ゆうべには白骨となる

戸村井 美夜

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陽だまりを抱いて眠る

【六】叶うなら、どうかこのまま

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「はい……はい……。そうですね……申し訳ございませんがお休みは明日までということで……えぇ。すみません――」
 独りきりの控室で、虚空に向けてぺこぺこと頭を下げつづける。

「――メールも見てはいるんですが、なにぶんここ数日は……。渡辺さんにも、事前にその件は引き継ぎをさせて頂いてるんですが……」

 慶弔休暇の名目できちんと申請は通したはずで、こちらの都合は向こうも重々承知の上ではあるのだが……かなしいかな、仕事の電話というのはこんなときでもお構いなしに掛かってくるものだ。
 壁掛け時計にちらりと目をやる。時刻は午後九時。弊社にとっては、これでもまだ常識的な時間内といえるだろう。なんなら、通夜の時間を避けて連絡を寄越している分、温情があるとでも思っているに違いない。

「いろいろとご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした……。はい……お疲れ様でございま――」切られた。

 目を深く閉じ、腹の底から突き上げてくる感情を吐息にのせて細く吐き出す。
――もういい。許そう。これまで受けた仕打ちも、すべて水に流してしまおう。
 もういいんだ。どうでも。
 あなたがたのことなんて、もう――

 スマホの画面を伏せ卓上の隅にそっと置き、気を取り直して書き物の続きにペンを走らせる。時計の秒針がコツコツと刻む音だけを聞きながら、それを粛々と綴りおえた。
 ペンを放り捨て、コップに注いだお水で一杯呷ると、思わず肘をついて頭をかかえた。
 ずきずきする。気分は最悪だった。それというのも私はこの数日間、どうしても満足に睡眠を取ることができなかったのだ。
 眠りたい。眠りたい。眠りたい――他ならぬ私自身が心から強くそう望んでいるのに、無意識下に巣食う仕事のストレスが、先々への不安が、休まりかけた思考の狭間から容赦なく意識を揺り起こすのを、どうしても止めてくれなかった。

 でも、これでもう、大丈夫――

 私は両手をついて立ち上がり、意を決して母の待つ式場へと向かう。消灯時間もとうに過ぎ、会館には私と母の二人きり。
 通路に灯った間接照明の仄かな光を頼りに先へ先へと進んでいく。
 さきほどまで煌々と照らされていた式場内も、いまはもう薄明かりに沈んでおり、その中で母が眠る棺の周辺だけが、終着点を示すようにぼんやりと白く浮き上がって見えた。

 式場の椅子を一脚だけ拝借する。それを棺の真横、母の顔のすぐ近くに置いた。
 棺の蓋に両手をかけ、軽く浮かすようにして持ち上げる。そして半分よりも少し手前まで、足先のほうへとずらしていく。母の亡骸が、胸元のあたりまで露わになった。
 顔を見た瞬間――心臓が、きゅっと締め付けられた。母の死顔に、まともに目を向けることができたのは、実はこのときがはじめてだった。

 用意した椅子に浅く腰掛けて、その寝姿をつぶさに観察する。四年ぶりの再会を、まさかこんな形で迎えることになるだなんて、ついこのあいだまで想像すらしなかった。
 
 最後に会ったときに比べて少しやつれてはいたけれど、丁寧に施された死化粧と含み綿のおかげで、こうしていると本当にただそこで眠っているだけのように見えた。掛け布団から覗く胸元は、絹で仕立てた白の仏衣を身に纏っていた。
 あらためて見ると、母の顔は、やっぱり私にそっくりだった。まるで私のほうが幽体となり、枕元から自分自身を見下ろしているかのようにも思えたほどだ。

 事務所の彼は、どうやら私が指示したとおりにドライアイスを交換してくれたようだ。白いガーゼに包まれたレンガ大のブロックが四つ、母の身体にあてられている。一個あたり二.五キロ、合わせて十キロ。それが一回分のドライアイスの処置量だ。私の要望通り二つは下腹部に、そして残りの二つは顔を挟んだ両側、つまり枕元の一段高い位置に置いてもらった。
 これで、すべてが上手くいくはずだ――

 歳月の流れを物語るような白髪交じりの髪に触れ、そのまま頬をそっと撫でた。
 耳元に口を寄せて、囁く。

「お母さん、どうか許してください……ごめんね――」

 そして、ついにこのときがきた――

 私は腰を浮かせたまま、棺の中へと顔を覗き入れ、母の亡骸に覆いかぶさるようにして、彼女の胸板に頬を寄せた。
 雲を頭から被ったみたい。瞬時に顔のまわりが冷気に包まれる。
 ただでさえ痩せた母の胸は、数日間ドライアイスをあてられたことによって氷のように凍てついており、まるでスケートリンクに寝そべっているような感触だった。
 抱きしめてみて、はっきりと感じる。鼓動を失った母の身体を満たすものは、ただただ静寂のみであることを。

 それでも私は、念願叶って母の感触をその身に感じていることに、他の何物にも代えがたい感慨を深く覚えていた。
 幼いころから抑え込んでいた、名前すら知らない感情の波が、理性をたちまちに吞み込んでいく。
 おかあさん、おかあさん――そう心で呼びかけるたびに思考が遠くへさらわれていく。
 瞼の裏は灼けるように熱を帯びはじめ、声にならない呻きがのどの奥をじりじりと焦がした。直前に飲み下した睡眠導入剤が効いてきたのか、意識の中にも次第に黒いものが混濁してくる。

 どれくらいのあいだ、そうしていただろう――
 ふいに、背後から誰かが私に触れたような感覚があった。何本もの細い指が、弱々しく這うようにして私の背中を撫でまわしているかのような――
 それと同時に私は、母の冷たい身体の中に微かな鼓動が宿りはじめているのを、はっきりとこの耳で捉えていた。
 はっとして目を覚ます。そこで私は、にわかに信じ難い光景を目撃した。

 母の目が、開いていたのだ――

 棺の中で横たわる母が、慈しむような視線を私に向け、物言わずしてただ微笑みを浮かべている。
 その瞳には、たしかに意思の力が宿っていた。
 そして母は、そのまま私の後ろにまわした両手で――その細い十本の指で――私を力強く、ぎゅっと抱き寄せた。

 うそ……うそでしょう。
 本当に生き返ってくれたの。
 おかあさん――

 夢でも見ているんじゃないかと自分の目を疑う――だって……そうでなければ、これは奇蹟としか言い様がない。

 いや、違う。これは紛れもなく現実だ――

 私はその瞬間、ようやく理解した。
 いままで自分を取り巻いていた辛い現実こそが、ほんとうは夢だったのだと。
 母が死んだという事実など、はじめから存在していなかったのだと――

 ……よかった――私は、心の底から安堵した――おかあさんは、本当に死んだわけじゃなかったんだ……。わたしが冷たく接していたから、きっと神様が罰として、ずっと悪い夢を見せていたんだ。
 本当に、ほんとうによかった――神様……おかあさんを返してくれて、本当にありがとう……。

 私はもう、この手を二度と離すまいとして、いっそう強く母を抱きしめた。
 父を失ったあの日、母が私にそうしたように……指先にありったけの力をこめて、藻搔もがくように母にすがった。

「おかあさん、ごめんね。もう、どこにもいかないでね――」
 ぐしゃぐしゃに泣き腫らした顔を、思いきり胸にうずめる。でも母は……私の髪を優しく撫でてくれるだけで、何も答えてはくれなかった。

 このまま、ずっと一緒にいてもいい?――

 不安にかられて私がそう問い掛けると、なぜか母は気まずそうに口を引き結んだ。
 そして――わたしの背中にまわしていた手を、そっと私の肩において、それから――身体をゆっくりと引き離した。

 どうしたの、おかあさん――

 見ると、母はどうしてか悲しそうな目をして、どこか遠くをみつめている。
 視線の先を追うと、そこには父の遺骨が祀られた祭壇があった。

 ――もしかして、お父さんのところにいきたいの?

 答えを聞くのが怖くて、声が震える。
 おかあさんは、わたしの胸に、おでこをあてて、うん……と小さくうなずいた。

 ――うそ……やだよ。わたし、ぜったいイヤ!

 胸が、引き裂かれそうなほど苦しかった。

 ――サチも、お父さんに会いたい!
 ――おねがい……いいでしょ? サチもいっしょにつれてって!

 それでも……おかあさんは何も言わず、ただ困ったような顔で笑っていた。

 ――どうしてなの?
 ――こんなに……こんなに、シンケンなのに……なんでサチの言うこと、ぜんぜんきいてくれないの!
 
 ――わたしが、ばかだから?
 ――おかあさんと、なかよくできない……わるい子だから?

 おへやの明かりがどんどん暗くなってくる。
 おかあさんのかおも、だんだん見えなくなっていく……。だめだ……もっと、もっとおっきなこえで言わなくちゃ……!

 ――まって! いかないで!

 ――いままでのこと、ぜんぶあやまるから!

 ――わたし、ずっと言おうとしてたの。言えなくなる日がくるなんて、知らなかったの! ……だからおかあさん、きいて。

 ――あのね。わたし、ほんとうはね……。


 おかあさんのこと、すきなの――


 なのに、どうして――

 どうして――


(つづく)
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