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第一章
第三話 天の理に刻まれぬもの
しおりを挟む季節は巡り、シオンが目覚めてから五年の月日が流れた。
十歳になったシオンの身体には、かつて制御できなかった神の力がようやく馴染んできた。日常的に高熱を出すことも、倒れて眠り込むこともなくなった。神力を無理に抑え込む必要がなくなったことで、彼の心にも穏やかな余裕が生まれていた。
かつて神力を湯に移していた日々はすでに過去のものとなったが――。
「今日も綺麗ですね、奥様……」
シオンの母、オリヴィアが湯上がりに見せる艶やかな微笑みは、以前にも増して神々しいほどだった。髪は絹糸のように滑らかに、肌は朝露を帯びた花弁のように潤っている。
「ふふ。今朝もお願いしてしまったの。ねえ、シオン?」
「うむ。母上の頼みとあらば、応えぬわけにはゆかぬ」
白い湯気のように柔らかな笑みを浮かべる息子に、クローヴィスは額を押さえて深く溜息をついた。
「……頼むから、お前の力を美容目的に使うのはやめてくれ。私の胃とこめかみが限界だ」
誰にも明かすことなく、今なお公爵家では日常的に“それ”が使われている。もちろん、母のためだけに。
ルバート王国では、すべての国民が十歳になると一度目の魔力検査を受けることが義務づけられている。その後も、十三歳、十五歳、十八歳……と数年ごとに生涯にわたって検査は続く。
魔力の有無と、その属性、適性、強度。いずれも検査で明らかとなる。貴族であろうと平民であろうと例外ではない。
すでに国の教会からは、検査日と案内状が届けられていた。
「あと数日で教会か……やれやれ、また頭痛の種が増えそうだ」
クローヴィスは眉間を揉みながら、窓辺に座る息子へ視線を向けた。シオンは庭に咲く青紫の花々を眺めながら、口元を小さく動かしている。
「……ありがとござ……ありとう、ごぜます……ありと、ありがとう……ござ、ます……」
少し歪んだ発音を何度も繰り返しながら、真剣に言葉を練習しているのだった。
シオンは、自ら望んで“この世界の言葉”を身につけようと努力している。今の彼にとって、日常生活はほぼ問題なく過ごせるようになっているが、時折、ふとした拍子に“元の神としての話し方”が滲み出てしまうことがある。本人はそれを周りの者にとっては「変な喋り方」なのだと認識しており、できるだけ馴染もうと懸命なのだ。
「ふふ……真面目な子ね」
オリヴィアが慈しむように微笑み、傍で控えていたグラーヴェは「また可愛いことして……」と頬を緩ませた。
そして魔力検査当日。
朝露が消え始めた頃、フォルシェンド邸の前に、一台の黒馬の引く馬車が静かに待機していた。装飾を抑えた上質な造りは、派手さはないが公爵家に相応しい威厳を纏っている。
屋敷の扉が開き、シオンがクローヴィスに手を引かれて姿を現す。続いてオリヴィア、そしてグラーヴェも共に現れた。
「今日という日が、何事もなく終わることを祈るしかないな……」
クローヴィスが馬車に乗り込む際、ポツリと小声で呟く。
「大丈夫ですよ。シオンはきっと、上手くやってくれます」
グラーヴェは隣で微笑みながら言うが、その手にはかすかな震えがあった。
シオンはと言えば、馬車の窓に顔を寄せ、キラキラとした瞳で外の景色を見つめていた。
――十年の歳月を経て、初めて見る世界。屋敷の外。人々の暮らし。風の匂い。
「母上、あれは何であるか?」
「お店よ。街の人が食べ物や布なんかを売っているの」
「では、あれは?」
「馬車屋さんね。旅をする人たちが使うのよ」
「ほう……人の世とは面白いのう……」
夢中になって次々と尋ねるシオンに、オリヴィアは微笑ましげに答え続ける。母の表情は柔らかく、息子が楽しげにしている姿に心から安堵している様子だった。
その一方で、クローヴィスは窓の外を見ながら、無言で額を押さえていた。
――平穏であれ。どうか、平穏であれ。
グラーヴェはというと、弟が興味津々にあれこれ尋ねるのを横目で見ながら、同じように額に手を当てていた。
「シオン……頼むから、今日は……絶対に……大人しく…。」
小声で、誰にも聞こえぬ祈りを捧げる。
やがて馬車は、王都の中心――聖女神アマネヒメを祀る大教会の正門前に到着する。
威厳に満ちた石造りの建物。大理石の柱が並び、天には女神を象った巨大なステンドグラスが嵌められていた。荘厳、かつ神聖。
ここが、王都最大の教会――神聖教会『暁光の聖座』。
今日はこの国の十歳の貴族子息たちが一堂に集められている。
王家直属の家々、公爵、侯爵、伯爵……いずれも名のある貴族たちの令息ばかりだ。
集まった子息たちは、早くも互いに談笑し、緊張と期待の入り混じった空気が流れていた。
だが、その空気はシオンの登場によって一変する。
馬車を降りた瞬間、黒髪に黒い瞳、雪のように透き通った肌――
その異質な容姿が、周囲の目を奪った。
「……あれが……フォルシェンド公爵家の……」
「次男……だよな……?屋敷から出ないって噂だった……」
「まさか、あんな……」
一瞬にしてざわめきが広がる。誰もが息を呑んだ。まるで、神話の中から抜け出したような存在が、現実に現れたかのようだった。
「……兄上、あれは何であるか?」
周囲の注目をまるで気にせず、シオンは首を傾げながら広場の噴水を指差した。
「噴水だよ。水を汲むためのものさ」
「ほう、天より水を召すか……なかなか雅じゃのう」
兄の答えに満足げに頷くと、シオンはフラフラと噴水の方へ歩いていこうとする。
「ちょ、シオン、待って!あっちじゃないよ!」
慌てたグラーヴェがすぐにその手を握り、引き留める。
「そなたの手は……温かいのう」
「シオン、お願いだからそういうことは今言わなくていいから!ほら、行くよ!」
二人の姿を、少し離れた場所で見守っていた両親は、思わず目を細めた。
微笑ましくも、どこか不安げな表情が交じっていた。
一行は、教会の大扉へと向かう。
この国で最も格式高い神聖の地。
神が祀られ、祝福と試練が与えられる場所。
重なる足音が大理石を打つなか、シオンが教会の中へと足を踏み入れたその瞬間――
空気が、変わった。
その場にいた神官たちは、反射的に息を止める。
「……今の……」
「……何かが……流れ込んだような……」
鼓膜を震わせる音もない。ただ、音ではない“気配”が、空間そのものを澄ませ、震わせる。
そして——
シャラン……。
鈴の音。
それは確かに耳に届いた。だが、音源はない。
シャラン……。
シャラン……。
一歩、また一歩と、シオンが歩を進めるたびに、空間の澱が洗い流されるような響きが広がっていく。鈴の音は、あまりにも自然で、あまりにも不可思議だった。
そのとき。
上階に設けられた高座で、祭壇を見下ろしていた二人の男が、同時に立ち上がった。
一人は枢機卿・アデル=トランベット。
もう一人は教皇・イシュトファル=ラザフォード。
いずれも、光魔法の最高位を司る者たち。女神アマネヒメの名の下に、この地上における“聖”の全てを統べる立場にある。
だがそのふたりが、まるで見慣れぬ怪異を目にしたかのように、無言のまま目を見開いていた。
「……あの子は……」
アデルの声は、かすれていた。喉が乾き、呼吸すら整わない。
イシュトファルの手は、椅子の肘掛けを白くなるほど強く握っていた。
その掌は微かに震えている。
「記録と……一致する」
「……まさか……この時代に……」
彼らが口にしたのは、神聖禁書《セレスティアル・エピタフ》に記された伝説の存在——
代々、枢機卿と教皇にだけ受け継がれる、禁断の文献に記されている、女神アマネヒメを教導した、唯一無二の神の師。
誰の名にも触れてはならぬ、古の存在。
その容貌が、黒髪の少年にあまりにも――酷似していた。
シオンは、教会の奥に祀られた女神像の前に立った。
その像は、光を宿す聖銀にて造られており、両腕を胸元に寄せるように組み、伏し目がちに微笑む姿は、見る者に神聖と安寧を抱かせる。
その姿を目にした瞬間、シオンの目元が僅かに緩む。
(ふむ……よう造られておるな)
心の中で静かに思う。
(面差しもよい。あやつの雰囲気をよう捉えておる……)
シオンはそっと目を細め、像を見上げながら、さらに思考を巡らせる。
(力の蓄積も清らか。穢れは微塵もない。……ここの者らは、まことに忠心深き者たちよの)
天音姫。
それは、かつて我の第一の弟子なりし者。人の世に降り、信仰を受け容れ、光を説き、地を護る者となった娘。
我が手を離れて久しいが……その像を見る限り、今なお信仰を受け続けている様子。
弟子を誇らしく思う気持ちと、ほんの少しのくすぐったさが、胸のうちに芽生えていた。
神官たちが進み出て、祭壇前に集う人々へと声を響かせる。
「これより、女神アマネヒメに祈りを捧げ、魔力検査の儀へ移ります。皆様、どうか膝をつき、心を静めてくださいますよう」
一人、また一人と、子供たちが膝をつき、目を閉じる。
シオンも、他の子供たちと同様に、静かに膝をついた。
祈りの姿勢は、見よう見まねではあったが——その仕草には、どこか厳かで、威厳さえ滲んでいた。
(……久しぶりじゃのう、この手を合わせる所作は)
(余は今、ただ伝えるのみ。……楽しんでおるぞ、天音姫。人の世も、悪くはない)
穏やかな心でそう報告するように、シオンはそっと目を閉じた。
そして——
その瞬間だった。
祈る子供たちの胸元から、淡い光が、ぽつり……ぽつり……と浮かび上がった。
それは、温もりを宿した小さな粒子。
まるで朝露に宿る光の雫のように、やわらかく輝く。
光の粒は空へと舞い上がり、女神像へと吸い込まれていく。
まるで、祈りという信仰の意志が、像へと還元されているかのようだった。
だが——その流れは、そこで終わらなかった。
像から今度は、逆流するように、光の粒が溢れ出した。
その光は、まっすぐに、ひとりの少年——
シオンへと、注がれていく。
教皇と枢機卿は、言葉を失った。
「……なっ……」
アデルの喉がひくりと震える。
彼は、椅子の背もたれに思わず手をつき、立ち上がることすらできず、身を前に乗り出した。
イシュトファルは額に冷や汗を浮かべ、胸元を押さえていた。
それは祈りの祝福ではない。
あれは“逆流”だ。
光の粒子は、子らの祈りを女神像へと運んだあと、まるで本来返るべき場所を見つけたように、シオンのもとへと還っていった。
そして、彼の周囲に漂う気配が、光を吸収するたびに、聖域そのものの空気が変質していく。
「……還っている……祈りが……!」
アデルは唇を噛みしめ、肩を震わせた。
「まさか……まさか、“あの存在”に……この場所でお会いするとは……!」
イシュトファルの言葉も震えていた。
心の奥底が、突き上げるような畏れに貫かれている。
これは敬意ではない。**本能が覚える“恐怖”**である。
神を祀る側に立つ者が、神“そのもの”を目にしたとき、心がどう揺れるのか。
その答えが、いま彼らを打ちのめしていた。
——膝をついて祈るべきは、こちらの側ではなかったのではないか。
——こんな場に、引き入れてはならなかったのではないか。
——あの御方に“祈らせて”しまってよいのか……?
そんな、言葉にもならぬ後悔と焦燥が、教会の頂に立つふたりを、じわじわと締め上げていった。
それでも、儀式は、粛々と進んでいく。
次は、魔力検査の番である。
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