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14 不義密通の抜け穴
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「駄目よ」
母上は見たこともないような真面目な顔になっていた。
「こんななりをしている私が言うことじゃないかもしれないけれど、あちらは独り身。あなたは既婚者。恩人ではあるけれど、あまり近づかないほうがいい。最悪、不義密通を疑われる」
不義密通。言葉は聞いたことはあるが、私の周囲ではほとんど聞いたことがない。テレビのドラマでは時々出てくる。人形浄瑠璃を原作にしたドラマでは、不義密通は死罪と言っている。
「そんなことあるんですか」
「ええ。『今週の切腹』では出てこないけど、病気を理由に離縁したとか聞いたことない? あれの半分以上は不義密通ね。相手の男が賠償金を払って内々で解決してるらしいわ」
そういえば「今週の切腹」で不義密通で死罪になったというのは見たことがない。死罪になる人がいないのはそういうことだったのだ。
私ははっとした。代用教員になった最初の年に、副担任になった組の生徒の父親が二学期になる前に離婚したことを担任に伝えていた。小学校は母親が参加する行事が多いから配慮して欲しいということだったのだと思う。病が理由だったので、私は自分の両親のことを思い出し、ずいぶんと薄情な父親だと思ったものだった。同時に一学期の授業参観で見た母親は病弱とは思えない、むしろ健康な女性だったので、一体何の病気だろうかと不思議に感じていた。
あれは恐らく、そういうことだったのだ。
生徒が少女らしい笑顔の後、ふと見せていた寂し気な表情を思い出した。あの頃、私に何ができたのだろうか。もっと何かすることがあったのではなかろうか。もう卒業して女学校に進学してしまったけれど、今も寂し気な顔をしているのだろうか。
母上は話を続ける。
「妻を取られた夫にしてみれば、表沙汰にしたら恥になる。それよりも相手から賠償金をもらって離縁したほうがいいもの」
「でも、兵庫様はさようなことをする方ではないと思います」
母上はまるで外国映画の俳優のように顔の前で人差し指を立てて左右に振った。
「あなたにその気はなくたって、勘違いする男っているのよ。真面目な顔しててもね。それに、当人同士その気はなくても誰かが見てたら勘違いするかもしれない。中等学校野球大会じゃあるまいし、不義密通じゃありませんてプラカード持って行進するわけにはいかないでしょ」
思わずプラカードを持って歩く女学校の生徒を想像し吹き出しそうになった。でも、母上の考えはあながち間違いではなかろう。私より長く生きているし、モデルとして雑誌の編集さんとの付き合いもある。世間をよく知っているのだから。
「それじゃどうすればいいんでしょうか」
「それが問題ね。あなたの女学校時代のお友達でお城に勤めていた方はいない? 定時制だったらいてもおかしくない」
「お城にも奥勤めの方たちだけの学校があるそうなので、そういう方はおいでになりませんでした。でも、大名屋敷の下働きという方はおいででした」
「大名屋敷か……どこ?」
「飛騨守様の下屋敷です」
「うーん、外様か。譜代か親藩ならお城の事情に詳しいんだけどね」
明治の改革以後、外様と言われる家中からも老中や若年寄が多く出るようになったけれど、城の中枢には簡単には近づけないものらしい。
「母上のお知り合いにはおいでにならないのですか」
「いない。大奥に仕えるって、そう簡単じゃないのよ。御年寄や御中臈、その方々に仕える方とのコネがないとまず不可能。コネさえあれば、田舎の娘でも採用される。たとえ御目見えできない水汲みでも上様の目に留まれば側室になれるから、身元がはっきりしてないと困るわけ。でも、私だって幕臣の娘よ。父の上司から推薦もしてもらって身元ははっきりしてる。それなのに不採用だなんて」
思いもかけない母上の告白だった。まさか大奥の採用試験を受けていたなんて。
「母上を落とすなんて」
「面接試験の時にすっごい美人がいたのよ。しかも旗本の娘。後で聞いたら御中臈の親戚だっていうじゃない。しかもアメリカ留学してたとか。女学校出の御家人の娘じゃ落ちるわね」
「でも凄いです。採用試験の面接までいくなんて。きっと今頃落とした役人は後悔してます」
「ありがとう。おかげさまで思う存分お洒落のできる仕事に就けるようになったものね」
それにしても母上にもお城の内情に詳しい知り合いがいないとは。
「こうなったら最後の手段ね。日本橋のお義兄さんに頼んでみるわ。あちらはまた別の伝手があるはずだし。くれぐれも兵庫には連絡しないように」
「わかりました」
私は強く頷いた。つまらない誤解を受けて兵庫様に不義密通の疑いがかかっては申し訳ない。
その夜のニュースで夏の全国中等学校野球大会優勝校の野球部員たちが登城し、上様にお褒めの言葉を賜ったありさまが報道された。天領の大阪代表チームの面々はいずれも前髪をつけた少年たちだった。日に焼けた顔は各藩の代表と戦って頂点に立った誇らしさに溢れていた。
申し訳ないけれど、私も母上もプラカードのことを思い出し笑ってしまった。
同時に私の目は左京様を画面の中に探していた。いらっしゃるはずもないけれど。
「まあ、噂をすれば」
母上は上様から少し離れたところに侍る兵庫様に気付いた。私は言われるまで気付かなかった。
上様の近くにいるのだから左京様のことも御存知のはず。やはり伺ったほうがいいのかもしれない。でも、疑いがかかるのは困る。
日本橋の伯父様を頼るしかない。
(注)この世界の高校野球選手権に当たるのが中等学校野球大会。
天領代表五校と各藩代表二〇〇校が地区ごとの予選リーグを戦い、
地区代表三十二校の決勝トーナメントで勝敗を競う。
決勝トーナメントは摂津・尾張・武蔵で毎年夏に持ち回りで行われる。
頭髪は練習や試合中は髷を解いて髪を後ろで束ねて野球帽をかぶる。
なお中等学校は男子のみの五年制で普通系・商業系・工業系・農業系
・水産系がある。
優秀な生徒は四年で受験して二年制の高等学校に入学できる。
昌平黌は中等学校年代の学生はいるが硬式野球部が存在しないので不参加。
母上は見たこともないような真面目な顔になっていた。
「こんななりをしている私が言うことじゃないかもしれないけれど、あちらは独り身。あなたは既婚者。恩人ではあるけれど、あまり近づかないほうがいい。最悪、不義密通を疑われる」
不義密通。言葉は聞いたことはあるが、私の周囲ではほとんど聞いたことがない。テレビのドラマでは時々出てくる。人形浄瑠璃を原作にしたドラマでは、不義密通は死罪と言っている。
「そんなことあるんですか」
「ええ。『今週の切腹』では出てこないけど、病気を理由に離縁したとか聞いたことない? あれの半分以上は不義密通ね。相手の男が賠償金を払って内々で解決してるらしいわ」
そういえば「今週の切腹」で不義密通で死罪になったというのは見たことがない。死罪になる人がいないのはそういうことだったのだ。
私ははっとした。代用教員になった最初の年に、副担任になった組の生徒の父親が二学期になる前に離婚したことを担任に伝えていた。小学校は母親が参加する行事が多いから配慮して欲しいということだったのだと思う。病が理由だったので、私は自分の両親のことを思い出し、ずいぶんと薄情な父親だと思ったものだった。同時に一学期の授業参観で見た母親は病弱とは思えない、むしろ健康な女性だったので、一体何の病気だろうかと不思議に感じていた。
あれは恐らく、そういうことだったのだ。
生徒が少女らしい笑顔の後、ふと見せていた寂し気な表情を思い出した。あの頃、私に何ができたのだろうか。もっと何かすることがあったのではなかろうか。もう卒業して女学校に進学してしまったけれど、今も寂し気な顔をしているのだろうか。
母上は話を続ける。
「妻を取られた夫にしてみれば、表沙汰にしたら恥になる。それよりも相手から賠償金をもらって離縁したほうがいいもの」
「でも、兵庫様はさようなことをする方ではないと思います」
母上はまるで外国映画の俳優のように顔の前で人差し指を立てて左右に振った。
「あなたにその気はなくたって、勘違いする男っているのよ。真面目な顔しててもね。それに、当人同士その気はなくても誰かが見てたら勘違いするかもしれない。中等学校野球大会じゃあるまいし、不義密通じゃありませんてプラカード持って行進するわけにはいかないでしょ」
思わずプラカードを持って歩く女学校の生徒を想像し吹き出しそうになった。でも、母上の考えはあながち間違いではなかろう。私より長く生きているし、モデルとして雑誌の編集さんとの付き合いもある。世間をよく知っているのだから。
「それじゃどうすればいいんでしょうか」
「それが問題ね。あなたの女学校時代のお友達でお城に勤めていた方はいない? 定時制だったらいてもおかしくない」
「お城にも奥勤めの方たちだけの学校があるそうなので、そういう方はおいでになりませんでした。でも、大名屋敷の下働きという方はおいででした」
「大名屋敷か……どこ?」
「飛騨守様の下屋敷です」
「うーん、外様か。譜代か親藩ならお城の事情に詳しいんだけどね」
明治の改革以後、外様と言われる家中からも老中や若年寄が多く出るようになったけれど、城の中枢には簡単には近づけないものらしい。
「母上のお知り合いにはおいでにならないのですか」
「いない。大奥に仕えるって、そう簡単じゃないのよ。御年寄や御中臈、その方々に仕える方とのコネがないとまず不可能。コネさえあれば、田舎の娘でも採用される。たとえ御目見えできない水汲みでも上様の目に留まれば側室になれるから、身元がはっきりしてないと困るわけ。でも、私だって幕臣の娘よ。父の上司から推薦もしてもらって身元ははっきりしてる。それなのに不採用だなんて」
思いもかけない母上の告白だった。まさか大奥の採用試験を受けていたなんて。
「母上を落とすなんて」
「面接試験の時にすっごい美人がいたのよ。しかも旗本の娘。後で聞いたら御中臈の親戚だっていうじゃない。しかもアメリカ留学してたとか。女学校出の御家人の娘じゃ落ちるわね」
「でも凄いです。採用試験の面接までいくなんて。きっと今頃落とした役人は後悔してます」
「ありがとう。おかげさまで思う存分お洒落のできる仕事に就けるようになったものね」
それにしても母上にもお城の内情に詳しい知り合いがいないとは。
「こうなったら最後の手段ね。日本橋のお義兄さんに頼んでみるわ。あちらはまた別の伝手があるはずだし。くれぐれも兵庫には連絡しないように」
「わかりました」
私は強く頷いた。つまらない誤解を受けて兵庫様に不義密通の疑いがかかっては申し訳ない。
その夜のニュースで夏の全国中等学校野球大会優勝校の野球部員たちが登城し、上様にお褒めの言葉を賜ったありさまが報道された。天領の大阪代表チームの面々はいずれも前髪をつけた少年たちだった。日に焼けた顔は各藩の代表と戦って頂点に立った誇らしさに溢れていた。
申し訳ないけれど、私も母上もプラカードのことを思い出し笑ってしまった。
同時に私の目は左京様を画面の中に探していた。いらっしゃるはずもないけれど。
「まあ、噂をすれば」
母上は上様から少し離れたところに侍る兵庫様に気付いた。私は言われるまで気付かなかった。
上様の近くにいるのだから左京様のことも御存知のはず。やはり伺ったほうがいいのかもしれない。でも、疑いがかかるのは困る。
日本橋の伯父様を頼るしかない。
(注)この世界の高校野球選手権に当たるのが中等学校野球大会。
天領代表五校と各藩代表二〇〇校が地区ごとの予選リーグを戦い、
地区代表三十二校の決勝トーナメントで勝敗を競う。
決勝トーナメントは摂津・尾張・武蔵で毎年夏に持ち回りで行われる。
頭髪は練習や試合中は髷を解いて髪を後ろで束ねて野球帽をかぶる。
なお中等学校は男子のみの五年制で普通系・商業系・工業系・農業系
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昌平黌は中等学校年代の学生はいるが硬式野球部が存在しないので不参加。
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