よあけ

紙仲てとら

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本編

第79話

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 昨日はシュンヤと、久々にゆっくり過ごすことができた。
 丸の内仲通りにあるイタリアンレストランで食事をしたあと、彼の行きつけだというバーでカクテルを楽しんだ。交わした会話は他愛のないもので、気詰まりになることも、塞ぎ込んでしまうようなこともなく、時間は終始なごやかに過ぎていった。
 東京駅近くのホテルに空室があったため一泊することにし、今朝シュンヤはそこから直接出社していった。チカルは昼前に自宅に戻り、馴染みのある服に着替えたあと家事代行の仕事に向かった。
 昨晩はなかなか寝かせてもらえなかった……彼のおかげですっかり寝不足だ。下半身にだるさを感じながらタビトの部屋を訪れたチカルは、何度もあくびを噛み殺しながら清掃を始める。
 寝室に掃除機をかけてリビングに戻ってくると、先ほどまでソファに座っていたタビトがいない。首を傾げながら洗面脱衣室に行くと、洗濯機の蓋がわずかに開いている。
 彼女はとっさに踵を返し、ドライルームに駆け込んだ。思ったとおり、タビトが鼻歌まじりに洗濯物を干している。
「タビト君」
 ドアを後ろ手に閉めたチカルがあきれたような声を出した。
「それは私の仕事です」
「迷惑?」
「――迷惑ではありませんが……これでは、お給料をいただけません」
「チカルさんが普段から契約内容以外のことにも気を配ってくれてること知ってるよ。いつも報酬以上の仕事をしてもらってるし、俺が休みのときくらい手伝わせて」
「私は賃金に見合うだけの仕事しかしておりません」
 彼の手からハンガーを奪って続ける。
「君は休むのが仕事です。さあ、ソファへどうぞ」
 きりりとした眉をひそめて、こちらを軽く睨み上げてくる。最近のチカルは、本当にいろいろな表情を見せてくれるようになった。
(怒った顔もかわいい……)
 彼はうっとりと目を細め、甘えるような声で訊ねた。
「ねえ……今日の夜、予定ある?」
 なにか追加の仕事を頼むつもりだろうか――チカルは首を横に振る。
「いいえ、特には」
「ちょっとお願いがあるんです」
 彼は指先を唇に当てて思案顔になると、
「そうだな……20時くらいまで掛かるかも」
「問題ございません。なんなりとお申し付けください」
 よかった、とつぶやき、とびきりの笑顔を見せたタビトは言葉を続けた。
「今日の夜ごはん、いっしょに食べようよ。カレー作るからさ」
 予想外の言葉に彼女はぎょっとして声を飲んだが、すぐさま断る。
「お誘いはありがたいのですが……ごめんなさい。先日ケーキやお茶をいただいたばかりですのに、今度は食事までご馳走になるだなんて――そんなことはできません」彼女はいちど言葉を切り、ばつが悪そうな顔で続ける。「そもそも、仕事に専念しなければならない時間帯に休憩するなど、本来あってはならないことですので……」
「18時を過ぎたら業務終了だよね。できあがるのはたぶん19時過ぎになるから、そのときはもう仕事中じゃないでしょ。これはプライベートな誘いだよ。だからそんなつれないこと言わないで」
「……帰ります」
「さっきは問題ないって言ってたよ。なんなりとお申し付けください、って……」
「それは君が――……」
「責めないで。俺、仕事のお願いとは言ってないし」
 唇を結び声を詰まらせているチカルを見つめ、彼は蠱惑的に笑う。早とちりをした自分をうらめしく思いながら、チカルは何も言い返せない。
 このあいだの抹茶のパウンドケーキといい、餌付けでもされているような気分だ。一回り以上も年下の若者に振り回されていることを情けなく思いながら言葉を探していると、
「だめ?」
 彼はかわいらしく小首を傾げて覗き込んでくる。瑞々しい瞳で射るように見つめられて、チカルは思わず息を殺し下唇を噛んだ。さすがというべきか、この男は自分の魅せ方をよく知っている。
 若者の美しさに圧倒されてはいたが、彼女は強硬な姿勢を崩そうとはしなかった。
「プライベートのお誘いであっても、ご遠慮させていただきます」
「どうしてもだめ?」
 黙ったままかぶりを振る。それを見た彼はわかりやすくしょげた顔で肩を落とし、
「やっとまとまった時間がとれたから、この機会にチカルさんといろいろ話したいなって思ってたんだけど……」
 あまりに悲しげな声で言うものだから、チカルの心がちくりと痛む。
「そっか……だめかあ……」
 しゅんとしているタビトを前に、彼女はすっかり困ってしまった。今日はシュンヤも飲んで帰ると言っていたし、家でひとりカップ麺で済まそうと思っていたのだ。無下に断る理由などない。
「――では……作っていただくのは申し訳ないので、デリバリーにしませんか?もちろん支払いは私が」
「やだ。俺が作ってご馳走したいの」
 なんて強情な……チカルは困り果てながらも、すこし笑ってしまう。
「他のメニューにするのはどうです?カレーって作るの大変でしょう……材料を切って、煮込んで……」
「大変なことさせるのが申し訳ないからって、遠慮してるの?」
「――もちろん、それもあります」
「じゃあ一緒に作ろ?」
 屈託なく言うタビトに、彼女は思わずぼやいた。
「もう……どうしてそうなるの……」
 言ってしまってから、しまったと口をつぐむ。つい実弟のリョウや――長年のパートナーであるシュンヤと話すような調子で答えてしまった。だが彼は特に気にしていない様子だ。
「ふたりで作ったらきっと楽しいよ。材料だって買っちゃったし……。ね?お願い」
 食材もすでに準備済み――そうと聞けばもう頷くより他なかった。
 いつからこんなにペースを乱されるようになったのだろう。チカルはマスクの下で唇をへの字の曲げる。
「私……料理はからきし駄目ですよ」言いながら情けなくなったが、見栄を張る気はない。「材料を切るくらいしかお手伝いできな……」
「やった!材料切るのがいちばん大変だし助かります」
 言い終わる前に言葉を被せてきた彼は、飛び上がるような勢いで喜んだ。
 にこにこしてはしゃいでいる彼を見ながら、チカルは呆然たる顔になる。料理ができないと言うと大抵バカにされるか苦笑いされてきた彼女にとって、彼の言動は思いもよらないものだった――恋人でも結婚相手でもないのだし、料理ができようができなかろうが関係ないからこその反応なのかもしれないが。
 こうしてタビトに丸め込まれるような形で夕食を共にすることになった。リビングの時計が18時を回ると、よく使い込まれたエプロンを身に着けた彼が満面の笑みでチカルを手招きし、ふたりは揃ってキッチンに入る。
「料理するのがお好きなんですか」
 ピーラーとにんじんを手にチカルが訊ねる。
「うん、好き。学生の時からよく家族のために作ってたんです。みんなにおいしいって食べてもらえるから嬉しくて」
 答えつつ、皮を剝いた玉ねぎをくし切りにしていく。包丁さばきには淀みがなく、確かに慣れた手つきだ。
 棚の中に調味料がたくさんあったのは単に自炊しようとしただけではなく、料理することが好きだからだったのか。利用者とここまで関わるのは自分のポリシーに反するが、彼がリラックスした様子で楽しそうにしているのを見ると、食事を共にする選択をした自分は正しかったと思ってしまう。
 こうしてなんだかんだと理由をつけて正当化しないと割り切れない生真面目さが、わずらわしかった。こんな性格でなければ、タビトの傍にいるときの居心地の良さをもっと素直に肯定できるのに。
「メニューがカレーのときは俺の出番。それと餃子のときも。あ、ハンバーグとグラタンもよく作ってたな」
 懐かしく思い出しながら目を細める。
 餃子もグラタンも、ハンバーグすらまともに作ったことのないチカルは、すこし恥ずかしそうに俯いて、
「私はもっぱら食べる専門で」
 その返しにタビトはふふと笑った。
「俺は自分のためっていうより誰かのために作りたい方だから、今日は遠慮しないでたくさん食べていってね」
 話をしているあいだにあっという間に具材が切り終わる。ふたりでやるとこんなにも手際よくできるものかとチカルが思っていると、タビトが牛肉の入ったファスナー付き保存袋を冷蔵庫から取り出してきた。
「昼にスーパー行ったら、特売日だったみたいでほとんど売り切れちゃってて……筋っぽい肉しか残ってなかったんだよね。おいしく食べられるように下拵えしといたけど……どうかなー……」
 不安そうに袋の中を覗き込む。同じくその中身に目をやったチカルは、肉が白っぽい液体のなかに浸かっているのを見て不思議そうに訊ねた。
「これは……調味液ですか?肉に下味をつけるための?」
「調味液じゃなくて、すりおろした玉ねぎだよ。こうやって漬けておくと肉が柔らかくなるんだって」
 へえ、と目を丸くしているチカルを横目にすこし得意げな顔になったタビトは、温めた鍋に薄く油をしきニンニクと肉を炒め始める。
「何時間か漬けておいたから柔らかくなってるだろうし、臭みも取れてると思うけどもし口に合わなかったらごめんね」
「そのようなことを心配なさらないで。心のこもったお料理はすべておいしくいただきますから」
 静かだがよく通る声ではっきりとそう伝えると、タビトは調理する手をぴたりと止めて彼女の方を見る。
「――チカルさんのそういうとこ……」
 好き。
 つるりと口から飛び出そうになった二文字を慌てて吞み込んで、
「いや、……――えーと……胡椒どこだっけ……」
 とっさに下手な芝居を打つと、チカルはすぐさまコンロ脇のスパイスラックからそれを取り、差し出す。
 礼を言って受け取りながら、前にもこんなふうに途中で言葉を濁したことがあったな……と、タビトは苦い顔になる。あのときも今日と同じような衝動に駆られた。チカルのことは確かに「好き」だが、この気持ちが内包しているものの正体が友情なのか恋なのか、未だによくわからない。
 タビトが思い悩んでいることになどまったく気づいていないチカルは、先ほどのやりとりに対して特になんとも思っていないようだ。どこかのんびりとした口調で言う。
「お肉の下拵えまでしっかりしてあるだなんて……もし私の都合が悪かったり、カレー嫌いだったらどうなさるおつもりだったの?」
「都合が悪ければひとりでさみしく食べたよ。カレー嫌いならビーフシチューか肉じゃがにでもしたかな」
 そう無邪気に言う彼の横顔は、あの雑誌の表紙とはまるで別人だ。写真で見ても現実で見ても美しいことには変わりないが、ここにいる彼は年相応――22歳の青年である。
 表面に焼き色をつけたら一度取り出し、次に切った野菜を放り込んだ。相当作り慣れているらしく動きに無駄がない。その華麗な手さばきを、チカルは尊敬の眼差しで眺めた。
「料理に興味を持ち始めたのはいくつくらいのとき?」
 彼女がふいに訊ねると、首を捻ったタビトはすこし考え込んで、
「んー……。7歳くらいかな。母さんとおばあちゃんの手伝いから始めて、高校にあがったときに俺が朝飯を担当するようになって……それからいろんな料理にひとりで挑戦するようになったって感じです」
 ふむふむと興味深そうに頷くチカルを横目にとらえ、タビトは嬉しくなりながら続けた。
「俺ね、学生の頃に“お弁当屋さん”って呼ばれてたんですよ」
「お弁当屋さん……」
 その響きのかわいらしさに、チカルの目尻が下がる。
「そう。父さんと、兄ちゃんと、おばあちゃん。たまに母さんのぶんも。あと、先輩のも毎朝作ってたから、お弁当屋さん」
「どうして先輩にまで?」
「いつも昼ごはんを用意してこないで俺の弁当をつまみ食いするから、先輩のぶんも作って持っていったの。それからなんとなく……先輩が卒業するまでずっと。おいしそうに毎回完食してくれるから、その顔見てたらやめられなくなっちゃって」
 お人好しすぎると思ったが、そこも彼が多くから愛されるゆえんなのかもしれない。
 チカルは、十代の頃の彼がこうしてキッチンに立ち、大切な人のために料理の腕を振るっているところを想像する。毎朝の弁当に対する見返りはあったのか――それを聞くのは野暮な気がした。たぶん彼はそんなことを期待していたわけではないのだろうと、チカルは素直に思った。
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