ふたりの旅路

三矢由巳

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第三章

肆 川明き

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 翌朝、やっと川会所が渡しの許可を出した。川明きである。川止めとなる四尺五寸(約136センチメートル)より水位が下がったのだ。
 旅人たちは一斉に川会所に向かった。川札を購入するためである。川札一枚で川越人足一人を雇うことができた。ただしその日の水位は普段の水位二尺五寸(約76センチメートル)よりも高いため、川越人足の肩にまたがる肩車かたくま越しであっても手張てばりと呼ばれる補助者がつくので川札は二枚必要となる。
 しかも水位によって川札一枚の値段が変わる。一番安い股通またどおしは四十八文だがこの日は帯上通おびうえどおしの水位(下帯よりも上、胸よりも下)だったので六十八文だった。
 一文を30円(諸説あり)と換算すると川札一枚2040円。水位が高いので肩車越しでも人足二人が必要となるので百三十六文(4080円)となる。
 連台という乗り物に乗って渡る際は担ぐ人足四人分の川札と連台用の台札(川札二枚分)が必要になるから六十八文の川札六枚分(12240円)の料金がかかる。
 他にもチップに当たる酒代も人足に渡すので川を渡るのはかなりの物入りだった。
 川止めで宿に予定の宿泊代の数倍の支払いをして、川会所では川札を買わねばならないのだから旅人にとってはとんだ出費だった。





 志緒が目覚めた時、すでに屏風の向こうにいた母と娘は宿を出ていた。
 身だしなみを整えた後、先に起きていた源之輔に尋ねると、夜が明ける前に出たということだった。

「渡しは夜が明ける六つからだから、急いだのでしょう。朝餉も取らずに出て行きました。ただ川越には順番がある。早く行っても後回しになる」
「順番があるのですか」
「御公儀へ送る文書が入った御状箱の乗った連台、それから大名の乗る連台、その他の連台、馬、最後に肩車渡し。あの母子二人が二人乗りの連台を使うと一番安いひら連台でも人足が六人必要になるから八枚川札が必要になる。先ほど宿の主に聞いたら水位がまだ高いので川札は一枚六十八文」
「六十八文が八枚……」

 それがどれほどの値か志緒にもわかる。あの母子にとっては手痛い出費だろう。

「恐らく肩車で渡るしかないでしょう。それでも手張が必要だから二人で川札四枚分。それだけ払っても後回しになる」
「三途の川の渡しも銭を取ると聞きますけれど、大井川も相当なものですね」
「それで宿場は潤うのです」

 橋がなくとも宿場の人々は困らないということらしい。だが、向こう岸に急ぎの用がある時はどうなのだろう。たとえば身内に何かあったら。

「でも、私は橋があったほうがいいと思います。向こう岸に会いたい人がいても会えないなんて。牽牛と織女でも年に一度かささぎの橋を渡れるのに」

 源之輔は微笑んだ。

「御公儀の定めですから」
「あ、申し訳ありません。口が過ぎました」

 これから江戸へ行くというのに公儀に反するようなことを口にするなんて。志緒は己の口の軽さを反省した。

「気にし過ぎることはありません。志緒さんの素直な考えを聞いていると私は自分の心が洗われるような気がするのです」

 洗われる。志緒にとっては意外な言葉だった。洗われるということは源之輔は己の心が汚れていると思っているのだろうか。そんなことはないと言おうと思った時、襖の外からお食事ですと女中が声を掛けた。





 朝餉を終えると忙しくなった。源之輔が川会所で川札を入手している間に志緒は荷物を片付け宿代を払い、佐助ともどもすぐに出立できるように支度した。
 胡桃屋の主人の計らいで川越人足の手配はできている。家中でよく利用する人足たちで乱暴な振舞もせず、高額の酒代も要求しないということだった。裏返せば乱暴な振舞をしたり高額の酒代を要求する人足たちがいるということでもある。
 あの母と娘がそんな無法な人足に当たらなければよいがと志緒は不安になった。

「相部屋だった方たちは大丈夫でしょうか」

 そう言うと主人は少しばかり困ったような顔になった。

「手前どもも心配でしたので、よい人足を紹介しますと申し上げたのですが、大丈夫だからと宿を引き上げてしまわれたのです。少しも疲れたところが見えないような歩き方でしたから旅慣れた方たちなのでしょう」 

 昨夜の二人はずいぶんとくたびれているように見えたのだが。一晩休んだだけで疲れがとれるものなのだろうか。
 志緒はだいぶ歩くのに慣れてきたものの、朝まで足の痛みは残っている。川止めのおかげで足を休められて実のところ安堵している。橋があればと源之輔に言ったものの、足のことを思えば橋はなくてもと思う気持ちもわずかにあるのだった。
 そこへ源之輔が戻って来た。急いでいたのか汗が玉になって首筋を流れていた。

「支度はできております」

 汗を拭く手ぬぐいを渡し志緒が言うと源之輔はかたじけないとうなずいた。控えていた佐助が立ち上がった。

「駒井様、御出立」

 主人の声に旅籠の前で控えていた人足たちが一斉に立ち上がった。いずれも屈強な男達である。





 源之輔と志緒は二人乗りの連台に、佐助は荷物とともに一人乗りの連台に乗った。最初佐助は連台は勿体ないと言った。源之輔は肩車は後回しになるので予定の宿場に日没までに佐助が到着できないから連台に乗るように命じたのだった。
 二人乗りの連台の担ぎ手は六人である。しかも低い手すりが四方にある半高欄連台なので台札が二枚(川札4枚分)必要となる。川札十枚分である。
 佐助は一番安い一人乗りの平連台である。こちらは川札六枚分である。合わせて十六枚。
 
「こんな贅沢をしていいのでしょうか」

 連台の上で志緒は言った。源之輔は心配ないという。

「費用は家中から出ます。家格で渡しの手段が指定されているのです」

 駒井家は馬廻組である。古くから殿様に仕えるだけあって平連台や肩車というわけにはいかないのだろう。
 志緒は実家の村田家は良くて平連台かもしれぬと思った。勘定方は家中での身分はさほど高くない。金銭を扱う仕事は武家の中では評価が低いのだ。重要な仕事をしているのだが。
 連台は徐々に川の中央に向かっていた。先ほどまで人足たちの足だけを濡らしていた水は彼らの腰の高さまでになっている。川の流れもまだ速い。
 それでも連台は彼らにしっかりと支えられ、源之輔や志緒を濡らすことはなかった。 



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