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第五章 混迷の星
09 最初の試練
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『お迎えに参りました』
モニターに映ったドアの向こうに立つデボラを見て、アマンダはほっと息をついた。
シェルター備え付けの本を読んでいたレオポルドは立ち上がった。
サカリアスはドアの前に立った。
「モニターに映っていないところに敵が隠れているかもしれない。すぐ出てはいけない」
そう言って慎重にドアを開けた。
だが、敵はいなかった。一人で大きな台車を押すデボラがいただけだった。
「お召し物を持って参りましたので、お着替えください」
デボラは台車に載せた箱から衣服を取り出した。すべて男物だった。
「こちらの緑は殿下、こちらの紺はオリバさん。お着替えが終わった頃にカルモナが迎えに参ります。お嬢様は私とおいでください」
デボラはそう言ってアマンダだけを部屋から連れ出した。
廊下に出てドアを閉めた後、デボラは言った。
「一晩だけとはいえ殿方と一緒の部屋というのは気を使われたことでしょう」
確かにそうだった。今朝用を足したのは父やサカリアスが寝ている時だった。男性の前で堂々とレストルームを使うのは憚られた。
「はい」
「やはり改装しなければなりませんね。あの部屋は先代の殿様の時に作ったものですので」
来た時と同じように迷路のような廊下を歩いて階段を上ると屋敷の一階だった。外から廊下の窓を通して入る光がまぶしかった。
デボラはさらにアマンダを二階に連れて行った。二階は侯爵家のプライベートスペースである。普通は入れない。
だが、デボラは一室にアマンダを連れて行った。
恐らくは客用寝室と思われる広い部屋だった。アマンダは北の宮殿の部屋を思い出した。あの部屋に似ている。
「今日からここをお使いになるようにと奥様の仰せです」
「よろしいのですか」
「はい。昨夜のようなことがまた起きてはなりません。お風呂はこちらです。お湯は入っています。それからお召し物はそちらに。化粧品はお好きなものをお使いください。二時間後にお迎えに参ります」
デボラはそう言って部屋を退出した。
アマンダはため息をついた。どうして侯爵夫人はこんなにも親切なのだろう。北の宮殿に泊まった時の客間も立派だったが、ここはさらに贅沢だった。
まず置いてある服がどう見ても一般の女性のものではない。貴族の女性が着る希少な絹の織物のブラウスに丈の長いスカート、下着は量販店にあるものとは手触りが全然違う。不思議なのはサイズがちゃんと合っていることだった。星の離宮でも用意されていた服や靴のサイズが合わなかったことがなかった。貴族の家には人を見ればすぐにサイズがわかる使用人がいるのだろうか。
それはともかくバスルームに入ると、バスタブには乳白色の湯にバラの花びらが浮いていた。これもまた贅沢だった。
アマンダは身体を洗い湯につかった。バラの花びらの香りが昨夜からの疲れをほぐすように感じられた。身体の芯からとろけるような感覚にアマンダはしばし浸っていた。
不意に記憶がよみがえった。
『ていこくをこのてに』
昨夜、正確には今日未明、眠れぬままいつの間にかうとうとしていると聞こえたサカリアスの声。
あれは現実なのだろうか。夢なのだろうか。
ていこくとは「帝國」なのか。このてにとは「この手に」なのか。
帝國をこの手に。
その意味は考えるまでもない。帝國を我が物にという意味だろう。我が物にする、すなわち皇帝になるということではないか。
温かい湯の中でアマンダの背筋に一瞬冷たいものが走った。
軍人で終わる方ではないと言ったのは確かだが、皇帝にとまでは言っていない。皇太子ではないサカリアスが皇帝になるには、無理があるのではないか。そもそも皇帝は皇太子を決めていない。
庶民でも後継者や相続人を決めていないために、一家の主が死んだ後に争いが起きることがあるのをアマンダも知っていた。近所の一流と言われたレストランがオーナーの死後に遺族の相続問題がこじれてしまったということがあった。ヒメネス夫人が仲介しようとしたが、結局は裁判沙汰になって一族はバラバラになりレストランは閉店してしまった。
帝國も皇帝に何かあったら、似たようなことになりかねない。サカリアスがその渦中に飛び込んだら一体どういうことになるか。想像もつかないが、平和の裡に相続が終わるとは思えない。
きっとあれは夢なのだと思う。アマンダのサカリアスへの敬意が高じて夢を見てしまったのだ。皇帝なんてそんな恐れ多いことをサカリアスが考えるはずがない。大体、サカリアスも疲れていたはずである。起きていたはずがない。
バスタブの中でアマンダは「はずがない」を繰り返した。
貴族の正装は地球の19世紀後半頃のイングランドの紳士風である。ストレートのズボンに上着は長め、着慣れない正装にサカリアスは四苦八苦していた。先に着替え終わったレオポルドが手伝ってくれた。
「このクラバットの形が崩れると恰好がつかないからね」
レオポルドはそう言いながらサカリアスのクラバットを結びなおした。
「これでよしと」
鏡を見るとなんとか形にはなっていた。
振り返るとレオポルドは髪を撫でつけていた。
サカリアスはレオポルドの着こなしに感心するしかなかった。動画で厨房に立っている時は、カフェテリアの主そのものだったのに、今目の前にいるのは生まれついての貴族にしか見えない紳士だった。伸びた髭も不潔に見えないように切りそろえている。このまま首都の社交界に現れたら、既婚婦人たちが追いかけまわすに違いなかった。母が愛人に選んだのも納得である。
「こういう恰好は久しぶりでね。なんだか仮装行列をしているようだ」
これが仮装行列なら貴族社会は百鬼夜行だとサカリアスは思う。
「仮装には見えません。何年も着ているように見えます」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
「いや、お世辞ではありません」
「お世辞は悪いことではないよ。使う相手と時と場所を選べばね」
レオポルドもそれなりに処世の苦労はしていた。素直ならいいというものではない。
「本当にお世辞では」
「うん、わかってる。殿下は本当に素直だ。考えていることが手に取るようにわかる」
サカリアスはぞくりとした。
「アマンダのことを大事に思っているなら、放っておいてくれないか」
「え?」
「アマンダはまだ子どもだ。20歳だが、これまで全然そういう話はなかった。まあ、私がホルヘの旦那と言われていたから、若い男は近寄れなかったんだろう。いずれは私の手から離れていかなければならないのだが、籠の鳥にされるのは困る」
「籠の鳥……」
アマンダを守りたい気持ちが彼女を籠の鳥にするというのか。
「殿下はたぶんアマンダを甘やかし家に閉じ込めて誰にも見せたくないのだろう。気持ちはわからなくもない。私も妻を人目にさらしたくなかった。でも、それは無理だ。生きている女性だからね」
レオポルドの指摘は図星だった。サカリアスは否定の言葉を口にできなかった。
「助けてもらってこういうことを言うのはどうかと思うが、父親としてはアマンダを弱者ではなく独立したパートナーとして見てくれる男性が有難いんだ。殿下も守らなければならない女性より対等に渡り合える女性のほうがこの先役に立つんじゃないかな。帝國を手にするなら」
サカリアスは衝撃で立っていられなくなりそうだった。
聞かれた。昨夜の呟きを。
「皇帝になるなら皇后もふさわしくあらねばならない。今のアマンダには無理だ」
足元が揺らぐような言葉だった。
が、負けてはならない。アマンダの父親一人説得できない男が皇帝になれるはすがない。
「ならばふさわしくなるように、私に預けてくださいませんか」
言ってから大きく出てしまったと思った。一足飛びに預けるなどとは。
レオポルドの端正な顔に変化はなかった。
「預ける? 本人の気持ちなど関係なく?」
「それは、私が確認します」
「殿下の賭けに娘を巻き込むわけにはいかない。失敗したら命を落とすことになる」
「賭けではありません。戦いです」
「今の殿下に自由に使える艦隊もないのに? 戦略も戦術もない戦いは賭け以下だ」
それを言われたらどうしようもない。
「今は何も持っていません。ですが、数年のうちには」
「数年? それではいつまでたっても殿下は殿下のままだ」
その通りだ。悔しさのあまりサカリアスは口走っていた。
「では私が30になる前に」
「4年か。わかった」
レオポルドは笑った。ただ目だけは笑っていなかった。
「娘の気持ちが他の男性に動くことがなかったら、娘を皇后として殿下に差し上げよう。ただし、殿下に今預けるわけにはいかない。危険が多過ぎる」
まさかこんな場所でそんな言葉を聞くとは思ってもいなかったサカリアスだった。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。が、レオポルドは試練を課した。
「休暇が終わる前に殿下御自身でアマンダの気持ちを確認してからの話だが」
モニターに映ったドアの向こうに立つデボラを見て、アマンダはほっと息をついた。
シェルター備え付けの本を読んでいたレオポルドは立ち上がった。
サカリアスはドアの前に立った。
「モニターに映っていないところに敵が隠れているかもしれない。すぐ出てはいけない」
そう言って慎重にドアを開けた。
だが、敵はいなかった。一人で大きな台車を押すデボラがいただけだった。
「お召し物を持って参りましたので、お着替えください」
デボラは台車に載せた箱から衣服を取り出した。すべて男物だった。
「こちらの緑は殿下、こちらの紺はオリバさん。お着替えが終わった頃にカルモナが迎えに参ります。お嬢様は私とおいでください」
デボラはそう言ってアマンダだけを部屋から連れ出した。
廊下に出てドアを閉めた後、デボラは言った。
「一晩だけとはいえ殿方と一緒の部屋というのは気を使われたことでしょう」
確かにそうだった。今朝用を足したのは父やサカリアスが寝ている時だった。男性の前で堂々とレストルームを使うのは憚られた。
「はい」
「やはり改装しなければなりませんね。あの部屋は先代の殿様の時に作ったものですので」
来た時と同じように迷路のような廊下を歩いて階段を上ると屋敷の一階だった。外から廊下の窓を通して入る光がまぶしかった。
デボラはさらにアマンダを二階に連れて行った。二階は侯爵家のプライベートスペースである。普通は入れない。
だが、デボラは一室にアマンダを連れて行った。
恐らくは客用寝室と思われる広い部屋だった。アマンダは北の宮殿の部屋を思い出した。あの部屋に似ている。
「今日からここをお使いになるようにと奥様の仰せです」
「よろしいのですか」
「はい。昨夜のようなことがまた起きてはなりません。お風呂はこちらです。お湯は入っています。それからお召し物はそちらに。化粧品はお好きなものをお使いください。二時間後にお迎えに参ります」
デボラはそう言って部屋を退出した。
アマンダはため息をついた。どうして侯爵夫人はこんなにも親切なのだろう。北の宮殿に泊まった時の客間も立派だったが、ここはさらに贅沢だった。
まず置いてある服がどう見ても一般の女性のものではない。貴族の女性が着る希少な絹の織物のブラウスに丈の長いスカート、下着は量販店にあるものとは手触りが全然違う。不思議なのはサイズがちゃんと合っていることだった。星の離宮でも用意されていた服や靴のサイズが合わなかったことがなかった。貴族の家には人を見ればすぐにサイズがわかる使用人がいるのだろうか。
それはともかくバスルームに入ると、バスタブには乳白色の湯にバラの花びらが浮いていた。これもまた贅沢だった。
アマンダは身体を洗い湯につかった。バラの花びらの香りが昨夜からの疲れをほぐすように感じられた。身体の芯からとろけるような感覚にアマンダはしばし浸っていた。
不意に記憶がよみがえった。
『ていこくをこのてに』
昨夜、正確には今日未明、眠れぬままいつの間にかうとうとしていると聞こえたサカリアスの声。
あれは現実なのだろうか。夢なのだろうか。
ていこくとは「帝國」なのか。このてにとは「この手に」なのか。
帝國をこの手に。
その意味は考えるまでもない。帝國を我が物にという意味だろう。我が物にする、すなわち皇帝になるということではないか。
温かい湯の中でアマンダの背筋に一瞬冷たいものが走った。
軍人で終わる方ではないと言ったのは確かだが、皇帝にとまでは言っていない。皇太子ではないサカリアスが皇帝になるには、無理があるのではないか。そもそも皇帝は皇太子を決めていない。
庶民でも後継者や相続人を決めていないために、一家の主が死んだ後に争いが起きることがあるのをアマンダも知っていた。近所の一流と言われたレストランがオーナーの死後に遺族の相続問題がこじれてしまったということがあった。ヒメネス夫人が仲介しようとしたが、結局は裁判沙汰になって一族はバラバラになりレストランは閉店してしまった。
帝國も皇帝に何かあったら、似たようなことになりかねない。サカリアスがその渦中に飛び込んだら一体どういうことになるか。想像もつかないが、平和の裡に相続が終わるとは思えない。
きっとあれは夢なのだと思う。アマンダのサカリアスへの敬意が高じて夢を見てしまったのだ。皇帝なんてそんな恐れ多いことをサカリアスが考えるはずがない。大体、サカリアスも疲れていたはずである。起きていたはずがない。
バスタブの中でアマンダは「はずがない」を繰り返した。
貴族の正装は地球の19世紀後半頃のイングランドの紳士風である。ストレートのズボンに上着は長め、着慣れない正装にサカリアスは四苦八苦していた。先に着替え終わったレオポルドが手伝ってくれた。
「このクラバットの形が崩れると恰好がつかないからね」
レオポルドはそう言いながらサカリアスのクラバットを結びなおした。
「これでよしと」
鏡を見るとなんとか形にはなっていた。
振り返るとレオポルドは髪を撫でつけていた。
サカリアスはレオポルドの着こなしに感心するしかなかった。動画で厨房に立っている時は、カフェテリアの主そのものだったのに、今目の前にいるのは生まれついての貴族にしか見えない紳士だった。伸びた髭も不潔に見えないように切りそろえている。このまま首都の社交界に現れたら、既婚婦人たちが追いかけまわすに違いなかった。母が愛人に選んだのも納得である。
「こういう恰好は久しぶりでね。なんだか仮装行列をしているようだ」
これが仮装行列なら貴族社会は百鬼夜行だとサカリアスは思う。
「仮装には見えません。何年も着ているように見えます」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
「いや、お世辞ではありません」
「お世辞は悪いことではないよ。使う相手と時と場所を選べばね」
レオポルドもそれなりに処世の苦労はしていた。素直ならいいというものではない。
「本当にお世辞では」
「うん、わかってる。殿下は本当に素直だ。考えていることが手に取るようにわかる」
サカリアスはぞくりとした。
「アマンダのことを大事に思っているなら、放っておいてくれないか」
「え?」
「アマンダはまだ子どもだ。20歳だが、これまで全然そういう話はなかった。まあ、私がホルヘの旦那と言われていたから、若い男は近寄れなかったんだろう。いずれは私の手から離れていかなければならないのだが、籠の鳥にされるのは困る」
「籠の鳥……」
アマンダを守りたい気持ちが彼女を籠の鳥にするというのか。
「殿下はたぶんアマンダを甘やかし家に閉じ込めて誰にも見せたくないのだろう。気持ちはわからなくもない。私も妻を人目にさらしたくなかった。でも、それは無理だ。生きている女性だからね」
レオポルドの指摘は図星だった。サカリアスは否定の言葉を口にできなかった。
「助けてもらってこういうことを言うのはどうかと思うが、父親としてはアマンダを弱者ではなく独立したパートナーとして見てくれる男性が有難いんだ。殿下も守らなければならない女性より対等に渡り合える女性のほうがこの先役に立つんじゃないかな。帝國を手にするなら」
サカリアスは衝撃で立っていられなくなりそうだった。
聞かれた。昨夜の呟きを。
「皇帝になるなら皇后もふさわしくあらねばならない。今のアマンダには無理だ」
足元が揺らぐような言葉だった。
が、負けてはならない。アマンダの父親一人説得できない男が皇帝になれるはすがない。
「ならばふさわしくなるように、私に預けてくださいませんか」
言ってから大きく出てしまったと思った。一足飛びに預けるなどとは。
レオポルドの端正な顔に変化はなかった。
「預ける? 本人の気持ちなど関係なく?」
「それは、私が確認します」
「殿下の賭けに娘を巻き込むわけにはいかない。失敗したら命を落とすことになる」
「賭けではありません。戦いです」
「今の殿下に自由に使える艦隊もないのに? 戦略も戦術もない戦いは賭け以下だ」
それを言われたらどうしようもない。
「今は何も持っていません。ですが、数年のうちには」
「数年? それではいつまでたっても殿下は殿下のままだ」
その通りだ。悔しさのあまりサカリアスは口走っていた。
「では私が30になる前に」
「4年か。わかった」
レオポルドは笑った。ただ目だけは笑っていなかった。
「娘の気持ちが他の男性に動くことがなかったら、娘を皇后として殿下に差し上げよう。ただし、殿下に今預けるわけにはいかない。危険が多過ぎる」
まさかこんな場所でそんな言葉を聞くとは思ってもいなかったサカリアスだった。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。が、レオポルドは試練を課した。
「休暇が終わる前に殿下御自身でアマンダの気持ちを確認してからの話だが」
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