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第二章
拾 旅立ち
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源之輔はすでに玄関から座敷に上がり、旅装束のまま甚太夫と対面していた。
志緒は座敷の外で入ってもいいか許しを請うた。だが、甚太夫はしばし待てと答え入室を許さなかった。
恐らく山中の家の話があるのだろうと思い、志緒は台所に行った。
「兄上には会いましたか」
佐江の問いに志緒はまだだと答えた。
「父上は話が長いから」
そう言って佐江は汁の味見をした。
「うーん。志緒姉さま見てもらえますか」
志緒は小皿に汁を取り味を見た。
「もう少し塩を。今日は暑いし、旦那様もお疲れでしょうから」
志緒は壺の塩を一つまみして汁の中にぱらりと入れた。
かき混ぜた後、味を見た。先ほどより味がしまったような気がした。
「漬物も用意できたしごはんも炊けたのに話が長いんじゃ困るわ」
佐江は不服そうに頬を膨らませた。
「さっきはありがとう」
志緒の突然の言葉に佐江は頭をひねった。
「何かしましたか、私」
「私を一人にしてくれてありがとう」
「あ、ああ。いえ、別に大したことじゃないから。私、嫁に行ってからわかったんです。母上やおばば様、女の人達は皆一人で泣いてたんだって」
「え?」
「あ、私は大丈夫です。だって分家で気楽だし寛次郎さまの母上もこちらにはめったに顔を出さないし。泣くどころか毎日笑いっぱなしで。だけど寛次郎さまの兄上のところなんか、毎日あちらの母上がうるさいらしくて。たまに奈穂さま、兄上の奥様がうちに漬物などを下さるのだけれど、その度に愚痴を言うのですよ。だから、皆表ではにこにこしてるけれど、裏ではそうでもないんだなって。志緒姉さまも強いけれど泣きたいこともあるんじゃないかって。今日は特に。だって吉之進とかいうおかしな奴の相手をしなきゃいけなかったんでしょ。私だったら、話なんか聞かずに長い槍で一突きにするところです。姉さまは優し過ぎます」
優しくなどない。現にさっきも津奈に気分はよくないとか、実家には戻らないとか強く言ってしまったのだから。自分は津奈にとっては可愛げのない嫁に違いない。
「姉さまは御自分に優しくしなければ。勿論、源之輔兄上にもですけれど」
「自分に優しく?」
「ええ。寛次郎さまがそう仰せになったんです。自分に優しく」
それは自分を甘やかすということではないかと志緒は思った。
「甘やかすのとは違いますよ。無理に御自分に厳しくしなくてもいいということです。寛次郎さまは幸之助兄上と麟子館で一緒に勉強したことがあって、いつも兄上が完璧に予習復習しているのを見て凄いと思ってたんですって。学頭の助手としても完璧で剣術も凄くて。それで一体いつ寝ているのか聞いたら三時(約六時間)にも満たないので驚いたって。自分は少なくとも四時(約八時間)は眠っているからって。結局兄上が亡くなって、やはり寝ないと駄目だと思ったと言うのです。私もその点については同じです。本当に幸之助兄上という人はいつ眠ってるのかと思っていましたから。幸之助兄上は御自分に厳し過ぎたのですよね、だから、志緒姉さまは無理なさらないで御自分に優しくしてくださいね」
幸之助の己への厳しさが兄辰之助の死を招いた己を許せぬという気持ちから出たものだと志緒には痛いほどわかる。幸之助にこそもっと己に優しくと言うべきだったのかもしれないと志緒は思うが、今更詮無いことだった。
「ええ、そうするわ。ありがとう」
「どういたしまして」
佐江はにっこり笑った。
半時ほどして志緒は源之輔に会うことができた。旅のせいか、顔は日焼けしていた。
山中の家の火事の話から吉之進の話まですべて甚太夫は話したようだった。志緒は源之輔を少しでも元気づけたかった。
「山中の家の皆様のこと、お気の毒です。どうか、お気を落とさずに」
「志緒さん、あなたこそ身体は大丈夫なのですか。無理をしていませんか」
源之輔は実家よりも志緒のことを案じていた。
「源之輔さまこそ、ずいぶん急いでお帰りになったではありませんか。お疲れではないですか」
帰国するなら手紙の一つもよこすはずだった。手紙は届いていないから、飛脚よりも早く帰った来たのではないか。
「急にこちらでやらなければならない仕事ができたのです」
「お仕事はこれからですか」
「いえ、もう終わりました」
「ではお帰りになるのですね」
「はい」
束の間の帰国らしい。江戸にはいつ戻るのだろうか。それまではできるだけのことをしたかった。
「いつ江戸に」
「本当は二日ばかり後にと思っていましたが、山中のことがあるので。弟だけでは対処しきれぬことですから」
予定より長くいられるのは嬉しいが、それが山中の家のためと思うと志緒は素直に喜べなかった。
「それで、志緒さん、急なことで申し訳ないのですが支度をしておいてください」
「支度とは」
「江戸に行く支度です。若殿様の御側に仕えることになり勤番から定府になるので、妻女を呼ぶようにと江戸家老の森山様から命令がありました。中屋敷には所帯持ち用の住まいもあります」
思いもかけない話だった。
「江戸に……」
「はい。いろいろ心配かもしれませんが、中屋敷の皆さん親切ですから」
志緒は何とも言えぬ気持ちだった。夫といられるのは嬉しい。が、兄辰之助と幸之助の件で津奈は実家に帰ってもいいと言った。志緒はそれを拒んだ。江戸に行くのはまるで気まずくなった津奈から逃げるように思われた。江戸に行く前に津奈にもっときちんと話をしなければと思った。
その日は源之輔を囲んで佐江と寛次郎も加わってにぎやかな夕餉となった。
が、甚太夫と津奈の口数は少なかった。
夕餉の後、源之輔は杉や妹のいる吉田家に行った。今夜は泊まりになるかもしれないと言って。
佐江と寛次郎も帰宅し、駒井家はまた三人だけになった。
夕餉の片づけを終えた志緒を津奈が座敷に呼んだ。
座敷には甚太夫がいた。甚太夫は夜中から起きていたのにもかかわらず疲れた様子を見せなかった。
「源之輔から江戸定府になると聞いた。そこで、わしは家督を譲り隠居しようと思う。すでに源之輔は江戸で殿様に御目見えしておるから、届を出せば認められよう」
「お早いのではありませんか」
「いや、遅過ぎるくらいだ。今日のことでこの身の衰えを感じた。志緒さんに馬で追いつけなかったからな」
甚太夫は笑った。志緒にはどこか寂しげに見えた。
「志緒さんもそうなれば奥様。もう若奥様ではないのよ」
津奈は微笑んだ。
「母上……失礼の段お許しください」
これを逃せば言えなくなるような気がした。
「志緒さん、詫びるのは私です。あなたが駒井の者になる覚悟を持って嫁いできたのに村田の家に帰ってもいいなどと言うとは」
「それは母上が私のことを心配してくださってのことではありませんか」
「志緒さん……あなたは本当に」
津奈は涙をこぼした。
「津奈、そなた今日はずっと目が赤いぞ」
「だって……」
「志緒さん、源之輔のことを頼む。この先いろいろとあると思うが、どうか頼む」
「力の及ぶ限り、源之輔さまをお助けします」
助けるなどおこがましいかもしれない。だが、江戸に二人きりとなるのだ。互いに助け合うしかない。源之輔もまた同じ思いでいると思いたかった。
座敷を出る前に津奈は言った。
「夕餉のお汁の味、とてもよかった。今日のような日にはあれくらいの塩加減がちょうどいい。あれなら私も隠居してもいいと思った」
志緒にとって何よりも嬉しい言葉だった。
その頃、城の奥では亀の方が食後の酒を嗜んでいた。その前に控えるのは中臈の美園である。
「駒井源之輔が若殿様の御側に仕えるとのこと」
「ほう。殿のお考えか」
「はい。江戸からの文ではさように。江戸家老の森山盛右衛門が殊の外源之輔をひいきにしておるとのこと。殿様に推挙したのも森山と」
亀の方は目の前の高坏に盛られたアタリメを手で引き裂いた。そのにおいが美園の鼻をついた。
「して何故国に戻って参ったのだ」
「森山家老からの書状を岡本家老に届けたとの由」
「ほお。飛脚を使わずにか」
「恐らく、江戸表からの密書かと」
「中身はわからぬのか」
「此度はまったくわかりませぬ」
「使えぬな」
亀の方は引き裂いたアタリメの片方を美園に投げた。高島田の鬢に当たったが美園は平然としていた。このくらいでおろおろしていては奥勤めなどできない。
「口の堅い者どもばかりで」
「そなたの色香でも駄目なら仕方あるまい」
「おそれいります」
「で、源之輔は江戸にいつ立つのだ」
「恐らく山中藤兵衛の初七日を過ぎてからかと」
「山中の家も吉之進も哀れなことよ」
亀の方は言葉と裏腹に薄笑いを浮かべていた。
「まことは干菓子の仕業であるというのにな」
美園は唇を引き結んだ。決して己の心の揺らぎを見せてはならない。
「そなたの妹には可哀そうなことをしたとは思うが、許せよ。妾は許せぬのだ。源之輔に子が生まれるなど。あの女の子に子など儲けさせてなるものか」
亀の方の美しい顔が歪んだ。
「さて江戸に行くとなれば、いかがすべきか」
亀の方はアタリメを噛む。噛めば妙案が生まれるのだと言う。
恐ろしい方だと美園は思う。我が子のために邪魔になるものを徹底的に排除してきた彼女は、志緒の愛する夫を憎んでいるのだ。だが、美園は彼女に仕える身である。忠義と妹への情愛を秤にかければ忠義が重い。
「良き事を考えついた」
美園はその言葉を聞きたくなかった。
その朝は快晴だった。
隣の領国との境に近い関所まで見送りに来たのは村田の両親、姉佐登、義兄誠之助、甥新之助、駒井の両親、佐江、寛次郎、小太刀の師匠砂村雲斎らである。山中家の者は来なかった。後でわかったがその朝、杉がこと切れたのだった。
手甲脚絆の旅姿の志緒と野袴背割り羽織の源之輔は人々に別れを告げ東へと旅立った。
江戸まで十日の旅である。
果たして江戸では何が待っているのか。不安はあった。だが、それよりも二人一緒にいられる幸せが今ここにある。
志緒も源之輔も幸せを噛みしめながら一歩一歩足を進めるのだった。
第二章 おわり
志緒は座敷の外で入ってもいいか許しを請うた。だが、甚太夫はしばし待てと答え入室を許さなかった。
恐らく山中の家の話があるのだろうと思い、志緒は台所に行った。
「兄上には会いましたか」
佐江の問いに志緒はまだだと答えた。
「父上は話が長いから」
そう言って佐江は汁の味見をした。
「うーん。志緒姉さま見てもらえますか」
志緒は小皿に汁を取り味を見た。
「もう少し塩を。今日は暑いし、旦那様もお疲れでしょうから」
志緒は壺の塩を一つまみして汁の中にぱらりと入れた。
かき混ぜた後、味を見た。先ほどより味がしまったような気がした。
「漬物も用意できたしごはんも炊けたのに話が長いんじゃ困るわ」
佐江は不服そうに頬を膨らませた。
「さっきはありがとう」
志緒の突然の言葉に佐江は頭をひねった。
「何かしましたか、私」
「私を一人にしてくれてありがとう」
「あ、ああ。いえ、別に大したことじゃないから。私、嫁に行ってからわかったんです。母上やおばば様、女の人達は皆一人で泣いてたんだって」
「え?」
「あ、私は大丈夫です。だって分家で気楽だし寛次郎さまの母上もこちらにはめったに顔を出さないし。泣くどころか毎日笑いっぱなしで。だけど寛次郎さまの兄上のところなんか、毎日あちらの母上がうるさいらしくて。たまに奈穂さま、兄上の奥様がうちに漬物などを下さるのだけれど、その度に愚痴を言うのですよ。だから、皆表ではにこにこしてるけれど、裏ではそうでもないんだなって。志緒姉さまも強いけれど泣きたいこともあるんじゃないかって。今日は特に。だって吉之進とかいうおかしな奴の相手をしなきゃいけなかったんでしょ。私だったら、話なんか聞かずに長い槍で一突きにするところです。姉さまは優し過ぎます」
優しくなどない。現にさっきも津奈に気分はよくないとか、実家には戻らないとか強く言ってしまったのだから。自分は津奈にとっては可愛げのない嫁に違いない。
「姉さまは御自分に優しくしなければ。勿論、源之輔兄上にもですけれど」
「自分に優しく?」
「ええ。寛次郎さまがそう仰せになったんです。自分に優しく」
それは自分を甘やかすということではないかと志緒は思った。
「甘やかすのとは違いますよ。無理に御自分に厳しくしなくてもいいということです。寛次郎さまは幸之助兄上と麟子館で一緒に勉強したことがあって、いつも兄上が完璧に予習復習しているのを見て凄いと思ってたんですって。学頭の助手としても完璧で剣術も凄くて。それで一体いつ寝ているのか聞いたら三時(約六時間)にも満たないので驚いたって。自分は少なくとも四時(約八時間)は眠っているからって。結局兄上が亡くなって、やはり寝ないと駄目だと思ったと言うのです。私もその点については同じです。本当に幸之助兄上という人はいつ眠ってるのかと思っていましたから。幸之助兄上は御自分に厳し過ぎたのですよね、だから、志緒姉さまは無理なさらないで御自分に優しくしてくださいね」
幸之助の己への厳しさが兄辰之助の死を招いた己を許せぬという気持ちから出たものだと志緒には痛いほどわかる。幸之助にこそもっと己に優しくと言うべきだったのかもしれないと志緒は思うが、今更詮無いことだった。
「ええ、そうするわ。ありがとう」
「どういたしまして」
佐江はにっこり笑った。
半時ほどして志緒は源之輔に会うことができた。旅のせいか、顔は日焼けしていた。
山中の家の火事の話から吉之進の話まですべて甚太夫は話したようだった。志緒は源之輔を少しでも元気づけたかった。
「山中の家の皆様のこと、お気の毒です。どうか、お気を落とさずに」
「志緒さん、あなたこそ身体は大丈夫なのですか。無理をしていませんか」
源之輔は実家よりも志緒のことを案じていた。
「源之輔さまこそ、ずいぶん急いでお帰りになったではありませんか。お疲れではないですか」
帰国するなら手紙の一つもよこすはずだった。手紙は届いていないから、飛脚よりも早く帰った来たのではないか。
「急にこちらでやらなければならない仕事ができたのです」
「お仕事はこれからですか」
「いえ、もう終わりました」
「ではお帰りになるのですね」
「はい」
束の間の帰国らしい。江戸にはいつ戻るのだろうか。それまではできるだけのことをしたかった。
「いつ江戸に」
「本当は二日ばかり後にと思っていましたが、山中のことがあるので。弟だけでは対処しきれぬことですから」
予定より長くいられるのは嬉しいが、それが山中の家のためと思うと志緒は素直に喜べなかった。
「それで、志緒さん、急なことで申し訳ないのですが支度をしておいてください」
「支度とは」
「江戸に行く支度です。若殿様の御側に仕えることになり勤番から定府になるので、妻女を呼ぶようにと江戸家老の森山様から命令がありました。中屋敷には所帯持ち用の住まいもあります」
思いもかけない話だった。
「江戸に……」
「はい。いろいろ心配かもしれませんが、中屋敷の皆さん親切ですから」
志緒は何とも言えぬ気持ちだった。夫といられるのは嬉しい。が、兄辰之助と幸之助の件で津奈は実家に帰ってもいいと言った。志緒はそれを拒んだ。江戸に行くのはまるで気まずくなった津奈から逃げるように思われた。江戸に行く前に津奈にもっときちんと話をしなければと思った。
その日は源之輔を囲んで佐江と寛次郎も加わってにぎやかな夕餉となった。
が、甚太夫と津奈の口数は少なかった。
夕餉の後、源之輔は杉や妹のいる吉田家に行った。今夜は泊まりになるかもしれないと言って。
佐江と寛次郎も帰宅し、駒井家はまた三人だけになった。
夕餉の片づけを終えた志緒を津奈が座敷に呼んだ。
座敷には甚太夫がいた。甚太夫は夜中から起きていたのにもかかわらず疲れた様子を見せなかった。
「源之輔から江戸定府になると聞いた。そこで、わしは家督を譲り隠居しようと思う。すでに源之輔は江戸で殿様に御目見えしておるから、届を出せば認められよう」
「お早いのではありませんか」
「いや、遅過ぎるくらいだ。今日のことでこの身の衰えを感じた。志緒さんに馬で追いつけなかったからな」
甚太夫は笑った。志緒にはどこか寂しげに見えた。
「志緒さんもそうなれば奥様。もう若奥様ではないのよ」
津奈は微笑んだ。
「母上……失礼の段お許しください」
これを逃せば言えなくなるような気がした。
「志緒さん、詫びるのは私です。あなたが駒井の者になる覚悟を持って嫁いできたのに村田の家に帰ってもいいなどと言うとは」
「それは母上が私のことを心配してくださってのことではありませんか」
「志緒さん……あなたは本当に」
津奈は涙をこぼした。
「津奈、そなた今日はずっと目が赤いぞ」
「だって……」
「志緒さん、源之輔のことを頼む。この先いろいろとあると思うが、どうか頼む」
「力の及ぶ限り、源之輔さまをお助けします」
助けるなどおこがましいかもしれない。だが、江戸に二人きりとなるのだ。互いに助け合うしかない。源之輔もまた同じ思いでいると思いたかった。
座敷を出る前に津奈は言った。
「夕餉のお汁の味、とてもよかった。今日のような日にはあれくらいの塩加減がちょうどいい。あれなら私も隠居してもいいと思った」
志緒にとって何よりも嬉しい言葉だった。
その頃、城の奥では亀の方が食後の酒を嗜んでいた。その前に控えるのは中臈の美園である。
「駒井源之輔が若殿様の御側に仕えるとのこと」
「ほう。殿のお考えか」
「はい。江戸からの文ではさように。江戸家老の森山盛右衛門が殊の外源之輔をひいきにしておるとのこと。殿様に推挙したのも森山と」
亀の方は目の前の高坏に盛られたアタリメを手で引き裂いた。そのにおいが美園の鼻をついた。
「して何故国に戻って参ったのだ」
「森山家老からの書状を岡本家老に届けたとの由」
「ほお。飛脚を使わずにか」
「恐らく、江戸表からの密書かと」
「中身はわからぬのか」
「此度はまったくわかりませぬ」
「使えぬな」
亀の方は引き裂いたアタリメの片方を美園に投げた。高島田の鬢に当たったが美園は平然としていた。このくらいでおろおろしていては奥勤めなどできない。
「口の堅い者どもばかりで」
「そなたの色香でも駄目なら仕方あるまい」
「おそれいります」
「で、源之輔は江戸にいつ立つのだ」
「恐らく山中藤兵衛の初七日を過ぎてからかと」
「山中の家も吉之進も哀れなことよ」
亀の方は言葉と裏腹に薄笑いを浮かべていた。
「まことは干菓子の仕業であるというのにな」
美園は唇を引き結んだ。決して己の心の揺らぎを見せてはならない。
「そなたの妹には可哀そうなことをしたとは思うが、許せよ。妾は許せぬのだ。源之輔に子が生まれるなど。あの女の子に子など儲けさせてなるものか」
亀の方の美しい顔が歪んだ。
「さて江戸に行くとなれば、いかがすべきか」
亀の方はアタリメを噛む。噛めば妙案が生まれるのだと言う。
恐ろしい方だと美園は思う。我が子のために邪魔になるものを徹底的に排除してきた彼女は、志緒の愛する夫を憎んでいるのだ。だが、美園は彼女に仕える身である。忠義と妹への情愛を秤にかければ忠義が重い。
「良き事を考えついた」
美園はその言葉を聞きたくなかった。
その朝は快晴だった。
隣の領国との境に近い関所まで見送りに来たのは村田の両親、姉佐登、義兄誠之助、甥新之助、駒井の両親、佐江、寛次郎、小太刀の師匠砂村雲斎らである。山中家の者は来なかった。後でわかったがその朝、杉がこと切れたのだった。
手甲脚絆の旅姿の志緒と野袴背割り羽織の源之輔は人々に別れを告げ東へと旅立った。
江戸まで十日の旅である。
果たして江戸では何が待っているのか。不安はあった。だが、それよりも二人一緒にいられる幸せが今ここにある。
志緒も源之輔も幸せを噛みしめながら一歩一歩足を進めるのだった。
第二章 おわり
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