【第2部】メラヴェル女男爵の事件簿〜死のお茶会〜【エドワード朝英国ミステリー×ヒストリカルロマンス】

早瀬晶

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外伝

ウィリアムが付き合っているのは

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ウェクスフォード侯爵家の第二フットマンとして、主にアルバート卿を担当しているウィリアムの話。
「ミス・アンソンの冒険」にて、ミス・アンソンと"付き合っている"と言われて不服そうだった彼(「はあ?俺が付き合ってるのは――」)の恋人はこんな人だと考えていました。

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 1907年、16歳のウィリアム・タレットは岐路に立っていた。
 
 ウィリアムは、イングランド南部サセックスのある農家の五男だった。
 彼が小学校を卒業するまでに、上の兄が二人亡くなったので、ウィリアムは実質的に三男だったが、農家の担い手は両親と上の兄二人、結婚して同居している姉夫妻だけで事足りていた。
 有り体に言えば、ウィリアムとその下の子供たちはタレット家の働き手としては不要だった。
 ウィリアム自身、それをよくわかっていたので、小学校の卒業が近づくと、近隣での働き口を探した。
 できれば、実家を出て働ける方が都合が良かった。
 タレット家は、狭い家にウィリアムの両親と兄弟姉妹、姉の夫、姉の子供たちの計十五人で暮らしているので、彼は家を出ることが自分のためであり、家族のためでもあると思っていた。
 すると、折よく、二番目の兄が村の地主ミスター・ドーニングの屋敷で住み込みのホールボーイ――下働きの少年――を募集していることをどこからか聞きつけてきて教えてくれたので、試しに応募してみるとあっさりと採用された。
 それ以来、ウィリアムはドーニング家の屋敷<ブルーベル・ホロウ>のホールボーイとなった。
 
 <ブルーベル・ホロウ>は小規模ながら美しい屋敷だった――もっとも、ウィリアムがその屋敷が"小規模"だと知ったのはずっと後のことだ。
 同僚の使用人たちは、下っ端のウィリアムをこき使いはするものの、最低限の親切心は持っていた。
 中でも、執事のミスター・ウェナムと料理人のミセス・ぺリングは、ウィリアムに良くしてくれた。
 
 ミスター・ウェナムは時々ウィリアムにフットマンの仕事を教えてくれた。
 それがウィリアムの将来を思ってのことなのか、人手不足を補うためなのかは、微妙なところだったが、結果的に彼のお蔭で最低限の振る舞いが身についた。
 
 そして、ミセス・ぺリングは、一番年少のウィリアムを非常に可愛がり、時々ご家族のディナーの余りの最上の部分を取っておいてくれた。
 ウィリアムの方でも彼女には特に感謝していて、文字の読めない彼女によく新聞を読んでやっていた。
 
 そして、<ブルーベル・ホロウ>のホールボーイとしての勤続三年目の終わり、16歳になったばかりのウィリアムはいつも通り空き時間にミセス・ぺリングのために新聞を朗読していた。
 すると、ウィリアムの目にある求人広告が飛び込んできた。
 近隣のウェクスフォード侯爵家がペイジ――年少の男性使用人――を募集しているというのだ。
 しかも、後で手紙の配達に来た事情通の郵便局員を捕まえて尋ねたところ、侯爵家ではペイジとして何年か務めた者はフットマンに昇格するのが通例だとわかった。
 ドーニング家にこのまま勤め続ける場合、ウィリアムはゆくゆくはフットマンになれるかもしれない――ちなみにドーニング家はペイジを置く規模の家ではない。
 しかし、この家のフットマンのポストは二つしかなく、現在フットマンを務めているジャックとピーターは当分辞めそうにない。
 ホールボーイの雑用ばかりの仕事も三年目になるとさすがに身に堪える。
 しかも、ホールボーイにはきちんとしたベッドすら割り当てられない。
 
 ――この生活を続けるよりは、ペイジとしてフットマン見習いの仕事を始めた方がいいんじゃないか?

 そう考えたウィリアムは、すぐに上級使用人である執事のミスター・ウェナムと家政婦のミセス・ヘイターに相談した。
 侯爵家のペイジの職に応募するためには、最低二人から紹介状を書いてもらわねばならないが、ウィリアムが頼める範囲で紹介状を書くのに足る立場にある人は、この執事と家政婦の二人しかいなかった。
 幸い二人は快く紹介状を書いてくれた。
 おそらく、彼らは、もう16歳だというのにあと数年はホールボーイの職に甘んじなければならないウィリアムをかわいそうに思ったのだろう。
 侯爵家の執事からは、すぐに面接の案内が届いた。
 約束の日に休暇をとって指定された町の職業紹介所まで面接に出かけてみると、簡単な質問に答えただけでその場で採用が決まってしまった。
 早速来月から来るようにということだった。

 あまりの急展開にウィリアムは眩暈を感じた。
 そして、不安に襲われた。
 
 まず、実家との距離の問題がある。
 現在務めている<ブルーベル・ホロウ>はウィリアムの実家がある村のお屋敷だ。
 ウィリアムは普段は<ブルーベル・ホロウ>に住み込みで働いているが、休暇の折に村内にある実家に帰ることは容易だ。
 しかし、侯爵家の領地は実家からかなり離れており、しかも、ペイジになれば侯爵家のご家族が社交シーズンでロンドンに行く折には基本的に同行するらしい。
 実家から労働力としては求められてはいないものの、両親や兄弟姉妹、義兄、それに甥っ子と姪っ子たちはウィリアムの大事な家族だ。
 彼らと遠く離れるのは正直心もとない。
 
 次に、勤め先の家格の違いの問題がある。
 <ブルーベル・ホロウ>のドーニング家は尊敬すべき地元の名士で立派な地主の家であることは間違いない。
 しかし、上司や同僚の話によるとウェクスフォード侯爵家は貴族の中でも大貴族――使用人として高い水準を求められることになるだろう。
 そんな立派すぎる家で自分が本当に上手くやれるものなのかウィリアムには自信がなかった。

 <ブルーベル・ホロウ>に残れば、慣れた環境で仕事を続けることができる。
 ホールボーイの給金は少ないし、仕事は雑用ばかりだが、上司や同僚にそこまで嫌な人間もいないし、主人一家の前に出ることもないのでプレッシャーも少ない。
 ウィリアムは果たして自分が本当に新たな苦労を背負ってまで、侯爵家のペイジになりたいのかよくわからなくなっていた。

 それに、あと一つ、どうしても気になることが――。

 ***
 
 いよいよ侯爵家でのお屋敷勤めの開始を来週に控え、ドーニング家のホールボーイとしての最後の休暇の日、ウィリアムは近隣の町の日用品店<ホリス商店>に出かけた。
 そして、習慣に従ってトマト缶を二つ購入した。
 カウンターで会計をするのは、商店主の娘エセルだ。
 エセルはいつも通り黒髪を小ぎれいにまとめていて、魅力的なダークブラウンの瞳を輝かせていた。
 
「どうしたの、ウィリアム。今日はなんだか暗いね」

 ウィリアムとエセルは、ただの客と店員の関係に過ぎない。
 しかし、ちょっとした出来事をきっかけに、彼女とは雑談する仲になっていた。

「エセル、この後少し話せる?実は来週村を離れることになったんだ」

 ウィリアムは断られる覚悟でそう言ってみたが、返って来たのは意外な反応だった。

「ええ?本当に?あと少しで兄さんと代わるから、店の裏で待っててくれない?」

 ウィリアムは思わず微笑みそうになったが、次の言葉で冷静になった。

「場合によっては、トマト缶の仕入れを調整しないと……」
 
 しかし、それでも、ウィリアムは少し肩を竦めただけで、大人しく店の裏に向かった。

 ***

 ウィリアムがエセルと出会ったのは、<ブルーベル・ホロウ>に勤めに出て数か月後のある日のことだった。
 
 その日、休暇だったウィリアムは、実家への仕送りを差し引いて僅かに残った給金を握りしめて街に出た。
 そこで、たまたま入った<ホリス商店>のカウンターで、忙しなく働く少女の姿が目に入った。
 店員にしては不愛想な少女だったが、その迷いのないダークブラウンの瞳が印象的だった。
 気が付くとウィリアムは、好きでもないキャンディを買っていた。
 所持金の範囲内で買えて、嵩張らないものがそれくらいしかなかった。
 お釣りを渡されたときに、少女が微かに笑った顔がいつまでも彼の脳裏に焼き付いていた。
 
 それから、ウィリアムは休暇の度に<ホリス商店>に通って、同じキャンディを買うようになった。
 その内に、店員の少女と常連客のやりとりから、彼女がエセルという名の店主の娘で、ウィリアムより一つ年下だということまでわかったが、肝心のエセル自身とは挨拶以外の言葉を交わす機会はなかった。
 
 しかし、通い始めて一年ほど経ったころ――。

「ねえ、お客さん」

 それは夏の終わりだった。
 いつも通り休暇の折に<ホリス商店>に来たウィリアムが、いつも通りキャンディの会計をしようとしたときのことだった。

「そのキャンディ好きなの?」

 エセルはそう尋ねた。
 彼女のダークブラウンの瞳がウィリアムを見つめていた。

「まあ……」

 面食らったウィリアムは心にもないことを答えた。
 相変わらずそのキャンディの味は好きになれなかったが、実家の弟や妹に分けてやると喜ばれた。

「そうなんだ。じゃあ、仕入れを増やそうかな?」

 エセルは真剣な顔でそう言った。
 
 ――それは困る。

 ウィリアムは反射的にそう思った。
 エセルに会う口実のために買っているに過ぎないキャンディだ。
 仕入れを増やしてもらっても、購入数を増やせるわけではない。

「いや、ごめん。やっぱり全然好きじゃないんだ、このキャンディ」

 ウィリアムは白状した。

「はあ?じゃあ、なんでいつもそればっかり買うの?」
「所持金で買えて、簡単に持ち帰れるのがこれしかないんだ」
「だからって、全然好きじゃないものを買う必要ある?」

 エセルは怪訝そうに眉を寄せている。
 ウィリアムは逡巡した。
 正直に答えるべきか、適当に濁すべきか。
 いや、もしかすると、これは良い機会なのかもしれない。
 これをきっかけに友達くらいにはなれたりしないだろうか。
 執事のミスター・ウェナムだってよく言っている――「日が照っているうちに草を干せ」。

「君に……会いたいから……」

 ウィリアムは自分の顔が赤くなるのを感じ、俯いた。
 でも、もしかすると、好意を伝えられた側のエセルも同じなのではないか。
 そう思ったウィリアムは恐る恐る顔を上げた。
 しかし、エセルは少しも顔を赤らめたりはしていなかった。
 ただ、眉を寄せて真剣に何か思案していた。
 そして、彼女は思案の末――。

「じゃあ、次から同じ値段のトマト缶にしてもらえない?嵩張るけど、利益率がいいの」

 ウィリアムは泣きたくなった――いや、正直言って少し泣いた。
 彼は袖でさり気なく涙を拭った後、キャンディを握りしめて退店した。
 
 お釣りを受け取るのを忘れたのに気づいたのは屋敷に戻ってからだった。

 ***

 数週間後の次の休暇、ウィリアムは迷った末、結局<ホリス商店>に出かけた。
 忘れたお釣りを返してもらえる気はしなかったが、ホールボーイの給金の少なさを思えば馬鹿にできない額だったので、諦めきれなかったのだ。
 それに、お釣りの件を確かめた後はもう<ホリス商店>には行かないつもりだったので、最後にエセルともう一度だけ話したかった。

 しかし、意外なことに、彼が店に入るなりカウンターにいたエセルが手招きした。

「ああ、お客さん、また来てくれて良かったわ。この前はなんで急に出て行っちゃったの?お釣りとっておいたよ」

 そう言いながら、エセルはカウンターに置いていた小銭を差し出した。
 ウィリアムはお礼を言おうとしたが、声にならなかった。
 代わりに笑い声が漏れた。
 あまりの脈のなさに呆れて笑ったのか、彼女により一層惹かれてしまった自分を自分で嘲笑ったのか、よくわからなかった。
 いずれにしても、そのウィリアムの笑いに、エセルも釣られて笑ったことは事実だった。
 
 それからも、ウィリアムは休暇の度、店を訪れた。
 購入するのはエセルの要望に応じてトマト缶に変更し、少し無理して二缶買うことにした――実家に届けてやると母に喜ばれた。
 あれ以来、二人は店が忙しくないときには、自然と雑談をする間柄になっていた。
 お互いの家族のこと、仕事のこと――特にエセルは、ウィリアムの職場のことを聞きたがった。
 <ブルーベル・ホロウ>の主人夫妻が好むワインや紅茶の種類、屋敷内の調度品などのことだ。
 ウィリアムはなぜ彼女が屋敷の生活に興味を持つのかわからなかったが、正直、彼女と話せれば何でも良かった。

 ***

 そして、現在――。

「じゃあ、今度から侯爵様のお屋敷で働くの?大出世じゃない」

 店の裏にやって来たエセルにウィリアムが事の次第を話すと、彼女は目を丸くした。 

「まあ、そうなんだけど……」
「うちの売上のことなら気にしないで。トマト缶数個じゃあ誤差の範囲よ」

 エセルは何でもないことのように言って、エプロンの下で指を折っていた。
 本当に影響がないか計算しているらしい。
 
「前も言ったけど、俺は君に会いにこの店に通ってたんだよ」

 とウィリアムは一応言ってみた。
 
「ええと……だから?」

 エセルはただ首を傾げた。
 さすがにウィリアムは落胆した。
 彼女が自分に興味がないのはわかるが、常連客がいなくなるさみしさくらい感じてくれてもいいのに。

 ウィリアムは長いため息を吐いた。

「だからさ……貴族の家に仕えて金を貯めるから、ゆくゆく一緒になろうとか……そういう約束……」

 ウィリアムはほとんど投げやりに言ってエセルから視線を逸らした。
 
「……まあ、難しいわね」
「そんなに俺に興味ない?」

 予想通りではあるが、素っ気ない反応にウィリアムはただ俯いた。
 しかし――。

「そんなことないわよ。興味はあるわ。あんたの顔は割と好きだし」

 意外な言葉にウィリアムは自分の耳を疑った。
 思わず、顔を上げてみると、エセルの表情にこそ変化は見られないが、彼女の耳は少し赤くなっているように見えた――まあ、気のせいかもしれないが。
 
「でも、私にはそれ以上の夢があるってこと」

 エセルはそう言って彼に背を向けて歩き始めた。

「待って」

 ウィリアムは反射的に彼女を呼び止めていた。
 なんとなくこれで終われないような気がしていた。
 
「夢って何?そういえば、君、お屋敷の生活に興味があるようだったけど、まさか金持ちの男に世話されて良い暮らしがしたいとか?」

 ウィリアムは自分が無礼なことを言っているのは承知していたが、悪意があってのことではなかった。
 そもそも、彼自身にはこれといって夢がないので、想像力に限界があるのだ。

 エセルは彼に背を向けたまま大きなため息をつき、ゆっくりとウィリアムを振り返った。
 彼女のダークブラウンの瞳は彼を鋭く睨んでいた。

「あんた、意外と頭悪いわね?私みたいな商店の娘が万一金持ちの男の目に留まったとしたって、愛人にもなれないわよ?数回遊ばれるだけ。悪くすると"厄介ごと"を背負い込んで終わりよ」

 エセルの歯に衣着せぬ物言いに、ウィリアムは思わず辺りを見回したが、もちろん、彼らがいるのは店の裏なので周囲には誰もいなかった。
 一方のエセルは「あんたが始めた話でしょう」とでも言いたげな視線を彼に向けた。

「そういう変な誤解をされたままだと嫌だから言うけど、私は宿屋をやりたいの」
「宿屋?」
「そう。しかも、"品の良い"宿屋ね。ならず者のたまり場なんかになったら危険すぎるし、儲からないわ。数年後に絶対実現させるわよ。そのために、この父の店を手伝って"経営"ってものを学んだり、実践したりしているんだから」

 エセルの答えにウィリアムは二、三度瞬きをした。
 全く想像だにしなかった夢だった。

「できっこないって顔してるね」
「そんなことは……」

 ウィリアムは咄嗟に否定したものの、正直「できっこない」と思っていた。
 以前、ウィリアムにキャンディよりトマト缶を買って欲しいと頼んだことからわかる通り、エセルが商人として必要な感覚を持ち合わせていることはわかる。
 でも、田舎の小さな商店の娘が"品の良い"宿屋の女主人になるなんて、やはり「できっこない」のではないだろうか。

「ちゃんと、計画はあるの。アランデルに小規模な宿屋を開くわ。あそこはロンドンから列車ですぐ来られるから、数十年経っても公爵様のお城を見にお客が来ると思うの」

 確かにアランデルにはある公爵家のお城があって度々一般公開されるので、それなりに観光客が来る。
 とはいえ、サセックスには他にもっと賑わっている観光地や保養地があるが――。

「ブライトンの方が良くないか?」
「ブライトンはもう宿屋でいっぱいよ。資金のない私じゃあ太刀打ちできないわよ。それに私、お金持ちはそろそろ自動車で旅行するようになると思うの。アランデルならブライトンよりずっと自動車で来やすいでしょう?だから、絶対車庫付きの宿屋にするわ」

 エセルは自分の計画を話すことが楽しくなってきたようで更に続けた。

「私にはロンドンのお金持ちの家で料理人をしている姉がいるの。姉もこの話には乗ってくれていて、二人で資金を貯めているわ。姉がロンドンで習得したおいしい食事を出して、清潔で品の良い部屋を用意できれば、絶対に流行るわ。だから、いつもあんたからお金持ちのお屋敷の様子を教えてもらってたの」

 そこまで一気に話したエセルの頬は紅潮していた。
 ウィリアムの顔を褒めたときですら、頬を染めたりはしなかったのに。
 しかし、ウィリアムは不思議とそれに苛立ちや悔しさは感じなかった。
 ただ、エセルの夢に圧倒された。
 そして、驚くべきことにウィリアム自身、その夢に関してあることを閃いてしまった。
 
「なるほど。でも、君の計画は少し足りないな」
「はあ?あんたに関係ないのに文句つけないでよ」

 エセルはあからさまに顔を顰めた。
 対して、ウィリアムは彼女に意味ありげな視線を向けた。

「それだよ、エセル。"品の良い"宿屋をやりたいんだろう?そこの女主人が、"はあ?"とか"あんた"とかって言ってたら台無しじゃないか」
「悪かったわね。品がなくて……」

 エセルは俯いておくれ毛を耳に掛けた。
 ウィリアムはその様子にうっかり見惚れそうになったが、すぐに我に返った。
 
「君を非難しているわけじゃない。"品の良い"宿屋には"品の良い"従業員が必要ってだけだよ」
「まあ、言ってることはわかるけど」

 エセルは「でも、生まれと育ちはどうにもできないから」と言って、少し肩を落とした。
 ウィリアムはこれから自分が言おうとしていることを思うと鼓動が速くなった。
 しかし、それに気づかないふりをして、できるだけ軽い口調で言った。

「俺を使ったらどうかな?」 
「どういう意味?」
「俺の次の職場を知ってるだろう?」

 困惑するエセルに対して、ウィリアムはにやりと笑った。

「ああ、侯爵様の屋敷で働くとなれば一流のマナーを仕込まれるだろうなぁ……。君の宿屋に貴族様のお屋敷で礼儀作法を仕込まれた男がいたら心強いんじゃないか?」
「ウィリアム……あんたって意外と頭が良いじゃない」

 エセルはそう言って、彼女にしては珍しくにっこりと微笑んだ。

 ***

 数日後、ウィリアムは新たな職場に向かうため、列車に乗っていた。
 混みあった三等車の中で、彼はこの上なく上機嫌だった。
 つい先日まで抱えていた不安が嘘のようだった。

 ――数年以内にフットマンに昇格して、上流の客にも通用する作法を身につけるんだ。
 ――宿屋の客に上流階級は、まあ、いないだろうが、中産階級の客は上流の作法でもてなされるときっと喜ぶはずだ。
 ――給金はできるだけ貯金に回して、それから……。

 そうこうしているうちに、彼を乗せた列車はウェクスフォード侯爵家の屋敷の最寄り駅に到着した。
 列車を降りてしばらく歩くと、道のずっと向こうに豪奢な屋敷が見えてきた。
 
 彼は思わず立ち止まってその建物を見つめ、右手で上着の胸元に触れた。
 内ポケットに入れた封筒の中には、今の彼の一番の宝物が入っている。
 リボンで束ねられたエセルの髪だ。
 あの日、エセルがウィリアムのために切って渡してくれた。
 それは彼女が彼を"恋人"と認めた印なのか、もしくは、"ビジネスパートナー"としてキープしようとしているのか――正直、わからない。
 しかし、いずれにしても今、ウィリアムには夢があった。
 そして、それは確かにエセルと同じ夢だ。

 そう考えながら、ウィリアムは遠くに見えるその豪奢な屋敷に向けてまた一歩を踏み出した。
 そして、数十分後、ウィリアムはその"豪奢な屋敷"のように見えた建物が、実はただの門番小屋に過ぎないことに気づくのだが、それはまた別の話。
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