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絡まる謎
陸 心の風穴
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シロの毛刈りの日、佳穂は若殿と夕食をともにした。精進日ではなかったので夜もと思っていると、食後に又四郎は人払いをした上で言った。
「今宵はすまぬ。昨夜例の浪人が殺されたゆえ」
今宵は一緒に過ごせぬということに、佳穂は少なからぬ衝撃を受けた。それほどまでに己も又四郎と共にいたいと望んでいることに今更ながら気付いたことも驚きだった。
けれど、尼を襲ったという浪人が殺されたことも衝撃だった。一体何故殺されねばならぬのか。誰が殺したのか。
「一体、誰に」
「わからぬ。ただわかっていることは、浪人に生きていてもらっては困る者がいるということ」
恐ろしいことだった。生きていてもらいたくないから殺すなど。人のやることではない。
尼を襲った浪人もまた、人のやることではないことをやったとはいえ、殺されていいはずがない。
そう思う一方で、顔も知らぬはずの浪人の死を知り、佳穂と過ごす気になれぬ又四郎の気持ちが、佳穂にはわかる気がした。浪人は手習いの師匠をやっていたということだった。恐らく子どもらに敬われ慕われていたに違いない。そういう人がなぜ一分銀数枚のために、尼を襲おうとしたのか。どういう理由があったのか。そういうことを思えば、一介の浪人のこととうち捨てるわけにはいかない。
「どんな理由であれ、人ひとりの命が奪われるというのは、つらいものですね」
「そう思うか」
「はい」
「お佳穂は優しいな」
そう口にした又四郎がひどく寂し気に見えた。
「若殿様、何かあったのですか」
又四郎はわずかに頬を動かし、微笑んで見せた。
「何もない。お佳穂は怖くないのか」
「怖いと思います。人を殺めようという人の気持ちというのが。一度失った命はもう戻らないのですから」
佳穂は母が死んだ後のことを思い出した。乳母が三途の川を渡ったと言ったので、近くを流れる作楽川のそばまで行ったが、母の姿はなかった。本当に自分は子どもだったのだと思う。三途の川など生きている者には見えないはずなのに。見えない川を渡った母に会えるはずなどないものを。
けれどそこで佳穂は生きている千代に会った。あばたのことも母の死も佳穂の抱いていた鬱屈を千代は受け止め洗い流してくれたように思う。自分も千代のようになりたかった。又四郎にとっての。
「そうだな。戻らないのだな。光信院様も赤岩も」
「若殿様なら、さように理不尽に人の命が失われる悲しみを領民に味あわせぬようなまつりごとができると思います」
「お佳穂……まことにそなたは」
一時でも浪人の死を願っていた又四郎は後ろめたい思いを抱えていた。そんな気持ちを佳穂は怖いと言う。又四郎はもし佳穂が己の気持ちを知ったらどう思うであろうかと想像し、恐ろしくなった。きっと近づいていた二人の距離は離れてしまうだろう。それが又四郎には怖かった。一方では佳穂に嫌われることを恐れる己の身勝手さに腹が立った。結局、己は自分のことしか考えていないのだ。浪人のことにしろ、佳穂のことにしろ。
そんな己に佳穂が向けるまなざしがまぶしく思われた。佳穂は自分を買いかぶっていると言いたかった。自分はそんな立派な人間ではない。
「私のようなものにできると思うか」
「はい。信じています」
佳穂の声は凛として張りがあった。本当に信じてくれているのだと感じられた。
「ありがとう」
佳穂の信頼に応えられる男にならねばならぬと思った。
と同時に自分の望む国の姿も実現したかった。そのためには長岡が必要だった。捕われては困るのだ。
だが、側近たちは今身動きできない。佐野は浪人の件で取り調べを受けている。田原も益永も取り調べは受けていないが、目付の配下から監視されている。
「ところで」
遠慮がちな調子で佳穂は言った。
「いかがした」
「おみちの文はいかがなりましたでしょうか」
「すまぬ。文を渡す機会を逸してしもうた」
吉井とは御前様の前で顔を合わせていたが、浪人の一件の話だけで終わっていた。佳穂の頼みだというのに、なんとお粗末なことかと又四郎は申し訳なく思った。
「こんなことでは駄目だな」
「仕方ありません。皆様お忙しかったのですから」
「明日には渡そう」
「なにとぞよろしくお願いします」
佳穂が奥に戻った後、又四郎は明日とは言わず今日と思い、目付の仕事部屋に行った。だが、吉井はいなかった。部下たちの話では屋敷に着替えに戻ったとのことだった。恐らく亥の刻(午後十時)の前には火の番に戻ってくるということだった。
やはりこれは今夜ではなく明日と思い、中奥に戻った。
自室に行き、長岡から以前送られた文を開いた。西洋の学者のことを書いたもので、レネ・デルカルテスやレイプニッツ、ネウトンといった名を見るだけで心が躍った。彼らの経験・実験により後世の自然学が起こり、形而下学的研究が形而上学の前提条件となったという一節に、又四郎はこれから、日の本にもこの自然学が流れ込めば、佳穂の言う理不尽に人の命が失われることも減らせると考えていた。
たとえば、佳穂にあばたを残した病もそうだった。すでに西洋には種痘というものがあり、それを接種することにより天然痘を予防することができるのだと言う。二十年以上も前にそれを記した書物が翻訳されているが、まだ普及していない。
これを領内に広めれば、佳穂の母のように亡くなる者もなく、佳穂のようにあばたに悩む者もいなくなるはずである。藩主になれば、それが可能になるのだ。
領内でうまくゆけば、近隣の諸侯も種痘を実施するようになろう。やがては江戸でも行われるようになったら、日の本から病を駆逐することもできよう。
又四郎にとってこれは是非ともしなければならぬ事業だった。
だが、高邁な理想に燃えている又四郎は己の身勝手さも自覚せざるを得なかった。恐ろしいことに藩主となれば、それをそばで指摘してくれる者はいなくなる。いても、彼らを遠ざけることのできる権力がある。恐ろしいことだった。
それゆえ己に厳しくあらねばと思う。少なくとも、真っすぐな佳穂の姿勢に恥じぬ生き方がしたかった。彼女の信頼を失うようなことはしてはならぬ。彼女の心を失ったら、己はこの先藩主としてやっていけるかどうか。
「若殿様、目付が参りました」
小姓が襖の外から声を掛けた。仕事部屋の者が又四郎の来訪を伝えてくれたらしい。
入るように言い早速おみちの文を渡した。
「申し訳ありませんが、検めさせていただきます」
罪人への文は必ず役人が目を通すことになっている。又四郎はうなずいた。
吉井は文をざっと読んだ。
「よろしうございます。返事があれば、どちらに」
「奥のお佳穂に頼む」
「畏まりました」
吉井が部屋を出た後、又四郎はほっと息をついた。
目付と同席するのは緊張する。だが、そういう家臣も必要だった。もし、己が吉井を疎ましく思うようになった時は藩主としての心構えが歪んだ時かもしれぬ。
若殿様は何を悩んでおいでなのだろうか。佳穂は夕餉の後の又四郎を思い出していた。
浪人の死を告げた後、どこか寂しげで頼りなさそうに見えた。佳穂に英吉利の言葉を教える時の溌剌とした表情がなかった。
やはり、人の死というのは誰であれ悲しいものなのだろう。
自分を襲ったお志麻、お志麻を操っていた尼伶観、伶観を襲った浪人赤岩。顔を見た事はなくとも、そういう因果があれば、又四郎は他人事とは思えないのかもしれない。
そういう又四郎のことが、佳穂には好ましく思われた。他人の不幸を己の不幸のように感じる心根を持っている人が御前様にいずれなられるというのは、ありがたいことだった。
温かい心の持ち主だから、きっと領民に慕われるに違いなかった。今の御前様もそうだった。江戸に出て来た佳穂を実の娘のように思ってくださっている。
ただ、そんな人だから、いずれ来る正室にもきっと好ましく思われることだろう。若殿様は妻は娶らぬと言うが、そういうわけにはいかないのだ。町人とは違うのだから。
奥方様から好意を持たれれば若殿様も好意を抱くようになるに違いない。若殿様は不人情なことをなさる方ではない。若殿様は奥方様を大事になさるだろう。そうなったら、己の立場はどうなるか。
そんなことを考えるのは身勝手なことかもしれなかった。若殿様第一にお仕えしなければならないこの身だから、若殿様が奥方様を寵愛なさることに異議を唱えるのは許されない。自分だけを愛して欲しいと思うのは臣下として許されるはずがない。
やはり、好きになってはいけない方なのだ。「好き」などと言ってはならない。
今日のように、シロの毛刈りを見せてもらったり、こまんどを教えてもらったりしても、それを特別なことなどと思ってはならないのだ。
そう思うと正直心に風穴が開いたようだった。
ふと、お志麻の方のことを思った。彼女もこのような物思いをしていたのだろうか。光信院は婚約が間もなく調うはずであった。お志麻は一体どんな思いでいたのか。今の佳穂の心の風穴どころではない大きな空洞を抱えていたのかもしれぬ。
そこに尼は付け込んだのかもしれなかった。人は弱くなれば、何かにすがりたくなるものなのだろう。
今すぐに強くなることはできぬが、付け込まれぬようにしなければならぬと思う。
ふと、又四郎から渡された書物のことを思い出した。寵愛が奥方様に移っても、英吉利の言葉を知っていれば少しはお役に立てるかもしれない。
最初は文字から始まっていた。
A、B、C、D、Eの読み方が横に書いてあったので声に出してみた。
「亜、彼、西、地、衣」
いろはとはまた違う順序のようであった。しかも文字は二十六文字が二種類あるのみだった。漢字のような文字がない。
次を見ると、英吉利の文字で書かれた言葉と、その漢訳があった。文字の上には読み方が書き込まれていた。
am 在
どうやらamという文字は在るということを意味しているらしい。
その下にもaという文字から始まる語が並んでいた。順を追っていくと眠くなりそうだったので、何か知っている言葉がないか探すと「犬」という文字が見えた。
dog
又四郎の教えてくれたどっぐだった。英吉利ではかような文字を書くのかと佳穂は指で小机の上をなぞってみた。dという文字が耳を立てた犬を横から見た姿のように見えた。gもお座りをする犬を後ろから見たような形だった。
「ドッグ」
口に出してみると、シロの姿が思い浮かんだ。英吉利にも、シロのような犬がいるのだろう。
ささやかな知識ではあった。だが、少しだけ心の風穴を埋められたような気がする佳穂だった。
翌朝、佳穂は淑姫の小姓らに呼ばれた。
「姫様がおめざにならないのです」
起こして欲しいらしい。だが、御前様からは起こしてはならぬと言われている。
するとお喜多が起こして参りますと言う。佳穂が行けないことを知っていてのことだった。
佳穂はお喜多が行くなら構うまいと行かせることにした。
それが効を奏したのか、淑姫は無事に起きて仏間に行き挨拶ができたようだった。
なにしろ明日は寛善院様の法要である。奥からも奉納用の写経や僧侶への礼の品などを用意することになっており、その確認等で女達は忙しかった。法要のため寺に行くことはないのだが、奥の仏間での仏事も予定されており、仏具の手入れの確認などを怠るわけにはいかなかった。
こんな時に姫様が起きてこないなど、朝から予定が狂うことをしてもらうと困るのだった。
ただ気になるのは、淑姫がひどく眠そうに見えることだった。
佳穂はおみちに昨夜姫様はお休みになれたのか尋ねた。おみちは、そういえばうなされておいでのようでしたと言う。
夢見が悪くて眠れなかったのかもしれぬと思い、それ以上はおみちに問い質すことはなかった。
おみちは佳穂の遠ざかる後ろ姿を見て、ほっと安堵の息をついた。お佳穂様に嘘をつくのは申し訳ないが、姫様には決して昨夜部屋を抜け出したことは誰にも言うなと言われている。姫様の命令は絶対だった。
注)
レネ・デルカルテス……ルネ・デカルト(仏 1596~1650)
レイプニッツ……ライプニッツ(独 1646~1716)
ネウトン……ニュートン(英 1642~1727)
長岡のモデルにした人物が書いた文書に実際に書かれている人名です。
また文中の英語の本は国立国会図書館デジタルコレクションの「英吉利文話之凡例」を参考にしています。
「今宵はすまぬ。昨夜例の浪人が殺されたゆえ」
今宵は一緒に過ごせぬということに、佳穂は少なからぬ衝撃を受けた。それほどまでに己も又四郎と共にいたいと望んでいることに今更ながら気付いたことも驚きだった。
けれど、尼を襲ったという浪人が殺されたことも衝撃だった。一体何故殺されねばならぬのか。誰が殺したのか。
「一体、誰に」
「わからぬ。ただわかっていることは、浪人に生きていてもらっては困る者がいるということ」
恐ろしいことだった。生きていてもらいたくないから殺すなど。人のやることではない。
尼を襲った浪人もまた、人のやることではないことをやったとはいえ、殺されていいはずがない。
そう思う一方で、顔も知らぬはずの浪人の死を知り、佳穂と過ごす気になれぬ又四郎の気持ちが、佳穂にはわかる気がした。浪人は手習いの師匠をやっていたということだった。恐らく子どもらに敬われ慕われていたに違いない。そういう人がなぜ一分銀数枚のために、尼を襲おうとしたのか。どういう理由があったのか。そういうことを思えば、一介の浪人のこととうち捨てるわけにはいかない。
「どんな理由であれ、人ひとりの命が奪われるというのは、つらいものですね」
「そう思うか」
「はい」
「お佳穂は優しいな」
そう口にした又四郎がひどく寂し気に見えた。
「若殿様、何かあったのですか」
又四郎はわずかに頬を動かし、微笑んで見せた。
「何もない。お佳穂は怖くないのか」
「怖いと思います。人を殺めようという人の気持ちというのが。一度失った命はもう戻らないのですから」
佳穂は母が死んだ後のことを思い出した。乳母が三途の川を渡ったと言ったので、近くを流れる作楽川のそばまで行ったが、母の姿はなかった。本当に自分は子どもだったのだと思う。三途の川など生きている者には見えないはずなのに。見えない川を渡った母に会えるはずなどないものを。
けれどそこで佳穂は生きている千代に会った。あばたのことも母の死も佳穂の抱いていた鬱屈を千代は受け止め洗い流してくれたように思う。自分も千代のようになりたかった。又四郎にとっての。
「そうだな。戻らないのだな。光信院様も赤岩も」
「若殿様なら、さように理不尽に人の命が失われる悲しみを領民に味あわせぬようなまつりごとができると思います」
「お佳穂……まことにそなたは」
一時でも浪人の死を願っていた又四郎は後ろめたい思いを抱えていた。そんな気持ちを佳穂は怖いと言う。又四郎はもし佳穂が己の気持ちを知ったらどう思うであろうかと想像し、恐ろしくなった。きっと近づいていた二人の距離は離れてしまうだろう。それが又四郎には怖かった。一方では佳穂に嫌われることを恐れる己の身勝手さに腹が立った。結局、己は自分のことしか考えていないのだ。浪人のことにしろ、佳穂のことにしろ。
そんな己に佳穂が向けるまなざしがまぶしく思われた。佳穂は自分を買いかぶっていると言いたかった。自分はそんな立派な人間ではない。
「私のようなものにできると思うか」
「はい。信じています」
佳穂の声は凛として張りがあった。本当に信じてくれているのだと感じられた。
「ありがとう」
佳穂の信頼に応えられる男にならねばならぬと思った。
と同時に自分の望む国の姿も実現したかった。そのためには長岡が必要だった。捕われては困るのだ。
だが、側近たちは今身動きできない。佐野は浪人の件で取り調べを受けている。田原も益永も取り調べは受けていないが、目付の配下から監視されている。
「ところで」
遠慮がちな調子で佳穂は言った。
「いかがした」
「おみちの文はいかがなりましたでしょうか」
「すまぬ。文を渡す機会を逸してしもうた」
吉井とは御前様の前で顔を合わせていたが、浪人の一件の話だけで終わっていた。佳穂の頼みだというのに、なんとお粗末なことかと又四郎は申し訳なく思った。
「こんなことでは駄目だな」
「仕方ありません。皆様お忙しかったのですから」
「明日には渡そう」
「なにとぞよろしくお願いします」
佳穂が奥に戻った後、又四郎は明日とは言わず今日と思い、目付の仕事部屋に行った。だが、吉井はいなかった。部下たちの話では屋敷に着替えに戻ったとのことだった。恐らく亥の刻(午後十時)の前には火の番に戻ってくるということだった。
やはりこれは今夜ではなく明日と思い、中奥に戻った。
自室に行き、長岡から以前送られた文を開いた。西洋の学者のことを書いたもので、レネ・デルカルテスやレイプニッツ、ネウトンといった名を見るだけで心が躍った。彼らの経験・実験により後世の自然学が起こり、形而下学的研究が形而上学の前提条件となったという一節に、又四郎はこれから、日の本にもこの自然学が流れ込めば、佳穂の言う理不尽に人の命が失われることも減らせると考えていた。
たとえば、佳穂にあばたを残した病もそうだった。すでに西洋には種痘というものがあり、それを接種することにより天然痘を予防することができるのだと言う。二十年以上も前にそれを記した書物が翻訳されているが、まだ普及していない。
これを領内に広めれば、佳穂の母のように亡くなる者もなく、佳穂のようにあばたに悩む者もいなくなるはずである。藩主になれば、それが可能になるのだ。
領内でうまくゆけば、近隣の諸侯も種痘を実施するようになろう。やがては江戸でも行われるようになったら、日の本から病を駆逐することもできよう。
又四郎にとってこれは是非ともしなければならぬ事業だった。
だが、高邁な理想に燃えている又四郎は己の身勝手さも自覚せざるを得なかった。恐ろしいことに藩主となれば、それをそばで指摘してくれる者はいなくなる。いても、彼らを遠ざけることのできる権力がある。恐ろしいことだった。
それゆえ己に厳しくあらねばと思う。少なくとも、真っすぐな佳穂の姿勢に恥じぬ生き方がしたかった。彼女の信頼を失うようなことはしてはならぬ。彼女の心を失ったら、己はこの先藩主としてやっていけるかどうか。
「若殿様、目付が参りました」
小姓が襖の外から声を掛けた。仕事部屋の者が又四郎の来訪を伝えてくれたらしい。
入るように言い早速おみちの文を渡した。
「申し訳ありませんが、検めさせていただきます」
罪人への文は必ず役人が目を通すことになっている。又四郎はうなずいた。
吉井は文をざっと読んだ。
「よろしうございます。返事があれば、どちらに」
「奥のお佳穂に頼む」
「畏まりました」
吉井が部屋を出た後、又四郎はほっと息をついた。
目付と同席するのは緊張する。だが、そういう家臣も必要だった。もし、己が吉井を疎ましく思うようになった時は藩主としての心構えが歪んだ時かもしれぬ。
若殿様は何を悩んでおいでなのだろうか。佳穂は夕餉の後の又四郎を思い出していた。
浪人の死を告げた後、どこか寂しげで頼りなさそうに見えた。佳穂に英吉利の言葉を教える時の溌剌とした表情がなかった。
やはり、人の死というのは誰であれ悲しいものなのだろう。
自分を襲ったお志麻、お志麻を操っていた尼伶観、伶観を襲った浪人赤岩。顔を見た事はなくとも、そういう因果があれば、又四郎は他人事とは思えないのかもしれない。
そういう又四郎のことが、佳穂には好ましく思われた。他人の不幸を己の不幸のように感じる心根を持っている人が御前様にいずれなられるというのは、ありがたいことだった。
温かい心の持ち主だから、きっと領民に慕われるに違いなかった。今の御前様もそうだった。江戸に出て来た佳穂を実の娘のように思ってくださっている。
ただ、そんな人だから、いずれ来る正室にもきっと好ましく思われることだろう。若殿様は妻は娶らぬと言うが、そういうわけにはいかないのだ。町人とは違うのだから。
奥方様から好意を持たれれば若殿様も好意を抱くようになるに違いない。若殿様は不人情なことをなさる方ではない。若殿様は奥方様を大事になさるだろう。そうなったら、己の立場はどうなるか。
そんなことを考えるのは身勝手なことかもしれなかった。若殿様第一にお仕えしなければならないこの身だから、若殿様が奥方様を寵愛なさることに異議を唱えるのは許されない。自分だけを愛して欲しいと思うのは臣下として許されるはずがない。
やはり、好きになってはいけない方なのだ。「好き」などと言ってはならない。
今日のように、シロの毛刈りを見せてもらったり、こまんどを教えてもらったりしても、それを特別なことなどと思ってはならないのだ。
そう思うと正直心に風穴が開いたようだった。
ふと、お志麻の方のことを思った。彼女もこのような物思いをしていたのだろうか。光信院は婚約が間もなく調うはずであった。お志麻は一体どんな思いでいたのか。今の佳穂の心の風穴どころではない大きな空洞を抱えていたのかもしれぬ。
そこに尼は付け込んだのかもしれなかった。人は弱くなれば、何かにすがりたくなるものなのだろう。
今すぐに強くなることはできぬが、付け込まれぬようにしなければならぬと思う。
ふと、又四郎から渡された書物のことを思い出した。寵愛が奥方様に移っても、英吉利の言葉を知っていれば少しはお役に立てるかもしれない。
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A、B、C、D、Eの読み方が横に書いてあったので声に出してみた。
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am 在
どうやらamという文字は在るということを意味しているらしい。
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dog
又四郎の教えてくれたどっぐだった。英吉利ではかような文字を書くのかと佳穂は指で小机の上をなぞってみた。dという文字が耳を立てた犬を横から見た姿のように見えた。gもお座りをする犬を後ろから見たような形だった。
「ドッグ」
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佳穂はお喜多が行くなら構うまいと行かせることにした。
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なにしろ明日は寛善院様の法要である。奥からも奉納用の写経や僧侶への礼の品などを用意することになっており、その確認等で女達は忙しかった。法要のため寺に行くことはないのだが、奥の仏間での仏事も予定されており、仏具の手入れの確認などを怠るわけにはいかなかった。
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おみちは佳穂の遠ざかる後ろ姿を見て、ほっと安堵の息をついた。お佳穂様に嘘をつくのは申し訳ないが、姫様には決して昨夜部屋を抜け出したことは誰にも言うなと言われている。姫様の命令は絶対だった。
注)
レネ・デルカルテス……ルネ・デカルト(仏 1596~1650)
レイプニッツ……ライプニッツ(独 1646~1716)
ネウトン……ニュートン(英 1642~1727)
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