1 / 7
【一】
しおりを挟む
「順吉さん、あんた美人画は向いてないね。絵は上手いよ。でも色気ってもんが全く無いんだからねえ」
版元である辰巳屋の言葉が耳に痛い。順吉にもそれは判っているのだ。実際のところ、どんなに着飾った花魁を見ても魅力を感じない自分が、人を魅了するような遊女の絵を描けるはずないのだ。自分が感じていないものは描けないのが道理だ。
「これは買い取ってあげるけど、これで儲けようと思ってのことじゃないよ。いつかあんたも芽が出るんじゃないかと思うからだよ。そこんとこ勘違いしちゃ困るよ。まあね、絵は上手いんだから。女の何たるかを知れば化けるんじゃないかと、少しは期待してるわけさ。はい、お代」
期待してると言いながら、順吉が受け取った絵の対価はごく僅かだ。それはいつものことだし、この絵の出来なら仕方ないとも思うので、順吉が文句を言うことはない。
「ありがとうございます。これで失礼します」
順吉は店先の縁側から立ち上がり深々とお辞儀をして、辰巳屋の店を出た。
もう夏の日差しだ。柳の緑、川の照り返し、揺らめく陽炎。目に見える全ての物が鮮やかに色付いている。暑いのは得意でないが、夏の景色は好きだ。この色、この光、この空気。それらなら紙の上に再現する自信がある。だが、そんな絵を買う者などいない。順吉が好きでも得意でもない遊女の絵を描くのは売れるからだ。売れるとは言っても、順吉の絵を美人画として買うような客はいない。遊女の宣伝のためにばら撒くための絵だ。それも、高名な絵師に頼むに値しない売れない遊女専門だ。辰巳屋は順吉の下絵を版画にして刷るわけだが、それを買うのは描かれた遊女のいる遊郭の主だ。だから高く売れることは期待できない。しかし安定した収入源とも言えるわけで、順吉の暮らしを支えているのもまた事実なのだ。
「辰巳屋はああ言ったけど、俺に女の何たるかが分かるなんてこと、あるんだろうか……」
順吉は川の流れをぼんやり見ながら溜め息をつく。
「ふう。考えても仕方ないな。しかし暑い。こいつはかなわん。茶屋で一服するか」
切り替えの早いのは順吉の数少ない長所の一つだ。
「せっかくだから、少し気分を変えて川向うに行ってみるか」
活発な方とは言えない順吉なので、絵を描きに行く郭と辰巳屋の他に出歩くことは滅多にない。すぐそこの川向うなのに、前に行ったのがいつだったか思い出せないほどだ。小さな木橋を渡り、住処の長屋とは反対向きに川沿いを歩いていく。
期待に相違してこちらの川沿いは店らしい店がほとんどなかった。四半刻(約三十分)ほども歩いてやっと、「茶」と書かれた幟を掲げた水茶屋に辿り着いた。日除けの簾を潜って中に入るとすかさず店の奥から若い声がした。
「いらっしゃいませ!」
ぱたぱたと小走りに出てきたのは歳のころ十五、六の華奢な娘だった。
版元である辰巳屋の言葉が耳に痛い。順吉にもそれは判っているのだ。実際のところ、どんなに着飾った花魁を見ても魅力を感じない自分が、人を魅了するような遊女の絵を描けるはずないのだ。自分が感じていないものは描けないのが道理だ。
「これは買い取ってあげるけど、これで儲けようと思ってのことじゃないよ。いつかあんたも芽が出るんじゃないかと思うからだよ。そこんとこ勘違いしちゃ困るよ。まあね、絵は上手いんだから。女の何たるかを知れば化けるんじゃないかと、少しは期待してるわけさ。はい、お代」
期待してると言いながら、順吉が受け取った絵の対価はごく僅かだ。それはいつものことだし、この絵の出来なら仕方ないとも思うので、順吉が文句を言うことはない。
「ありがとうございます。これで失礼します」
順吉は店先の縁側から立ち上がり深々とお辞儀をして、辰巳屋の店を出た。
もう夏の日差しだ。柳の緑、川の照り返し、揺らめく陽炎。目に見える全ての物が鮮やかに色付いている。暑いのは得意でないが、夏の景色は好きだ。この色、この光、この空気。それらなら紙の上に再現する自信がある。だが、そんな絵を買う者などいない。順吉が好きでも得意でもない遊女の絵を描くのは売れるからだ。売れるとは言っても、順吉の絵を美人画として買うような客はいない。遊女の宣伝のためにばら撒くための絵だ。それも、高名な絵師に頼むに値しない売れない遊女専門だ。辰巳屋は順吉の下絵を版画にして刷るわけだが、それを買うのは描かれた遊女のいる遊郭の主だ。だから高く売れることは期待できない。しかし安定した収入源とも言えるわけで、順吉の暮らしを支えているのもまた事実なのだ。
「辰巳屋はああ言ったけど、俺に女の何たるかが分かるなんてこと、あるんだろうか……」
順吉は川の流れをぼんやり見ながら溜め息をつく。
「ふう。考えても仕方ないな。しかし暑い。こいつはかなわん。茶屋で一服するか」
切り替えの早いのは順吉の数少ない長所の一つだ。
「せっかくだから、少し気分を変えて川向うに行ってみるか」
活発な方とは言えない順吉なので、絵を描きに行く郭と辰巳屋の他に出歩くことは滅多にない。すぐそこの川向うなのに、前に行ったのがいつだったか思い出せないほどだ。小さな木橋を渡り、住処の長屋とは反対向きに川沿いを歩いていく。
期待に相違してこちらの川沿いは店らしい店がほとんどなかった。四半刻(約三十分)ほども歩いてやっと、「茶」と書かれた幟を掲げた水茶屋に辿り着いた。日除けの簾を潜って中に入るとすかさず店の奥から若い声がした。
「いらっしゃいませ!」
ぱたぱたと小走りに出てきたのは歳のころ十五、六の華奢な娘だった。
1
あなたにおすすめの小説
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。
独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす
【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す
【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す
【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす
【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる