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2.【出題編】死のお茶会②
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全ては前年に起きた事件に遡る――。
1909年8月の初め、社交シーズンがほとんど終わったある日、その年の夏はたまたまロンドンを離れるのを遅らせていたヘンリー・モントローズ=ハーコートは、ショーファーが運転する自動車でベルグレービアのとある貴族の邸宅に向かっていた。
セント・ジェームズの彼の父の屋敷を滑るように出発した自動車の後部座席で、ヘンリー卿は明るい色の夏用のラウンジスーツの内ポケットから一通の手紙を取り出して読み返した。
詩作仲間のデヴァルー子爵夫人から数日前に受け取った手紙だった。
冒頭には「親愛なるヘンリー卿」と書かれている。
彼は自身で爵位を保有していないが、通常そのように洗礼名に"卿"を冠して呼ばれる身分にあった。
それは彼が侯爵の次男だからだった。
しかも、彼の家は侯爵家の中でも随一の名門ウェクスフォード侯爵家なので、彼は次男にもかかわらず、成人した際にその豊かな財産の中から限嗣相続の対象ではない屋敷と相当額の信託財産を分与されていた。
そのため、彼は何か決まった職を持つ必要に迫られることもなく、日々芸術関係のパトロン業や自らの芸術活動に勤しむことができていた。
しかし、それらを差し置いて彼が一番熱心なのは恋愛だった。
特に夫がいる、もしくは、夫に先立たれたレディに惹かれてしまう質だった。
まだ恋に恋するような未婚のレディよりも、自分が欲しいものをきちんとわかっている女性が彼の好みだった。
そして、幸か不幸か彼もまた既婚の夫人や未亡人にたいそう好かれた。
一つは、間違いなく彼の美しい外見のためだった。
彼の豪華なアッシュブロンドの巻き毛はギリシアの彫像のようだと言われたし、ときに物憂げに見える青みがかった灰色の瞳も経験のあるレディの保護欲を刺激した。
もう一つは、彼の芸術の才能と素養のためだった。
彼が描く風景画も評判が良かったが、特に詩については彼のロマンチックで象徴的な作風と有名どころの詩についての豊富な知識と情熱的な語り口がレディたちには魅力的に映った。
そして、その日彼がベルグレービアに向かった理由も、詩に関係していた。
ヘンリー卿は改めて手に持っていた子爵夫人からの手紙――ちなみにこの子爵夫人は彼の恋愛対象外だった。なぜなら彼女は明らかに夫に満足している――を読み返した。
"妹の夫のシルヴァリー卿は、詩を愛好しておりまして、特にテニスンを好むのですが――"
その手紙は子爵夫人の妹夫妻――シルヴァリー伯爵夫妻――主催のお茶会に是非来て欲しいという内容だった。
子爵夫人によると彼女の義弟のシルヴァリー伯爵は30代半ばの詩を愛する男性だが、持病の悪化で余命数ヶ月と宣告されているらしい。
そのため、シルヴァリー伯爵家は今年は領地に戻るのを諦めてロンドンで冬を越すことにしているが、既知の友人たちはもうほとんどロンドンを去ってしまったので、家族以外で話ができる人を求めているということだった。
そこで、今日のお茶会に出席して彼と詩の話をしてやってほしいというのが、偶然にも今年はまだロンドンに残っていたヘンリー卿に対する子爵夫人の要望だ。
ヘンリー卿は手紙を受け取ってすぐに喜んで応じる旨の返事を出していた。
もちろん病気のシルヴァリー伯爵をテニスン談義で楽しませてやろうという親切心もあったが、それ以上に謎めいた美貌で名高いシルヴァリー伯爵夫人と会えることを楽しみにしていた。
彼女のことは大規模な社交イベントで遠目に見かけたことがあったが、美しい既婚女性に目がないヘンリー卿にしては珍しく、そのときはまだ直接言葉を交わしたことがなかったのだ。
***
「いや、今日は本当に暑いですね」
ベルグレービアのシルヴァリー伯爵邸の応接間で一通り客人たちの紹介が終わると、病身の伯爵はかすれた声でそう言った。
彼は持病のせいで喉が渇きやすいらしく、彼専用に用意されていた水差しから絶え間なくグラスに水を注いで飲んでいた。
顔色はそこまで悪くないものの、かなり痩せていて、掛けている眼鏡がこけた頬に対してやけに大きく見えた。
まだ30代半ばなのに髪には相当白いものが混じっている。
そして、どうやら脚が弱っているようで、歩くときには介助を必要としていた。
しかし、そのときヘンリー卿は、率直に言えば、伯爵の病状よりも彼の傍らで儀礼的で隙のない微笑みを浮かべているシルヴァリー伯爵夫人が気になっていた。
伯爵夫人は、噂以上に美しい女性だった。
姉であるデヴァルー子爵夫人と同じ艶のあるやや明るいブラウンの髪は頭の低い位置で自然にまとめられていて、纏っているシルクのライトブルーのティーガウンは窓から差し込む夏の光を受けて品よく照っていた。
とはいえ、事前に子爵夫人から聞いていた通り、その当時伯爵夫人は臨月で、ゆったりしたティーガウンでも大きく膨らんだお腹は隠しきれていなかった。
しかし、それでも、彼女の謎めいた青い瞳はヘンリー卿の心を捕らえて離さなかった。
「シルヴァリー卿はヘンリー卿とテニスンの話ができるとを楽しみにしていたんですのよ。どうぞお座りになって」
伯爵夫人に勧められるがままヘンリー卿は伯爵と隣同士の席に座った。
同じテーブルのヘンリー卿の向かいには伯爵の弟ミスター・レジナルド・シルヴァリーが座り、ミスター・レジナルドの隣――つまり、伯爵の向かい――には伯爵夫人が座った。
すぐ隣の別のテーブルには残りの客人であるデヴァルー子爵夫人と彼女の名付け子で柔らかそうな黒髪が印象的な年若いグレイストーン男爵家の長男ミスター・セオドア・"テディ"・グレイストーンが座っていた。
全員が席に着くのとほぼ同時に伯爵家の執事がティーポットを運んできたので、伯爵夫人と子爵夫人の姉妹がそれぞれのテーブルの家族や客人に最初の一杯の紅茶を注いでくれた。
しかし、伯爵夫人自身は紅茶に一口だけ口をつけたきりで、フットマンが彼女のためだけに運んできたレモネードを飲んでいた。
ヘンリー卿は妊娠中のご婦人によくある気分の優れなさのためだろうと思った。
「大丈夫かい?オーガスタス?」
伯爵がしきりに水を飲む様子を見かねて彼の弟ミスター・レジナルドが声をかけた。オーガスタスというのが伯爵の洗礼名だった。
ミスター・レジナルドは兄とは打って変わって健康で活動的なたくましい男性だった。
何かスポーツをやっているのかもしれないとヘンリー卿は思った。
特に、かつて伯爵もそうだったのだろう豊かなくすんだブロンドの髪が印象的だった。
「ああ、大丈夫だ。君は私の分まで気にせず食べてくれ。ヘンリー卿もぜひ」
病気のせいで食を控えている伯爵は、ミスター・レジナルドとヘンリー卿にスコーンを勧めた。
それを受けてヘンリー卿は遠慮なくスコーンをいただいた。
クロテッドクリームをたっぷりつけるのが彼の好みだったが、そのとき食べたシルヴァリー伯爵家のクリームは正直言ってあまり好きになれなかったのを覚えている。
「それより、レジナルド、君はテニスンの詩で一番は何だと思う?」
「そりゃあ、"シャロット姫"だろう。ヘンリー卿はどう思います?」
ミスター・レジナルドに問われたヘンリー卿は改めてテニスンの主だった詩を心の中で思い返した。
ヘンリー卿は、オックスフォードの学生だったときに、テニスンの詩はどれも詩集に穴が開くほど読み、手が痛くなるまで書き写すほどのファンだったが、一番気に入っているのは"ユリシーズ"だった。
「私は“ユリシーズ”の力強さが好きですね。しかし、それでいて精神性を感じる」
ヘンリー卿が言うと、伯爵は深く頷いた。
「私もね。こんな病身ではありますが、勇敢さは忘れたくないと思っていますよ。ただね、やはり妻子のことが心配で――」
そのとき、伯爵はそう言って伯爵夫人を優しい目で見つめていた。
そして、彼女の青い瞳も思いやり深く揺れていた――とヘンリー卿は記憶している。
「なので、私はどうしても”イノック・アーデン”に惹かれるというわけです。まあ、幸い私は漁師ではないので生死を取り違えての悲劇というのはあり得ないでしょうが」
「そうでしょうね。あくまで妻子と離れる部分に共感なさっているということですね」
ヘンリー卿は穏やかに相槌を打った。
そのタイミングで隣のテーブルの子爵夫人と彼女の名づけ子のミスター・グレイストーンは席を立って、ヘンリー卿が座っているテーブルの側にあった窓の外を見に来ていた。
確か窓から見える庭のダリアの話をしていたと思う。
彼らが暫くテニスンについて語り合っていると、執事がやってきて伯爵夫人に何事かを耳打ちした。
伯爵夫人はわずかに眉を寄せてから「少し失礼しますわ」と言って執事と一緒に部屋を出て行った。
伯爵夫人が行ってしまうと、伯爵は長いため息を吐いた。
「伯爵夫人には苦労をかけますよ。最近はお腹が大きくなり過ぎたせいかあまり気分がすぐれないのに、こうしてお茶会を催して私の気を晴らそうとしてくれてます。全くなんでこんな病気に……」
そう言って伯爵は顔を手で覆ってしまった。
皆が伯爵の落ち込みように何と声を掛けようかと悩んでいたとき、窓際で立ったまま紅茶を飲んでいたミスター・グレイストーンが「あ!これは失礼!」と声を上げた。
手元を狂わせて持っていたティーカップの中身をすっかりぶちまけてしまったらしい。
彼が慌てる一方、子爵夫人は「なんてそそっかしいの」と言いながらハンカチを取り出して紅茶が掛かった彼のジャケットを拭ってやっていた。
一瞬その騒ぎに気を取られていたヘンリー卿は、伯爵が執事を呼びに行こうとよろよろとドアの方に歩いて行っているのに遅れて気がつき、その役目を代わってやった。
ヘンリー卿が廊下を覗くとちょうど執事が伯爵夫人用の新しいレモネードを持って応接間に向かってきているところだったので、掃除が必要になった旨を伝えると、彼はすぐに差配してくれた。
その後、ヘンリー卿は足元が覚束ないシルヴァリー伯爵を介助しながらゆっくりと時間をかけて席に戻った。
騒ぎが一段落すると、話題を元に戻したのは子爵夫人だった。
「オーガスタス、これから子供が生まれるんですから気を強くお持ちにならないとだめですよ」
彼女の言葉に皆、小さく頷いて賛同を示した。
ヘンリー卿の記憶では伯爵自身も頷いていたはずだ。
「ああ、そうですね。それこそ"ユリシーズ"のように強く生きたいものです……」
そう言った伯爵の口調は言葉とは裏腹に弱弱しかった。
そこでヘンリー卿とミスター・レジナルドはテニスン談義を再開し、できるだけテニスンの詩の明るい側面に焦点を定めて議論した。
暫くすると、窓際の子爵夫人の傍らにいたミスター・グレイストーンが先ほどの騒動からすっかり立ち直った様子で明るく言った。
「あれ?庭に犬が入ってきていますよ。あれはコーギーかな?」
シルヴァリー伯爵を除いた一同は好奇心で窓の側に集まった。
確かに伯爵家の庭で2匹の可愛らしいコーギー犬が遊んでいた。
しかし、伯爵家では動物は飼っていないはずだった。
暫く皆でコーギーを見ながらその動きの可愛らしさについて話していると、
「あら?またご近所のレスター大佐ご夫妻のコーギーが逃げてきているわ」
と背後からいつの間にか戻ってきていた伯爵夫人の声がした――そのときだった。
一同の後ろで伯爵のうめき声がした。
振り返ると、テーブルに残っていたはずの伯爵が苦しみながら床に倒れていた。
真っ先に駆け寄ったのは伯爵夫人で、倒れている伯爵の側に跪いて「オーガスタス!しっかりして!」と彼の名を呼んでいた。
「お医者様を早く!」
伯爵夫人が叫ぶように言うと、伯爵のために新しい水差しを運んで来ていた執事はすぐに応接間を出て行った。
伯爵夫人以外の一同は呆然と彼を見ていることしかできなかった。
特にまだ年若いミスター・グレイストーンと伯爵の実弟であるミスター・レジナルドは顔面蒼白だった。
ヘンリー卿自身も衝撃を受けていた。
いくら余命僅かとは言え、先ほどまで伯爵は普通に話していたのに。
どうして突然……。
そして、最期に伯爵は苦しみにあえぎながら、伯爵夫人のティーガウンを掴んで言った。
「君だ……君だったんだ」
それだけ言うと伯爵は意識を失い、その日の内に亡くなったという。
1909年8月の初め、社交シーズンがほとんど終わったある日、その年の夏はたまたまロンドンを離れるのを遅らせていたヘンリー・モントローズ=ハーコートは、ショーファーが運転する自動車でベルグレービアのとある貴族の邸宅に向かっていた。
セント・ジェームズの彼の父の屋敷を滑るように出発した自動車の後部座席で、ヘンリー卿は明るい色の夏用のラウンジスーツの内ポケットから一通の手紙を取り出して読み返した。
詩作仲間のデヴァルー子爵夫人から数日前に受け取った手紙だった。
冒頭には「親愛なるヘンリー卿」と書かれている。
彼は自身で爵位を保有していないが、通常そのように洗礼名に"卿"を冠して呼ばれる身分にあった。
それは彼が侯爵の次男だからだった。
しかも、彼の家は侯爵家の中でも随一の名門ウェクスフォード侯爵家なので、彼は次男にもかかわらず、成人した際にその豊かな財産の中から限嗣相続の対象ではない屋敷と相当額の信託財産を分与されていた。
そのため、彼は何か決まった職を持つ必要に迫られることもなく、日々芸術関係のパトロン業や自らの芸術活動に勤しむことができていた。
しかし、それらを差し置いて彼が一番熱心なのは恋愛だった。
特に夫がいる、もしくは、夫に先立たれたレディに惹かれてしまう質だった。
まだ恋に恋するような未婚のレディよりも、自分が欲しいものをきちんとわかっている女性が彼の好みだった。
そして、幸か不幸か彼もまた既婚の夫人や未亡人にたいそう好かれた。
一つは、間違いなく彼の美しい外見のためだった。
彼の豪華なアッシュブロンドの巻き毛はギリシアの彫像のようだと言われたし、ときに物憂げに見える青みがかった灰色の瞳も経験のあるレディの保護欲を刺激した。
もう一つは、彼の芸術の才能と素養のためだった。
彼が描く風景画も評判が良かったが、特に詩については彼のロマンチックで象徴的な作風と有名どころの詩についての豊富な知識と情熱的な語り口がレディたちには魅力的に映った。
そして、その日彼がベルグレービアに向かった理由も、詩に関係していた。
ヘンリー卿は改めて手に持っていた子爵夫人からの手紙――ちなみにこの子爵夫人は彼の恋愛対象外だった。なぜなら彼女は明らかに夫に満足している――を読み返した。
"妹の夫のシルヴァリー卿は、詩を愛好しておりまして、特にテニスンを好むのですが――"
その手紙は子爵夫人の妹夫妻――シルヴァリー伯爵夫妻――主催のお茶会に是非来て欲しいという内容だった。
子爵夫人によると彼女の義弟のシルヴァリー伯爵は30代半ばの詩を愛する男性だが、持病の悪化で余命数ヶ月と宣告されているらしい。
そのため、シルヴァリー伯爵家は今年は領地に戻るのを諦めてロンドンで冬を越すことにしているが、既知の友人たちはもうほとんどロンドンを去ってしまったので、家族以外で話ができる人を求めているということだった。
そこで、今日のお茶会に出席して彼と詩の話をしてやってほしいというのが、偶然にも今年はまだロンドンに残っていたヘンリー卿に対する子爵夫人の要望だ。
ヘンリー卿は手紙を受け取ってすぐに喜んで応じる旨の返事を出していた。
もちろん病気のシルヴァリー伯爵をテニスン談義で楽しませてやろうという親切心もあったが、それ以上に謎めいた美貌で名高いシルヴァリー伯爵夫人と会えることを楽しみにしていた。
彼女のことは大規模な社交イベントで遠目に見かけたことがあったが、美しい既婚女性に目がないヘンリー卿にしては珍しく、そのときはまだ直接言葉を交わしたことがなかったのだ。
***
「いや、今日は本当に暑いですね」
ベルグレービアのシルヴァリー伯爵邸の応接間で一通り客人たちの紹介が終わると、病身の伯爵はかすれた声でそう言った。
彼は持病のせいで喉が渇きやすいらしく、彼専用に用意されていた水差しから絶え間なくグラスに水を注いで飲んでいた。
顔色はそこまで悪くないものの、かなり痩せていて、掛けている眼鏡がこけた頬に対してやけに大きく見えた。
まだ30代半ばなのに髪には相当白いものが混じっている。
そして、どうやら脚が弱っているようで、歩くときには介助を必要としていた。
しかし、そのときヘンリー卿は、率直に言えば、伯爵の病状よりも彼の傍らで儀礼的で隙のない微笑みを浮かべているシルヴァリー伯爵夫人が気になっていた。
伯爵夫人は、噂以上に美しい女性だった。
姉であるデヴァルー子爵夫人と同じ艶のあるやや明るいブラウンの髪は頭の低い位置で自然にまとめられていて、纏っているシルクのライトブルーのティーガウンは窓から差し込む夏の光を受けて品よく照っていた。
とはいえ、事前に子爵夫人から聞いていた通り、その当時伯爵夫人は臨月で、ゆったりしたティーガウンでも大きく膨らんだお腹は隠しきれていなかった。
しかし、それでも、彼女の謎めいた青い瞳はヘンリー卿の心を捕らえて離さなかった。
「シルヴァリー卿はヘンリー卿とテニスンの話ができるとを楽しみにしていたんですのよ。どうぞお座りになって」
伯爵夫人に勧められるがままヘンリー卿は伯爵と隣同士の席に座った。
同じテーブルのヘンリー卿の向かいには伯爵の弟ミスター・レジナルド・シルヴァリーが座り、ミスター・レジナルドの隣――つまり、伯爵の向かい――には伯爵夫人が座った。
すぐ隣の別のテーブルには残りの客人であるデヴァルー子爵夫人と彼女の名付け子で柔らかそうな黒髪が印象的な年若いグレイストーン男爵家の長男ミスター・セオドア・"テディ"・グレイストーンが座っていた。
全員が席に着くのとほぼ同時に伯爵家の執事がティーポットを運んできたので、伯爵夫人と子爵夫人の姉妹がそれぞれのテーブルの家族や客人に最初の一杯の紅茶を注いでくれた。
しかし、伯爵夫人自身は紅茶に一口だけ口をつけたきりで、フットマンが彼女のためだけに運んできたレモネードを飲んでいた。
ヘンリー卿は妊娠中のご婦人によくある気分の優れなさのためだろうと思った。
「大丈夫かい?オーガスタス?」
伯爵がしきりに水を飲む様子を見かねて彼の弟ミスター・レジナルドが声をかけた。オーガスタスというのが伯爵の洗礼名だった。
ミスター・レジナルドは兄とは打って変わって健康で活動的なたくましい男性だった。
何かスポーツをやっているのかもしれないとヘンリー卿は思った。
特に、かつて伯爵もそうだったのだろう豊かなくすんだブロンドの髪が印象的だった。
「ああ、大丈夫だ。君は私の分まで気にせず食べてくれ。ヘンリー卿もぜひ」
病気のせいで食を控えている伯爵は、ミスター・レジナルドとヘンリー卿にスコーンを勧めた。
それを受けてヘンリー卿は遠慮なくスコーンをいただいた。
クロテッドクリームをたっぷりつけるのが彼の好みだったが、そのとき食べたシルヴァリー伯爵家のクリームは正直言ってあまり好きになれなかったのを覚えている。
「それより、レジナルド、君はテニスンの詩で一番は何だと思う?」
「そりゃあ、"シャロット姫"だろう。ヘンリー卿はどう思います?」
ミスター・レジナルドに問われたヘンリー卿は改めてテニスンの主だった詩を心の中で思い返した。
ヘンリー卿は、オックスフォードの学生だったときに、テニスンの詩はどれも詩集に穴が開くほど読み、手が痛くなるまで書き写すほどのファンだったが、一番気に入っているのは"ユリシーズ"だった。
「私は“ユリシーズ”の力強さが好きですね。しかし、それでいて精神性を感じる」
ヘンリー卿が言うと、伯爵は深く頷いた。
「私もね。こんな病身ではありますが、勇敢さは忘れたくないと思っていますよ。ただね、やはり妻子のことが心配で――」
そのとき、伯爵はそう言って伯爵夫人を優しい目で見つめていた。
そして、彼女の青い瞳も思いやり深く揺れていた――とヘンリー卿は記憶している。
「なので、私はどうしても”イノック・アーデン”に惹かれるというわけです。まあ、幸い私は漁師ではないので生死を取り違えての悲劇というのはあり得ないでしょうが」
「そうでしょうね。あくまで妻子と離れる部分に共感なさっているということですね」
ヘンリー卿は穏やかに相槌を打った。
そのタイミングで隣のテーブルの子爵夫人と彼女の名づけ子のミスター・グレイストーンは席を立って、ヘンリー卿が座っているテーブルの側にあった窓の外を見に来ていた。
確か窓から見える庭のダリアの話をしていたと思う。
彼らが暫くテニスンについて語り合っていると、執事がやってきて伯爵夫人に何事かを耳打ちした。
伯爵夫人はわずかに眉を寄せてから「少し失礼しますわ」と言って執事と一緒に部屋を出て行った。
伯爵夫人が行ってしまうと、伯爵は長いため息を吐いた。
「伯爵夫人には苦労をかけますよ。最近はお腹が大きくなり過ぎたせいかあまり気分がすぐれないのに、こうしてお茶会を催して私の気を晴らそうとしてくれてます。全くなんでこんな病気に……」
そう言って伯爵は顔を手で覆ってしまった。
皆が伯爵の落ち込みように何と声を掛けようかと悩んでいたとき、窓際で立ったまま紅茶を飲んでいたミスター・グレイストーンが「あ!これは失礼!」と声を上げた。
手元を狂わせて持っていたティーカップの中身をすっかりぶちまけてしまったらしい。
彼が慌てる一方、子爵夫人は「なんてそそっかしいの」と言いながらハンカチを取り出して紅茶が掛かった彼のジャケットを拭ってやっていた。
一瞬その騒ぎに気を取られていたヘンリー卿は、伯爵が執事を呼びに行こうとよろよろとドアの方に歩いて行っているのに遅れて気がつき、その役目を代わってやった。
ヘンリー卿が廊下を覗くとちょうど執事が伯爵夫人用の新しいレモネードを持って応接間に向かってきているところだったので、掃除が必要になった旨を伝えると、彼はすぐに差配してくれた。
その後、ヘンリー卿は足元が覚束ないシルヴァリー伯爵を介助しながらゆっくりと時間をかけて席に戻った。
騒ぎが一段落すると、話題を元に戻したのは子爵夫人だった。
「オーガスタス、これから子供が生まれるんですから気を強くお持ちにならないとだめですよ」
彼女の言葉に皆、小さく頷いて賛同を示した。
ヘンリー卿の記憶では伯爵自身も頷いていたはずだ。
「ああ、そうですね。それこそ"ユリシーズ"のように強く生きたいものです……」
そう言った伯爵の口調は言葉とは裏腹に弱弱しかった。
そこでヘンリー卿とミスター・レジナルドはテニスン談義を再開し、できるだけテニスンの詩の明るい側面に焦点を定めて議論した。
暫くすると、窓際の子爵夫人の傍らにいたミスター・グレイストーンが先ほどの騒動からすっかり立ち直った様子で明るく言った。
「あれ?庭に犬が入ってきていますよ。あれはコーギーかな?」
シルヴァリー伯爵を除いた一同は好奇心で窓の側に集まった。
確かに伯爵家の庭で2匹の可愛らしいコーギー犬が遊んでいた。
しかし、伯爵家では動物は飼っていないはずだった。
暫く皆でコーギーを見ながらその動きの可愛らしさについて話していると、
「あら?またご近所のレスター大佐ご夫妻のコーギーが逃げてきているわ」
と背後からいつの間にか戻ってきていた伯爵夫人の声がした――そのときだった。
一同の後ろで伯爵のうめき声がした。
振り返ると、テーブルに残っていたはずの伯爵が苦しみながら床に倒れていた。
真っ先に駆け寄ったのは伯爵夫人で、倒れている伯爵の側に跪いて「オーガスタス!しっかりして!」と彼の名を呼んでいた。
「お医者様を早く!」
伯爵夫人が叫ぶように言うと、伯爵のために新しい水差しを運んで来ていた執事はすぐに応接間を出て行った。
伯爵夫人以外の一同は呆然と彼を見ていることしかできなかった。
特にまだ年若いミスター・グレイストーンと伯爵の実弟であるミスター・レジナルドは顔面蒼白だった。
ヘンリー卿自身も衝撃を受けていた。
いくら余命僅かとは言え、先ほどまで伯爵は普通に話していたのに。
どうして突然……。
そして、最期に伯爵は苦しみにあえぎながら、伯爵夫人のティーガウンを掴んで言った。
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