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本編
第341話
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ナルカミの実家で朝食をごちそうになったあと、村から一番近い市街地に連れて行ってもらった。スーツ販売店で喪服や靴、バッグなどを購入してから、チカルは家に連絡を入れる。自宅の電話に繋がらなかったので母のスマホにかけると、不機嫌な声で応答された。聞けば、ヤスケの家で通夜振る舞いの準備を手伝っているらしい。
「あなたもこっちに到着してるなら早く来て手伝いなさい。気が利かない子ねえ」
刺々しく言うと、こちらが言葉を返す前に通話が切られる。
ナルカミに実家まで送り届けてもらい、ボストンバッグと喪服の入った袋をぶら下げて玄関の引き戸に指を掛ける。力をすこし入れると、なんなく開いた。電話には誰も出なかったが、祖母は在宅らしい。
午後2時――この時間、彼女は昼寝をしているはずだ。起こすととんでもなく機嫌が悪くなるため、足音を忍ばせて廊下を進み母の部屋に入る。ここならばキクコの寝床から一番遠く、鏡もある。
荷をほどき、シャワーを浴びて身を清めた。薄化粧をして髪を整え、喪服を着ていると、玄関の扉が乱暴に開く音がする。
「チカル!チカルッ!いるんでしょう」
金切り声に近いマリの叫びが廊下を伝って聞こえてきた。チカルが慌てて部屋を出ると、彼女はその姿を見るなり声を更に荒らげる。
「まったくあなたって子は……まだ準備しているところだから普段着でよかったのに。――もう、そのままでいいわ。さっさと来なさい」
こんなに苛立っている母親を見るのは久しぶりだ。他人の葬儀の手伝いなど面倒で仕方がないと思っているのだろう。――いや、こういった湿っぽい儀式そのものが嫌いなのかもしれない。父と祖父の葬儀のときも、彼女は悲しみに沈むどころか目に見えて機嫌が悪かった。
母が用意してくれたエプロンを手に、ヤスケの眠る家へ向かう。門をくぐると、隣組の面々や親族と思しき者たちが額を寄せ合いひそひそと話をしている。知っている顔ばかりだ。チカルは視線を逸らし俯いて、マリの後に黙ってついていく。
正面玄関から入ると、シュンヤの母であるツヤコがちょうど階上から降りてきたところだった。チカルの姿を見るなり足早に階段を駆け降りてくる。
「この度はご愁傷さまです……」
深く頭を垂れる彼女を前に涙ぐんだツヤコは、目尻を指先で拭いつつ言った。
「突然のことで驚いたでしょう……ごめんなさい。来てくれてありがとうね……」
その言葉にチカルはかすかにかぶりを振り、
「――なにかお手伝いできることはありませんか?」
「気遣ってくれて嬉しいけど、大丈夫。手は足りてるから……。それよりも、ヤスケさんに会ってあげてちょうだい。仏間にいるから」
頷くチカルの横で――彼女の母マリは不機嫌そうな顔をしている。さっさと靴を脱ぐと、何も言わずに台所の方へと続く暖簾をくぐっていってしまった。その一連の様子を見ていたツヤコはどこかさみしそうに、「今日はずっとあの調子なんだ」そう言ってちいさく息をついた。
チカルにとってこの家は第二の我が家のようなもので、間取りはよく知っている。彼女は迷うそぶりもなくひとり廊下を行き、仏間に入った。隣接している奥座敷に続くふすまは開け放たれ、広くスペースが取られている。青々とした畳を抜けた先には夏の色を濃くした中庭が広がっていた。
チカルは、動かなくなったヤスケの傍に静かに膝をついた。
頭を仏壇に向けた状態で横たわり、顔は白い布で覆い隠されている。天地逆にされた薄手の布団の胸元には、守り刀が置かれていた。
訃報を受け激しく動揺していた心はいま、不気味なほど静まり返っている。
ヤスケはもうここにはいない。あるのは使い古した、体という器だけだ。そう悟ったチカルは、虚しさがどっと押し寄せてくるのを感じた。
彼女は両手を握りしめ、喪失感に震える胸を無意識に押さえる。年代物の床置きエアコンが轟々と音を立てているのを聞きながら茫然と座り込んでいると、やがてツヤコがやって来た。
「こんなに早くお別れすることになってしまうだなんてね」
彼女は言いながら、遺体を挟んでチカルの正面に座った。「最後にお顔を見てやって」か細い声で口にすると、白い布をゆっくりと取り去る。
「いったい、どうして」
蝋でできた作りもののような顔を見て、チカルは声を詰まらせた。最後に会話を交わした病室での姿が鮮明にフラッシュバックする。
「あんなにお元気だったのに……、ヤスケ先生になにがあったのですか……」
「ぎっくり腰じゃなかったの」
「――え?」
「確かにすこし腰を痛めたけど、それ自体は大したことなかった。血液検査がきっかけで偶然別の病気が見つかったから、緊急入院になったんだよ」
ツヤコの声が遠く聞こえる。すべての物事の輪郭がぼやけ、自分がどこにいるのかもわからなくなった。
「病名があきらかになった日、ヤスケさんから『誰にも知らせるな』ってきつく言い含められてね。知っていたのは、タケルさんとあたしだけ。シュンヤにも、ただのぎっくり腰だからって伝えてあったから……あの子も知らなかった」
途切れ途切れに言って、彼女は膝の上で震える拳を握りしめる。
「元気になるって信じてたよ。弱ってるとこ見せたくないだなんてプライドの高い爺さんだよねぇって、いつか笑い話になるって思ってたのに……こんな結末を迎えちまってさ」
「ツヤコさん……」
「ああ、嫌だねぇ辛気臭くて」
白い布を再び顔にかけると、目に滲む涙をハンカチで拭う。
「さ、私はもう行かないと……。お構いできなくてごめんね。シュンヤもそろそろ帰ってくると思うから、わからないことがあったらあの子に聞いてね」
その名を耳にしたとたん表情を曇らせたチカルに気づかず、ツヤコは言葉を継ぐ。
「葬儀が終わって落ち着いたら、ふたりでゆっくり遊びにきてちょうだい。今後のことについていろいろ話をしたいし」
「あの、」咄嗟に声が出て、彼女は膝立ちになる。「シュンヤ君から聞いていませんか?」
「ふたりのこれからのことなら、ちゃんと聞いてるよ。シュンヤの仕事が軌道に乗ったら、チカルちゃんもこっちに帰って来るんだよね?ようやくふたりが夫婦になるって知って、ヤスケさんも喜んでたよ」
それを聞いたチカルは、眦が裂けんばかりに目を見開くと前のめりになりながら言った。
「違います!私たち……もう何か月も前に、別れたんです」
「あなたもこっちに到着してるなら早く来て手伝いなさい。気が利かない子ねえ」
刺々しく言うと、こちらが言葉を返す前に通話が切られる。
ナルカミに実家まで送り届けてもらい、ボストンバッグと喪服の入った袋をぶら下げて玄関の引き戸に指を掛ける。力をすこし入れると、なんなく開いた。電話には誰も出なかったが、祖母は在宅らしい。
午後2時――この時間、彼女は昼寝をしているはずだ。起こすととんでもなく機嫌が悪くなるため、足音を忍ばせて廊下を進み母の部屋に入る。ここならばキクコの寝床から一番遠く、鏡もある。
荷をほどき、シャワーを浴びて身を清めた。薄化粧をして髪を整え、喪服を着ていると、玄関の扉が乱暴に開く音がする。
「チカル!チカルッ!いるんでしょう」
金切り声に近いマリの叫びが廊下を伝って聞こえてきた。チカルが慌てて部屋を出ると、彼女はその姿を見るなり声を更に荒らげる。
「まったくあなたって子は……まだ準備しているところだから普段着でよかったのに。――もう、そのままでいいわ。さっさと来なさい」
こんなに苛立っている母親を見るのは久しぶりだ。他人の葬儀の手伝いなど面倒で仕方がないと思っているのだろう。――いや、こういった湿っぽい儀式そのものが嫌いなのかもしれない。父と祖父の葬儀のときも、彼女は悲しみに沈むどころか目に見えて機嫌が悪かった。
母が用意してくれたエプロンを手に、ヤスケの眠る家へ向かう。門をくぐると、隣組の面々や親族と思しき者たちが額を寄せ合いひそひそと話をしている。知っている顔ばかりだ。チカルは視線を逸らし俯いて、マリの後に黙ってついていく。
正面玄関から入ると、シュンヤの母であるツヤコがちょうど階上から降りてきたところだった。チカルの姿を見るなり足早に階段を駆け降りてくる。
「この度はご愁傷さまです……」
深く頭を垂れる彼女を前に涙ぐんだツヤコは、目尻を指先で拭いつつ言った。
「突然のことで驚いたでしょう……ごめんなさい。来てくれてありがとうね……」
その言葉にチカルはかすかにかぶりを振り、
「――なにかお手伝いできることはありませんか?」
「気遣ってくれて嬉しいけど、大丈夫。手は足りてるから……。それよりも、ヤスケさんに会ってあげてちょうだい。仏間にいるから」
頷くチカルの横で――彼女の母マリは不機嫌そうな顔をしている。さっさと靴を脱ぐと、何も言わずに台所の方へと続く暖簾をくぐっていってしまった。その一連の様子を見ていたツヤコはどこかさみしそうに、「今日はずっとあの調子なんだ」そう言ってちいさく息をついた。
チカルにとってこの家は第二の我が家のようなもので、間取りはよく知っている。彼女は迷うそぶりもなくひとり廊下を行き、仏間に入った。隣接している奥座敷に続くふすまは開け放たれ、広くスペースが取られている。青々とした畳を抜けた先には夏の色を濃くした中庭が広がっていた。
チカルは、動かなくなったヤスケの傍に静かに膝をついた。
頭を仏壇に向けた状態で横たわり、顔は白い布で覆い隠されている。天地逆にされた薄手の布団の胸元には、守り刀が置かれていた。
訃報を受け激しく動揺していた心はいま、不気味なほど静まり返っている。
ヤスケはもうここにはいない。あるのは使い古した、体という器だけだ。そう悟ったチカルは、虚しさがどっと押し寄せてくるのを感じた。
彼女は両手を握りしめ、喪失感に震える胸を無意識に押さえる。年代物の床置きエアコンが轟々と音を立てているのを聞きながら茫然と座り込んでいると、やがてツヤコがやって来た。
「こんなに早くお別れすることになってしまうだなんてね」
彼女は言いながら、遺体を挟んでチカルの正面に座った。「最後にお顔を見てやって」か細い声で口にすると、白い布をゆっくりと取り去る。
「いったい、どうして」
蝋でできた作りもののような顔を見て、チカルは声を詰まらせた。最後に会話を交わした病室での姿が鮮明にフラッシュバックする。
「あんなにお元気だったのに……、ヤスケ先生になにがあったのですか……」
「ぎっくり腰じゃなかったの」
「――え?」
「確かにすこし腰を痛めたけど、それ自体は大したことなかった。血液検査がきっかけで偶然別の病気が見つかったから、緊急入院になったんだよ」
ツヤコの声が遠く聞こえる。すべての物事の輪郭がぼやけ、自分がどこにいるのかもわからなくなった。
「病名があきらかになった日、ヤスケさんから『誰にも知らせるな』ってきつく言い含められてね。知っていたのは、タケルさんとあたしだけ。シュンヤにも、ただのぎっくり腰だからって伝えてあったから……あの子も知らなかった」
途切れ途切れに言って、彼女は膝の上で震える拳を握りしめる。
「元気になるって信じてたよ。弱ってるとこ見せたくないだなんてプライドの高い爺さんだよねぇって、いつか笑い話になるって思ってたのに……こんな結末を迎えちまってさ」
「ツヤコさん……」
「ああ、嫌だねぇ辛気臭くて」
白い布を再び顔にかけると、目に滲む涙をハンカチで拭う。
「さ、私はもう行かないと……。お構いできなくてごめんね。シュンヤもそろそろ帰ってくると思うから、わからないことがあったらあの子に聞いてね」
その名を耳にしたとたん表情を曇らせたチカルに気づかず、ツヤコは言葉を継ぐ。
「葬儀が終わって落ち着いたら、ふたりでゆっくり遊びにきてちょうだい。今後のことについていろいろ話をしたいし」
「あの、」咄嗟に声が出て、彼女は膝立ちになる。「シュンヤ君から聞いていませんか?」
「ふたりのこれからのことなら、ちゃんと聞いてるよ。シュンヤの仕事が軌道に乗ったら、チカルちゃんもこっちに帰って来るんだよね?ようやくふたりが夫婦になるって知って、ヤスケさんも喜んでたよ」
それを聞いたチカルは、眦が裂けんばかりに目を見開くと前のめりになりながら言った。
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