あった。わかりました。昨日、六日の夕方五時に喪主様が来館されてます。対応していただいたのは……不破さんみたいですね。申し送りに判が押されてます。『写真預かり済』と書いてありますね」
不破さんというのは、誠人の二年先輩にあたる若手社員だ。
この会社では貴重な同世代の人間ということで誠人とも仲が良く、仕事終わりに飲みに連れ立つことも少なくない。
日報を見る限り、佐和子に代わって昨日一日ここの留守を預かっていたようだ。
電話をかけてみようかとも思ったが、今日は休暇を取っているのでおそらく夕方まで寝ていることだろう。わざわざ休みの人間に凶報を送り付けるのも気が引けるので、いよいよとなるまで連絡は控えることにした。
「えっと、不破さんは夕方五時に写真を預かったあと、喪主様をお見送りして五時半には閉館業務を終えているみたいです。預かった写真を持って帰社する途中、写真屋さんに立ち寄ってその場で発注をしてくれたみたいですね」
「そこまでわかればもう答えは明白じゃない。『田中家の喪主様は六日の五時に写真を持って来館された』――それで? 写真を預けるためだけにわざわざ足を運んで、そのまますぐに帰ると思う?」
「いえ……せっかく来たんですから、普通はお参りしてから帰りますね」
そのとおり――と、佐和子が頬を緩める。
「今朝の掃除で、あたしは地下の香炉鉢にお線香の燃え残りがあったことを確認してるの。だから間違いない。六日の五時に、田中家の喪主様は地下でお参りを済ませたのよ。だとしたら当然――」
誠人は目を閉じて、その時の霊安室の様子を思い描いた。
お線香の煙が立ち上る中、棺に向かって手を合わせる喪主様。あと二日で最愛のご主人ともお別れだ。『おとうさん、そろそろ帰りますね。お顔が見れるのも明後日で最後なのね』――そう言って、名残惜しく棺の窓に手をかける。
あ! そうか。だとしたら当然――
「――その時に、ご主人の顔も見てるはずよね?」
なるほど――と、そこではじめて合点がいった。たしかに、六日の十時に取り違えが起こっていたとしたなら、その日の夕方に喪主様が対面した遺体はすでに別人のはずで、だとしたらその時点で大騒ぎになっていたはずだ。
「話をまとめると、こういうことよ」
佐和子が人差し指をピンと立てた。
「遺体は六日の夕方五時までは無事だった。そして――」
中指が立ってピースになる。
「六日の午後三時から八日の朝九時まで火葬はできない」
二本の指をチョキチョキ。
「このふたつを合わせて考えたら、薫さんがすでに火葬されている可能性は限りなく低いってわかるでしょ? 少なくとも、六日の十時に取り違えで火葬された可能性はゼロよ」
誠人は、ただ口をぽかんと開けて佐和子の言葉に聞き入っていた。
言われてみれば単純な話だ。手元の資料をちゃんと読み込めば素人でもすぐにわかりそうなものなのに、なんでこんなことにも気付かなかったんだろう――強張っていた身体から力が抜け、放心状態でずぶずぶと椅子に飲み込まれていく。佐和子が整然と説いた理屈は、特効薬のように沁みた。
まるで心の奥底に深々と刺さっていた棘がいとも容易く抜き取られ、そこから噴き出した安堵の波が全身の緊張をするりと洗い落としていくようだ。
そうか。よかった。取り違えなんて無かったんだ。遺体の行方は依然として知れないが、少なくとも取返しがつかない最悪の事態だけは避けられたのだ――そう思うと、ダムが決壊したように余計なものまでポロポロと零れ落ちた。
「どう? これでちょっとは安心――って、ストップ、ストップ! 勘弁してよ。もう。なにも泣くことないじゃない」
「うぅ……ず、ずみまぜん。じ、じぶんでもよくわがらなくで」
差し出されたティッシュ箱を受け取り、ずびー、ずびーと鼻が鳴る。
よかった、本当によかった――それだけを念仏のように繰り返しているうちに、デスクの上はクシャクシャに丸められたティッシュがうず高く積まれ山となっていった。
佐和子はお茶を啜りながら頬杖をついてその様子を眺めている。肴にされているようで良い気はしないが、ともあれ彼女の助言で目の前の波瀾をひとつ乗り越えられたのは事実だ。
誠人はこの世の生きとし生ける全てのものに感謝の念を贈るうちに、目の前の女性がお釈迦さまのように後光を纏って見えてきて、うっかり手を合わせてしまいそうになり、すんでのところで正気を取り戻した。
*****
「――すみません。大変お見苦しいところをお見せしました」
佐和子が器用にも足で引き寄せたゴミ箱をひょいと拾い上げ、こちらに手渡す。
「あんたは本当に泣き虫ね。そんなんじゃ先が思いやられるわ」
同感です――と思いつつ、両腕をシャベルのように引き寄せてティッシュの山を胸元に抱いたゴミ箱へと落としていった。
「どうよ。ちょっとはスッキリした?」
「はい。おかげさまで。なんというか……救われた思いです」
おおげさね――と、佐和子が肩をすくめる。
「取り違えで火葬だなんて、滅多なことでは起こらないわよ。どこの葬儀社もみんな『それだけは無いように』と管理方法をしっかり設定して目を光らせてるんだから」
「ええ――でも、たしかに田中さんがすでに火葬されているというセンは消えましたけど、それでも彼のご遺体は依然として行方知れずです。この会館で異常な事態が起こっていることに変わりはありません」
「そうねぇ……」佐和子が目線を遠くにおいて呟く。
「本当に、どこにいっちゃったのかしらねぇ……」
それだけ言って少しばかり物思いに耽ると、彼女はまたお決まりのようにテレビに噛り付いてしまった。
「ち、ちょっと! 『どこにいっちゃったのかしらねぇ』じゃないですよ! どうしてそこでまたテレビなんですか? いっしょに考えましょうよ。田中さんがどこに消えちゃったのかを!」
「えー」と低く唸る声。「……どうしようかな。黙ってても上の人が来るんだから、余計なことして現場を引っ掻き回すのも気が引けるわね……」
「二人で力を合わせれば、応援を待たずとも解決できるかもしれませんよ? さっきは協力的な姿勢も見せてくれたじゃないですか!」
「だって、しょうがないじゃない。いつまで経っても、あんたの耳障りな貧乏ゆすりが止まりそうになかったんだもん。映画の邪魔されたくないから、とりあえず目先の不安を解消してあげただけよ」
そんなぁ――呆れて返す言葉も見つからなかった。
この期に及んで会社の存続よりも映画のほうが大事だというのか、この女は。
少女を救うために我が身の危険を顧みず怪物に立ち向かう主人公を見ろ! あの勇姿がお前にはどう見えてるんだ! 恥ずかしくないのか! あの行動力を少しは見習え! ――などと募る思いを胸に誠人がおずおずと口を開く。
「あ、あの……」
その消え入りそうな問いかけに佐和子の視線がこちらへ流れた。
「ダメよ」
「ま、まだ何も言ってないじゃないですか……」
もはや気を引くだけでも精一杯だ。でも諦めてなるものか。悔しいが、自分ひとりの力でこの事態を解決するには知識も経験も圧倒的に不足している。彼女の協力が必要不可欠だ――誠人は「ここが分水嶺だな」と帯を引き締め、抗議の姿勢を露わにした。
「音喜多さん。ぼくたちは田中家の担当者として、トラブルを未然に防ぐためにあらゆる事態を想定し対処する義務があるでしょう? 本社から応援が来たところで状況が好転する保障もないんですよ? お願いです。音喜多さんだけが頼りなんです! ぼくといっしょに推理してください!」
はあ?――佐和子の口が歪んだ。
「推理ってあんた。探偵ごっこでもはじめるつもり?」
探偵、ごっこ――ときたか。上等だ。たとえ素人探偵の浅知恵に終わったとしても、来るかどうかもわからない救いの手が差し伸べられるまで、徒に時間を浪費するよりかは何倍もマシじゃないか。
誠人はなおも食い下がった。彼にしては稀にみる積極的な姿勢だった。それというのも、佐和子が事態の収拾に対して消極的な発言をちらつかせるのとは裏腹に、彼女の誠人を見る視線には「あんたに、この謎が解ける?」とでも言いたげな挑発的な意思がそこはかとなく感じられたからだ。
「生憎だけど――」
こちらへ向き直るなり、かき上げた横髪を耳にかけ佐和子が腕組みをする。
「――あたしはあんたと違って、『挑戦状付き』を頭から読み返すような熱心なミステリファンじゃないの。だから過分な期待には応えられないわ。所詮はイチ会社員に過ぎないんだから、小説みたいに推理で華麗に解決なんて芸当があたしたちに出来るとはとても思えない。……それでもあんたは、あくまでも自分たちの力でこの謎が解明できるって言い通すのね?」
「やってみなければわかりませんが……たぶん大丈夫……だと、思います。いくつか尤もらしい筋道は立ててあるので、船頭としての舵取りはぼくに任せてください。その過程で、推理の合間に音喜多さんがケチをつけ――じゃなくて、軌道修正をしてくれたり、情報を補足してくれさえすれば、ある程度は形にしてみせられるはず、です」
とは息巻いてみたものの、このとき実際は口で言うほどの自信は持ち合わせていなかった。しかし、なにかしら餌を撒かないことには彼女を釣り上げることも叶いそうになかったので、この際、少々のハッタリはご愛嬌――ということにさせて頂こう。
「……そこまで豪語するんだったら、少しは付き合ってあげてもいいけど」
そこまで言うと、佐和子は「やれやれ」と根負けした様子でようやく腕組みを解いた。
「どのみち、あんたが納得しないかぎり映画はお預けってわけね」
自身も極めて危うい立場に置かれているだろうに、なぜ彼女がここまで居丈高を貫けるのかは甚だ疑問ではあったが、ともあれ誠人の粘り腰が功を奏したおかげで、どうやら形だけでも協力を取り付けることには成功したようだった。
佐和子が「それでは、お手並み拝見」とばかりに手のひらを上に向けてこちらに差し出し「どうぞ」と先を促す。
よしよし。よくやったぞ誠人。なんとか彼女を土俵に引っ張り上げることに成功した。我ながら大金星だ――などと一瞬、気が緩みかけたが、考えてみればこれでようやくスタート地点に立ったに過ぎない。まだ予断を許さない状況なのだ。
誠人は両手で勢いよく頬を張り、喝を入れなおして「――では、はじめさせて頂きます」と口火を切る。
かくして遺体の行方を追う素人探偵が、ここに小さな産声を上げたのであった。
(つづく)
「ちょ、ちょっと待ってください ! ……いま、なんて言いました?」
佐和子の思いもよらぬ一言をきっかけに誠人の目の色が変わる。
「田中さんはまだ火葬されてない? それ、本当ですか?」
どうしてそんなことがわかるんですか――という問いかけに、佐和子は無言でこちらの手元にある資料を指さした。
「じ、受注書……?」
こっくり、と彼女が頷く。
「その受注書と日報はね、あたしも毎朝目を通してるから内容は頭に入ってるの。あんたがベソかいて濡らした四月六日の頁も当然ね。そこに書かれてる内容をふまえれば、さっきからガタガタガタガタせわしなく震えてるあんたの足が訴えてることくらい見当がつくわ。『大変だ! きっと田中さん同士で遺体の取り違えが起こったんだ! どうしよう!』――ってね。誰だってわかるっつーの」
「あ、いや……そうじゃなくて――」
無論、そんなことが聞きたかったわけではない。なぜ誠人が抱える不安の種をぴたりと言い当てられたのか――ではなく、なぜ「まだ火葬されてない」などと言い切れるのか。その根拠が聞きたかったのだ。
とはいえ、彼女に窘められた後も無意識につづけていた貧乏ゆすりが、少なからず佐和子の気に障っていたことに罪悪感を覚えたので――
「――そ、そんなにうるさかったですか? す、すみません」と、せめてもの謝辞を述べたのちに、改めてその訳を聞いてみた。
すると佐和子は「あれを見て」と、壁に掛けられたカレンダーを指さす。
「今日は何の日?」
「え、き、今日ですか? えーっと……」
誠人は目を凝らして日付の横に小さく書かれた文字を読み上げた。
今日、四月七日は――
て……――
「――……鉄腕アトムの、誕生日?」
ぺしん!――いてぇ。日誌で頭をはたかれた。
佐和子は呆れ顔で前のめりに腰を浮かせている。
「おバカ。六曜だと何の日かって聞いてんの」
六曜は「大安」や「仏滅」などの、行事の日取りを決める際に吉凶を占うための指標となるものだ。誠人は頭をさすりながら改めてカレンダーに目を向ける。
「えっと、今日は『友引』……ですね」
「でしょ? 友引の日は火葬場は?」
「……『お休み』、です」
都内の火葬場はほとんどの場合、友引の日は火葬業務を行っていない。
友を引くという字面が「道連れ」を連想させて縁起が悪いとされているからだ。結婚式は「仏滅」を避けて執り行われるが、葬儀では「友引」がそれにあたる。
火葬場が休みで葬儀もできないため、葬祭業者の休暇は友引と、その前日である「引き前」に合わせてとることが多い。
「そう。今日は友引だから火葬ができない。じゃあ、昨日は?」
「昨日はビキマエだから、午後三時の受付が最終……ですね」
「ということはつまり、昨日の午後三時から今日の終わりまで火葬を執り行うことはできない。ここまではいいわね?」
誠人は首を傾げて、いやいや――と手を振った。
「あの……話がまだ見えないんですが。たしかに友引を挟む都合上、六日の三時から八日の朝九時まで火葬場の業務が止まっていることはわかりますよ? でも、田中敦さんの火葬は六日の朝十時だったじゃないですか。その時間は普通に火葬場も営業してますけど、それが三時以降の話とどう関係があるんですか?」
すると佐和子が、今度は書類棚の上に注意を促す。遺影写真の箱のことを指しているようだ。
「あの遺影写真の原本――お花見の写真のことね――は、田中家の喪主さまが昨日わざわざここへ届けにきてくれたの。それが何時のことだったか、わかる?」
昨日会館にいなかった人間でもそれくらいはすぐに調べがつく。誠人は「ちょっと待ってください」と断りを入れ、業務日報をぱらぱらとめくった。
「あ、あった。わかりました。昨日、六日の夕方五時に喪主様が来館されてます。対応していただいたのは……不破さんみたいですね。申し送りに判が押されてます。『写真預かり済』と書いてありますね」
不破さんというのは、誠人の二年先輩にあたる若手社員だ。
この会社では貴重な同世代の人間ということで誠人とも仲が良く、仕事終わりに飲みに連れ立つことも少なくない。
日報を見る限り、佐和子に代わって昨日一日ここの留守を預かっていたようだ。
電話をかけてみようかとも思ったが、今日は休暇を取っているのでおそらく夕方まで寝ていることだろう。わざわざ休みの人間に凶報を送り付けるのも気が引けるので、いよいよとなるまで連絡は控えることにした。
「えっと、不破さんは夕方五時に写真を預かったあと、喪主様をお見送りして五時半には閉館業務を終えているみたいです。預かった写真を持って帰社する途中、写真屋さんに立ち寄ってその場で発注をしてくれたみたいですね」
「そこまでわかればもう答えは明白じゃない。『田中家の喪主様は六日の五時に写真を持って来館された』――それで? 写真を預けるためだけにわざわざ足を運んで、そのまますぐに帰ると思う?」
「いえ……せっかく来たんですから、普通はお参りしてから帰りますね」
そのとおり――と、佐和子が頬を緩める。
「今朝の掃除で、あたしは地下の香炉鉢にお線香の燃え残りがあったことを確認してるの。だから間違いない。六日の五時に、田中家の喪主様は地下でお参りを済ませたのよ。だとしたら当然――」
誠人は目を閉じて、その時の霊安室の様子を思い描いた。
お線香の煙が立ち上る中、棺に向かって手を合わせる喪主様。あと二日で最愛のご主人ともお別れだ。『おとうさん、そろそろ帰りますね。お顔が見れるのも明後日で最後なのね』――そう言って、名残惜しく棺の窓に手をかける。
あ! そうか。だとしたら当然――
「――その時に、ご主人の顔も見てるはずよね?」
なるほど――と、そこではじめて合点がいった。たしかに、六日の十時に取り違えが起こっていたとしたなら、その日の夕方に喪主様が対面した遺体はすでに別人のはずで、だとしたらその時点で大騒ぎになっていたはずだ。
「話をまとめると、こういうことよ」
佐和子が人差し指をピンと立てた。
「遺体は六日の夕方五時までは無事だった。そして――」
中指が立ってピースになる。
「六日の午後三時から八日の朝九時まで火葬はできない」
二本の指をチョキチョキ。
「このふたつを合わせて考えたら、薫さんがすでに火葬されている可能性は限りなく低いってわかるでしょ? 少なくとも、六日の十時に取り違えで火葬された可能性はゼロよ」
誠人は、ただ口をぽかんと開けて佐和子の言葉に聞き入っていた。
言われてみれば単純な話だ。手元の資料をちゃんと読み込めば素人でもすぐにわかりそうなものなのに、なんでこんなことにも気付かなかったんだろう――強張っていた身体から力が抜け、放心状態でずぶずぶと椅子に飲み込まれていく。佐和子が整然と説いた理屈は、特効薬のように沁みた。
まるで心の奥底に深々と刺さっていた棘がいとも容易く抜き取られ、そこから噴き出した安堵の波が全身の緊張をするりと洗い落としていくようだ。
そうか。よかった。取り違えなんて無かったんだ。遺体の行方は依然として知れないが、少なくとも取返しがつかない最悪の事態だけは避けられたのだ――そう思うと、ダムが決壊したように余計なものまでポロポロと零れ落ちた。
「どう? これでちょっとは安心――って、ストップ、ストップ! 勘弁してよ。もう。なにも泣くことないじゃない」
「うぅ……ず、ずみまぜん。じ、じぶんでもよくわがらなくで」
差し出されたティッシュ箱を受け取り、ずびー、ずびーと鼻が鳴る。
よかった、本当によかった――それだけを念仏のように繰り返しているうちに、デスクの上はクシャクシャに丸められたティッシュがうず高く積まれ山となっていった。
佐和子はお茶を啜りながら頬杖をついてその様子を眺めている。肴にされているようで良い気はしないが、ともあれ彼女の助言で目の前の波瀾をひとつ乗り越えられたのは事実だ。
誠人はこの世の生きとし生ける全てのものに感謝の念を贈るうちに、目の前の女性がお釈迦さまのように後光を纏って見えてきて、うっかり手を合わせてしまいそうになり、すんでのところで正気を取り戻した。
*****
「――すみません。大変お見苦しいところをお見せしました」
佐和子が器用にも足で引き寄せたゴミ箱をひょいと拾い上げ、こちらに手渡す。
「あんたは本当に泣き虫ね。そんなんじゃ先が思いやられるわ」
同感です――と思いつつ、両腕をシャベルのように引き寄せてティッシュの山を胸元に抱いたゴミ箱へと落としていった。
「どうよ。ちょっとはスッキリした?」
「はい。おかげさまで。なんというか……救われた思いです」
おおげさね――と、佐和子が肩をすくめる。
「取り違えで火葬だなんて、滅多なことでは起こらないわよ。どこの葬儀社もみんな『それだけは無いように』と管理方法をしっかり設定して目を光らせてるんだから」
「ええ――でも、たしかに田中さんがすでに火葬されているというセンは消えましたけど、それでも彼のご遺体は依然として行方知れずです。この会館で異常な事態が起こっていることに変わりはありません」
「そうねぇ……」佐和子が目線を遠くにおいて呟く。
「本当に、どこにいっちゃったのかしらねぇ……」
それだけ言って少しばかり物思いに耽ると、彼女はまたお決まりのようにテレビに噛り付いてしまった。
「ち、ちょっと! 『どこにいっちゃったのかしらねぇ』じゃないですよ! どうしてそこでまたテレビなんですか? いっしょに考えましょうよ。田中さんがどこに消えちゃったのかを!」
「えー」と低く唸る声。「……どうしようかな。黙ってても上の人が来るんだから、余計なことして現場を引っ掻き回すのも気が引けるわね……」
「二人で力を合わせれば、応援を待たずとも解決できるかもしれませんよ? さっきは協力的な姿勢も見せてくれたじゃないですか!」
「だって、しょうがないじゃない。いつまで経っても、あんたの耳障りな貧乏ゆすりが止まりそうになかったんだもん。映画の邪魔されたくないから、とりあえず目先の不安を解消してあげただけよ」
そんなぁ――呆れて返す言葉も見つからなかった。
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少女を救うために我が身の危険を顧みず怪物に立ち向かう主人公を見ろ! あの勇姿がお前にはどう見えてるんだ! 恥ずかしくないのか! あの行動力を少しは見習え! ――などと募る思いを胸に誠人がおずおずと口を開く。
「あ、あの……」
その消え入りそうな問いかけに佐和子の視線がこちらへ流れた。
「ダメよ」
「ま、まだ何も言ってないじゃないですか……」
もはや気を引くだけでも精一杯だ。でも諦めてなるものか。悔しいが、自分ひとりの力でこの事態を解決するには知識も経験も圧倒的に不足している。彼女の協力が必要不可欠だ――誠人は「ここが分水嶺だな」と帯を引き締め、抗議の姿勢を露わにした。
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はあ?――佐和子の口が歪んだ。
「推理ってあんた。探偵ごっこでもはじめるつもり?」
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「生憎だけど――」
こちらへ向き直るなり、かき上げた横髪を耳にかけ佐和子が腕組みをする。
「――あたしはあんたと違って、『挑戦状付き』を頭から読み返すような熱心なミステリファンじゃないの。だから過分な期待には応えられないわ。所詮はイチ会社員に過ぎないんだから、小説みたいに推理で華麗に解決なんて芸当があたしたちに出来るとはとても思えない。……それでもあんたは、あくまでも自分たちの力でこの謎が解明できるって言い通すのね?」
「やってみなければわかりませんが……たぶん大丈夫……だと、思います。いくつか尤もらしい筋道は立ててあるので、船頭としての舵取りはぼくに任せてください。その過程で、推理の合間に音喜多さんがケチをつけ――じゃなくて、軌道修正をしてくれたり、情報を補足してくれさえすれば、ある程度は形にしてみせられるはず、です」
とは息巻いてみたものの、このとき実際は口で言うほどの自信は持ち合わせていなかった。しかし、なにかしら餌を撒かないことには彼女を釣り上げることも叶いそうになかったので、この際、少々のハッタリはご愛嬌――ということにさせて頂こう。
「……そこまで豪語するんだったら、少しは付き合ってあげてもいいけど」
そこまで言うと、佐和子は「やれやれ」と根負けした様子でようやく腕組みを解いた。
「どのみち、あんたが納得しないかぎり映画はお預けってわけね」
自身も極めて危うい立場に置かれているだろうに、なぜ彼女がここまで居丈高を貫けるのかは甚だ疑問ではあったが、ともあれ誠人の粘り腰が功を奏したおかげで、どうやら形だけでも協力を取り付けることには成功したようだった。
佐和子が「それでは、お手並み拝見」とばかりに手のひらを上に向けてこちらに差し出し「どうぞ」と先を促す。
よしよし。よくやったぞ誠人。なんとか彼女を土俵に引っ張り上げることに成功した。我ながら大金星だ――などと一瞬、気が緩みかけたが、考えてみればこれでようやくスタート地点に立ったに過ぎない。まだ予断を許さない状況なのだ。
誠人は両手で勢いよく頬を張り、喝を入れなおして「――では、はじめさせて頂きます」と口火を切る。
かくして遺体の行方を追う素人探偵が、ここに小さな産声を上げたのであった。
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拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
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だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
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「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
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