僕の目があなたを遠ざけてしまった

紫野楓

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 この和歌……嫌いだ。

 嫌いだけど現代語訳の課題なので仕方ない。向き合うほかない。

 まずは古語の意味を拾う。それから……これは詠嘆の助動詞、係助詞、結び、連体形だから、訳すと……。
心に秘めていたけれど……顔色に出てしまっていたんだな……私の……。

「……っ!?」

 頭にこつんとなにかが当たり、佐藤二葉さとうふたばは自習プリントから顔を上げた。

 当たったのはきつく丸められたわら半紙だ。二葉の机の上を低くバウンドして、古典の教科書の上で止まった。

 下手には触らずじっと観察する。今二葉がやっている自習プリントと全く同じ紙だった。自習プリントを丸めて投げるという発想がなかったので、びっくりする。

「あー、ごめん。ゴミ箱に入れようとしたら当たっちゃったぁ」

 一人の女生徒が二葉に向かってケラケラと笑った。

 その声を耳障りに感じてしまうのは何故だろう。

 彼女は藤木美羽ふじきみわという名前のクラスメイトだ。常に仲の良い四、五人の男女に囲まれている。
色素の薄い茶色の巻き毛を長くして遊ばせていて、擦れ違った生徒が自然と振り返ってしまうほど容姿も整っていた。

 クラス内での発言力も一番強く、取り巻きは藤木の意見を全肯定する。今も「そんなことあるよね」とだらしない顔で笑っていた。

 ゴミ箱は教室の前方にあるのに、最前席の藤木がゴミ箱に投げた紙くずが、どうして教室のど真ん中の席の二葉に当たるのだろう。

「……大丈夫……」

「それいらないから捨ててきて」

「……」

 前から、後ろから、横から、クスクスという笑い声が聞こえてくる。薄暗い森の木々がざわめいているみたいで、飲み込まれそうになった。目を閉じて気持ちを落ち着かせる。

 二葉はなるべく音を立てないようにして椅子から立ち上がった。紙くずを持ち、ゴミ箱に向かって歩き出す。

 クラスメイトの半数以上から、一挙一動をちらちらと見られている。

 素直にゴミ箱に丸まった自習プリントを捨てて振り返ると教室全体が見渡せた。

 四限目。授業中なのに、クラスはお祭り騒ぎだ。自習で教師がいないことをいいことに、「昼休みが五十分増えた」と大喜びで、むしろ休み時間よりも騒がしい。

 机の列は乱れ、大なり小なりの島になっている。二葉の席だけが教室のど真ん中でぽつんと孤立していた。二十台ある机のうち、教科書が置かれている机も二葉の席だけだ。

 誰も勉強をしていない。

 だから自習は嫌いだ。

 神経を集中すれば周りを気にせず勉強できるけれど、藤木にされたようにちょっかいを出されると、無視するわけにはいかないし。

(落ち着いて勉強したいんだけど……)

 贅沢な悩みなのだろうか。少なくとも今は授業中なのだし、二葉の願いが叶えられてもいいものだと思うのだけれど、クラスメイトたちは違うみたいだ。

 こほ、と咳が出そうになって、一生懸命押し殺した。六月の中間考査が終わってから体調が優れず、七月に入ったというのに、マスクを外せない。

 席に戻って、気を取り直してシャープペンシルを手に持った。自習プリントに目を落とし続きをしようとしたらあからさまなため息が聞こえてくる。

「ガリ勉って、つまんな」

 藤木の声だ。二葉の一挙一動を無遠慮に見ていたことは気づいている。すかさず「そうだよね」と取り巻きが頷く。

「なに考えてるか全然分かんない」

「なんで前髪切らないんだろう?」

「目合ったら石になっちゃうからでしょ。メデューサくんだもん」

 メデューサ……このあだ名で呼ばれるのも慣れた。

 二葉の髪型は癖のない平凡な黒髪ショートだが、前髪だけは長くて重い。入学してからこの髪型なので、二葉の顔の上半分を誰も見たことがない。

 おまけに今はマスクをしているせいで顔が全く見えない二葉を、クラスメイトである一年A組の生徒たちは気味悪がっている。

 しかし、内側からの視界は良好だ。勉強するには全く支障はない。だから問題ない。

「あはは! ガリ勉メデューサすぎ!」

 こんなふうに、中間考査が終わってからメデューサの上に『ガリ勉』という形容詞が付くようにもなってしまった。

 まあ別に……間違ってないと思う。

 呼びたいなら呼べばいい。

 どうでもいいし、興味がない。

「どんな顔か気にならない?」

 藤木の言葉にびく、と体が反応した。シャープペンシルを走らせていた右手が止まる。

「なるなる! イケメンだったりして!」

「は? ブスに決まってんじゃん!」

 聞き捨てならない会話に、二葉は身体を強張らせた。

 それはちょっと……いや、だいぶ困る。

 なんとかしないとと思いながらも、どうすればいいのか全く思いつかない。そうこうしている間にも「はさみ持ってる人ー?」と仲間内に呼びかける藤木の声が聞こえてくる。

(ど……どうしよう……)

 ただ固まることしかできない二葉の机の上に、ドン、と腕が落ちてきた。シャツの袖が乱雑に捲られた強そうな腕だ。手にはUNOの束。二葉の机に乱暴に置かれて少し散らばった。

 下敷きになった自習プリントがぐしゃ、とヨレてハッとする。

「おいメデューサ。どけ。机使うから。邪魔」

 隣の席の来栖徠斗くるすらいとが睨みつけてくる。

 二葉よりはるかに身長が高くて体格がよく、やり合ったら絶対に負ける自信しかない。藤木とはまた別の意味で目を引く男子生徒だ。

 彼の横から「どけどけー」と仲間が野次を飛ばしてくる。二週間くらい前からこれだ。昼休みはほぼ占領されている。おかげで授業の準備や、予習がしづらくなってしまった。

 来栖の隣の席ということが高校生活で唯一の不満だ。席替えが待ち遠しい。

「で、でも……今授業中、だし……」

 昼休みとはわけが違う。席を失ったらどこで勉強をすればいいのだろう。

「もう鐘鳴るだろ! 大好きな図書室でも行けよ! 早くしろ!」

 取りつく島もない。

 仕方なく立ち上がって、教科書類を鞄に詰め込んで肩に掛け、席を譲った。

「あー清々するー」

 教室の後ろの扉からひっそり廊下を出ようとしたら、藤木たちの声が遠くから聞こえてきた。教室明るくなったんじゃない。そうそれ……耳に響くような高い声。

 胸の内側からなにかがせり上がってきて咳になる。

 こほ、と控えめな二葉の咳が、誰もいない廊下に響いた。






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