5 / 31
4.【出題編】捜査依頼①
しおりを挟む
5月の初めの国王崩御を受けて、英国の国民たちは階級の別なく喪に服し、ロンドンの街中も黒一色に染まった。
崩御から数週間後に国葬が行われるまでは、特に上流階級の人々は厳粛に喪に服した。
レディたちはヴェールをまとってドレスはもちろん手袋やアクセサリーまで黒に統一したし、紳士たちも黒いスーツやモーニングコート姿で偉大な国王の死を悼んだ。
とはいえ、当然ながら服喪は永遠のものではなく、いずれは皆、新しい時代へと進まなければならない。
崩御から一ヶ月経った頃には少しずつ世界に黒以外の色が戻ってきていた。
そして、7月に入った頃には控えめな社交が再開されつつあった。
レッドメイン大佐が主宰する退役軍人支援団体〈愛国者友愛会〉による軍人とその家族のためのチャリティイベントが7月中旬に予定通り開催されることになったという知らせがアメリアとその母ミセス・グレンロスのの元に届いたのは、イベント開催日の数週間前のことだった。
彼女たちはもちろん出席することを決め、まだ残っている喪の雰囲気に馴染むグレーの訪問用ドレスを準備していた。
しかし、当日までに、アメリアにとって予想外の悪い出来事と良い出来事が一つずつ起こった。
悪い出来事の方は、イベントの2日前にミセス・グレンロスが熱を出して臥せってしまったことだ。
医師によるとただの風邪だろうと言うことだったが、熱が下った後も咳が長引いていてとても人前に出られる様子ではなかった。
アメリアは病床の母を屋敷に残すのは忍びないものの、彼女まで欠席するわけにもいかず、侍女のミス・アンソンを伴って一人で参加することを決めた。
レッドメイン大佐の周囲の人々をよく知っている母を伴えないのは少し不安だったが、大佐と大佐夫人とはアメリア自身も何度か会って話したことがあるのでなんとかなるだろうと考えていた。
一方、良い出来事の方は、ウェクスフォード侯爵家の長女レディ・グレイスからの手紙によって知らされた。
イベント開催の1週間ほど前に、アメリアがレディ・グレイスとの手紙のやりとりの中で、何気なくそのチャリティイベントに言及したところ、数日前に彼女から次のような返事が来たのだ。
"嬉しい偶然ですね。亡き母の妹の伯爵未亡人が大佐の<愛国者友愛会>を後援しているので、私たち兄妹もチャリティイベントに出席することになっています。長兄のロスマー卿は議会の仕事があるので欠席ですが、ヘンリー卿とアルバート卿、私は出席します。実は、ヘンリーがあなたに相談があると言っているので、その場でお話する機会があれば良いのですが――"
その手紙を読んだときアメリアは思わずにっこりとした。
他にこれといった知り合いのいない場で、ウェクスフォード侯爵家の兄妹に会えそうなのは思わぬ幸運だった。
ただ、ヘンリー卿からの相談が何のことかアメリアには全く心当たりがなかった。
アメリアは気になって手紙を何度も読み返してみたが、何のヒントも見つけられなかった。
***
<愛国者友愛会>のチャリティイベントは、ハムステッドにある伯爵家の屋敷の広い音楽室で開催された。
侍女のミス・アンソンと会場の後ろの方の席に座ったアメリアは、開会までそこから出席者たちを眺めていた。
出席者は全体で約200人ほどで、半分は現役の軍人か退役軍人のように見えた。
彼らは制服を着用し、国王の喪に服しているしるしである腕章を着用していた。
残りの半分が一般の中上流階級から上流階級の真面目そうな紳士淑女で、前国王陛下の喪に際して皆同じような控えめな服装をしている。
特にいかにもチャリティに熱心そうな既婚のレディの姿が目立っていた。
開会の時間になると、まずは〈愛国者友愛会〉の最大の支援者であり、今日は会場まで提供している伯爵未亡人が挨拶に立った。
事前の手紙で彼女がレディ・グレイスの叔母だと聞いていたせいか、彼女の落ち着いて堂々としている話し方はどこかレディ・グレイスに似ている気がした。
伯爵未亡人の挨拶の後には、〈愛国者友愛会〉主宰のレッドメイン大佐の挨拶が続いた。
レッドメイン大佐は英国のために戦った軍人とその家族の献身について語り、彼らへの支援の重要性を強調した。
アメリアは事前に母と話して後日まとまった額の小切手を〈愛国者友愛会〉に送ることにしていたので、後で大佐にそのことを伝えなければと考えた。
一通り挨拶が終わると、いよいよ本日のメインイベントであるアマチュア演劇が開演した。
演目は「ヘンリ―6世」のダイジェストで、軍人や<愛国者友愛会>の関係者の子女の若者たちが出演していた。
「ヘンリー6世」は全三部作のシェイクスピアの戯曲で、15世紀のイングランドを舞台に、英仏の百年戦争やその後イングランド国内で起こった薔薇戦争などが描かれている。
アメリアはきっと出席者の多数を占める軍の関係者の好みに合わせて戦いの場面が多い演目が選ばれたのではないかと思った。
実際、ダイジェスト版「ヘンリー6世」は戦闘や決闘のシーンを中心に構成されていて非常に刺激的な内容だった。
演技のレベルはアマチュア演劇らしいそれなりのものだったが、フランス軍を率いるジャンヌ・ダルクを演じている少女の演技の上手さだけは群を抜いていた。
アメリアは、彼女の後ろの列に座っていた2人のレディの噂話からその少女がある軍人貴族と舞台女優の間の庶子らしいと知って、演技力も遺伝するものなのかと密かに驚いた。
アメリアは慎ましい未婚のレディではあるものの、結婚していない男女にも子供ができることがあるのは知っていた――もっとも、どうしてできるのかまではまだ誰からも教わっていなかったけれど。
「ヘンリ―6世」第二部の中ほどまで終わったところで一度休憩がとられた。
その間にアメリアはひっきりなしに出席者に話しかけられているレッドメイン大佐を何とか捕まえ、無事に母の欠席のお詫びと後日小切手によりまとまった金額を寄付したい旨を伝えることができた。
大佐は前者については丁寧にお見舞いの言葉を述べ、後者については大いに喜んで感謝してくれた。
そして、最後に、アメリアが世間の雰囲気が落ち着いた頃にメラヴェル男爵家のカントリーハウスの正餐会に大佐夫妻を招待したい旨を伝えるとぜひ伺いたいと言ってもらえた。
アメリアはここまでの首尾の良さをお付きのミス・アンソンと喜び合った。
幕間の休憩時間が終わりに近づき、また客席に戻ろうとしたところで、アメリアは会場の隅でレディ・グレイスと彼女の2人の兄たちが話し込んでいるのを見つけた。
ウェクスフォード侯爵家の兄妹は皆、アッシュブロンドの髪と青みがかった灰色の瞳を持っているので、おそらく兄妹を知らない人であっても一見して彼ら3人が兄妹であることに気づくだろう。
ただ、髪については、全員ほぼ同じ色調のアッシュブロンドではあるものの、次男のヘンリ―卿と末子で唯一の娘であるレディ・グレイスは豪華な巻き毛だが、三男のアルバート卿と今日は欠席の長男のロスマー子爵の髪はほんのわずかにウェーブしているだけという違いはある。
今日はレディ・グレイスも兄たちも他の多くの出席者と同様に控えめな服装をしているが、侯爵家御用達の仕立屋の腕が良いのか、そのグレーのドレスと黒いラウンジスーツは一段と洗練されているように見えた。
アメリアとミス・アンソンは少し離れたところで、兄妹に声を掛けるタイミングを伺った。
彼らは何やら真剣に議論しているようで、その話の内容にアメリアはつい聞き入ってしまった。
「――アルバートは細かいことを気にし過ぎなのよ」
レディ・グレイスがため息交じりに苦言を呈するのに対して、兄であるアルバート卿が真剣な様子で反論している。
「細かくはないさ。原作で重要な点だ。あんな棒ではピーターが親方を殺すことは到底無理だろう」
「逆に誰かを殺すことができる武器を舞台上で扱うのが危険だからこその変更なんじゃないか?」
最後にヘンリー卿が何らかの新たな視点を提供したところで、レディ・グレイスがアメリアに気が付いて微笑みを向けてくれた。
それをきっかけにアメリアが彼らに近づいていくと、兄妹たちは口々にアメリアに挨拶し、アメリアも彼らに挨拶を返した。
「ウェクスフォード卿とロスマー卿ご夫妻もお変わりないですか?」
一通り挨拶をすると、アメリアは今日この場にはいない兄妹の父の侯爵と長兄の子爵の夫妻のことを尋ねた。
前国王が崩御してから社交を控えていたこともあり、ここ数ヶ月は、レディ・グレイスと何度か会ったきりで彼女以外の侯爵家の面々とは会う機会がなかった。
ロスマー子爵とアメリカ出身の子爵夫人は、昨年アメリアが解決した盗難事件で盗まれた婚約指輪のダイヤモンドを取り戻した上で今年の4月に無事結婚式を挙げていた。
さすがにまだ知り合って間もないアメリアが結婚式に招待されることはなかったが、前国王が崩御される前に開催された社交イベントで会ったときに結婚のお祝いは伝えていた。
「ええ、みんな元気よ。特にレディ・ロスマーはもうすっかり当家の女主人なの」
レディ・グレイスはいつも通り落ち着いているが、その灰色の瞳はどこか楽し気に輝いていた。
兄妹たちの母である侯爵夫人は数年前に亡くなっているので、今は嫁いだばかりのロスマー子爵夫人が侯爵家で一番地位の高い女性――つまり、女主人ということになる。
レディ・グレイスの口振りから彼女はすっかり侯爵家に馴染んでいることがうかがえる。
アメリアはアメリカのレディの逞しさに感心した。
そこで一度会話が途切れたので、アメリアは少し躊躇ってから気になったことを質問してみた。
「あの、先ほど演劇についてお話しされていたのが聞こえてしまったのですが、一体何を議論されていたのですか?」
「……大した話ではありませんよ、レディ・メラヴェル」
真っ先に答えたのはアルバート卿だった。
アメリアはわずかに眉を上げた。
先ほどまで彼が一番熱心に話していたように見えたのに、今は手元のカフリンクスの向きを気にしているようだった。
「いや、大したことですよ」
続いてそう言ったのはヘンリー卿だった。どことなくからかうような口調だ。
「アルバートは今上演されていた『ヘンリ―6世』の原作を細部まで読み込んでいましてね。さっきの徒弟のピーターと親方のホーナーの決闘シーンの演出がシェイクスピアの原作と少し違うのが気に食わないのですよ」
アメリアは先ほどの舞台を思い出した。
ヘンリー卿が言っているのは、薔薇戦争前夜のシーンのことで、武具師の親方のホーナーが謀反のかどで徒弟のピーターに告発され、決闘の末ピーターに殺されてしまうのだ。
ヘンリー卿の言葉を受けて、レディ・グレイスも少し笑いながら言った。
「アルバートは使われていた武器が正確じゃないって言うの。舞台上の彼らは棒で決闘していたけれど原作では――」
「『砂袋がついた棒』」
アルバート卿は先ほどまでの気が進まない様子と打って変わって明確な口調で言った。
彼の青みがかった灰色の瞳には明らかに不満が滲んでいる。
「砂袋がついているからこそ威力が出るんです。棒だけじゃピーターに親方は殺せないでしょう。親方は剣術を嗜んでいたらしいですし」
アメリアは先ほどとは別の意味で眉を上げた。彼女もシェイクスピアの「ヘンリ―6世」は第一部から第三部まで一通り読んだことがあったが、先ほどの舞台との演出の違いには全く気が付かなかった。
決闘のシーンの武器の描写の細部までよく記憶しているものだと驚き半分感心半分だった。
しかし、アメリアがその感嘆を表す前に、ヘンリー卿の一言でこの話題は切り上げられてしまった。
「まあ、アルバートの細かすぎる指摘は措いておきましょう」
続けて、ヘンリー卿は先ほどまでの冗談めかした笑みとは打って変わって、いつになく真剣な表情で尋ねた。
「――ところで、レディ・メラヴェル、本日はお母様とご一緒ではないのですか?」
アメリアは彼の急な変化に少し戸惑いながら答えた。
「ええ、母は酷い風邪をひいてしまいまして」
「なるほど……お気の毒ですが私にとってはかえって……いや、失礼」
そう言ってヘンリー卿は今度はアメリアの後ろに控えていた侍女のミス・アンソンに目線を向けた。
「そちらの侍女の方はあなたに忠実ですか?」
その言葉にミス・アンソンは心外そうにわずかに目を見開いた。
「ええ、そう信じています」
依然困惑しているアメリアがミス・アンソンの方に目配せすると、彼女ははっきりと頷いた。
アメリアの答えを聞くと、ヘンリー卿は軽く頷いて先ほどと同じ明るい表情に戻った。
しかし、今度は冗談を言っているわけではないことは明らかだった。
「それは良かった。実はあなたに折り入ってご相談があるのです」
ヘンリー卿が切り出すと、残りの兄妹には対照的な表情が浮かんだ。
レディ・グレイスの灰色の瞳は強い興味により見開かれ、一方で、アルバート卿の同じ色の瞳は一瞬心配そうに揺れた。
「ただ、レディには侍女の協力が不可欠ですから、今回はあなたに忠実な彼女にもご同席いただきたい」
ヘンリー卿は一瞬ミス・アンソンに微かな笑顔を向け、またアメリアに視線を戻した。
「ご存知通り、私は不運にも去年あなたが当家のダイヤモンド盗難事件を見事に解決した場面を見損ねました」
アメリアは小さく頷いた。
確かに去年アメリアが侯爵家の事件を解決したとき、侯爵家の家族の中でヘンリー卿だけはその場にはいなかった。
後で聞いたところによると彼は自分の恋愛で忙しかったらしい。
「しかし、家族からあなたの素晴らしい才能のことは聞き及んでいます。特にアルバートがあなたを"探偵女男爵"と評しているの聞きましてね。それでまずはご相談してみようと思ったのです」
アメリアにはヘンリー卿の話が全く見えなかった。
ただ、何か謎の気配があることは確かだった。
そして、謎の気配を察知したアメリアのヘーゼルの瞳に映ったのは、アルバート卿のような“心配”ではなくレディ・グレイスのような“興味”であることは明らかだった。
崩御から数週間後に国葬が行われるまでは、特に上流階級の人々は厳粛に喪に服した。
レディたちはヴェールをまとってドレスはもちろん手袋やアクセサリーまで黒に統一したし、紳士たちも黒いスーツやモーニングコート姿で偉大な国王の死を悼んだ。
とはいえ、当然ながら服喪は永遠のものではなく、いずれは皆、新しい時代へと進まなければならない。
崩御から一ヶ月経った頃には少しずつ世界に黒以外の色が戻ってきていた。
そして、7月に入った頃には控えめな社交が再開されつつあった。
レッドメイン大佐が主宰する退役軍人支援団体〈愛国者友愛会〉による軍人とその家族のためのチャリティイベントが7月中旬に予定通り開催されることになったという知らせがアメリアとその母ミセス・グレンロスのの元に届いたのは、イベント開催日の数週間前のことだった。
彼女たちはもちろん出席することを決め、まだ残っている喪の雰囲気に馴染むグレーの訪問用ドレスを準備していた。
しかし、当日までに、アメリアにとって予想外の悪い出来事と良い出来事が一つずつ起こった。
悪い出来事の方は、イベントの2日前にミセス・グレンロスが熱を出して臥せってしまったことだ。
医師によるとただの風邪だろうと言うことだったが、熱が下った後も咳が長引いていてとても人前に出られる様子ではなかった。
アメリアは病床の母を屋敷に残すのは忍びないものの、彼女まで欠席するわけにもいかず、侍女のミス・アンソンを伴って一人で参加することを決めた。
レッドメイン大佐の周囲の人々をよく知っている母を伴えないのは少し不安だったが、大佐と大佐夫人とはアメリア自身も何度か会って話したことがあるのでなんとかなるだろうと考えていた。
一方、良い出来事の方は、ウェクスフォード侯爵家の長女レディ・グレイスからの手紙によって知らされた。
イベント開催の1週間ほど前に、アメリアがレディ・グレイスとの手紙のやりとりの中で、何気なくそのチャリティイベントに言及したところ、数日前に彼女から次のような返事が来たのだ。
"嬉しい偶然ですね。亡き母の妹の伯爵未亡人が大佐の<愛国者友愛会>を後援しているので、私たち兄妹もチャリティイベントに出席することになっています。長兄のロスマー卿は議会の仕事があるので欠席ですが、ヘンリー卿とアルバート卿、私は出席します。実は、ヘンリーがあなたに相談があると言っているので、その場でお話する機会があれば良いのですが――"
その手紙を読んだときアメリアは思わずにっこりとした。
他にこれといった知り合いのいない場で、ウェクスフォード侯爵家の兄妹に会えそうなのは思わぬ幸運だった。
ただ、ヘンリー卿からの相談が何のことかアメリアには全く心当たりがなかった。
アメリアは気になって手紙を何度も読み返してみたが、何のヒントも見つけられなかった。
***
<愛国者友愛会>のチャリティイベントは、ハムステッドにある伯爵家の屋敷の広い音楽室で開催された。
侍女のミス・アンソンと会場の後ろの方の席に座ったアメリアは、開会までそこから出席者たちを眺めていた。
出席者は全体で約200人ほどで、半分は現役の軍人か退役軍人のように見えた。
彼らは制服を着用し、国王の喪に服しているしるしである腕章を着用していた。
残りの半分が一般の中上流階級から上流階級の真面目そうな紳士淑女で、前国王陛下の喪に際して皆同じような控えめな服装をしている。
特にいかにもチャリティに熱心そうな既婚のレディの姿が目立っていた。
開会の時間になると、まずは〈愛国者友愛会〉の最大の支援者であり、今日は会場まで提供している伯爵未亡人が挨拶に立った。
事前の手紙で彼女がレディ・グレイスの叔母だと聞いていたせいか、彼女の落ち着いて堂々としている話し方はどこかレディ・グレイスに似ている気がした。
伯爵未亡人の挨拶の後には、〈愛国者友愛会〉主宰のレッドメイン大佐の挨拶が続いた。
レッドメイン大佐は英国のために戦った軍人とその家族の献身について語り、彼らへの支援の重要性を強調した。
アメリアは事前に母と話して後日まとまった額の小切手を〈愛国者友愛会〉に送ることにしていたので、後で大佐にそのことを伝えなければと考えた。
一通り挨拶が終わると、いよいよ本日のメインイベントであるアマチュア演劇が開演した。
演目は「ヘンリ―6世」のダイジェストで、軍人や<愛国者友愛会>の関係者の子女の若者たちが出演していた。
「ヘンリー6世」は全三部作のシェイクスピアの戯曲で、15世紀のイングランドを舞台に、英仏の百年戦争やその後イングランド国内で起こった薔薇戦争などが描かれている。
アメリアはきっと出席者の多数を占める軍の関係者の好みに合わせて戦いの場面が多い演目が選ばれたのではないかと思った。
実際、ダイジェスト版「ヘンリー6世」は戦闘や決闘のシーンを中心に構成されていて非常に刺激的な内容だった。
演技のレベルはアマチュア演劇らしいそれなりのものだったが、フランス軍を率いるジャンヌ・ダルクを演じている少女の演技の上手さだけは群を抜いていた。
アメリアは、彼女の後ろの列に座っていた2人のレディの噂話からその少女がある軍人貴族と舞台女優の間の庶子らしいと知って、演技力も遺伝するものなのかと密かに驚いた。
アメリアは慎ましい未婚のレディではあるものの、結婚していない男女にも子供ができることがあるのは知っていた――もっとも、どうしてできるのかまではまだ誰からも教わっていなかったけれど。
「ヘンリ―6世」第二部の中ほどまで終わったところで一度休憩がとられた。
その間にアメリアはひっきりなしに出席者に話しかけられているレッドメイン大佐を何とか捕まえ、無事に母の欠席のお詫びと後日小切手によりまとまった金額を寄付したい旨を伝えることができた。
大佐は前者については丁寧にお見舞いの言葉を述べ、後者については大いに喜んで感謝してくれた。
そして、最後に、アメリアが世間の雰囲気が落ち着いた頃にメラヴェル男爵家のカントリーハウスの正餐会に大佐夫妻を招待したい旨を伝えるとぜひ伺いたいと言ってもらえた。
アメリアはここまでの首尾の良さをお付きのミス・アンソンと喜び合った。
幕間の休憩時間が終わりに近づき、また客席に戻ろうとしたところで、アメリアは会場の隅でレディ・グレイスと彼女の2人の兄たちが話し込んでいるのを見つけた。
ウェクスフォード侯爵家の兄妹は皆、アッシュブロンドの髪と青みがかった灰色の瞳を持っているので、おそらく兄妹を知らない人であっても一見して彼ら3人が兄妹であることに気づくだろう。
ただ、髪については、全員ほぼ同じ色調のアッシュブロンドではあるものの、次男のヘンリ―卿と末子で唯一の娘であるレディ・グレイスは豪華な巻き毛だが、三男のアルバート卿と今日は欠席の長男のロスマー子爵の髪はほんのわずかにウェーブしているだけという違いはある。
今日はレディ・グレイスも兄たちも他の多くの出席者と同様に控えめな服装をしているが、侯爵家御用達の仕立屋の腕が良いのか、そのグレーのドレスと黒いラウンジスーツは一段と洗練されているように見えた。
アメリアとミス・アンソンは少し離れたところで、兄妹に声を掛けるタイミングを伺った。
彼らは何やら真剣に議論しているようで、その話の内容にアメリアはつい聞き入ってしまった。
「――アルバートは細かいことを気にし過ぎなのよ」
レディ・グレイスがため息交じりに苦言を呈するのに対して、兄であるアルバート卿が真剣な様子で反論している。
「細かくはないさ。原作で重要な点だ。あんな棒ではピーターが親方を殺すことは到底無理だろう」
「逆に誰かを殺すことができる武器を舞台上で扱うのが危険だからこその変更なんじゃないか?」
最後にヘンリー卿が何らかの新たな視点を提供したところで、レディ・グレイスがアメリアに気が付いて微笑みを向けてくれた。
それをきっかけにアメリアが彼らに近づいていくと、兄妹たちは口々にアメリアに挨拶し、アメリアも彼らに挨拶を返した。
「ウェクスフォード卿とロスマー卿ご夫妻もお変わりないですか?」
一通り挨拶をすると、アメリアは今日この場にはいない兄妹の父の侯爵と長兄の子爵の夫妻のことを尋ねた。
前国王が崩御してから社交を控えていたこともあり、ここ数ヶ月は、レディ・グレイスと何度か会ったきりで彼女以外の侯爵家の面々とは会う機会がなかった。
ロスマー子爵とアメリカ出身の子爵夫人は、昨年アメリアが解決した盗難事件で盗まれた婚約指輪のダイヤモンドを取り戻した上で今年の4月に無事結婚式を挙げていた。
さすがにまだ知り合って間もないアメリアが結婚式に招待されることはなかったが、前国王が崩御される前に開催された社交イベントで会ったときに結婚のお祝いは伝えていた。
「ええ、みんな元気よ。特にレディ・ロスマーはもうすっかり当家の女主人なの」
レディ・グレイスはいつも通り落ち着いているが、その灰色の瞳はどこか楽し気に輝いていた。
兄妹たちの母である侯爵夫人は数年前に亡くなっているので、今は嫁いだばかりのロスマー子爵夫人が侯爵家で一番地位の高い女性――つまり、女主人ということになる。
レディ・グレイスの口振りから彼女はすっかり侯爵家に馴染んでいることがうかがえる。
アメリアはアメリカのレディの逞しさに感心した。
そこで一度会話が途切れたので、アメリアは少し躊躇ってから気になったことを質問してみた。
「あの、先ほど演劇についてお話しされていたのが聞こえてしまったのですが、一体何を議論されていたのですか?」
「……大した話ではありませんよ、レディ・メラヴェル」
真っ先に答えたのはアルバート卿だった。
アメリアはわずかに眉を上げた。
先ほどまで彼が一番熱心に話していたように見えたのに、今は手元のカフリンクスの向きを気にしているようだった。
「いや、大したことですよ」
続いてそう言ったのはヘンリー卿だった。どことなくからかうような口調だ。
「アルバートは今上演されていた『ヘンリ―6世』の原作を細部まで読み込んでいましてね。さっきの徒弟のピーターと親方のホーナーの決闘シーンの演出がシェイクスピアの原作と少し違うのが気に食わないのですよ」
アメリアは先ほどの舞台を思い出した。
ヘンリー卿が言っているのは、薔薇戦争前夜のシーンのことで、武具師の親方のホーナーが謀反のかどで徒弟のピーターに告発され、決闘の末ピーターに殺されてしまうのだ。
ヘンリー卿の言葉を受けて、レディ・グレイスも少し笑いながら言った。
「アルバートは使われていた武器が正確じゃないって言うの。舞台上の彼らは棒で決闘していたけれど原作では――」
「『砂袋がついた棒』」
アルバート卿は先ほどまでの気が進まない様子と打って変わって明確な口調で言った。
彼の青みがかった灰色の瞳には明らかに不満が滲んでいる。
「砂袋がついているからこそ威力が出るんです。棒だけじゃピーターに親方は殺せないでしょう。親方は剣術を嗜んでいたらしいですし」
アメリアは先ほどとは別の意味で眉を上げた。彼女もシェイクスピアの「ヘンリ―6世」は第一部から第三部まで一通り読んだことがあったが、先ほどの舞台との演出の違いには全く気が付かなかった。
決闘のシーンの武器の描写の細部までよく記憶しているものだと驚き半分感心半分だった。
しかし、アメリアがその感嘆を表す前に、ヘンリー卿の一言でこの話題は切り上げられてしまった。
「まあ、アルバートの細かすぎる指摘は措いておきましょう」
続けて、ヘンリー卿は先ほどまでの冗談めかした笑みとは打って変わって、いつになく真剣な表情で尋ねた。
「――ところで、レディ・メラヴェル、本日はお母様とご一緒ではないのですか?」
アメリアは彼の急な変化に少し戸惑いながら答えた。
「ええ、母は酷い風邪をひいてしまいまして」
「なるほど……お気の毒ですが私にとってはかえって……いや、失礼」
そう言ってヘンリー卿は今度はアメリアの後ろに控えていた侍女のミス・アンソンに目線を向けた。
「そちらの侍女の方はあなたに忠実ですか?」
その言葉にミス・アンソンは心外そうにわずかに目を見開いた。
「ええ、そう信じています」
依然困惑しているアメリアがミス・アンソンの方に目配せすると、彼女ははっきりと頷いた。
アメリアの答えを聞くと、ヘンリー卿は軽く頷いて先ほどと同じ明るい表情に戻った。
しかし、今度は冗談を言っているわけではないことは明らかだった。
「それは良かった。実はあなたに折り入ってご相談があるのです」
ヘンリー卿が切り出すと、残りの兄妹には対照的な表情が浮かんだ。
レディ・グレイスの灰色の瞳は強い興味により見開かれ、一方で、アルバート卿の同じ色の瞳は一瞬心配そうに揺れた。
「ただ、レディには侍女の協力が不可欠ですから、今回はあなたに忠実な彼女にもご同席いただきたい」
ヘンリー卿は一瞬ミス・アンソンに微かな笑顔を向け、またアメリアに視線を戻した。
「ご存知通り、私は不運にも去年あなたが当家のダイヤモンド盗難事件を見事に解決した場面を見損ねました」
アメリアは小さく頷いた。
確かに去年アメリアが侯爵家の事件を解決したとき、侯爵家の家族の中でヘンリー卿だけはその場にはいなかった。
後で聞いたところによると彼は自分の恋愛で忙しかったらしい。
「しかし、家族からあなたの素晴らしい才能のことは聞き及んでいます。特にアルバートがあなたを"探偵女男爵"と評しているの聞きましてね。それでまずはご相談してみようと思ったのです」
アメリアにはヘンリー卿の話が全く見えなかった。
ただ、何か謎の気配があることは確かだった。
そして、謎の気配を察知したアメリアのヘーゼルの瞳に映ったのは、アルバート卿のような“心配”ではなくレディ・グレイスのような“興味”であることは明らかだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
香死妃(かしひ)は香りに埋もれて謎を解く
液体猫
キャラ文芸
第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞受賞しました(^_^)/
香を操り、死者の想いを知る一族がいる。そう囁かれたのは、ずっと昔の話だった。今ではその一族の生き残りすら見ず、誰もが彼ら、彼女たちの存在を忘れてしまっていた。
ある日のこと、一人の侍女が急死した。原因は不明で、解決されないまま月日が流れていき……
その事件を解決するために一人の青年が動き出す。その過程で出会った少女──香 麗然《コウ レイラン》──は、忘れ去られた一族の者だったと知った。
香 麗然《コウ レイラン》が後宮に現れた瞬間、事態は動いていく。
彼女は香りに秘められた事件を解決。ついでに、ぶっきらぼうな青年兵、幼い妃など。数多の人々を無自覚に誑かしていった。
テンパると田舎娘丸出しになる香 麗然《コウ レイラン》と謎だらけの青年兵がダッグを組み、数々の事件に挑んでいく。
後宮の闇、そして人々の想いを描く、後宮恋愛ミステリーです。
シリアス成分が少し多めとなっています。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる