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第九章 鬼起つ
10 サリタの青春
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ケプラー星系ドイルのヨハネス宇宙軍基地近くのヨハネス医師会立病院付属看護学校の学生達は毎日規則正しい生活を送っていた。
寄宿舎から歩いて5分の学校で8時30分から午後3時まで授業を受けた後、歩いて5分の病院で3時30分から8時まで働く。病院で夕食をとり、寄宿舎に戻れば9時近くなる。その後、入浴や洗濯、自習をする。休日以外ほぼ二年間この生活を送れば看護師資格試験の受験資格を得ることができる。
サリタ・サパテロもそんな学生の一人である。毎日慌ただしくも充実した日々を送っていた。
ただ、最近少々厄介なことがあった。
同じ寄宿舎にいる二年生のエステファニア・シガンダから金を貸してくれと言われたのだ。場所は病院の食堂。たまたまサリタは産婦人科で出産があったため遅くなった。そこへ彼女が待ち構えていたように現れた。
無論、その場で断った。エステファニアと会話したのはこの時が初めてで金を貸すいわれなどないのだから。
幸い、夜の病院の食堂には二人以外に調理員のおじさんとおばさんがいた。二人はエステファニアをその場で叱責した。生徒が生徒から金銭をせびるのは許されないことだった。
「貸してくれと言っただけだよ。返すんだからいいだろ! このクソジジババ!」
エステファニアは反抗的だった。
そこへ帰りの遅い学生を心配した寮監のアニカ・オルタが来て事が明るみになった。
翌日からエステファニアは三日間寮の自室に謹慎となった。
恐らく海賊によって父と姉を失ったサリタに支給された犯罪被害者遺族給付金のことをエステファニアは誰かから聞きつけたのだろう。休日にエステファニアが派手な化粧をして外出しているのを見ていたサリタは、背後に男がいるかもしれないと思った。
生前の父が一見派手な女性の相談に乗っているのを見たことがあった。その数日後にその女性の恋人とかいう男がエストレージャに押し掛けてきたことがあった。常連の老人が男のことをヒモだと言っていた。女性に稼がせて自分は遊んでいる男のことをそういうのだとサリタは初めて知った。
看護学生には授業料と寮費と奨学金が医師会から支給される。授業料と寮費は学校にそのまま支払われるが、奨学金は口座に入る。サリタはそれを生活費と書籍代に使っている。それが奨学金の正しい使い方と言える。
同年代の高等学校等に通っている少女たちは自分で自由に使えるお金はさほど持っていない。だが、看護学生はアルバイトをしている高等学校の生徒に比べたら金を持っている。それを質の悪い男につぎ込んでいるのではないかとサリタは思った。
念のため、サリタと同じ中等学校出身の一年生のハンナにそれとなくエステファニアの過去の素行を聞いてみた。
「あの人、中等学校の頃からつきあっている先輩がいて、それが白竜会とかいう反社の下の組織のチンピラで。商業学校に進学したはずなのにここにいたからびっくりしたわ。商業学校を退学してここに入ったらしいけど、もしいるとわかってたら入らなかった。ここだけの話、カツアゲとかしてたし。何かあったの?」
「金を貸してくれって言われた」
「はあ? もしかして犯罪被害者遺族の給付金を狙って? 今謹慎になってるのはそのせい?」
「ええ。病院の食堂でね。あのお金、父の借金返済でずいぶんなくなったから。それを兄と分けたから残ってるのは二年間の生活費ぎりぎり。だから断った。そしたらオルタ先生が来て」
父の借金返済は嘘である。だが面倒見のよかった父を知っている人々は納得した。家族全員質素な生活をしていたのも借金のせいだと皆思っている。
もし手つかずであると言ったらエステファニアのような者が何人も現れる。
「ひどい話ね。サリタにお金をせびるなんて。オルタ先生が来てよかった。気を付けてね。白竜会って帝國中に組織があるんですって。そんなとこのチンピラと関わりがあるなんて想像するだけで……」
サリタは波風を立てたくはなかった。ただでさえ海賊に巻き込まれて殺された父娘の身内ということで目立っているのだ。最近やっと父と姉のことで取材されることがなくなってきたというのに。普通の看護学生として生活したかった。
それなのに、サリタに金をせびったエステファニアが謹慎になるなんて。エステファニアに逆恨みされるかもしれないと思うと気分がよくない。寄宿舎と学校と病院にいる限りは心配はないが、外に出るのはまずいかもしれない。
サリタは思い切って柔術のサークルに入ることにした。
看護学校にはサークルがあって長時間の活動はできないが、早朝や休みの日に活動をしている。絵画、文学、生け花、料理等の文化的活動の他に、テニス、卓球、フットサル、ジョギング、体操、柔術等があった。
柔術は体格が小さくても大きな身体の人間を投げ飛ばすことができると聞いていた。これなら身を守れると思ったのだ。
休みの日に、活動している病院内の畳のある小さな道場に行き、顧問をしている病院の整形外科の老医師に入門を願い出た。
「いいけど、技をすぐ教えることはできないよ。すぐに強くなれるわけでもない。生兵法は大怪我の基と言うしね。それでもやりたいなら。だけど病院の仕事で忙しい時は休んでいいから。無理すると大怪我して資格試験受けられなくなるからねえ」
サリタの背後では柔道着の6人ほどが組み合っていて、誰かが倒れるたびにバタンバタン音がした。
なんだか心配になってきたが、やってみなければわからないと思った。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。早速だけど、運動のできる服装に着替えて。柔軟体操ね。それから受け身の練習するよ」
こうしてサリタは柔術サークルに入った。サークルは8人いて二年生が5人、一年生がサリタの他に3人。中等学校からやっていた二年生の一人がサリタを指導した。
サリタはこれまで特に運動をしていなかったので基礎体力が彼女達に比べて足りなかった。寄宿舎に帰った後、柔軟だけでなくストレッチをしたり、腕立て伏せ、腹筋運動をした。
学校や病院でも階段を走って昇り降りした。だが病院のほうは患者が足音を聞いたら不安を感じるからと看護師に止められた。
そんなことをしているうちに、エステファニアが退学になったという話が飛び込んで来た。理由はサリタの件ではなかった。休日に外出先で数人の仲間とともに禁止薬物を摂取しているところへ警察が踏み込み逮捕され、身元を調べると看護学校生だと判明、学校に連絡され職員会で直ちに退学が決定したとのことだった。
普通の学校でもそうだが、看護学校ならなおさら禁止薬物の摂取に対しては厳しい。薬物の害について勉強しているのだから。
寮にあるエステファニアの荷物は母親が取りに来た。娘に似た目鼻立ちのはっきりした顔だが、額の皺が苦労を感じさせた。
エステファニアは警察での取調の後、裁判で執行猶予がついたが、薬物中毒者の更生施設に強制入所となった。
「サリタに金をせびったのは、たぶんクスリを買うためだったんだろうね」
ハンナの言う通りかもしれない。恐らく薬物は恋人から教えられたのだろう。
「最近、警察が張り切ってヤクザを捕まえてるから、治安よくなるわね」
警察官の兄を持つ柔術サークルの友人も言っていた。
「白竜会を殲滅しろって法務大臣が命令出したらしいよ」
サリタは今まで命令が出ていなかったほうがおかしいと思った。やっとまともになったらしい。
受け身が取れるようになると、柔術はそれなりに楽しくなってきた。柔術サークルで身体を動かし体力がつくと病院の忙しい仕事も楽に感じられるようになった。エステファニアがきっかけだったことなど忘れてしまうほどだった。
他の地方の医師会立病院付属看護学校二校の柔術サークルとの合同練習会が行われたのは秋の収穫祭の休日だった。場所はドイルから60キロメートルほど離れた研修施設だった。
初心者のサリタは練習試合に参加できなかったので、メンバーのためにドリンクを用意したり打ち上げのバーベキュー大会の支度をしたりした。
バーベキューが始まり皆がおいしいと言って食べるのを見ながらサリタは充実感を感じていた。
後片付けも率先してやった。
帰りのバスを待つ間に火の始末ができているか確認していると、若い男性から声を掛けられた。
「君ってまめだね」
一緒に準備をしてくれたヨコミゾ医師会立病院の研修医で同付属看護学校の副顧問フランク・エッセリンクだった。
細面のメガネをかけた顔は柔術をしているようには見えなかった。だが耳だこがあったので長くやっているのはわかった。
「まめ? これが普通だと思います」
「そうだね。君には普通なんだね。ところで」
「なんでしょうか?」
「連絡先を教えてくれないか」
これがナンパというものかとサリタは気付いた。
「学校の寄宿舎です」
「え?」
「用があるなら寄宿舎の寮監の先生を通じて連絡してください」
そう言うと、サリタは踵を返しさっさと歩いた。男には気を付けなければ。父のところに相談に来ていた女性達のようにはなりたくない。
フランクはやられたと思った。と同時にサリタにますます心惹かれるものを感じた。フランクの知る世界にはいないタイプだった。
寄宿舎から歩いて5分の学校で8時30分から午後3時まで授業を受けた後、歩いて5分の病院で3時30分から8時まで働く。病院で夕食をとり、寄宿舎に戻れば9時近くなる。その後、入浴や洗濯、自習をする。休日以外ほぼ二年間この生活を送れば看護師資格試験の受験資格を得ることができる。
サリタ・サパテロもそんな学生の一人である。毎日慌ただしくも充実した日々を送っていた。
ただ、最近少々厄介なことがあった。
同じ寄宿舎にいる二年生のエステファニア・シガンダから金を貸してくれと言われたのだ。場所は病院の食堂。たまたまサリタは産婦人科で出産があったため遅くなった。そこへ彼女が待ち構えていたように現れた。
無論、その場で断った。エステファニアと会話したのはこの時が初めてで金を貸すいわれなどないのだから。
幸い、夜の病院の食堂には二人以外に調理員のおじさんとおばさんがいた。二人はエステファニアをその場で叱責した。生徒が生徒から金銭をせびるのは許されないことだった。
「貸してくれと言っただけだよ。返すんだからいいだろ! このクソジジババ!」
エステファニアは反抗的だった。
そこへ帰りの遅い学生を心配した寮監のアニカ・オルタが来て事が明るみになった。
翌日からエステファニアは三日間寮の自室に謹慎となった。
恐らく海賊によって父と姉を失ったサリタに支給された犯罪被害者遺族給付金のことをエステファニアは誰かから聞きつけたのだろう。休日にエステファニアが派手な化粧をして外出しているのを見ていたサリタは、背後に男がいるかもしれないと思った。
生前の父が一見派手な女性の相談に乗っているのを見たことがあった。その数日後にその女性の恋人とかいう男がエストレージャに押し掛けてきたことがあった。常連の老人が男のことをヒモだと言っていた。女性に稼がせて自分は遊んでいる男のことをそういうのだとサリタは初めて知った。
看護学生には授業料と寮費と奨学金が医師会から支給される。授業料と寮費は学校にそのまま支払われるが、奨学金は口座に入る。サリタはそれを生活費と書籍代に使っている。それが奨学金の正しい使い方と言える。
同年代の高等学校等に通っている少女たちは自分で自由に使えるお金はさほど持っていない。だが、看護学生はアルバイトをしている高等学校の生徒に比べたら金を持っている。それを質の悪い男につぎ込んでいるのではないかとサリタは思った。
念のため、サリタと同じ中等学校出身の一年生のハンナにそれとなくエステファニアの過去の素行を聞いてみた。
「あの人、中等学校の頃からつきあっている先輩がいて、それが白竜会とかいう反社の下の組織のチンピラで。商業学校に進学したはずなのにここにいたからびっくりしたわ。商業学校を退学してここに入ったらしいけど、もしいるとわかってたら入らなかった。ここだけの話、カツアゲとかしてたし。何かあったの?」
「金を貸してくれって言われた」
「はあ? もしかして犯罪被害者遺族の給付金を狙って? 今謹慎になってるのはそのせい?」
「ええ。病院の食堂でね。あのお金、父の借金返済でずいぶんなくなったから。それを兄と分けたから残ってるのは二年間の生活費ぎりぎり。だから断った。そしたらオルタ先生が来て」
父の借金返済は嘘である。だが面倒見のよかった父を知っている人々は納得した。家族全員質素な生活をしていたのも借金のせいだと皆思っている。
もし手つかずであると言ったらエステファニアのような者が何人も現れる。
「ひどい話ね。サリタにお金をせびるなんて。オルタ先生が来てよかった。気を付けてね。白竜会って帝國中に組織があるんですって。そんなとこのチンピラと関わりがあるなんて想像するだけで……」
サリタは波風を立てたくはなかった。ただでさえ海賊に巻き込まれて殺された父娘の身内ということで目立っているのだ。最近やっと父と姉のことで取材されることがなくなってきたというのに。普通の看護学生として生活したかった。
それなのに、サリタに金をせびったエステファニアが謹慎になるなんて。エステファニアに逆恨みされるかもしれないと思うと気分がよくない。寄宿舎と学校と病院にいる限りは心配はないが、外に出るのはまずいかもしれない。
サリタは思い切って柔術のサークルに入ることにした。
看護学校にはサークルがあって長時間の活動はできないが、早朝や休みの日に活動をしている。絵画、文学、生け花、料理等の文化的活動の他に、テニス、卓球、フットサル、ジョギング、体操、柔術等があった。
柔術は体格が小さくても大きな身体の人間を投げ飛ばすことができると聞いていた。これなら身を守れると思ったのだ。
休みの日に、活動している病院内の畳のある小さな道場に行き、顧問をしている病院の整形外科の老医師に入門を願い出た。
「いいけど、技をすぐ教えることはできないよ。すぐに強くなれるわけでもない。生兵法は大怪我の基と言うしね。それでもやりたいなら。だけど病院の仕事で忙しい時は休んでいいから。無理すると大怪我して資格試験受けられなくなるからねえ」
サリタの背後では柔道着の6人ほどが組み合っていて、誰かが倒れるたびにバタンバタン音がした。
なんだか心配になってきたが、やってみなければわからないと思った。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。早速だけど、運動のできる服装に着替えて。柔軟体操ね。それから受け身の練習するよ」
こうしてサリタは柔術サークルに入った。サークルは8人いて二年生が5人、一年生がサリタの他に3人。中等学校からやっていた二年生の一人がサリタを指導した。
サリタはこれまで特に運動をしていなかったので基礎体力が彼女達に比べて足りなかった。寄宿舎に帰った後、柔軟だけでなくストレッチをしたり、腕立て伏せ、腹筋運動をした。
学校や病院でも階段を走って昇り降りした。だが病院のほうは患者が足音を聞いたら不安を感じるからと看護師に止められた。
そんなことをしているうちに、エステファニアが退学になったという話が飛び込んで来た。理由はサリタの件ではなかった。休日に外出先で数人の仲間とともに禁止薬物を摂取しているところへ警察が踏み込み逮捕され、身元を調べると看護学校生だと判明、学校に連絡され職員会で直ちに退学が決定したとのことだった。
普通の学校でもそうだが、看護学校ならなおさら禁止薬物の摂取に対しては厳しい。薬物の害について勉強しているのだから。
寮にあるエステファニアの荷物は母親が取りに来た。娘に似た目鼻立ちのはっきりした顔だが、額の皺が苦労を感じさせた。
エステファニアは警察での取調の後、裁判で執行猶予がついたが、薬物中毒者の更生施設に強制入所となった。
「サリタに金をせびったのは、たぶんクスリを買うためだったんだろうね」
ハンナの言う通りかもしれない。恐らく薬物は恋人から教えられたのだろう。
「最近、警察が張り切ってヤクザを捕まえてるから、治安よくなるわね」
警察官の兄を持つ柔術サークルの友人も言っていた。
「白竜会を殲滅しろって法務大臣が命令出したらしいよ」
サリタは今まで命令が出ていなかったほうがおかしいと思った。やっとまともになったらしい。
受け身が取れるようになると、柔術はそれなりに楽しくなってきた。柔術サークルで身体を動かし体力がつくと病院の忙しい仕事も楽に感じられるようになった。エステファニアがきっかけだったことなど忘れてしまうほどだった。
他の地方の医師会立病院付属看護学校二校の柔術サークルとの合同練習会が行われたのは秋の収穫祭の休日だった。場所はドイルから60キロメートルほど離れた研修施設だった。
初心者のサリタは練習試合に参加できなかったので、メンバーのためにドリンクを用意したり打ち上げのバーベキュー大会の支度をしたりした。
バーベキューが始まり皆がおいしいと言って食べるのを見ながらサリタは充実感を感じていた。
後片付けも率先してやった。
帰りのバスを待つ間に火の始末ができているか確認していると、若い男性から声を掛けられた。
「君ってまめだね」
一緒に準備をしてくれたヨコミゾ医師会立病院の研修医で同付属看護学校の副顧問フランク・エッセリンクだった。
細面のメガネをかけた顔は柔術をしているようには見えなかった。だが耳だこがあったので長くやっているのはわかった。
「まめ? これが普通だと思います」
「そうだね。君には普通なんだね。ところで」
「なんでしょうか?」
「連絡先を教えてくれないか」
これがナンパというものかとサリタは気付いた。
「学校の寄宿舎です」
「え?」
「用があるなら寄宿舎の寮監の先生を通じて連絡してください」
そう言うと、サリタは踵を返しさっさと歩いた。男には気を付けなければ。父のところに相談に来ていた女性達のようにはなりたくない。
フランクはやられたと思った。と同時にサリタにますます心惹かれるものを感じた。フランクの知る世界にはいないタイプだった。
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