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第二章
作られた微笑み
しおりを挟むユリウス様はその後も心を砕いてくださった。王都の街から戻ったその日の夕刻。
城壁は夕陽に赤く染まり、長い回廊に差し込む光が床の大理石を朱色に染めていた。
目まぐるしく頭の中で巡る今日の出来事。気づくと、小さな吐息が洩れ出てくる。
馬車の揺れで疲れたせいかもしれない。けれど胸の奥を占めているのは――街で見た、あの光景の残像だった。
アレク様と、辺境伯令嬢。
並んで歩き、彼女の手を握るように伴っていた姿。
穏やかで、優しさが滲み出る笑み。
(あれが、アレク様の……)
胸を締め付ける思考を振り払うように歩みを速めた、その時だった。
角を曲がった先――彼が立っていた。
「……リシェル!」
夕陽に照らされた目を見開いた彼の姿は、懐かしくも、遠い。
先ほどぶりに見るはずなのに、まるで長い時間が流れてしまったかのように感じられた。
足が止まり、視線が宙を泳ぐ。
アレク様の表情もまた、気まずさを隠し切れていなかった。
「……殿下」
思わず出てしまったいつもと違う呼び名。礼を取ろうとした私を、彼は慌てて手で制した。
「やめてくれ…そんな態度は…!」
一瞬、沈黙。
互いに何を口にすればいいのか分からず、空気が張り詰める。
以前なら自然に交わしていた会話――講義のこと、昼食のこと、些細な笑い話。
そのすべてが、いまは遠い。
アレク様が唇を開いた。
「……違う、そんなことを言いたいんじゃないんだ。彼女とは、なんでもない」
その声音には切実さが滲んでいた。
小さく瞬きをし、私は無意識に胸の前で手を組む。
「今日……一緒にいたのは、ドミナード辺境伯の令嬢だ。……レティシア嬢」
声がわずかに揺れる。
「俺の意思じゃない。王命だ。父上が、両家の関係を円滑にするために……俺に、彼女の相手をするよう命じられた」
その言葉を聞いた瞬間、悟った。
――やはり、そうなのだ、と。
公爵令嬢として育てられ、王太子妃教育も受けてきた。
国を支えるために、自分の感情を押し殺し、笑顔で務めを果たす術を教え込まれてきた。
アレク様が告げる事実の裏に、どれほどの政治的思惑があるのかも、理解できてしまう。
だからこそ。
私は微笑んだ。
義務で作り上げた、完璧な笑顔で。
「……さようでございますか」
柔らかな声で応じる。
「殿下が国王陛下のご命令に従われるのは、当然のこと。辺境伯家との関係は、この国にとっても重要ですもの」
その瞬間、アレク様の表情が歪んだ。
心臓がきしむように痛む。
「リシェル……」
震えた声が聞こえる。
アレク様は喉の奥で小さく呻く。何度も目を彷徨わせ、空気を飲み込むようなそんな様子だった。
何度もぐっと拳を握り、指を解く。そして、拳が震えるほどまた握りしめたあと、赤くなった目を私に向けた。
「そんな顔をさせてしまうくらいなら……俺は、何をしているんだろうな」
一歩、また一歩と私に近づいてくる。
「……でも、手放したくない」
気づくと目の前にいた。
「そばにいてほしいんだ。……俺は……好きなんだ、リシェル」
その告白は、まるで呻き声のように掠れていた。
「私も」と、飛び出そうになる想いを飲み込んだ。
今更ながらに自覚した。
母国からずっと支えてくれている彼が好きなのだ、私は。
でも、口に出すことはできなかった。
彼の立場を知っているから。
自分が王太子妃の座を降ろされた身だから。
後ろ盾のない留学生だから。
彼に縋れば、足を引っ張ることになると分かっているから。
私は一歩下がり、丁寧に裾を摘まんだ。
私にとっては一番慣れた笑み。そして、最近では必要としなかった微笑み。
口角を上げる感覚が、まるで仮面を被るように冷い。
さあ、完璧になさい、リシェル。
「……殿下のお気持ち、光栄に存じます」
その言葉に、アレク様の表情が歪む。
私は小さく息を整え、瞳を逸らす。
「殿下のお立場を、第一にお考えくださいませ」
それだけを残し、静かに背を向け、部屋に戻った。早くしなければ、早く戻らなければ、涙が出てきてしまう。
部屋にたどり着いて扉を閉める。
ずるずると体の力が抜け、崩れ落ちる。扉を背もたれにして座り込んだ。
静かに、ただ静かに、涙が溢れ出した。
廊下に佇む俺の目に、彼女の背中がゆっくりと遠ざかる。完璧に作られた笑顔――あの義務的な微笑みが、胸を締め付ける。
(リシェル……)
彼女から壁を作られた時、頭が真っ白になってどう説明してよいかわからなくなってしまった。
王命だ、父上の意向だ、政治的な理由で――けれど、あの表情をさせてしまったのは俺だ。
拳を握りしめる。指先が白くなるほど強く、何度も握り直す。
吐き出したい、叫びたい、でも声は出ない。胸の奥に熱い痛みだけが残る。
あの笑顔の裏に、どれほどの葛藤があるのか。俺には見えるのに、彼女は何も言わず、ただ静かに受け止めている。
「手放したくない……」
思わず漏れた言葉に、胸が痛む。けれど立場が許さない。彼女に縋れば、足を引っ張るだけだ。
それでも、俺の隣にいてほしい。傍に、ただ、彼女がいてほしい。
心は揺れ、焦り、切なく震えている。
「好きなんだ……」
呟いた言葉が、廊下の壁に吸い込まれた。
「好きなんだ、好きなんだ、好きなんだよリシェル…」
届くはずもない。でも、この感情を、胸の奥にしまい込むにはあまりにも重く、痛かった。
廊下の向こうで、彼女の気配が消える。息を整えようとするけれど、胸の奥のざわめきは収まらない。
俺はただ、彼女が振り返ってくれることもなく、歩き去ったその後ろ姿を見つめ続けるしかなかった。
あの笑顔は……リシェルの国で何度も見た、二度とさせたくなかった笑顔だ。
守ろうと決めたのに、心からの笑顔を引き出したいと思ったのに。
けれど、それでも……彼女を手放したくない。
「好きなんだ…」
呟きは、涙と共に床に染み込んでいった。
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