奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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壊れた人形

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エヴァの涙は、リリスの心に温かい毒のように染み渡った。

その優しさが彼女の罪悪感を肥大させ、償うことのできない負債として魂に重くのしかかる。

彼女は再び厨房へと逃げ込んだ。

そこだけが、思考を放棄し、己の価値を労働という行為にのみ還元できる、唯一の聖域であり、牢獄であったからだ。

リリスは洗い桶の前に立ち、機械のように皿を洗い続けた。

その動きに感情はなく、ただ、ギルダに叩き込まれた「労働者の義務」を遂行するためだけに手足を動かしている。

彼女のその常軌を逸した没頭ぶりは、いつしか「鉄槌と坩堝」の荒くれ者たちの間で、奇妙な噂となっていた。

あの銀髪の小娘は、魂をどこかに置き忘れてきた壊れた人形だ、と。

その日も、酒場は一日の仕事を終えた冒険者たちの熱気で満ちていた。

エールジョッキを片手に、武勇伝や下世話な冗談が飛び交う。

その喧騒の片隅で、一人の男が厨房の方を指さし、げびた笑いを浮かべた。

男の名はバルガス。

覚醒級に成り上がったばかりの、熊のような体躯を持つ斧使いだった。

彼はアルコールの勢いも手伝って、仲間たちに自らの度胸を示そうと考えた。

「おい、見ろよ。またあの人形が働いてやがる。なあ、あれは本当に生きてんのか? ちょっと突っついて確かめてやろうぜ」

バルガスは下卑た笑い声を響かせながら、よろよろと立ち上がると、厨房へと向かった。

仲間たちの制止の声は、彼の耳には届かない。

彼はリリスの背後に立つと、その無防備な肩に、からかい半分で手を伸ばした。

「よお、嬢ちゃん。そんなに働いて、一体いくら貰えるんだ? 俺様が一晩、もっといい稼ぎ方を教えてやろうか?」

その汚れた手が、リリスの薄い衣服越しに、彼女の肩に触れた。

瞬間、リリスの体が石のように硬直した。

暴力。

陵辱。

搾取。

彼女の体に刻み込まれた全ての記憶が、その接触を合図に蘇る。

思考は停止し、ただ、次に訪れるであろう苦痛に備えて、魂が収縮した。

だが、バルガスの下劣な言葉は、最後まで紡がれることはなかった。

彼の手がリリスの肩に触れた、まさにその刹那。

厨房の奥の薄闇から、鋼鉄の塊のような影が音もなく滑り出て、二人の間に立ちはだかった。

ギルダ・ブロンズハンマーであった。

彼女は、炉の火を反射するその瞳で、バルガスを射抜いていた。

その表情から普段のぶっきらぼうな態度は消え失せ、代わりに、神聖な工房を土足で荒らされた職人のような、静かで、底知れない怒りが燃え盛っていた。

「……てめえ。今、何をした?」

ギルダの声は、地底のマグマのように低く、不気味なほどに穏やかだった。

しかし、その静けさこそが、嵐の前触れであることを、ギルドの誰もが知っていた。

バルガスは、本能的な恐怖に喉を鳴らした。

「な、なんだよ、ギルドマスター。ちょっと、からかっただけじゃねえか。そんなに目くじらを……」

バルガスが言い訳を終える前に、ギルダは動いた。

いや、彼女の詠唱が、空間そのものを支配した。

「地より生まれし鉄の律よ、我が血脈の契約に応えよ」

「汝が背負うは不動の重み、我が槌に宿すは絶対の法」

「侵すべからざる聖域の掟、その無礼なる腕に刻むべし」

「砕け!」

詠唱が完了すると同時、ギルダはバルガスの腕を、まるで錆びた鉄屑でも掴むかのように無造作に握りしめた。

そして、捻る。

ゴキャリ、という、骨と肉が悲鳴を上げる鈍い音。

「ぎゃあああああああっ!」

バルガスの絶叫が、ギルドの喧騒を切り裂いた。

彼の腕は、ありえない方向に捻じ曲がり、そこから先は力なく垂れ下がっている。

ギルダは、その場で崩れ落ちようとするバルガスの胸倉を掴み、宙吊りにした。

そして、ギルドの隅々にまで響き渡る声で、宣言した。

「よく聞け、てめえら! この小娘は、俺が雇った労働者だ! このギルドの庇護下にある、俺の所有物だ! 俺の所有物に無断で手を出した、その代償は高くつくぞ。奴隷だろうが、壊れた人形だろうが、そんなことは関係ねえ! ここでは、俺のルールが全てだ!」

その言葉は、ドワーフの王が下す勅令のように、絶対的な権威をもって酒場に響き渡った。

バルガスは、折れた腕の激痛と、死の恐怖に顔を歪め、ただ許しを乞うように喘いだ。

彼は理解した。

このドワーフの女傑にとって、この銀髪の少女は、単なる労働者ではない。

自らの工房の一部であり、自らの名誉そのものなのだと。

彼は、触れてはならない逆鱗に触れてしまったのだ。

リリスは、目の前で繰り広げられた光景を、ただ呆然と見つめていた。

暴力。

それは彼女が常に受ける側であったものであり、恐怖そのものであった。

しかし今、その暴力は、自分を守るために振るわれている。

ギルダの怒りは、自分に向けられたものではない。

自分を傷つけようとした者へと向けられている。

*なぜ?*

守られる。

庇われる。

その経験は、彼女の人生にはエヴァにしか存在しなかった。

でもそれは、エヴァが与えてくれる慈愛とも違う、もっと荒々しく、もっと絶対的な、所有者の宣言。

「俺の所有物」。

その言葉は、かつて彼女を縛り付けた絶望の響きを持っていた。

だが、ギルダの口から放たれたそれは、何故か、鉄壁の城壁のような安心感を伴っていた。

矛盾。

混乱。

リリスの凍てついた心が、理解不能な熱によって、軋みを上げる。

その騒ぎを聞きつけ、エヴァが治療室から駆けつけてきた。

彼女は、腕を折られて床に蹲るバルガスと、鬼の形相で立つギルダ、そしてその背後で震えるリリスを見て、事態を瞬時に悟った。

「ギルダ……これは……」

「見ての通りだ」

ギルダはバルガスを足元に蹴り捨てると、エヴァの方へ向き直った。

その瞳の怒りは、すでに収まっていた。

「エヴァ。てめえのやり方が間違ってるとは言わねえ。優しさは、確かに必要だろう。だがな、この小娘に今一番必要なのは、涙や同情じゃねえ」

ギルダは、リリスの方をちらりと見た。

「生きるための力と、誰にも脅かされない場所の保証だ。こいつが安心して壊れていられる場所を、俺たちが作ってやらなきゃならねえ。そうでなきゃ、こいつは本当に、ただの壊れた人形のまま、死んじまうぞ」

その言葉は、エヴァの胸に深く突き刺さった。

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