ゆうべには白骨となる

戸村井 美夜

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陽だまりを抱いて眠る

【五】思わぬ、伏兵

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 二日後――

 通夜当日の夕刻。紫がかった空の彼方に、薄く紅が引かれるころ。
 私は再び、葬儀会館に足を運んだ。

 母の通夜は、本日午後六時より、ここでしめやかに営まれる。
 音喜多さんとの約束通り、開式時刻の三十分前には余裕をもって到着した。
 夕闇に染まる葬儀会館。その入り口から漏れ出た光に、誘われるようにして歩を進める。やがて光の中に、一筋の影が佇んでいるのが見えた。

「――高槻様、お待ちしておりました。本日と明日みょうにちの二日間、どうぞよろしくお願い致します」

 二日前と同じように、彼女は正面玄関で折り目正しく私を迎え入れた。
 挨拶もそこそこに中へと通される。式場は一階。このまま通路を進んだ先にあるが、私は先に着替えを済ませたかったので、通路の途中で目に留まった遺族控室にまず案内してもらう。荷物も置きたかったし、パーカーにジーンズを合わせただけのラフな格好で式場へ赴くのも、何となくだが気が引けた。

 控室の格子戸を横に引くと、三和土たたきを上がってすぐ目の前に六畳ほどの和室があった。宿泊希望者は通夜の晩、ここで寝泊まりするそうだ。
 姿見の横にあるハンガーラックには、事前に注文しておいたレンタルの喪服が掛けられていた。聞けば布団や浴衣などの寝具も、押し入れの中に一通り揃っているらしい。和室を正面に見て左手側にはシャワールームまで備え付けられている。
 念には念を入れて、替えの下着の他に歯ブラシなども買っておいたのだけれど、洗面台にはその手のアメニティもきちんと用意されていた。
 荷ほどきをしているあいだ、隙をみて彼女の反応を伺ってみる。私に対して、特に不信感を抱いている様子は見られなかった。

 部屋の隅に荷物をまとめ、腰をおろしたついでに葬儀代金の清算を申し出る。
 その場で滞りなく支払いを済ませると、話の流れで音喜多さんから宿泊に関しての注意事項をいくつか説明され、控室の鍵と夜間外出用のカードキーを手渡された。

 そうこうしている内に時刻は間もなく六時を迎えるころとなり、私は平服から黒の装いへと着替えを済ませ、慎み深く厳粛な空間へと足を踏み入れる。
 式場は、ざっと見て四十人くらいは入れそうなほど大きかった。
 ただでさえ広々とした式場に椅子を一つだけ、ぽつんと置くのも忍びなかったのだろう。葬儀屋あちらも気を使ってか、椅子は左右横並びに三脚ずつ、計六脚用意されていた。
 正面奥にしつらえた祭壇はまるで大きなお城のようで、白木で組み上げられた四段組みの雛壇には、最上段に破風はふの付いた立派な屋根が、その下の段に母の遺影が飾られており、その他には砂糖菓子などのお供物や、おおとりを象った彫刻仕上げの灯篭飾りなどが左右で対になるように置かれている。
 一段目の中央には白木のお位牌が祀られ、
 そこには
「故 高槻 恵子 之 霊位」と、母の俗名が書かれていた。

 祭壇を挟んで両側には菊の供花が飾られており、右手に「喪主」と書かれた名札のものが。左手側の供花は、音喜多さんの心遣いで贈って頂いた葬儀社名義のものだった。それでもなお、広い式場はどこか寂しい印象が否めないものではあったが、彼女がそこかしこに仕立てた屏風や提灯などの飾り物のおかげで、葬儀場として最低限の体裁は整えられていた。

 そして祭壇の前に安置された、純白のお棺――
 この中で母はいま、安らかな眠りについている。

 六時をまわり、開式の時刻が過ぎると私は、本来ならばお寺の導師様が着座する場所に腰を据えて、黙々と線香を上げ続ける。音喜多さんの言うように、閉式までの時間はこのまま無為に過ぎ去っていくだけのものと思われた。
 しかし実際は、ありがたいことにと言うべきか、誰に報せたわけでもないのに、私たちのもとには実家のご近所さんがぽつぽつと、「お焼香だけでもあげさせてほしい」と何人かで連れ立ってやってきてくれた。
 きちんと喪服を着ておいてよかった。人の口に戸は立てられないのだから、喪服くらいは最低限、礼儀として着ておきなさい――と忠告してくれた音喜多さんに胸の内で感謝した。
 弔問客は皆、律儀にお香典を包んできてくれて、励ましの言葉とともにそれが私に差し出される。でも私は、丁重に断りを入れたうえで、それの受け取りを辞退させてもらった。

 やがて時刻は七時半をまわり、式場内は再び閑散とした空気に包まれる。
 遺影写真で微笑む母と見つめあっていた私の背中に、音喜多さんの声がかかる。

「――恐れ入ります、高槻様。弔問のお客様も新たにはお見えにならないようですので、私はただいまの時間をもちまして一足先に失礼させて頂きます」

「あ……すみません。お式の時間はとっくに終わっていたのに、私ったら気付かなくて、つい……この会館も、もう閉められるんですか?」

「いえ、閉館時刻は八時半となりますので、それまでは私の代わりに、係の者をひとり残しておきます。三階の事務所に待機させておりますので、何かございましたら、その者になんなりとお申し付けください」
「そうですか……すみません。こんな――」

 ――私なんかの、ために……。

「――小さなお式に、いろいろと……ありがとうございました」

「まだ明日のこともございます。閉館後は式場と控室以外は消灯させて頂きますので、高槻様も明日に備えて、どうかご無理をなさらないようお早めにお休みになられてくださいね」

 彼女はそれだけ言うと母に線香を手向け、一礼をしたのち式場をあとにした。
 私は申し訳なさに暗く目を伏せ、去っていく彼女の背中に別れを告げる。


 ※


 八時を過ぎ、閉館の時刻まで、もうまもなくといったころ――

 エレベーターで三階へ上がった私は、フロアのやや奥まったところに位置する事務所の前へと足を運び、そのドアを、こんこんと軽くノックした。
「は、はい! 少々、お待ちを――」と男性の慌ただしい声がして、それから少しの間があき、すりガラスの向こうに人影が現れる。

 がちゃり、と静かに開いたドアの隙間から、なにやら不安げな面持ちの男性社員が顔を覗かせる。見知った顔だ。打合せのときに、私にお茶を淹れてくれた彼だった。

「いきなりで、すみません……ちょっと、ご相談したいことがあって……」
「――え? なんで……いえ、どういったご用件でしょうか?」

 最初に会ったときの印象通り、いかにも新人って感じの辿々たどたどしさだ。葬儀のスタッフとしては、音喜多さんに比べると随分と頼りなく見える。
 でも、そのほうが却って私には都合が良い。彼には可哀そうだが、ここは私の計画のために、ひとつ役立てさせてもらおう。
 彼は、私の神妙な面持ちから何かを察したらしく、後ろ手にドアを閉めると、おずおずと私の顔色を窺っていた。

「突然すみません。お帰りになられる前に、ドライアイスのことで、ちょっとお伺いしたいんです。――ええ、そうです。母の遺体に処置されているアレです。
 それが……さきほど棺の蓋をあけたときに、ちょっと触ってみたんですけど、もうだいぶ嵩が減ってきているみたいで……ほとんど溶けてしまっているようなんです。あのドライアイスは、いつごろ処置されたものなんでしょうか?」

 言うと、彼がやや上擦った声で答える。

「え! あ、えーっと……そうですね。あれは今日の午前中に処置されたもののはず、ですけど……」
「そうなんですか? でも、そのわりにはなんだか減りが早いような気がして……あの様子だと、明日まで一晩、もたないんじゃないでしょうか?」

 クレームを付けにきたと思われているのか、一瞬にして彼の緊張感が手に取るように伝わってきた。こちらが申し訳ない気持ちになるほど、まるで怯えた子犬のように同情を誘う目をしている。

「す、すみません……。あ、でもドライアイスというのは基本的に一日一回の交換で充分にもちますから。ご心配なさらなくて大丈夫、だと思いますよ」

 思いますよ、じゃ困るのよ。
 私は下手にでながらも、言外に不満を滲ませつつ

「そうですか……でも……お忙しいところ恐縮ですが、いまから新品のドライアイスを処置していただくことって、お願いできませんか?」と、彼を見つめる。

 いまからですか!?――とは、さすがに言葉に出さないまでも、彼のぽっかり開いた口からはその本心が駄々洩れになっていた。

「だめ、でしょうか? ……追加のドライアイス代、おいくらでしたっけ?」
「えっと……。一回あたり、八千円ですけど……」
「では、それもこの場でお支払いいたします。領収書を切るのも後日で構いませんので」

 彼は口元に拳を押し当て俯きがちになり、しばしのあいだ逡巡していた。怪しまれているのだろうか。私は固唾を呑んでそれを見守る。
 しかし、やがてその顔をあげると、仕方なしといった様子で表情を緩め、
「そうですか……わかりました――」やれやれと息をついた。

 よしよし。いい子ね。

 ――などと、気の緩んだのも束の間。
 彼は「そういうことなら」と、おもむろにスマホを取り出すや

「――担当の音喜多に確認を取らせて頂いてから、ということでよろしいですね?」と屈託のない笑みを浮かべた。

 だめ! 良いわけないでしょ!
 何のために貴方にわざわざ頼んだと思ってるの!

 瞬時に肌が粟立った。まずい。勘の良い彼女の耳にだけは入れさせたくない――しかし彼は私の返事を待つことなく、スマホの画面を小気味よくタップしていく。
 最後の一押しが触れる寸前、とうとう私は我慢できなくなり――

「――待って!」

 つい声を荒げてしまった。驚いた。自分がこんな大声を出せるなんて今まで思いもしなかった。
 残響が二人の時を止める。見つめあったまま虚を突かれたように固まってしまった。私の両手は意図せずして、スマホを持つ彼の左手を包み込むようにして握られていた。

「――ご、ごめんなさい。大声を出したりして……でも、お願い。……音喜多さんにはまだ、このことは言わないでほしいの」
「えぇ!? 内緒にしてろって言うんですか!?」

 のけ反る彼を逃がすまいと自然と手に力が入る。
 まるで玩具を取り合う兄妹喧嘩だ。
 でも、ごめんなさい。私だって、ここで退くわけにはいかないのよ。

「隠し事とか、そういうことじゃないの。――今はまだ、彼女に言わないでほしいってだけ。なにも不祥事を揉み消せと頼んでいるわけじゃないんです」

「いや、でも……だからって、ぼくの勝手な判断じゃ出来ませんよ!」

「そこをなんとか……ドライアイスをちょっと足してくれるだけでいいんですから」
「それを言うなら、ぼくだって電話一本かけさせてくれるだけで済む話じゃないですか!」
「けして悪いようにはしませんから!」
「それ、悪役の常套句でしょう!」

 なんだか腹立たしくなってきた。
 むっくりと起き上がった私の闘争心が、胸の内で眠そうに目を擦り上げている。
 どうしたものか。この子、気弱そうな見かけによらず、なかなか折れてくれそうにない。従順そうに見えた子犬が、思わぬ障壁として目の前に立ちはだかる。
 こんなところで躓く羽目になるとは正直、考えもしなかった。
 旅人の外套コートを脱がせるにはどうすれば――というやつか。少しアプローチの方法を変えてみることにしよう。
 私は乱れた呼吸を整えると、一転して声の調子を落とし、握った両手もそのままに上目づかいで彼に語りかけた。こうなったら出たとこ勝負。なにがなんでも、この子を落としてやる。

「あの……違うんです。なにも疚しいことがあるわけじゃないんですけど……音喜多さんって、ほら、ちょっと合理主義なところがあるでしょう? 無駄を嫌うというか、意味のないことに、いちいち取り合わないというか……」

 急にしおらしくなった私の変化に、彼の眼はおおいに狼狽えていた。しかし、音喜多さんに関する私の見解において、反論の意思はないように見えた。
 うまくふところに入れたようだ。もう迷うことはない。あとはこのまま、押し切ってやる。

「私もね……自分でもわかってるんです。たかがドライアイスひとつ、余分に足したところで何が変わるわけでもないってこと。でも……でもね。それをすることで母の亡骸が、明日の火葬まで今と変わりない姿で居てくれるんじゃないかと思うと、それだけで私の心配事はひとつ減るんです。安心して、今夜の眠りにつくことができるんです。
 ばかみたい、って思うでしょう? 音喜多さんだって、きっとそう言うんでしょうね。
 でも――だからこそ、あなたにしか頼めないの。私の気持ちを汲んでくれるのは、もう、あなたしかいないの。お願いします。母のために……私自身のためにも、どうかあなたの裁量で、いまからでもドライアイスを処置していただけませんか?」

 焦点の定まらない彼の瞳に照準を合わせた私は、そこから先、一瞬たりとも視線を外すことはなかった。握った両手にありったけの熱を込めて、一語ずつゆっくりと、彼の琴線を探り当てながら言葉を紡ぐ。
 私にとっては、これでも一世一代の大芝居だ。慣れない調子と抑揚の付け方に声が震える。耳障りの良い言葉が上滑りして聞こえているのではないかと、内心ひやひやものだった。

 しかし、その辿々しい言葉遣いが思いのほか功を奏したようだ。
 最初はと目が泳ぐばかりで腰の引けた様子だった彼も、私の言葉に耳を傾ける内に、何を想像してかは知らないが、いつしかその瞳は自然と潤んだものに変わっていた。

「――お母さん想い、なんですね」

 言って、目をしばたかせながら、ずびーっと鼻をすする。
 ぎょっとして咄嗟に手を離すと、彼は人差し指の背で、しきりに両目を拭いはじめた。
 よくわからないが、なんとなくほだされてくれたらしい。

「わかりました。お母さまの御体を想うあなたのお気持ち、痛いほど胸に響きました……。お望み通り、ここはワタクシが責任を持って、お母さまにドライアイスのご処置をさせて頂きたいと思います」

 言って、彼は自分の胸に手を当てると、それはそれは澄んだ瞳でにっこりと微笑んだ。
 勝った――人知れず胸をそっと撫でおろす。

「勿論、音喜多さんには内緒にしておきますから、どうぞご安心下さい。ついでにドライアイスもサービスさせて頂きますので、お代も結構ですからね」

 いや、なにもそこまでしてくれとは言っていないのだけれど……。
 でもまぁ、なにはともあれ、これですべての準備は整ったのだから良しとしよう。
 あとは処置を終えた彼が会館ここを去ったのちに、ゆっくりと実行に移らせてもらうだけだ――


(つづく)

 
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