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本編
第365話
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注文した食事を待つあいだ、ポップアップテントやテーブルなどを設置し、飲み物と取り皿をバルコニーのテーブルに揃える。ピザはマルゲリータとペパロニの2種類を頼んだ。
「届いたよ!食べよー!」
ピザとたくさんのサイドメニューを手に、タビトがリビングへ戻ってくる。
キャンドルに火を灯し、レモンとライムの香りがついた炭酸水で静かに乾杯した。夜風は温かったが、開け放した室内からの涼しい空気がその不快さを和らげている。
「実はね……今日、大きな仕事が決まったんだ」
「おめでとう」チカルは喜びに表情を明るくする。「社長からの突然の呼び出しというのは、そのことだったのですか?」
「うん。どんな仕事かは話せないんだけど……チカルさんが知ったらきっとびっくりすると思う」
「楽しみです」
チカルは噛み締めるようにつぶやいてグラスを傾ける。タビトは詳しく話したくてたまらなかったが、ぐっと堪えた。興奮と喜びを分かち合いたいという気持ちが苦しいくらい胸を圧迫している。もしも詮索されていたら話してしまったかもしれないほどに。タビトはこの瞬間、相手を必要以上に詮索しないというチカルのスタンスに感謝した。
思えば彼女は、セナが無事に戻ってきたことを知らせたときも事の顛末を聞き出そうとはしなかった。互いの胸の裡を知り、ふたりの心の距離は以前よりずっと近くなったと確かに感じていたが、ウル・ラドのことになると彼女は一歩も二歩も後ろに下がってこちらの領域を自ら覗き込もうとしない。しかし――不安や悩みを吐露したときには優しく寄り添ってくれ、吉報を知らせれば自分のことのように喜んでくれる。
目の前でうまそうにピザを頬張っているチカルを、キャンドルのやわらかい光越しに見つめて――タビトはいとおしさを募らせる。自分にはもったいないくらいの女性だ、そう思った。
「デリバリーの冷めたピザじゃなくてさ、……いつかチカルさんに、もっと豪華なものをご馳走するよ」
微笑んだ彼女は、夢見るようなまなざしでタビトを見つめる。
「君の作ったハンバーグがまた食べたいわ」
「そういうのじゃなくて」彼はかぶりを振る。「高級レストランとかで食事しようって意味……」
チカルは黙ってタビトを見つめた。苦しみに胸を詰まらせながら彼は続けた。
「自由になったら、絶対いっしょに行こう」
「では、特別な日に……君の誕生日がいいかしら。そのときは私がご馳走しますね」
「俺じゃなくてチカルさんのために行きたいんだ。特別な日じゃなくても、最高に贅沢な外食して、眺めのいい部屋に泊まって――」
チカルの眉根がわずかに曇ったのを見て、タビトは声を呑む。彼は沈んだ表情になり、か細い声で言った。
「今更だけど、おうちデートなんて大人のチカルさんにふさわしくなかったなって思って……。家でピザ食べてゲームして映画観るだけなんて、非日常感ないし退屈だよね。今度はこんな安っぽいデートじゃない、もっとちゃんとしたデートプランを用意するから……」
「――ごめんなさい」
突然の謝罪に、彼は伏せていたまつげを上げて驚愕の顔をチカルに向ける。
「退屈だなんて思っていません。感情を表に出すのが苦手なので……うまく伝えられないけれど、今日は本当に嬉しいし楽しいし、これ以上ないくらい満足しているんです」
本当です、と懸命に訴えるチカルの口元がふいに歪んだ。彼女は唇を噛んで俯くと、もう一度謝る。
「悲しい気持ちにさせてごめんなさい」
タビトはゆっくりと左右に首を振り、横に座るチカルに手を伸ばす。壊れやすいものを扱うように手の甲に触れそのままそっと握り込んだ。彼女は顔を上げ、ささやくように言った。
「レストランでの贅沢な食事も高級ホテルの豪華な空間も必要ないわ……君と一緒ならそれだけで嬉しいの。どんな瞬間よりもしあわせなの……」
その言葉に偽りはなかったが、こうして口にすればするほどチープに聞こえるのが悲しかった。なにを言っても虚しいだけだ、そうとわかっていながらも……瞳の中にいくつもの光を揺らめかせ、チカルは続けた。
「ただ、私を愛して。それ以外はなにも望まないわ」
タビトは、静かに輝く彼女の双眸と視線を合わせたまま薄く涙を浮かべた。
「――愛してる」
チカルの頬を両の手のひらで掬いあげるように包むと、親指の腹で白皙の肌をやさしくさする。
「チカルさん……愛してるよ。今までも、これから先もずっと」
タビトの言葉が胸を深く穿つ。瀕死の獣のように喉をひくつかせ、チカルは消え入りそうな声で言った。
「チカル、って、呼んで……」
「……チカル……」
陶然と目を細めた彼女は結んでいた唇を薄く開いた。そしてちいさく、彼の名をつぶやいた。ふたりは鼻先を擦り合わせ、熱い吐息を漏らす。
「愛してるよ……チカル」
濡れる双眸が情欲を孕んでチカルを見つめた。彼の美しい唇が焦らすように彼女の唇の表面をかすめる。官能的なしびれを背筋に感じながらゆっくりとまぶたを下ろしたそのとき、インターホンが鳴る音がして、彼らははたと動きを止めた。
前にもあったこの状況。どうやら来客に邪魔される運命にあるらしい……タビトは込み上げる溜息をぐっと堪えた。苦々しく思いながら無視しようとしたとき、スマホが鳴る。テーブルの上で光る液晶にちらりと目だけをやると、知らない番号からだ。
「届いたよ!食べよー!」
ピザとたくさんのサイドメニューを手に、タビトがリビングへ戻ってくる。
キャンドルに火を灯し、レモンとライムの香りがついた炭酸水で静かに乾杯した。夜風は温かったが、開け放した室内からの涼しい空気がその不快さを和らげている。
「実はね……今日、大きな仕事が決まったんだ」
「おめでとう」チカルは喜びに表情を明るくする。「社長からの突然の呼び出しというのは、そのことだったのですか?」
「うん。どんな仕事かは話せないんだけど……チカルさんが知ったらきっとびっくりすると思う」
「楽しみです」
チカルは噛み締めるようにつぶやいてグラスを傾ける。タビトは詳しく話したくてたまらなかったが、ぐっと堪えた。興奮と喜びを分かち合いたいという気持ちが苦しいくらい胸を圧迫している。もしも詮索されていたら話してしまったかもしれないほどに。タビトはこの瞬間、相手を必要以上に詮索しないというチカルのスタンスに感謝した。
思えば彼女は、セナが無事に戻ってきたことを知らせたときも事の顛末を聞き出そうとはしなかった。互いの胸の裡を知り、ふたりの心の距離は以前よりずっと近くなったと確かに感じていたが、ウル・ラドのことになると彼女は一歩も二歩も後ろに下がってこちらの領域を自ら覗き込もうとしない。しかし――不安や悩みを吐露したときには優しく寄り添ってくれ、吉報を知らせれば自分のことのように喜んでくれる。
目の前でうまそうにピザを頬張っているチカルを、キャンドルのやわらかい光越しに見つめて――タビトはいとおしさを募らせる。自分にはもったいないくらいの女性だ、そう思った。
「デリバリーの冷めたピザじゃなくてさ、……いつかチカルさんに、もっと豪華なものをご馳走するよ」
微笑んだ彼女は、夢見るようなまなざしでタビトを見つめる。
「君の作ったハンバーグがまた食べたいわ」
「そういうのじゃなくて」彼はかぶりを振る。「高級レストランとかで食事しようって意味……」
チカルは黙ってタビトを見つめた。苦しみに胸を詰まらせながら彼は続けた。
「自由になったら、絶対いっしょに行こう」
「では、特別な日に……君の誕生日がいいかしら。そのときは私がご馳走しますね」
「俺じゃなくてチカルさんのために行きたいんだ。特別な日じゃなくても、最高に贅沢な外食して、眺めのいい部屋に泊まって――」
チカルの眉根がわずかに曇ったのを見て、タビトは声を呑む。彼は沈んだ表情になり、か細い声で言った。
「今更だけど、おうちデートなんて大人のチカルさんにふさわしくなかったなって思って……。家でピザ食べてゲームして映画観るだけなんて、非日常感ないし退屈だよね。今度はこんな安っぽいデートじゃない、もっとちゃんとしたデートプランを用意するから……」
「――ごめんなさい」
突然の謝罪に、彼は伏せていたまつげを上げて驚愕の顔をチカルに向ける。
「退屈だなんて思っていません。感情を表に出すのが苦手なので……うまく伝えられないけれど、今日は本当に嬉しいし楽しいし、これ以上ないくらい満足しているんです」
本当です、と懸命に訴えるチカルの口元がふいに歪んだ。彼女は唇を噛んで俯くと、もう一度謝る。
「悲しい気持ちにさせてごめんなさい」
タビトはゆっくりと左右に首を振り、横に座るチカルに手を伸ばす。壊れやすいものを扱うように手の甲に触れそのままそっと握り込んだ。彼女は顔を上げ、ささやくように言った。
「レストランでの贅沢な食事も高級ホテルの豪華な空間も必要ないわ……君と一緒ならそれだけで嬉しいの。どんな瞬間よりもしあわせなの……」
その言葉に偽りはなかったが、こうして口にすればするほどチープに聞こえるのが悲しかった。なにを言っても虚しいだけだ、そうとわかっていながらも……瞳の中にいくつもの光を揺らめかせ、チカルは続けた。
「ただ、私を愛して。それ以外はなにも望まないわ」
タビトは、静かに輝く彼女の双眸と視線を合わせたまま薄く涙を浮かべた。
「――愛してる」
チカルの頬を両の手のひらで掬いあげるように包むと、親指の腹で白皙の肌をやさしくさする。
「チカルさん……愛してるよ。今までも、これから先もずっと」
タビトの言葉が胸を深く穿つ。瀕死の獣のように喉をひくつかせ、チカルは消え入りそうな声で言った。
「チカル、って、呼んで……」
「……チカル……」
陶然と目を細めた彼女は結んでいた唇を薄く開いた。そしてちいさく、彼の名をつぶやいた。ふたりは鼻先を擦り合わせ、熱い吐息を漏らす。
「愛してるよ……チカル」
濡れる双眸が情欲を孕んでチカルを見つめた。彼の美しい唇が焦らすように彼女の唇の表面をかすめる。官能的なしびれを背筋に感じながらゆっくりとまぶたを下ろしたそのとき、インターホンが鳴る音がして、彼らははたと動きを止めた。
前にもあったこの状況。どうやら来客に邪魔される運命にあるらしい……タビトは込み上げる溜息をぐっと堪えた。苦々しく思いながら無視しようとしたとき、スマホが鳴る。テーブルの上で光る液晶にちらりと目だけをやると、知らない番号からだ。
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