【完結】婚約を解消されたら、自由と笑い声と隣国王子がついてきました

ふじの

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第二章

心を知る、心を失う

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 王宮の庭園。夕暮れが迫り、白薔薇の垣根に夕陽が差し込んでいた。
 義務のために設けられた「交流の場」。形式ばったお茶会。けれど、今日のアレクの顔色は一段と冴えなかった。

「殿下、少しお疲れのように見えますわ」

 レティシアは柔らかく問いかける。声には礼儀を崩さぬ響きがあるが、その瞳には僅かな憂慮が滲んでいた。

「……すまない。気を遣わせてしまったか。」

 アレクはかすかに微笑んでカップを置いた。だが、その笑みは疲れを覆い隠す仮面にすぎない。

「無理をなさる必要はございませんのに」

 レティシアはカップを傾けながら、ふと視線を逸らした。彼女自身、この場を心から楽しんでいるわけではない。父に言われるまま従うだけ。それはアレクも同じだと、肌で感じ取っていた。

 沈黙が落ちる。鳥のさえずりだけが庭園に響いた。
 やがて、アレクが低く口を開いた。

「……俺には、大切な人がいる」

 その言葉に、レティシアの手が止まった。カップの中の水面がわずかに揺れる。
 驚きと同時に、奇妙な安堵もあった。やはり、この人の目は誰かを見ている――と。

「……そう、でございますのね」

 小さく吐息をこぼす。だが非難の色はなく、むしろ穏やかだった。

「驚かないのか?」

 アレクは眉を寄せる。

「いいえ。むしろ納得いたしましたわ。殿下が、どこか心ここに在らずなのも……理由があると分かりましたもの」

 レティシアは凛とした笑みを浮かべた。

「ご安心くださいませ、殿下。私は敵ではなく、味方になりとうございます」

「……味方?」

 アレクの胸に小さな灯がともる。

「ええ。正直に申し上げますと……私も、殿下に恋情を抱いているわけではございませんの」

 レティシアは唇に指をあて、視線を伏せた。頬が少し染まっている。

「実は……お慕いしている方が、別におります」

 アレクは思わず息を呑んだ。だが次に続いた名前にさらに目を見開く。

「カイル様ですわ」

 恥じらうように告げられた言葉。
 あの、常に冷静で誠実な公私共に支えてくれている男。アレクはしばし絶句し、やがて苦笑を漏らした。

「……そうか。まさか、彼に心を惹かれていたとは」

「はい。初めてお目にかかったときから……」

 レティシアは胸に手を当て、恥ずかしそうに笑う。

「もちろん、父にはとても言えませんけれど」

 その一言に、二人は同時に肩を落とし、小さく笑った。
 互いに立場に縛られ、素直な心を隠してきた者同士。
 ようやく仮面を外して言葉を交わせた気がした。

「レティシア嬢。……感謝する。君がそう言ってくれるなら、俺も隠さずに済む」

 アレクの声には安堵があった。

「俺が想っているのは、リシェルだ。彼女を……手放したくない」

 その真摯な告白に、レティシアは静かに頷いた。

「殿下。どうか、そのお気持ちを貫いてくださいませ。私も……私の想いを守りたい。そのために、協力し合えたらと願っておりますわ」

「協力……」

 アレクは彼女の瞳を見つめ返す。そこには計算ではなく、同じ立場に立つ者の真実があった。
 沈みゆく陽が二人を染める。
 その光の中で結ばれたのは、愛ではなく、確かな信頼だった。


 ◇


 王城の回廊は夕陽に染められ、長い影が床一面に伸びていた。学園帰りのため、私はカイル様と並んで歩きながらも、心ここに在らずのまま靴音を響かせていた。
 耳の奥にはまだあの日の言葉が残っている。

――「好きなんだ」。

 掠れた声、吐き出すような告白。頭の中で何度も繰り返してしまうのに、現実の私は彼に背を向け、仮面の笑顔で返してしまった。

 あれから、アレク様とは一度も顔を合わせていない。避けているわけではない。
 けれど彼の姿を思い浮かべるだけで、どうしても足がすくんでしまう。彼に縋りたい心と、受け入れてくれたこの国への義務の間で、私はどこへも進めずにいた。

「リシェル様……」

 隣を歩くカイル様が、気遣うように声をかけてくれる。
 私は小さく微笑んだ。けれど、それが作り物の笑みであることを、彼にはとっくに見抜かれているのだろう。

 そのときだった。大きな窓の外、城の庭園に二つの影が映った。

 鮮やかなドレスに身を包んだ少女――辺境伯令嬢レティシア様。そしてその隣には、私の知る誰よりも大切な人の姿があった。

「……アレク、様」

 喉の奥で掠れた声が漏れる。
 視線はどうしても彼から離せなかった。

 アレク様は穏やかな表情で、レティシア嬢に言葉をかけていた。
 彼女は驚いたように瞳を瞬かせ、次の瞬間、はにかんだ笑みを返す。その光景は、まるで……まるで親しい恋人同士のように映った。
 以前の街歩きとは全く異なる二人の空気感。
 胸がずきりと痛む。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、息が浅くなる。

(……あの笑顔。私に見せてくださっていたアレク様の笑顔…)

 けれど、あの日。彼の想いを受け止める代わりに、私は拒むしかできなかった。
 だからこそ、こうして彼が別の令嬢に心を寄せていても、不思議ではない。
 むしろ当然なのだ。私ではなく、辺境伯令嬢を選ぶほうが、王子としての未来にはふさわしい。

「リシェル様……」

 横で、カイル様が低く名を呼んだ。

「アレク殿下は誠実な方です。きっと、きっと何か事情が…!」

 彼の声には焦りが混じっていた。私の顔色が青ざめているのに気づいたのだろう。
 私は振り返り、小さく首を振る。

「大丈夫ですわ」

 そう言った声は、自分でも驚くほど震えていた。
 大丈夫なはずがない。
 けれど、私の心を守るために許されるのは、完璧な笑顔だけ。

 「……少し、一人にしてくださる?」

 なんとか保った声。隣にいたカイル様の瞳が揺れた。
 彼はアレク様から送迎を頼まれていると聞いている。それでも今の私を見て、強引に引き止めることはできなかったのだろう。

「……お送りしましょう。せめて部屋までは」
「いいえ……お願いします。今は、本当に……」

 笑みを作ったつもりだったが、声がか細く震えた。
 カイル様はしばし迷うように眉をひそめ、それでも小さく頷いた。

「……分かりました。ただ……どうか、どうか、無理はなさらぬよう。」

 その言葉を背に受け、私は足を速めた。
 視界が滲む。見せてはいけない。涙など、絶対に。
 ただ部屋に戻って、扉を閉ざして――一人で。

 けれど、焦る気持ちに足がもつれ、ほとんど駆けるように廊下を進んだ、その時。

「きゃっ……!」

 角を曲がった瞬間、固い何かにぶつかり、体が大きく揺らぐ。
 倒れかけた私の腰を、力強い腕が支えた。



「……リシェル嬢?」

 耳元に落ちてきた低い声。


 顔を上げると、そこにはユリウス様がいた。
 夕陽を背にしたその瞳は、驚きと……どこか探るような色を湛えていた。

「すまない、急に……」
「い、いえ……私こそ……」

 慌てて離れようとしたけれど、彼の手は容易には外れなかった。
 むしろ、そっと抱き寄せられるようにして胸元へと引き寄せられる。

「大丈夫か。……顔色が悪い」

 その声は優しい。けれど、その優しさは人の心を絡め取る網のように、逃げ場を塞いでいた。
 必死に取り繕おうとした私の瞳から、つ、と雫がこぼれ落ち、ユリウス様の衣に染みを作った。

「……泣いているのですね」

 ユリウス様の囁きが、鼓膜を震わせる。
 否定したいのに、喉が塞がって声が出ない。

 ユリウス様は何も言わなかった。ただ、静かに私を支え続けていた。
 その沈黙が、逆に心を揺さぶる。
 私は俯き、彼の胸元に額を押し当てた。
 涙を堪えるように。誰にも見られないように。

 けれど、彼の腕の中は思いのほか温かく――そのぬくもりが、危うい慰めとなって私を包み込んでいった。
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