奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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逃避行

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ギャレットは鉄靴で青い睡蓮を踏み砕き、靴底に張り付いた光る花弁を見下ろした。

男は腰に帯びた大剣の柄に手をかけ、瓦礫と花が混在する異様な光景に視線を巡らせる。

魔法の残滓を探るため、彼は虚空へ向けて鋭く指を弾いた。

大気に波紋すら走らない。

そこにあるのは、純粋で圧倒的な「生命」の顕現だけであった。

焦げた木材の隙間から、見たこともない極彩色の蔦が這い出し、黒ずんだ石畳を鮮やかな緑が侵食している。

「……痕跡なし、か」

低く唸るような声が、フルフェイスの兜の中から漏れ出た。

共和国軍・重装歩兵大隊長、「鋼鉄の断頭台」の称号を持つ融合級剣士、ギャレット。

彼は鋼鉄の篭手で目の前の花を引き千切ると、指先でその茎をすり潰した。

溢れ出る樹液からは、魔力特有の鋭い刺激臭ではなく、甘美で濃厚な香りが漂う。

通常、物質を変成させるには等価の魔力と詠唱、そして魔法陣が必要となる。

これほど広範囲にわたり、土地の属性そのものを「死」から「生」へと書き換えるなど、魔導級はおろか、自分と同じ融合級であっても不可能だ。

「報告書を修正せよ」

ギャレットは背後に控える部下へ振り返ることなく告げた。

「これは自然災害でも、魔獣の襲撃でもない。超然級……あるいはそれ以上の、神域の干渉による事象変異だ」

部下たちが息を呑む気配が伝わる。

超然級。

それは一個人で国家の軍事バランスを崩壊させうる戦略級の存在を意味する。

もしそのような存在が共和国の首都に潜伏しているとすれば、それはもはや治安維持の問題ではない。

国家存亡の危機である。

ギャレットの視線が、瓦礫の山から運び出された死体袋の列を超え、その先にある街の方角へと向けられた。

「生存者は、あのギルドか」

「はっ。冒険者ギルド白銀の天秤亭にて、数名を保護中とのことです」

「保護ではない。証拠品の保管だ」

ギャレットは冷徹に訂正し、大剣を背負い直した。

この異常現象の中心にいた生存者たち。

彼らは、この神域の力に触れ、生き残った「サンプル」だ。

その肉体には、必ずや現象の鍵が刻まれているはずである。

解剖し、脳を魔術的に解析し、一滴の血まで搾り取る必要がある。

「総員、進軍。白銀の天秤亭を包囲する。抵抗する者は、例えギルド員であろうと国家反逆罪で即時処断せよ」

鋼鉄の巨躯が動き出す。

それは慈悲なき断罪の行進であった。

同時刻。

冒険者ギルド「白銀の天秤亭」の最上階、執務室。

窓の外を見下ろしていたギルドマスター、オーギュストは、卓上の茶が微かに揺れるのを見て眉をひそめた。

地響きではない。

もっと不吉な、殺意の振動だ。

「来たか」

彼は短く呟き、噛んでいた葉巻を灰皿に押し付けた。

長年の傭兵稼業で培った勘が、最悪の事態を告げている。

共和国軍の動きが早すぎる。

通常の手続きを無視し、精鋭部隊を市街地に投入してくる意味。

それは、彼らが「法」や「権利」を度外視してでも確保しなければならない「何か」を見つけたということだ。

そして、その「何か」が、今このギルドの診療所で眠る、あのあどけない少女たちであることも。

「マスター、どうします? 表の連中、殺気立ってますぜ」

副官が青ざめた顔で部屋に飛び込んでくる。

オーギュストは深いため息をつき、引き出しから一振りの短剣を取り出した。

「バリケードを築け。ただし、抜刀はするな。あくまで交渉の時間を稼ぐんだ」

「交渉? あの断頭台相手にですか!?」

「ああ。だが、交渉が決裂するのは目に見えている」

融合級の剣士を擁する正規軍に対し、街のゴロツキ上がりの冒険者ギルドが敵うはずもない。

正面からぶつかれば、ギルドは消滅し、生存者たちは連れ去られるだろう。

そして二度と、日の光を浴びることはない。

オーギュストは、机上の魔導通信機に手を触れた。

冷たい魔力が指先から流れ込む。

診療所の個室。

朝日が差し込む静かな部屋で、エヴァは椅子に座り、まどろむリリスの寝顔を見守っていた。

昨夜のパニックが嘘のように、少女は穏やかな呼吸を繰り返している。

その時、エヴァの胸元にあるギルド証が、熱く脈動した。

――エヴァ。

聞け。

返事はいらん

頭蓋に直接響く、オーギュストの切迫した思念。

エヴァは背筋を正し、リリスの耳を塞ぐように手を添えた。

軍が来る。

奴らの狙いは「煤の底」の生存者だ。

保護なんて生温いもんじゃない。

実験材料として回収しに来る

エヴァの顔から血の気が引いた。

実験材料。

その言葉が持つ意味を、治癒師である彼女は誰よりも残酷に理解できる。

正面は俺が稼ぐ。

だが、数分ともたん

通信の声に、ノイズが混じり始める。

遠くで、重い扉が叩き壊されるような音が響いた。

裏口から地下水路へ抜けろ。

リリスを連れて、街を出るんだ。

……その子は、ここにいてはならん。

決して、奴らに渡すな

通信が途絶えた。

エヴァは立ち上がり、呆然と通信機を見つめた。

昨夜、この子に誓ったばかりだ。

「私が守る」「ここなら安心だ」と。

だが現実は、その誓いを嘲笑うかのように、軍靴の音と共に扉の向こうまで迫っていた。

リリスが、不穏な気配を感じ取ったのか、小さく身じろぎをして薄く目を開ける。

「……ご主人、様……?」

その怯えた瞳を見た瞬間、エヴァの迷いは消し飛んだ。

守る。

何としてでも。

エヴァは素早くリリスの毛布を剥ぎ、枕元に置かれていた自分の厚手のコートを少女に被せた。

「リリス、立って。お散歩に行くわよ」

「え……? でも、お仕事は……」

「いいから! 急いで!」

エヴァはリリスの手を引き、強引にベッドから引きずり下ろした。

その手は震えていたが、握る力は痛いほどに強かった。

平穏な朝は終わった。

これより始まるのは、終わりの見えない逃避行である。

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