奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

文字の大きさ
1 / 97

幸せなバラ園

しおりを挟む
初投稿作品です。
現在ローカル環境にて完結まで約100万字分の原稿を準備済みで、毎日更新予定です。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークやいいねを頂けると励みになります。
______________________________________






暁の光が、まだ薄紫色の霧を纏う窓ガラスを静かに透過する。

その柔らかな光に縁どられた小さな影、リリスは、もう目を覚ましていた。

彼女の住む世界、「バラ園」は、その名の通り、一年を通じて色とりどりのバラが咲き誇る場所だった。

リリスにとって、この世界が全てであり、幸福そのものであった。

六年の歳月を、彼女はこの閉ざされた楽園の壁の中で過ごしてきた。

外の世界を知る術も、知りたいという欲望も、彼女の中には存在しない。

*今日も、お花さんたち、おはよう!*

リリスは寝台からそっと抜け出すと、小さなブリキのじょうろを手に取った。

彼女の仕事は、この広大な庭のバラたちに水をやること。

それは仕事というより、むしろ喜びであり、日々の祈りにも似た儀式であった。

一輪一輪、丁寧に、雫が宝石の粒となって葉の上を滑り落ちるのを眺めるのが好きだった。

朝日を浴びてきらめく水滴、甘く馥郁と香るバラの匂い、そして遠くから聞こえてくる姉様たちの楽しげな笑い声。

そのすべてが、リリスの世界を完璧なものにしていた。

「リリス、今日も早いのね」

背後からかけられた声に、リリスはぱっと振り返った。

そこに立っていたのは、掃き掃除をしていた姉様の一人だった。

彼女の頬はほんのり赤く、その笑顔は朝露に濡れたバラの花びらのようだった。

「うん!お花さんたちが、のどが渇いちゃうから」

リリスがそう答えると、姉様はくすくすと笑い、彼女の頭を優しく撫でた。

リリスの目には、このバラ園にいる誰もが、憂いなく、幸福に満ち溢れているように映っていた。

悲しい顔をする人など、一人もいない。

みんなが優しく、いつも微笑んでいる。

それが、リリスが知る世界の真実だった。

水やりを終えたリリスは、弾むような足取りで母の部屋へと向かった。

母、アイリスは、このバラ園で一番の人気者だった。

いつも綺麗に化粧をして、美しいドレスを着て、たくさんのお客さんに「花」を売っている。

リリスは、母がたくさんの人を笑顔にしていることを誇りに思っていた。

部屋の扉をそっと開けると、化粧台に向かう母の後ろ姿が見えた。

いつもは甘い香油の匂いが満ちているはずの部屋に、昨夜の酒と煙草の残り香が微かに混じっている。

アイリスは鏡をじっと見つめていた。

その瞳には、リリスの知らない深い影が落ちていた。

目の下には消しきれない隈が刻まれ、唇の端は力なく下がっている。

*ああ、またこの顔か…リリスが来る前に、早く…早く「私」を隠さなければ…*

アイリスは引き出しから紅を取り出すと、震える手でそれを唇に引いた。

まるで仮面を被るかのように、その表情は一瞬にして変わった。

鏡に映る疲弊した女の顔は消え、そこに現れたのは、リリスの知る「いつも楽しいママ」だった。

「あら、リリス。おはよう、私の可愛い小鳥さん」

アイリスは椅子を回転させ、両腕を広げた。

その声は鈴を転がすように明るく、その笑顔は太陽のように眩しかった。

「ママ、おはよう!」

リリスは喜びの声をあげて母の胸に飛び込んだ。

ぎゅっと抱きしめられると、いつもの甘い花の香りがした。

リリスは、この香りと、母の温かい腕の中が大好きだった。

「ママ、今日もたくさんお花を売るの?」

「ええ、そうよ。ママはね、みんなを幸せにするお花を売るのがお仕事だもの」

アイリスはリリスの柔らかな髪を撫でながら答えた。

その指先が、一瞬だけ、微かに震えた。

胸の奥が、鋭い針で突き刺されたように痛む。

この無垢な娘に、いつまで嘘をつき続けなければならないのか。

この子の目に映る「幸福な世界」が、どれほど脆く、汚れた土台の上に咲いているのか。

その罪の意識が、アイリスの心を苛んでいた。

*ごめんね、リリス。でも、あなただけは…この泥の中から、守り抜いてみせるから…*

母との甘い時間は、不意に扉を叩く音によって中断された。

「アイリス、いるんだろう。支度はできたかい」

低く、有無を言わせぬ響きを持つ声。

このバラ園を取り仕切る、「おばあさん」だった。

リリスにとっては、いつも美味しいお菓子をくれる、優しいおばあさんだ。

「はい、おばあさま。今、行きます」

アイリスの声から、先程までの明るさがすっと消え、平坦な響きに変わった。

その変化に、リリスは気づかない。

彼女は母の腕から離れると、にこにこと笑って「おばあさん」を出迎えた。

「おばあさん、おはよう!」

「おや、リリス。精が出るね」

おばあさんは、その皺の深い顔に、営業用の笑みを浮かべた。

しかし、その目は一切笑っていなかった。

鋭い鷹のような視線が、アイリスの顔から衣装の隅々までを値踏みするように検分する。

「アイリス、昨夜の客は太客だ。今日もご指名だよ。しくじるんじゃないよ。あんたの稼ぎが、ここの娘たちの飯になるんだからね」

その言葉は、ねっとりとした粘着質で、アイリスの心に絡みついた。

それは優しい忠告などではなく、逃れられない鎖の重みを再確認させるための宣告だった。

「…わかっております」

アイリスは静かに頭を下げた。

その姿は、まるで罪人のようだった。

リリスは、二人の会話の意味を全く理解していなかった。

ただ、ママがまたお仕事で褒められているのだと思い、嬉しそうに母のドレスの裾を揺らした。

「ママ、すごい!またお花を買いに来てくれるんだね!」

その無邪気な言葉が、アイリスの胸を抉った。

おばあさんは、そんな二人を一瞥すると、ふんと鼻を鳴らして踵を返した。

その背中が、リリスには少しだけ、いつもより冷たく見えた。

アイリスが仕事へ向かうと、リリスは一人、部屋に残された。

広い部屋で一人になるのは少し寂しかったが、彼女にはお気に入りの場所があった。

それは、通りに面した大きな出窓だ。

ここから、バラ園にやってくる「お客さん」たちを眺めるのが好きだった。

リリスは窓辺のクッションにちょこんと座り、ガラスに額をくっつけた。

石畳の道を行き交う人々。

着飾った紳士たちが、期待に満ちた顔でバラ園の門をくぐってくる。

彼らはみんな笑顔で、姉様たちに迎えられて建物の中へと消えていく。

*今日もたくさんのお客さんだ。きっと、みんなママのお花を待っているんだ。*

リリスの目には、その光景が、お祭りのように華やかで楽しいものに映っていた。

男たちのぎらついた欲望の眼差しも、娘たちの作り笑いの裏にある絶望も、彼女の純粋なフィルターを通して、すべてが美しく変換されてしまう。

ある紳士が、出迎えた若い娘の腰に馴れ馴れしく手を回した。

娘の肩が一瞬こわばり、顔が引きつったのを、リリスは見逃した。

彼女の視界には、ただ二人が楽しそうに談笑している姿だけが映っていた。

時折、夜遅くに、ひどく酔っ払って誰かに担がれるように出ていく男や、泣きながら建物の裏口から駆け出してくる姉様の姿を見かけることもあった。

しかし、リリスの世界では、それらは「お酒を飲みすぎてしまった人」や、「悲しいお話の劇の練習をしている人」に過ぎなかった。

この閉ざされた楽園の残酷な真実は、厚いベルベットのカーテンのように、彼女の無垢な瞳から隠され続けていた。

夜の帳が下り、バラ園が最も華やぐ時間が訪れる。

階下からは、官能的な音楽と、嬌声、そして男たちの野卑な笑い声が混じり合った喧騒が、リリスの部屋まで微かに届いてくる。

しかし、その音は、リリスにとっては心地よい子守唄だった。

みんなが楽しんでいる証拠だからだ。

リリスは、母がいつものように仕事から戻らないことを知っていた。

夜は、ママが一番忙しい時間なのだ。

彼女は一人で寝台に潜り込み、階下のざわめきに耳を澄ませた。

*ママも、姉様たちも、お客さんたちも、みんな楽しそう。バラ園は、世界で一番幸せな場所なんだ。*

瞼が重くなり、意識が夢の世界へと沈んでいく。

リリスの見る夢は、いつも幸福なものだった。

色とりどりのバラが咲き乱れる庭で、優しい母と、笑顔の姉様たちに囲まれて、永遠に続くかのような穏やかな午後を過ごす夢。

その同じ時刻、階下の薄暗い部屋では、アイリスが客の腕の中で、魂の抜け殻のように虚空を見つめていた。

唇は微笑みの形を保ったまま、しかしその瞳からは、一筋の涙が、誰にも気づかれずに枕を濡らしていた。

彼女の心は、愛する娘が眠る、この偽りの楽園のすぐ上で、静かに死んでいくのだった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました

星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎ 王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝―― 路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。 熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。 「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」 甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。 よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、 気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて―― しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!? 「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」 年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。 ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。

忘れ去られた婚約者

かべうち右近
恋愛
『僕はレベッカしか選ばない』 甘い声音でそう話したはずの王太子サイラスは、レベッカを忘れてしまった。 レベッカは、王太子サイラスと付き合っていることを、ある事情により隠していた。舞踏会で関係を公表し、婚約者に指名される予定だったのに、舞踊会の夜にサイラスは薬を盛られて倒れ、記憶喪失になってしまう。 恋人が誰なのかわからないのをいいことに、偽の恋人が次々と名乗りをあげ王太子の婚約者の座を狙ってくる。おかげで不信に陥ったサイラスに、レベッカは自分が恋人だと名乗り出せなくなってしまった。 サイラスの記憶喪失を解消するため、薬師兼魔女であるレベッカは恋人であることを隠しながら、事件調査を協力することになった。そうして記憶が戻らないまま二人の距離は再び近づいていく。だが、そんなおりにサイラスの偽の恋人を名乗りでた令嬢たちが、次々と襲われる事件も起き始めて……!? ※他のサイトにも掲載しています。 毎日更新です。

夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結保証】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。 だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。 失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。 どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。 「悪女に、遠慮はいらない」 そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。 「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。  王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」 愛も、誇りも奪われたなら── 今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。 裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス! ⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。

私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました

放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。 だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。 「彼女は可哀想なんだ」 「この子を跡取りにする」 そして人前で、平然と言い放つ。 ――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」 その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。 「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」

お久しぶりです旦那様。そろそろ離婚ですか?

奏千歌
恋愛
[イヌネコ] 「奥様、旦那様がお見えです」 「はい?」 ベッドの上でゴロゴロしながら猫と戯れていると、侍女が部屋を訪れて告げたことだった。

最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました

めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。 白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。 その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。 それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。 やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり―― 白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。 身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。

皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜

百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。 「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」 ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!? ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……? サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います! ※他サイト様にも掲載

復讐の悪女になるはずが、天使系義兄からピュアな執着と溺愛で邪魔されてます!

鈴宮(すずみや)
恋愛
 サウジェリアンナ王国の王女エルシャは、不幸だった前世の記憶を持って生まれてきた。現世ではみんなから愛され、幸せになれると信じていたエルシャだったが、生後五ヶ月で城が襲撃されてしまう。  絶体絶命かと思いきや、エルシャは魔術師の男性から救出された上『リビー』という新たな名前を与えられ、養女として生きることに。  襲撃がジルヴィロスキー王国によるものと気づいたリビーは、復讐のため王太子妃になることを思いつく。けれど、義理の兄であるゼリックがあまりにもリビーを溺愛するため、せっかく王太子アインハードに近づくことに成功しても、無邪気に邪魔され計画がうまく進まない。  ゼリックの干渉を減らすためリビーは彼の婚約者を探したり、ゼリック抜きでアインハードとお茶をして復讐を成功させようと画策する。  そんな中、十六歳に成長したリビーはアインハードと同じ学園に入学し、本格的なアプローチを開始する。しかし、ゼリックが講師として学園へ来てしまい、チャンスをことごとく潰されてしまう。 (わたしは復讐がしたいのに!)  そう思うリビーだったが、ゼリックから溺愛される日々はとても幸せで……?

処理中です...