アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳

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プロローグ

弐 切り放ち

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 火事と喧嘩は江戸の花と言う。
 江戸は火事が多い。火事が起きれば、すぐに町火消がやってくる。けれど、一番乗りを争って火消組同士が争い喧嘩となるということも多い。火事でなくとも、火消しは威勢のいい男達が多い。ちょっとしたことでいざこざになって喧嘩というのもよくある話である。中には無謀にも力士と喧嘩をした火消したちもいる。
 花と言われるほどありがたいものでもないのだが、火事も喧嘩も江戸の見物みものであった。
 喧嘩は勿論だが、火事は江戸の大名屋敷にとってもおおごとだった。
 冬ともなれば北から吹く乾いた風が災いし、ひとたび火が出れば大火災になることも多く、町家だけでなく、大名屋敷、旗本屋敷、時には将軍様のお城までもが被害を受けることは珍しくなかった。
 従って、どこの大名屋敷にも防火や火消しの備えがあった。大名火消しというものである。
 近くで火事が起きれば大名は火事装束をまとい、家臣らも消火活動を行うのである。消火活動の甲斐なく上屋敷に火が迫った場合は被害の及ばない中屋敷や下屋敷に避難する。
 一方、屋敷の奥にいる奥方様もまた火事装束を身に着け、奥女中達を指揮して避難の支度をする。





 ここ外桜田の月野家上屋敷の奥でも奥方のさと姫が火事を知らされ起床していた。

「奥方様、火事装束でございます」

 年若い中臈ちゅうろうが装束の入った長持ながもちをおつぎに運ばせ奥方様の居室に入った。

「あいわかった」

 奥方様は立ち上がった。側に控えていた小姓らはすぐに長持のふたを取り、中から装束を取り出した。
 この装束は奥方様のお輿入れ道具の中でも必需品である。それだけ江戸は火事が多いということである。
 この日は夏の六月晦日(新暦では八月中旬)。未明の八つ時(午前二時頃)、冬でもないのに、闇夜の江戸に半鐘の鐘が鳴り響いた。ジャーンと鳴ってややあってからまたジャーンとなる一打の鐘なので火元は遠い。だが、皆緊張の面持ちである。
 先月の十日に江戸城本丸が焼失し、大奥で大勢の女達が亡くなっていた。ここ月野家の奥でも、その話を伝え聞き、女達は改めて火の恐ろしさを思い知らされ火の用心を徹底していた。その矢先の火事だから、火元が遠くとも気を緩める者はいなかったのである。
 奥方様の火事装束の地色は鮮やかな緋色で羽織の袖や背には月野家本家の紋である月に兎の紋が刺繍されている。その下に着ている胸当てには波に千鳥の刺繍、烏帽子型の頭巾には滝と鯉の刺繍が入っている。水に関わるものを刺繍することで火の勢いを消すことを願ったのである。
 装束は羅紗ラシャという毛織物でできており、厚地で重い。奥方様は一言も暑いと言わない。暑さ寒さをみだりに口にしないのは、武家に生まれた者の嗜みだった。
 けれど汗を見れば、奥方様が暑いのは一目でわかる。中臈は懐紙を取り出し、「失礼いたします」と額の汗をぬぐった。

「お佳穂、そなたは暑くないのか」
「お心遣いかたじけなく存じます。奥方様に比べれば薄着でございますので」

 半鐘の音で慌てて起きて来たので寝間着の上に打掛を羽織っただけの姿だった。

「奥方様、火元は小伝馬こでんま町でございます」
「火の勢いが弱まったようです」

 火事の様子を知らせに次から次へと御錠口からの伝言が届けられる。
 小伝馬町なら離れているので、とりあえず今すぐ避難の必要はないようだった。
 年寄としより鳴滝なるたきも長持や葛籠つづらを庭先までお次を使って運び出させていたが、報告を聞き、いったん止めさせ奥方様の居室にやって来た。
 鳴滝は佳穂と同じ頃に起きたはずなのに、いつの間にか化粧を済ませていた。佳穂はさすがは鳴滝様と尊敬のまなざしを向けた。

「こちらまでの延焼はないようです」
「火は消えたのか」
「いまだ消えておりません」
「では、引き続きいつでも中屋敷へ移れるように。皆に油断せぬように、いたずらに騒いで見苦しき姿を見せぬようにと伝えよ」
「かしこまりました」

 そばにいた佳穂はうつむいた。己の恰好ときたら化粧もせず、髪もろくに整えず、寝間着に打掛を着ただけ。その姿で部屋子のお喜多きたとお三奈みなを起こして、奥方様の部屋に駆け込み半鐘の鳴っていることを知らせ、お次に命じて火事装束の入った長持を運ばせた。さぞや見苦しいさまに見えたに違いない。
 鳴滝が部屋を出た後、奥方様は言った。

「お佳穂、そなたよく半鐘の音に気付いたな。火事装束の支度もまことに速やかであった。部屋に戻り、身支度をせよ」

 優しい口調に佳穂は泣きたくなったが、ぐっとこらえて、それではと自室に戻った。
 装束や髪を整え化粧をして奥方様の居室に行くと、火は消えたとのことで火事装束から常の御召し物に着替えている途中だった。
 次の間で控えていると、鳴滝が来た。
 鳴滝は低い声で言った。

「先ほどの働き、大儀であった」
「おそれいります」

 鳴滝の言葉で、佳穂はやっとほっとできた。至らぬ自分でも何かの役に立てるというのはまことに嬉しいことだった。
 着替えが終わり居室に入ると、鳴滝が火事の次第を報告した。大きな被害はなかったという報に皆胸をなで下ろした。が、それも束の間だった。

「火元が小伝馬町の牢屋敷の敷地の内で、牢に火が迫ったため切り放ちが行なわれた由にございます」

 その一言にその場にいた中臈、小姓は皆顔を青ざめさせた。
 切り放ちとは、牢獄の囚人を非常時に牢から出して逃がすことである。明暦の大火の際に牢屋奉行の石出いしで帯刀たてわきが炎が迫る牢屋敷の囚人を救うため、一時的に解き放ったのが始まりである。三日のうちに北町または南町の奉行所か本所回向院に出頭すれば、罪一等を減ずるという慣習になっている。そういうわけでほとんどの囚人は出頭するのである。
 だが、牢屋敷にいた者が牢を出て江戸市中を歩いていると思えば、穏やかではいられない。
 しかも、殿様は四月に国許くにもと望月もちづきに戻っている。お供の者たちが三百人ほど帰国しているので、上屋敷の中にいる男は二百人前後で非常時の備えには心もとない。
 冷静に考えれば大名屋敷に囚人が入り込めるわけはないのだが、下働きの者の中には外から通ってくる者もいるし、使いとして外出する者もいる。これはいつも以上に用心しなければと皆緊張の面持ちとなった。
 だが、奥方様は落ち着いていた。

「確かに心配ではあるが、さような者が再び罪を犯そうとするであろうか。何事もなく戻れば、罪一等減じられると聞く。いかな咎人とがびとも人の子。そのようなことを聞けば悪事に手を染めようと思うであろうか。用心するのは構わぬが、必要以上に怯えることはなかろう」

 奥方様にそう言われると、皆不安が晴れる心持ちになってくる。

「それでは、皆にも火事の後ゆえ用心するように、ただしみだりに怖がらぬように伝えましょう」

 鳴滝は奥方様の意を汲んで言った。
 実際、この日、切り放ちの沙汰を受け牢屋敷から逃げた囚人たちは何の問題も起こさず、ほとんどが期日までに町奉行所や回向院に出頭した。
 だが、ただ一人、戻ってこない男がいた。
 その男の人相書きは江戸だけでなく、全国に出回った。
 屋敷の奥の女達も当初はおお怖いと怯えていたが、やがて忙しさに紛れて忘れていった。
 中臈の佳穂もまたその一人だった。




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