【完結】婚約を解消されたら、自由と笑い声と隣国王子がついてきました

ふじの

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第二章

仮面の裏側

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 学園に通う日々が、こんなにも重く、苦しいものになるとは思っていなかった。
 かつてはアレク様と並んで歩き、笑い合い、皆の前でも自然に振る舞えていた。けれど今は、ひとり。長い廊下の片隅を歩くだけで、胸の奥が締めつけられる。

 教室に入ると、クラスメイトたちの視線が一斉に私に注がれた。
 心配そうな、あるいは気遣うような視線。私は微笑む。完璧な、公爵令嬢としての微笑みを。
 それは「大丈夫ですわ」と言葉にするよりも雄弁に、彼らを安心させるはず。
 そう思って、唇を形作る。

「リシェルさん、大丈夫?」

「なんだか顔色、優れないみたい」

 友人の声が心に沁みる。けれど私は、かぶりを振った。

「ありがとう。……心配してくださって嬉しいわ。でも、大丈夫よ」

 声も、笑みも、震えてはいなかったと思う。だが、その瞬間、教室の空気が僅かに揺れるのを感じた。
 皆、私が「本当は大丈夫ではない」ことを分かっているのだ。母国にいた頃、幾度となくこうして「仮面の淑女」を演じた。あの時と同じ。胸の奥は冷たく、誰も触れることができない氷のように固まっていく。

 数日もすれば、クラスメイトたちはカイル様に直談判したらしい。

「あの噂は本当なの?」

「殿下はどうなさっているのですか?」

「リシェルさんを心配なさらないのですか?」

 そんな声を耳に挟んだ。けれど、カイルは冷静に答えたそうだ。

「それは私の口からは……。殿下にも立場がございます」

 きっと、胸の奥では苦悩していたのだろう。けれど彼がどれほど優秀でも、この問題だけはどうにもできない。

 そして、その隙を縫うように、ユリウス様が現れる。

 彼は最初から柔らかな笑みを崩さず、さりげなく私の隣に立つ。重い本を持っていれば「貸して」と言って取り上げ、戸惑う私の代わりに運んでしまう。

「君には似合わないよ、そんな笑顔。……もっと楽に笑えばいい」

 彼の声は低く、囁きのように甘い。
 胸の奥がひやりとする。
 気づいてはいけない。けれど、気づかされてしまう。私が「仮面をかぶっている」と。

「……そんなことは、ありません」

 かすかに否定する私を、彼は見透かしたように笑った。

「じゃあ、その笑顔を僕の前だけで見せてくれる?本物かどうか、確かめてみたいな」

 冗談めかしているのに、瞳の奥には一切の冗談がなかった。
 思わず息を呑む。彼はほんの一瞬距離を詰め、すぐに離れていった。まるで「逃げ場を塞げる」と知りながら、敢えて見逃してやった――そんな風に。

 その後も彼は、私が孤独に沈み込むたび、絶妙な間合いで現れる。

「君はもっと愛されるべきだ」

「僕なら、絶対に手放さない」

 そんな言葉を、真剣にも冗談にも取れる口調で囁いてくる。
 アレク様の姿が頭に浮かぶ。けれど、すぐにその映像は胸を刺す。
 辺境伯令嬢を伴って歩く姿。義務的な笑顔を浮かべるしかなかった私を、泣きそうに見つめていたあの眼差し。
 何度も思い出すたびに、胸が痛む。

(……アレク様は、国のために動かれているのだから)

 そう自分に言い聞かせる。
 でも、心の奥底で叫ぶ声は消えない。――「それでも、隣にいたい」と。

 その矛盾に、もう耐えられなくなりつつある。

 ユリウス様が差し伸べる手は、確かに甘美だ。狡賢くとも、優しさに満ちているように見える。
 彼に寄りかかれば楽になれるかもしれない。
 そう思ってしまう自分が、恐ろしい。

 そして――私は、アレク様を諦めなければならないのかもしれない、と。
 その考えが頭をよぎった瞬間、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような虚しさが広がった。

 それでも、心は弱っていく。
 いつか、この仮面の奥で、ユリウス様に縋ってしまう日が来るのだろうか。



 ◇




 執務机の上に積まれた書簡は、山のように膨れ上がっていた。だが、目を通しても文字が頭に入らない。インクを握る手はわずかに震え、紙の上に滲む黒い染みだけが増えていった。
 扉を叩く音がして、俺ははっと顔を上げた。

「殿下」

 入ってきたのはカイルだった。いつもなら気安さが混じる声音で報告を述べる彼が、今日はどこか言葉を選ぶように、短い間を置いた。

「……リシェル様のことですが」

 胸の奥がざわつく。聞きたくない。けれど、知りたい。俺は無言で続きを促した。

「学園では、普段どおりに過ごしておられます。講義にも欠かさず出席し、礼儀正しく、誰にでも微笑んでいらっしゃる」

 そこまで言って、カイルはわずかに眉を曇らせた。

「ですが……その笑顔は、かつて殿下が引き出されたものとは……違って見えました」

「………」

 喉がひりついた。

「表面的には完璧です。彼女のことを知らなければ、誰も疑わないでしょう。けれど、あの微笑みは……まるで、義務で顔に貼りつけている仮面のようでした」

 脳裏に、あの廊下で向けられた笑顔が甦る。氷のように整い、決して崩れない笑み。
 俺が最も見たくなかった表情。
 まだ、彼女にあんな顔をさせている。

 呼吸が荒くなり、拳が勝手に震えた。

「俺が……俺がそうさせているのか」

 吐き出した言葉は、情けないほど弱々しい。

 カイルは静かに首を振る。

「殿下、リシェル様は聡明なお方です。公爵令嬢としての責務を理解し、自らを律しておられる。それでも……あの姿は、痛々しい」

 珍しく感情をにじませた報告に、胸が締めつけられた。

 俺は椅子を立ち、窓辺に歩み寄る。夕陽が差し込む。石畳に映る影が長く伸び、まるで自分の心の空洞を映しているようだった。
 リシェルがどれほど苦しい思いを抱えているのか。俺は分かっている。いや、分かっていたはずだ。
 なのに、手放せないと口にして、好きだと告げて――結局、彼女を追い詰めた。

 背後から、カイルの声が低く落ちてきた。

「殿下。学園の生徒たちも、リシェル様を心配しておられます。皆で励まそうとするのですが……彼女はすぐに微笑みを返される。まるで、心の奥を閉ざしてしまったように」

「……」

「ヴェルンハルト外交官は……」

 その名に、心がざらりと波立つ。

「リシェル様に寄り添い、時に冗談を交え、時に真剣に言葉をかけているそうです。彼女も……その優しさに救われているように見えると」

 頭が熱を帯び、視界が滲んだ。
 俺の手は、何もしてやれないというのか。
 彼女を笑顔にできるのは――あの男なのか。

 唇を噛む。

「……俺は、どうすればいい」

 心の底から漏れた問い。王子としてではなく、ただの一人の男としての弱音だった。
 けれど、カイルは答えなかった。彼にできるのは報告まで。彼は忠臣であって、俺の心を導く役目ではない。
 静かな沈黙が、かえって俺を追い詰める。

 窓を開けると、夜風が頬を撫でた。遠くに見える部屋の灯り。その中に彼女がいる。
 もし今、会いに行ったら――。
 彼女はまた、あの義務的な笑みを浮かべるだろう。俺の立場を思い、自分の気持ちを押し殺して。
 それを想像しただけで、胸が潰れそうになる。

(どうすれば……本当の笑顔を取り戻せる?)

 答えは出ない。
 ただ一つだけ確かなのは――。
 彼女を諦めることだけは、俺にはできないということだった。
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