よあけ

紙仲てとら

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本編

第340話

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 チカルとシュンヤの実家がある通りから外れ、畦道をしばらく行ったところにナルカミ家が所有する酒蔵がある。
 縦に長い敷地の奥に母屋が建っており、そこを回り込んだ裏手には農業道具などがしまわれている大きな納屋があった。ここの駐車スペースには普段、トラクターが数台停まっているが、今夜は一台分空けてもらいそこで車中泊することになっている。
 敷地内に車を乗り入れると、蔵を右手に見て、地面にできた轍を頼りに砂の道をゆっくり進んでいく。納屋は大きく開け放たれ、明かりがついていた。周囲に目を凝らすと、年季の入ったトラクターが暗がりの中に沈んでいる。その隣には幌つきの軽トラックと、ボディに蔵元の名が入った大型トラックが停まっていた。
 日の出まではまだ時間がある。少しでも眠っておこうと、チカルは座席に小さく丸まり目を閉じた。しかし眠りは浅かったようで、明け方の薄暗い時間にナルカミがドアを開けて外に出ていくのがわかった。
 それから数時間後。やかましい鶏の声と、車窓から容赦なく差し込んでくる8月の強烈な太陽に半ば強制的に目覚めさせられたチカルは、肘をついてゆっくりと起き上がった。エンジンはかかっているがナルカミは運転席にいない。低く流れるラジオが、朝の7時を知らせている。
 寝ぼけ眼で辺りを見回していたそのとき、母屋の方へ続く道に人影が現れた。色褪せた作業服を来た男――ナルカミの兄だ。彼の横にはリードに繋がれた黒い柴犬がおり、ぴったりと寄り添って歩いている。
 犬の方が先にチカルに気づき歩みをとめた。じっと固まって、納屋に停まっている車の窓を凝視している。今にも吠え出しそうな気配を感じたチカルは慌ててドアを開き、会釈しながら声をかけた。
「おはようございます。お久しぶりです」
「ああ、チカルちゃん。遠路はるばるよく来たなあ」
 笑顔はナルカミと瓜二つだが、兄の方がはるかにガタイがいい。岩のようにがっしりした体を窮屈そうに丸めてしゃがむと、犬を抱き寄せこねくり回しながら言った。
「昨日は家に泊めてあげられなくて悪かったね。この時期は朝採れ野菜を出荷する仕事があるもんでさ、就寝が早いのよ」
「兄貴!」
 遠くからナルカミの声がして、ふたりは同時にそちらに目をやる。太陽に当てられて白く光る道の上を走ってきた彼は呼吸の合間に叫んだ。
「シオリさんが呼んでるよ!坂道を上がろうとしたところでエンストして、そのあとエンジンが掛からなくなっちゃったみたいだ」
「あちゃー……今年何回目だぁ?」兄は溜息をつきながら腰にさげていたタオルを抜き取り、額の汗を拭う。「いよいよダメかもしれんね」
「チカルさんおはよう」
 目の前まで来たナルカミは息切れしながら笑いかけ、それからすぐに兄に視線をやる。
「直売所への第3便はヨシオさんが運んでってくれるってさ」
「ああ……まーた迷惑かけちまったか」
「最近しょっちゅうエンストしてるんだって?いいかげん買い替えればいいのに」
「それはそうなんだがなあ」
 頭をガリガリ掻きながらつぶやき立ち上がると、ナルカミにリードを預けて走り出す。その後ろ姿を犬と一緒に眺めていた彼は、チカルに振り返った。
「騒がしくしてごめんな。眠れた?」
「ええ」彼女は暗く沈む気持ちを隠すように頷き微笑する。「先輩は?明け方、車外に出て行かれたようですが……ちゃんと休めましたか?」
「気づかれてたか……」彼は苦笑いを浮かべ、「疲れてはいたんだけど、よく眠れなくてな……。4時に起きて、野菜の収穫と出荷準備を手伝ってきた。体を動かしたら、なんだかすこしすっきりしたよ」
 そう言いながら、リードをフェンスに結んだ。犬の名前は「まろ」。2歳のオスだ。人間がかまってくれなさそうだと見ると、まろはゆったりとしたしぐさで地面に座る。愛らしいその姿を遠巻きに見つめているチカルの横で、車のハッチを開けて荷物を取り出しながらナルカミが言う。
「ところでさ、今夜はうちに泊まるだろ」
「いえ……実家に」
「うちの親も兄貴の嫁さんもチカルさんを泊める気満々だから、遠慮しないで。兄貴もゆっくり話をしたがってたし絶対に喜ぶよ」
 彼の兄も道場の門下生であり、チカルにとってもうひとりの兄貴分だ。ナルカミほど熱心ではなかったが、その温厚な性格から下級生に慕われていた。面倒見がよく頼りがいのある男である。
「お心遣いありがとうございます。でも……」
 言葉を切り、彼女は伏せていたまつげを上げる。そして、振り向いたナルカミに続けた。
「今夜は実家に泊まります……。母といろいろ、話をしておきたいんです。結婚のこと、相続のこと……――今まで避けてきたけれど、きちんと自分の考えを伝えるつもりです」
 その瞳の中に強い覚悟を見て取ったナルカミは、手を止めて押し黙ったまま身じろぎもしない。なぜこのタイミングで母親と話をする気になったのか……チカルを妹のように思い見守り続けてきた彼には痛いほどわかっていた。
「わかった。なにかあればいつでも連絡してきなよ」
 やや間をおいてそれだけ言った彼は淡い笑みを浮かべ、喪服の入ったテーラーバッグの持ち手を指先に引っ掛けてハッチを閉める。それから思い出したように言った。
「そういえばチカルさんは喪服がないんだったな。朝メシ食べてからすぐ買いに行こう」
「ご面倒をおかけしてすみません」
「かわいい妹分のためだ、どうってことないさ」
 ことさら明るく言って、彼は片手で器用に犬のリードをフェンスから外した。後ろ脚を横に崩してだらりと座り暇そうな顔をしていたまろは目だけでナルカミを見上げて、ふすっと鼻を鳴らす。
「帰省するたびに散歩行ったり遊んだりしてるけど、いまいち心を開いてくれないんだよな」まろの頭を撫でながら苦い笑みを浮かべ、「兄貴ひとすじらしくて、他の家族に対しても塩対応なくらいだから、当たり前っちゃ当たり前なんだけどね」
 リードを軽く引かれ、まろは「致し方ない」といった様子で身を起こす。そしてナルカミの歩調に合わせることもなく、ぐいぐいと引っ張りはじめた。言うことを聞かない気まぐれな犬だが、それに対する不満など揺れる尻尾のかわいらしさで帳消しだ。
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