【完結】婚約を解消されたら、自由と笑い声と隣国王子がついてきました

ふじの

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第二章

孤立と焦燥(エリナ視点)

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 王城の広間の一角。磨き抜かれた大理石の床に、陽光を反射する大きなシャンデリア。重厚な絨毯が広がり、王家主催の茶会に集まった貴族たちのざわめきが、まるで小鳥のさえずりのように会場を包んでいた。

 私は今日、王太子妃の婚約者として、初めてこの場に姿を現す。公爵家の馬車を降りるときから胸が高鳴って、緊張よりも「やっと皆に認めてもらえる」という期待感でいっぱいだった。

(だって私は選ばれたのだから。みんなきっと羨ましがるに決まってるわ)

 レオナルト様に腕を取られて入場すると、ざわめきが一段高まった。視線が一斉にこちらへ注がれる。私はにこりと笑って軽く会釈を返した。中には微笑み返してくれる方もいて、胸が誇らしさでいっぱいになる。

 陛下と王妃様のご挨拶の後、私の名が紹介された。広間に拍手が響く。私は背筋を伸ばし、完璧な笑みを浮かべて一礼した。

 ――やっぱり、皆、私を祝福しているのね。

 紹介だけすると、公務の関係で王家の方々は退席していった。私一人に任せてくれたということは、信頼されている証でもあるはず。

 けれど、最初の挨拶のときから少しずつ歯車が噛み合わなくなっていった。

「お初にお目にかかります。侯爵――」

「ああ、はい!ええと……アレント男爵家の奥方様ですね!」

 一瞬の沈黙。奥方は笑みを崩さなかったが、その目が冷たく光ったのを私は見逃さなかった。周囲の令嬢たちがちらりと顔を見合わせる。

(あら?間違えちゃったかしら。でも仕方ないわ、まだ全部覚えていないもの)

 笑顔で近づいてくるご婦人たちに、私は自信たっぷりに応じた。

「ええ、王太子殿下はとても頼りになる方ですの。私も早く隣にふさわしい女性になれるよう努めますわ」

 声にうっとりとした余韻を込めると、相手は一様に「まあ素敵」と微笑む。私はその反応をすべて本心だと信じて疑わなかった。

 けれど、徐々に雲行きが怪しくなる。

 ある伯爵夫人が、扇子を口元に当てて尋ねてきた。

「エリナ様は、刺繍や舞踏のお稽古はどちらでなさっているのかしら?」

「はい、もちろん公爵家で一通り……」と答えかけたところで、別の令嬢が会話をさらりと横取りした。

「まあ!けれどリシェル様は幼い頃から舞踏は宮廷仕込みと伺っておりますのよ。殿下と並んだ舞姿は、さぞ美しかったのでしょうね」

 私の言葉は途中で切られ、空気は当然のように「リシェル」の話題へと流れていった。
 胸の奥がちり、と熱を帯びる。

「……あの、私も舞踏は得意でしてよ?」

 慌てて割り込むと、周囲の数人が一瞬だけこちらを見てから、また扇子を傾けて笑い合った。私の存在など、まるで霞のように軽んじられている。

 苛立ちが募ってきた。次に向かいの侯爵夫人が言った。

「まあ、エリナ様。殿下のお心を射止めるとは、本当に特別なお方。ですが王太子妃教育は厳しいものですわ。あのリシェル様でさえご苦労されていらしたのですもの。」

 まただ。なぜいちいちリシェルの名を出すのか。もう関係ないのに。
 私は思わず声を強めた。

「でも私、王太子妃になりますから!」

 その瞬間、数人の令嬢がぴたりと動きを止めた。空気がわずかに揺らぎ、扇子が一斉に上がる。
 自信を見せつけるつもりで胸を張り、さらに続けた。

「殿下の隣に立つのは、もう私と決まっておりますの。ですから、皆さまも安心して――私を見守ってくださると嬉しいですわ」

 自分では完璧な切り返しだと思った。これでようやく彼女たちも納得するだろう。
 けれど返ってきたのは、曖昧で乾いた笑み。

「まあ……」

「ええ、もちろん」

 扇子の陰で交わされる視線には、どうにも薄い嘲りの色が見えた。

 焦りを隠すように、私はさらに言葉を重ねる。

「本来なら、前任者が心得を書き残すものではなくて?でも、私には何一つ引き継ぎがございませんでしたの。リシェル姉様が――そう、わざと何も用意せずに去ってしまったせいで、私が苦労しているのですわ」

 周囲は一瞬だけ沈黙した。けれどすぐに、扇子の陰から囁き声が漏れる。

「引き継ぎ……?聞いたことがないわ」

「リシェル様はそんなものがなくても、自然と務めを果たされていたはず」

「つまり……奪うだけ奪って努力する気もないということね」

 私の頬がかっと熱を帯びた。
 けれど、私は引き下がらなかった。必死に笑顔を浮かべ、強気な声音を崩さない。

「まあ、リシェル姉様は優秀でしたものね。でも今は私がその役目を担っておりますの。心配には及びませんわ」

 しかし、その言葉に同意してくれる人は誰一人いなかった。
 代わりに、笑顔の裏で目を逸らす令嬢、曖昧な相槌しか返さない夫人たち。
 私は居心地の悪い孤独を、初めて社交界の真ん中で味わった。


 そんな空気を壊すかのように、給仕の手によって、銀のトレイに並べられた菓子や軽食が運ばれてくる。彩り鮮やかなマカロンや、繊細な細工がほどこされたケーキ。どれも宮廷の菓子職人の技が凝らされた逸品だと、母から耳にたこができるほど聞かされていた。

(まあ、素敵……。これを優雅にいただければ、私がレオナルト様の隣にふさわしい女性だと、皆に印象づけられるわね)

 私は慎重にフォークを取った。けれど手に力が入りすぎたのか、ケーキの上のクリームがふるりと揺れ、花形の飾りが皿の縁を飛び越えてしまう。

「……あら」

 反射的にナプキンで拭い、何事もなかったかのように笑ってみせる。けれど、すぐ隣の令嬢が扇子で口元を隠しながら、ちらりとこちらを見たのがわかった。周囲の笑い声が一瞬遅れて広がる。

(気にしなくていいのよ。こんなの、誰にでもあることだわ)

 内心で自分を励まし、次の一口を取ろうとした。だが今度は力加減を誤って、ケーキの層が崩れ、皿の外にぽとりと落ちてしまった。白い絨毯に小さな染みが広がっていく。給仕が慌てて布で押さえたが、数人の視線が突き刺さるように感じられた。

「お、お気になさらず。まだ慣れませんもの」

 取り繕うように笑って言ったけれど、返ってきたのは曖昧な頷きだけ。

 それでも私は話題を変えようと、向かいに座っていた奥方へと声をかけた。

「そういえば、あなたは……ええと、伯爵夫人でしたかしら?」

 相手の眉がぴくりと動く。すぐ隣のご令嬢が囁いた。

「お母様は侯爵夫人でいらっしゃいますわ」

「あら、まあ!うふふ、間違えてしまいましたわ。爵位なんて覚えきれませんものね」

 軽口でごまかしたつもりだったが、夫人の笑みの奥にひやりとしたものが潜むのを見て、背筋が冷たくなった。

(……おかしいわ。もっと場を和ませるはずだったのに)

 焦りを紛らわせるように、隣の令嬢へ話しかける。
「殿下とはどんなお話をなさるのですか?」と彼女が興味深そうに尋ねてきた。
 私は待ってましたとばかりに胸を張り、わざと優越感をにじませて答えた。

「殿下とのお話は……そうね、皆さまには理解できないかもしれませんわ。特別な立場の者にしかわからないこともございますから」

 一瞬、会場の空気が凍りついた気がした。令嬢はきまり悪そうに目を伏せ、周囲の夫人たちは顔を見合わせて小さく扇子を動かす。

 すぐに聞こえてきたのは、抑えきれない囁き声だった。

「……あの物言い」

「リシェル様なら決してあんなことはおっしゃらなかったわ」

「ええ、周囲を立ててこそ殿下を引き立てるものですのに」

 私の耳にははっきりと届いていた。

(まったく、どうして皆こうもリシェルリシェルと言うのかしら!)

 胸の奥に苛立ちが募る。私はすぐに切り返した。

「リシェル姉様は優秀でしたでしょうけれど、それはもう過去のことですわ。今、レオナルト様のお隣にいるのは私ですの。皆さまも、それをお忘れなく」

 張りのある声で言い切ると、場は再び沈黙した。誰も同意の言葉を返してはくれない。

 やがて、一人の奥方が小さな声でささやいた。

「……やはり、公爵家も見誤ったのではなくて?」

 ぞくりと背筋に寒気が走る。けれど私は、笑顔を崩さないように必死だった。

「皆さまが嫉妬しているのね。私がレオナルト様に選ばれたから」

 そう心の中で唱えながら、唇に無理やり笑みを貼り付けた。


 けれど、時間が経つにつれ、輪になっていたご婦人方が一人、また一人と席を立ち、別の談笑の輪へと移っていった。話題は私を避けるように流れ、気がつけば私はぽつんと一人取り残されていた。

 扇子の影から向けられる視線は、もはや祝福ではない。あからさまな失望と冷笑。

(どうして……どうしてこんなことに? 私はレオナルト様の、王太子の婚約者、選ばれた者のはずなのに)

 胸の奥でざわめく不安を打ち消そうと、私は自分に言い聞かせた。

(大丈夫。レオナルト様がきっと慰めてくださるわ。レオナルト様は、私の味方……)

 そうして私は、笑顔を凍りつかせたまま、孤独な時間を耐え抜いたのだった。
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