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陽だまりを抱いて眠る
【七】 氷
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どうして――
どうして……――――
抗い難い睡魔に意識そのものが黒く塗りつぶされ、危うく自己の存在すら不確かなものになりかけたとき。
繰り返し呟いた自分の言葉に、私の意識はふたたび呼び起されていく。
気付けば目の前に存在していたはずの母の姿は闇の彼方へ露と消え去り、ついさきほどまで両手に感じていた微かな温もりさえ、いつしか溶けいるようにして無くなっていた。
そして私は、それまで自分が目にしていた暗闇を、いつしか閉ざした瞼の裏に見ていたことを、朧気ながら知ったのだった――
うっすらと目を開けてみる。暗闇の地平線から日が明けていくように徐々に視界が開けていく。夢か現かも判然としない、霞がかったような頭の中も、血の巡りとともに次第に思考がまわりはじめる。
どうやら私は、棺の蓋の上に突っ伏した体勢で眠りについていたようだった。
それが何を意味するものかを、ようやく理解できるまでになった、そのとき。
――私は驚愕に目を見開いた。
棺の蓋が……閉じている――?
眠気や倦怠感は瞬時に吹き飛んだ。
母の亡骸の胸元あたりまで開けておいたはずの蓋は、どういうわけか、目が覚めたときにはぴったりと隙間なく閉められていたのだ。
昨晩、私が母にしたことは、薬が見せていた幻覚だったとでもいうのだろうか。いや、そんなわけはない。だとしたら、これは――
思わずその場で立ち上がると、背中に羽織らされていたブランケットが、ばさりと音を立てて床に落ちた。
私は……この状況を、とても受け入れることができなかった。
眠りに落ちていたことが、ではない――
目覚めてしまったことが、だ。
天井付近に取り付けられた採光用の小窓から、きらきらと差し込む朝陽が私を照らしている。
私は、あの朝陽を――
もう二度と目にすることはないと、覚悟をもって眠りについたはずなのだ。
「――高槻様。お目覚めになられましたか」
不意に、背中に声がかかった。おそるおそる後ろを振り返ると、式場の入り口に畏まって佇む人影が目に入った。
「……音喜多さん。どうして、ここに……」
どうして、どうして――その言葉を口にすると、いまも夢のつづきを彷徨っているような錯覚に陥りそうになる。でも彼女は、すっかり狼狽えた私のことなど意に介することもなく
「私は葬儀の担当者ですよ? いないほうがお困りでしょう」
冗談でも聞かされたように、くすりと笑う。
そして――彼女はつかつかと棺の近くまで歩み寄ると、呆然としている私を後目に、母の棺へと丁重に礼拝をする。それから、その蓋をそっとずらした。
なにをするのかと注視していると、彼女は棺の中から白いガーゼに包まれたブロックをひとつ取っては小脇に抱え、ひとつ、またひとつと拾い上げて――気付いたころには、その四つすべてが取り出されていた。
ドライアイス――昨夜、処置された……。
彼女はいったい何をしているのだろう。あれを火葬当日に取り外す決まりでもあるのだろうか。
――などと思っていた、そのとき。
その様子を見て、私は強烈な違和感を覚えた。
大きさが、昨晩とまったく変わっていなかったのだ。
あのドライアイスは間違いなく新品のはずで、処置されてからいまに至るまで、ゆうに半日近く時間が経っている。本来ならば、半分くらいまではすでに溶けてしまっているはずなのだ。
にもかかわらず、彼女が両手に抱えている四つのブロックは、私が昨晩目にしたものと寸分違わぬ大きさを保っていた。
言葉を失った私の視線を受け、彼女は何かに気付いた様子で「ああ。これですか?」と、抱えていたものを近くの椅子におろし、そのうちのひとつからガーゼを剥がしてみせた。
ガーゼの下にあったものは、ドライアイスではなかった。
薬剤のような色味の液体が入っているプラスチックのケースだ。
「――これ、実はドライアイスじゃないんです。凍らせただけの保冷剤なんですよ。使いまわしが効くので重宝するんですけど、うっかり一緒に火葬してしまうといけないので、いまのうちに取り外させていただきました」
ドライアイスじゃ、ない?
そんな、まさか……だって、私は――
「き……昨日、事務所にいた人に、私……ドライアイスを、って……」
「私が指示しました。ドライの代わりに保冷剤を使うようにと。昨晩、あなたからそのようなご注文を受けたと、彼から報告を受けたときに」
かっ、と頭に血が昇るのがわかった。
あの犬っころめ。さんざん調子のいいこと言っておいて、ちゃっかり報告を入れてるじゃないか。おおかた上司に詰められて、あっさり白状したんだ。きっと――
「話が……ちがうじゃないですか! 私……だって、彼にちゃんと……」
「ご安心ください高槻様。保冷剤とはいえ、きちんと効果はありますよ? さすがに、マイナス七十九度のドライアイスに比べると冷却効果はその何十分の一かでしょうけど。しかしお母さまの御体を一晩保全するだけなら、それで充分です。余計な費用だって――」
「そういうことを言ってるんじゃないんです! 客である私が、そうしてくれと頼んだことを何故、そのとおりにしてくれなかったんですか!」
場内に響く私の声が、自分のものでないような不思議な感覚。感情の昂ぶりに理性が追い付かない。……音喜多さん、ごめんなさい。逆恨みだって、自分でもわかってるの。
でも――
私の計画を邪魔したあなたのことが、どうしても憎くてたまらない。
私はいま、さぞかし醜い顔で彼女を睨んでいることだろう。しかし彼女は、激情に流されるがままの私を宥めるでもなく、謝罪の言葉で取り繕うでもなく――
はっきりと私を諫める語調で、こう宣言した。
「何故あなたの言う通りにしなかったか、ですか?
――その答えは一つです。
この葬儀を滞りなく終わらせること。それが、私に与えられた仕事だからですよ」
言うや彼女が、頑として正面に立ちはだかる。
「質問の答えに、なってない――」と、傍目に聞いているものは思うだろう。
でもこのとき私には、彼女がその言葉の裏に託した本当の意味がはっきりと伝わった。
あの鋭く研ぎ澄まされた眼は、こう語っているに違いない。
お前のような小娘の考えなど、お見通しだ――と。
「この答えではご納得いただけませんか? では、改めてご説明いたしましょう。――高槻様……ご存知でないようであればお教えしますが、ドライアイスとは氷ではないのです。固体化した二酸化炭素の塊なんですよ」
「知ってます。そんなこと……あなたに言われなくたって――」
負けじと睨みを返す私に対して、彼女は「ほぉ」と目を見開く。
「では、これもご存知ですか? ドライアイスが溶けるのは、その二酸化炭素が時間をかけて気化――正確には昇華ですが――するからです。ご遺体に一度に処置されるドライアイスは十キロ。そこから昇華した二酸化炭素の放出量はかなりのものです。
さらに、二酸化炭素の比重は空気より重く、そのため昇華したのちも棺の中で長時間、滞留することとなります。蓋を少々開けたところで、昇華したそばから空気中に拡散されるものではありません。それはご遺体を保全するうえでは理想的な環境と言えますが、ひとつ取り扱いを間違えると重大な事故を誘発する要因ともなりうるのです」
やはりそうだ。彼女はすべて見抜いていたのだ。
この私の思惑を、すべて――
ドライアイスを利用した二酸化炭素中毒による窒息死――
それが、私の計画だった――
母の胸に抱かれながら、眠りにつくようにして、父のもとへと共に旅立つ――それを遂げることこそが、私がこの葬儀にかけた悲願だったのだ。
それを思いついたのは母の遺体を引き取った、あの日のこと。
寝台車に揺られながら見た、あの光景――
アイスクリームの、ドライアイス――
母に抱かれて眠る安らぎへの、羨望――
そして、父という存在の、大いなる欠落――
いずれも車窓を流れていく母娘連れから得た着想だ。
それは――私にとっての、ありえたかもしれない過去を生きる少女たちが授けてくれた啓示だった。
これしかないと思った。
なにひとつ思い通りにならなかった私のくだらない人生に、せめて自分の望む形で幕引きができる、最初で最後の機会だった――
なのに――なのに――
「……だから、なんだっていうんですか。ひとの気も知らないで余計なことを……それとも、なに? 私の行動に『重大な事故』とやらを引き起こしかねないような、不信な点でもあったっていうの?」
「不信ではない点でしたら、一つだけございました」
「なに、その言い方……そんなに私、危なっかしい女だって思われてたの」
「ご希望であれば、理由をご説明しましょうか」
聞かせてもらおうじゃない。私の、この――醜いエゴに塗れた心に、土足で上がり込んできた、その理由を。
「かしこまりました。では開式の準備もございますので、手短に――
私がまず最初に疑問に思ったのは、高槻様のご宿泊の用意に関してです」
「宿泊の? ……控室の、私の荷物が、ですか?」
どういうことだろう。私が持参した荷物の中に不信な点などなかったはずだ。自殺願望を悟られないよう、翌日の替えの下着の他に、念を入れて歯ブラシなども一式揃えておいた。睡眠薬だって、度を越した量は持ち込まなかったのに。
しかし彼女は「そうではない」とそっと目を伏せ、ふるふると首を横に振った。
「荷物のことではございません。私が言っているのは、そのもっと手前、――お打合わせの席でのことです」
「打合せ……? 二日前の? 私、なにか変なこと言いましたか」
「いいえ。逆です。あなたはなにも仰らなかったのです。聞くべきことを、なにも。そこがまず不自然でした。
高槻様、あなたもご存知のとおり、当会館はただの葬儀場であって、ホテルや旅館のような宿泊することを前提とした施設ではないのです。――気になりませんか? 『シャワーは付いているのか』とか『食事は出るのか』とか――それから『アメニティ』は? あと『寝巻などの寝具』は? 宿泊を希望する方なら、当然まっさきに気になるところです。あなたにお見せしたパンフレットにだって、宿泊設備の詳細は記載されておりませんでした。……にもかかわらず、あれほどまでに通夜の晩に宿泊することを熱望していたあなたの口から、それらに関する質問は最後まで一つも出ませんでした。
それでわかったんです。あなたの望みは、あくまでもお母様と一夜をともにすることであって、控室で夜を明かすおつもりは最初からないのだと――」
そんな、些細なことを糸口に――?
私は、否定も肯定もできないまま、彼女の紡ぐ言葉に黙って耳を傾けていた。
「――そこへきて、昨日のドライアイスの一件です。思うに、それが決定打となりました。お打合せの際、あなたは見積で提示した金額に難色を示された結果、世間知らずと誹られることも厭わずにお寺様の手配を頑なに断られました。そんなあなたが、たかだか八千円とはいえ、なぜここにきて唐突に無意味な出費を惜しまなくなったのか」
「だから! それは母の遺体を……」
「心配されていたのでしょう? それ自体は問題ではございません。しかし、わざわざドライアイスを処置する場所まで指定されたと耳にしては、私はどうしてもそれを看過するわけにはいかなくなりました。
さきほども申し上げたとおり、ドライアイスから昇華した二酸化炭素は比重の重さにより沈む気体ですから……それがよりによって、枕元の一段高い場所に処置されたとあれば、もはや見て見ぬふりなどできなかったのです」
「それで私がうっかり窒息死するとでも? ばかみたい……考え過ぎだとは思わなかったんですか?」
「当然、思いましたよ。『そうであってほしくない』とも……ね。――たしかに、我ながら実に突飛な考えでした。どこぞのミステリーおたくに、悪い影響でも受けたのかもしれません。しかし考えれば考えるほどに、あなたの行動には疑わしい点が目につくように思えてきたのです」
「まだ、他にもあるっていうの?」
「はい。たとえば『葬儀代金を事前に清算したい』と仰られた件がそうです。あれは――つまりはそういうことなのだと思いました。葬儀が終わるころには支払いが出来なくなる可能性を考慮されてのことだと」
それについては実際、彼女の言う通りだった。自分の亡き後にそれ以上の厄介を掛けたくなくて、私は事に及ぶ前に、支払うべきものはすべて済ませてしまいたかったのだ。
「それから――お寺様の手配を頑なに断ったのも、おそらく同じ理由からではないか、と思ったりもしました。葬儀費用を抑えるために、お見積りから削除したお布施の金額は三十万円。あなたに提示した直葬プランの葬儀代も、同じ三十万円でしたっけね……私が何を言いたいかは、おわかりですね?」
「そんな――」
――うそでしょう。まさか、そんなことまで……。
私がお寺様を断念した本当の理由――それは、貯金のすべてを母の葬儀で使い切るわけにはいかなかったからだ。最低でも三十万は、手元に遺しておかなければならなかった。
自分自身を直葬で葬るための代金を、遺留金として遺すために――
「――とはいえ、です。あれこれ推論を並べたところで、結局のところ、すべては私の想像に過ぎません。それを裏付ける証拠もなければ、もとよりあなたを弾劾するつもりもないのですから。最初に申し上げた通り、私の目的は『葬儀を無事に終わらせる』ということだけ。だからもう、これで……おわりにしませんか?」
「お互いに、このことは『忘れよう』と言いたいの?」
「忘れるも何も、現に事件など起こらなかったではないですか。私たちは、あくまでも『可能性の話』をしていたに過ぎません。たとえあなたが何を企てようと……それに対して私が何を疑おうと……すべては未然。罪も無ければ罰も無いのです。それではいけませんか?」
私はすでに、彼女の顔をまともに見ることができなかった。
母の亡骸にも顔向けなどできるはずもなく、ただ子どものように押し黙って、伏せた顔を両手で覆う。
もういい。わかった。この沈黙が意味するものは、彼女にだって充分わかっているだろう。
「ご納得頂けたようで、なによりです。――それでは式の準備がございますので、私はこのあたりで」
言って、つかつかと足音が遠ざかる。
しかし彼女は、式場入り口まで歩みを進めたところで、何かを思い出したようにふと立ち止まり――
「……あ。ちなみにですが、業務の一環として、このあと控室の掃除と点検に入らせていただきますので、貴重品の管理や人目に触れさせたくない物のご処分などは、ただいまのお時間にお願いいたしますね」
と微笑んだ。
完敗だ――私なんかでは彼女には到底、かないそうもない。
「――音喜多さん。ひとつだけ、いいですか……」
最後に私は、ふり絞るようにして、掠れた声で呼びかける。
「さっき言ってましたよね……。私には『不信ではない点』が一つだけあったと……あれは、なんのことだったんですか」
すると振り向いた彼女は、なにをいまさら、とでも言いたげに肩をすくめ、
「ご自分が一番よくわかっているはずです――お打合せで『少しでも長い時間、母といっしょにいたいだけ』だと仰られたときの、貴女様のお気持ちですよ。その言葉にだけは、嘘がありませんでした」
それだけ言って、煙のように去ってしまった――
(次回、【終章】――)
どうして……――――
抗い難い睡魔に意識そのものが黒く塗りつぶされ、危うく自己の存在すら不確かなものになりかけたとき。
繰り返し呟いた自分の言葉に、私の意識はふたたび呼び起されていく。
気付けば目の前に存在していたはずの母の姿は闇の彼方へ露と消え去り、ついさきほどまで両手に感じていた微かな温もりさえ、いつしか溶けいるようにして無くなっていた。
そして私は、それまで自分が目にしていた暗闇を、いつしか閉ざした瞼の裏に見ていたことを、朧気ながら知ったのだった――
うっすらと目を開けてみる。暗闇の地平線から日が明けていくように徐々に視界が開けていく。夢か現かも判然としない、霞がかったような頭の中も、血の巡りとともに次第に思考がまわりはじめる。
どうやら私は、棺の蓋の上に突っ伏した体勢で眠りについていたようだった。
それが何を意味するものかを、ようやく理解できるまでになった、そのとき。
――私は驚愕に目を見開いた。
棺の蓋が……閉じている――?
眠気や倦怠感は瞬時に吹き飛んだ。
母の亡骸の胸元あたりまで開けておいたはずの蓋は、どういうわけか、目が覚めたときにはぴったりと隙間なく閉められていたのだ。
昨晩、私が母にしたことは、薬が見せていた幻覚だったとでもいうのだろうか。いや、そんなわけはない。だとしたら、これは――
思わずその場で立ち上がると、背中に羽織らされていたブランケットが、ばさりと音を立てて床に落ちた。
私は……この状況を、とても受け入れることができなかった。
眠りに落ちていたことが、ではない――
目覚めてしまったことが、だ。
天井付近に取り付けられた採光用の小窓から、きらきらと差し込む朝陽が私を照らしている。
私は、あの朝陽を――
もう二度と目にすることはないと、覚悟をもって眠りについたはずなのだ。
「――高槻様。お目覚めになられましたか」
不意に、背中に声がかかった。おそるおそる後ろを振り返ると、式場の入り口に畏まって佇む人影が目に入った。
「……音喜多さん。どうして、ここに……」
どうして、どうして――その言葉を口にすると、いまも夢のつづきを彷徨っているような錯覚に陥りそうになる。でも彼女は、すっかり狼狽えた私のことなど意に介することもなく
「私は葬儀の担当者ですよ? いないほうがお困りでしょう」
冗談でも聞かされたように、くすりと笑う。
そして――彼女はつかつかと棺の近くまで歩み寄ると、呆然としている私を後目に、母の棺へと丁重に礼拝をする。それから、その蓋をそっとずらした。
なにをするのかと注視していると、彼女は棺の中から白いガーゼに包まれたブロックをひとつ取っては小脇に抱え、ひとつ、またひとつと拾い上げて――気付いたころには、その四つすべてが取り出されていた。
ドライアイス――昨夜、処置された……。
彼女はいったい何をしているのだろう。あれを火葬当日に取り外す決まりでもあるのだろうか。
――などと思っていた、そのとき。
その様子を見て、私は強烈な違和感を覚えた。
大きさが、昨晩とまったく変わっていなかったのだ。
あのドライアイスは間違いなく新品のはずで、処置されてからいまに至るまで、ゆうに半日近く時間が経っている。本来ならば、半分くらいまではすでに溶けてしまっているはずなのだ。
にもかかわらず、彼女が両手に抱えている四つのブロックは、私が昨晩目にしたものと寸分違わぬ大きさを保っていた。
言葉を失った私の視線を受け、彼女は何かに気付いた様子で「ああ。これですか?」と、抱えていたものを近くの椅子におろし、そのうちのひとつからガーゼを剥がしてみせた。
ガーゼの下にあったものは、ドライアイスではなかった。
薬剤のような色味の液体が入っているプラスチックのケースだ。
「――これ、実はドライアイスじゃないんです。凍らせただけの保冷剤なんですよ。使いまわしが効くので重宝するんですけど、うっかり一緒に火葬してしまうといけないので、いまのうちに取り外させていただきました」
ドライアイスじゃ、ない?
そんな、まさか……だって、私は――
「き……昨日、事務所にいた人に、私……ドライアイスを、って……」
「私が指示しました。ドライの代わりに保冷剤を使うようにと。昨晩、あなたからそのようなご注文を受けたと、彼から報告を受けたときに」
かっ、と頭に血が昇るのがわかった。
あの犬っころめ。さんざん調子のいいこと言っておいて、ちゃっかり報告を入れてるじゃないか。おおかた上司に詰められて、あっさり白状したんだ。きっと――
「話が……ちがうじゃないですか! 私……だって、彼にちゃんと……」
「ご安心ください高槻様。保冷剤とはいえ、きちんと効果はありますよ? さすがに、マイナス七十九度のドライアイスに比べると冷却効果はその何十分の一かでしょうけど。しかしお母さまの御体を一晩保全するだけなら、それで充分です。余計な費用だって――」
「そういうことを言ってるんじゃないんです! 客である私が、そうしてくれと頼んだことを何故、そのとおりにしてくれなかったんですか!」
場内に響く私の声が、自分のものでないような不思議な感覚。感情の昂ぶりに理性が追い付かない。……音喜多さん、ごめんなさい。逆恨みだって、自分でもわかってるの。
でも――
私の計画を邪魔したあなたのことが、どうしても憎くてたまらない。
私はいま、さぞかし醜い顔で彼女を睨んでいることだろう。しかし彼女は、激情に流されるがままの私を宥めるでもなく、謝罪の言葉で取り繕うでもなく――
はっきりと私を諫める語調で、こう宣言した。
「何故あなたの言う通りにしなかったか、ですか?
――その答えは一つです。
この葬儀を滞りなく終わらせること。それが、私に与えられた仕事だからですよ」
言うや彼女が、頑として正面に立ちはだかる。
「質問の答えに、なってない――」と、傍目に聞いているものは思うだろう。
でもこのとき私には、彼女がその言葉の裏に託した本当の意味がはっきりと伝わった。
あの鋭く研ぎ澄まされた眼は、こう語っているに違いない。
お前のような小娘の考えなど、お見通しだ――と。
「この答えではご納得いただけませんか? では、改めてご説明いたしましょう。――高槻様……ご存知でないようであればお教えしますが、ドライアイスとは氷ではないのです。固体化した二酸化炭素の塊なんですよ」
「知ってます。そんなこと……あなたに言われなくたって――」
負けじと睨みを返す私に対して、彼女は「ほぉ」と目を見開く。
「では、これもご存知ですか? ドライアイスが溶けるのは、その二酸化炭素が時間をかけて気化――正確には昇華ですが――するからです。ご遺体に一度に処置されるドライアイスは十キロ。そこから昇華した二酸化炭素の放出量はかなりのものです。
さらに、二酸化炭素の比重は空気より重く、そのため昇華したのちも棺の中で長時間、滞留することとなります。蓋を少々開けたところで、昇華したそばから空気中に拡散されるものではありません。それはご遺体を保全するうえでは理想的な環境と言えますが、ひとつ取り扱いを間違えると重大な事故を誘発する要因ともなりうるのです」
やはりそうだ。彼女はすべて見抜いていたのだ。
この私の思惑を、すべて――
ドライアイスを利用した二酸化炭素中毒による窒息死――
それが、私の計画だった――
母の胸に抱かれながら、眠りにつくようにして、父のもとへと共に旅立つ――それを遂げることこそが、私がこの葬儀にかけた悲願だったのだ。
それを思いついたのは母の遺体を引き取った、あの日のこと。
寝台車に揺られながら見た、あの光景――
アイスクリームの、ドライアイス――
母に抱かれて眠る安らぎへの、羨望――
そして、父という存在の、大いなる欠落――
いずれも車窓を流れていく母娘連れから得た着想だ。
それは――私にとっての、ありえたかもしれない過去を生きる少女たちが授けてくれた啓示だった。
これしかないと思った。
なにひとつ思い通りにならなかった私のくだらない人生に、せめて自分の望む形で幕引きができる、最初で最後の機会だった――
なのに――なのに――
「……だから、なんだっていうんですか。ひとの気も知らないで余計なことを……それとも、なに? 私の行動に『重大な事故』とやらを引き起こしかねないような、不信な点でもあったっていうの?」
「不信ではない点でしたら、一つだけございました」
「なに、その言い方……そんなに私、危なっかしい女だって思われてたの」
「ご希望であれば、理由をご説明しましょうか」
聞かせてもらおうじゃない。私の、この――醜いエゴに塗れた心に、土足で上がり込んできた、その理由を。
「かしこまりました。では開式の準備もございますので、手短に――
私がまず最初に疑問に思ったのは、高槻様のご宿泊の用意に関してです」
「宿泊の? ……控室の、私の荷物が、ですか?」
どういうことだろう。私が持参した荷物の中に不信な点などなかったはずだ。自殺願望を悟られないよう、翌日の替えの下着の他に、念を入れて歯ブラシなども一式揃えておいた。睡眠薬だって、度を越した量は持ち込まなかったのに。
しかし彼女は「そうではない」とそっと目を伏せ、ふるふると首を横に振った。
「荷物のことではございません。私が言っているのは、そのもっと手前、――お打合わせの席でのことです」
「打合せ……? 二日前の? 私、なにか変なこと言いましたか」
「いいえ。逆です。あなたはなにも仰らなかったのです。聞くべきことを、なにも。そこがまず不自然でした。
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それでわかったんです。あなたの望みは、あくまでもお母様と一夜をともにすることであって、控室で夜を明かすおつもりは最初からないのだと――」
そんな、些細なことを糸口に――?
私は、否定も肯定もできないまま、彼女の紡ぐ言葉に黙って耳を傾けていた。
「――そこへきて、昨日のドライアイスの一件です。思うに、それが決定打となりました。お打合せの際、あなたは見積で提示した金額に難色を示された結果、世間知らずと誹られることも厭わずにお寺様の手配を頑なに断られました。そんなあなたが、たかだか八千円とはいえ、なぜここにきて唐突に無意味な出費を惜しまなくなったのか」
「だから! それは母の遺体を……」
「心配されていたのでしょう? それ自体は問題ではございません。しかし、わざわざドライアイスを処置する場所まで指定されたと耳にしては、私はどうしてもそれを看過するわけにはいかなくなりました。
さきほども申し上げたとおり、ドライアイスから昇華した二酸化炭素は比重の重さにより沈む気体ですから……それがよりによって、枕元の一段高い場所に処置されたとあれば、もはや見て見ぬふりなどできなかったのです」
「それで私がうっかり窒息死するとでも? ばかみたい……考え過ぎだとは思わなかったんですか?」
「当然、思いましたよ。『そうであってほしくない』とも……ね。――たしかに、我ながら実に突飛な考えでした。どこぞのミステリーおたくに、悪い影響でも受けたのかもしれません。しかし考えれば考えるほどに、あなたの行動には疑わしい点が目につくように思えてきたのです」
「まだ、他にもあるっていうの?」
「はい。たとえば『葬儀代金を事前に清算したい』と仰られた件がそうです。あれは――つまりはそういうことなのだと思いました。葬儀が終わるころには支払いが出来なくなる可能性を考慮されてのことだと」
それについては実際、彼女の言う通りだった。自分の亡き後にそれ以上の厄介を掛けたくなくて、私は事に及ぶ前に、支払うべきものはすべて済ませてしまいたかったのだ。
「それから――お寺様の手配を頑なに断ったのも、おそらく同じ理由からではないか、と思ったりもしました。葬儀費用を抑えるために、お見積りから削除したお布施の金額は三十万円。あなたに提示した直葬プランの葬儀代も、同じ三十万円でしたっけね……私が何を言いたいかは、おわかりですね?」
「そんな――」
――うそでしょう。まさか、そんなことまで……。
私がお寺様を断念した本当の理由――それは、貯金のすべてを母の葬儀で使い切るわけにはいかなかったからだ。最低でも三十万は、手元に遺しておかなければならなかった。
自分自身を直葬で葬るための代金を、遺留金として遺すために――
「――とはいえ、です。あれこれ推論を並べたところで、結局のところ、すべては私の想像に過ぎません。それを裏付ける証拠もなければ、もとよりあなたを弾劾するつもりもないのですから。最初に申し上げた通り、私の目的は『葬儀を無事に終わらせる』ということだけ。だからもう、これで……おわりにしませんか?」
「お互いに、このことは『忘れよう』と言いたいの?」
「忘れるも何も、現に事件など起こらなかったではないですか。私たちは、あくまでも『可能性の話』をしていたに過ぎません。たとえあなたが何を企てようと……それに対して私が何を疑おうと……すべては未然。罪も無ければ罰も無いのです。それではいけませんか?」
私はすでに、彼女の顔をまともに見ることができなかった。
母の亡骸にも顔向けなどできるはずもなく、ただ子どものように押し黙って、伏せた顔を両手で覆う。
もういい。わかった。この沈黙が意味するものは、彼女にだって充分わかっているだろう。
「ご納得頂けたようで、なによりです。――それでは式の準備がございますので、私はこのあたりで」
言って、つかつかと足音が遠ざかる。
しかし彼女は、式場入り口まで歩みを進めたところで、何かを思い出したようにふと立ち止まり――
「……あ。ちなみにですが、業務の一環として、このあと控室の掃除と点検に入らせていただきますので、貴重品の管理や人目に触れさせたくない物のご処分などは、ただいまのお時間にお願いいたしますね」
と微笑んだ。
完敗だ――私なんかでは彼女には到底、かないそうもない。
「――音喜多さん。ひとつだけ、いいですか……」
最後に私は、ふり絞るようにして、掠れた声で呼びかける。
「さっき言ってましたよね……。私には『不信ではない点』が一つだけあったと……あれは、なんのことだったんですか」
すると振り向いた彼女は、なにをいまさら、とでも言いたげに肩をすくめ、
「ご自分が一番よくわかっているはずです――お打合せで『少しでも長い時間、母といっしょにいたいだけ』だと仰られたときの、貴女様のお気持ちですよ。その言葉にだけは、嘘がありませんでした」
それだけ言って、煙のように去ってしまった――
(次回、【終章】――)
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完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
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「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
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支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
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