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第九章 鬼起つ

05 旅立つ人々

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 ゲバラ侯爵夫人アビガイル・パルマが査問会出席のため首都星に向かう朝、アマンダは家令のカルモナや家政婦長のデボラらとともに屋敷の玄関前の車寄せで見送った。
 本来なら地下の道路で空港に行くのだが、査察団は地上の道路を使うように主張した。首都星に連行する侯爵夫人を古代の罪人のように市民の目にさらしてやろうというつもりなのだろうとビクトルは言っていた。

「行ってくるわ。ビクトル、後はお願い。アマンダ、何て顔してるの。笑って頂戴」

 アビガイルは仕事に行く時と同じような顔で車に乗り込んだ。
 アマンダは笑えなかった。つい10分前、地下の道路を利用する父とアルマを見送ったばかりなのだ。

『じゃあ、お父様をちょっとお借りするわね』

 そう言ってアルマは車の後部座席に収まった。父は何も言わず、アマンダを見つめた。昨夜、夜中まで話をしたからもう何も言うことはないということかもしれないが、アマンダはもっと話をしたかった。エストレージャの特製オムレツの味付けの秘訣やイワシの煮物のソースのスパイスの話でも何でもいい、とにかく父と話したかった。
 だが、車は父を助手席に乗せるとすぐに出発した。
 そんな別れの後に、笑えるはずもなかった。
 アビガイルの乗った後部座席の窓が開いた。手を振ってウィンクをしたので、思わずアマンダは笑ってしまった。

「そうよ、それ、忘れないで」

 車は直後に発車した。
 車寄せに飛び出し、アマンダは大きく手を振った。
 ビクトルも手を大きく振った。



 アビガイルの乗る後部座席の窓を開けさせたのは助手席のファン・エッセン査察局長だった。
 市民はさらされたこの女に何を投げつけるだろうか。罵声か、水か、それとも生卵か……。
 侯爵邸の門を過ぎると歩道に大勢の市民が並んでいた。ファン・エッセンは嗜虐的な笑みを浮かべ、市民の様子を見た。

「ん?」

 たくさんのプラカードが掲げられていた。

『お早いお帰りを待っています 従業員一同』
『侯爵夫人に栄光を! 商工会会員一同』
『査察団さっさと帰れ』

 ファン・エッセンの顔色がみるみるうちに青くなった。
 信号が赤になったので車が止まった。すると市民のシュプレヒコールが聞こえた。

『侯爵夫人をか・え・せ』
『イ・ン・チ・キ・査察団』
『か・え・せ! か・え・せ! 侯爵夫人をか・え・せ!』

 一人の女が車に駆け寄った。

「奥様、おいたわしうございます」

 そう叫んで女は小さな花束を窓に投げ入れた。

「ありがとう。でも危ないから離れて」

 アビガイルがそう言うと、女は車から離れた。
 窓を閉めろとファン・エッセンは叫んだ。
 後部座席の窓は閉ざされた。だが、人々はシュプレヒコールをやめなかった。プラカードが視界から消えることもなかった。
 ファン・エッセンはむすっとした顔で忌々し気に外を見た。
 携帯端末で警察署長に連絡した。

「査察局長のファン・エッセンだ。侯爵邸近くの道路にいる者達を何故取り締まらないのだ。プラカードを掲げくだらんシュプレヒコールをしているぞ」
『局長閣下には御機嫌うるわしく。当侯爵領ではプラカードもシュプレヒコールも公衆に害のない限り禁止しておりません。先日のスタジアム関連の騒動の場合は政庁に投石したり公爵邸に侵入しようとしたりしたので逮捕しました。もしそのようなことをする者がおりましたら逮捕いたしますが』

 警察署長の査察局長に対する精一杯の反抗だった。
 車に投石をする者はいなかった。車に乗り込もうとする者もいなかった。歩道にいる人々は皆行儀よく並び、侯爵夫人を見送っていた。

「そんな甘いことで犯罪がなくなるものか」
『ご心配ありがとうございます。幸いにも当市は侯爵夫人が治めるようになってから、すべての種類の犯罪の発生件数が減り、検挙率も上がっております』

 ゲバラ侯爵が治めていた頃、警部だった警察署長は毎日のように強盗や殺人の捜査に追われていた。だが、侯爵が亡くなった後侯爵夫人が観光産業の育成に力を入れ、福祉政策を充実させると、治安はみるみるうちに良くなった。統計も明らかに治安が良くなったことを示している。
 ファン・エッセンは通話を切った。
 昨日、査問会開催が閣議で了承されたことを部下が知らせて来た。だが、皇帝の一声で監察官の報告書も参考に採用されることが決まったと聞き、不安を感じていた。監察官は一般市民の間に紛れて領主の政治を評価していると聞く。今侯爵夫人を見送る市民の中にいるのではないか。もし彼がこの市民を見たら、侯爵夫人の治世をどう評価するのか。
 潮時かもしれない。バンデラス伯爵の腰巾着などと言われても彼に仕えてきたのは、さらなる出世のためだった。だが、このままでは出世どころか、バンデラス伯爵と一緒に奈落の底に落ちる羽目になりかねない。
 車が空港に到着するまでの間に、ファン・エッセンはいとも簡単に宗旨替えを決めた。
 運転手が着きましたと言うと、ファン・エッセンはそそくさと車から降り、後部座席のドアを開けた。

「どうぞ、お降りください」

 侯爵夫人が足を地面に着けたタイミングでファン・エッセンの手が伸びた。

「ありがとう」

 アビガイルは内心のとまどいを表に出さずファン・エッセンのエスコートを受け入れ手を委ねた。
 空港にまで見送りに来ていた人々は歓声を上げた。
 我らの侯爵夫人は厳めしい査察局長をひれ伏せさせたのだと。



 ビクトルは主の留守を守るため政庁に向かった。
 アマンダは一人侯爵邸に残り、ルシエンテス子爵令嬢としてピラル・ビーベスの礼儀作法の授業を受けていた。

「首都であるテラセカンドの中心部は13の区に分けられています。第一区には宮殿といくつかの公爵邸があります」
「もう一回。公爵邸と言ってみて」
「こうしゃくてい」
「こうのアクセントを強く」
「こうしゃくてい」
「もう一回」
「こうしゃくてい」
「よろしい。忘れないで。さあ、もう一回その文を読んで」
「首都であるテラセカンドの……」

 こうやって幾度も言い直すので、初等学校の教科書はまだ第一章も終わっていない。
 きっと自分は覚えの悪い生徒なのだろうとアマンダは思う。けれど、やらなければ子爵令嬢として恥ずかしい目を見るのだ。サカリアスや侯爵夫人に恥をかかせてしまう。
 
「今日はここまでにいたしましょう」

 いつもより少し早い時間に授業は終わった。

「あなたはアビガイル様よりも覚えが速い」
「え?」

 意外だった。侯爵夫人の発音は完璧な貴族のものだった。生まれた時から話していたかのように。

「私は11歳のアビガイル様に発音を教えました。それまでテラセカンドの十三区外に住んでおいでだったから、ずいぶんとアクセントに問題がありました。なかなか覚えるのに苦労されていました。三年かかってやっと物になられました。貴族女学校で笑われながら一生懸命覚えられたのです」

 侯爵夫人の知られざる苦労だった。

「私は思うのです。貴族とは生まれだけではない。貴族として生きようと努力できる者こそが貴族なのだと。アビガイル様は貴族の中の貴族です。査問会であの方を裁くなど馬鹿げている」

 ピラル・ビーベスの正しい発音がアマンダの中に沁み込んでいった。

「私もそう思います」

 ピラルは微笑んだ。

「今の思います、もう一度。思います」
「思います」
「そう、最後まではっきりと。意見は語尾まではっきりと言わねばなりません」

 ピラルは言葉や礼儀作法だけではなく貴族の在り方を教えているのだとアマンダは気付いた。なんと尊いことだろうか。そしてそのような人を教師に選んだアビガイルの深謀遠慮に感嘆するしかなかった。



 一方、月へと向かうシャトルの中でも、ファン・エッセンは侯爵夫人をエスコートした。モラル伯爵は怪訝な顔で査察局長を見ていた。
 だが、査察局長の態度は他の査察官の態度にも影響した。侯爵夫人は首都星に着くまで下にも置かぬ扱いをされることになったのである。




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