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~第二章~
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『あきは優しい子でしょう?』
愛しい者の声にハッとする。
「叶絵さん……。ええ……」
素直に認めると、彼女は柔らかい笑みを浮かべた。
初恋だった。十八の頃、仕事の取引相手に、半ば無理やり連れて来られた色街で彼女と出逢った。
「私のことがさぞや恨めしいでしょう」
皮肉気に言う。結果だけ見ると、彼女の人生を奪ったのは自分に等しい。
「本当に取り返しのつかないことをしてしまった。今更謝っても遅いですが、……申し訳ありませんでした……」
深々と頭を下げる。許して貰おうとは思っていない。むしろなぜ自分が生かされているのかが不思議だった。
叶絵さんが亡くなってから五年が経った頃、ひとり、またひとりと人が死んだ。彼らの死は叶絵さん……桔梗の怨念と噂された。うわごとで誰かが名を呼んだことから広まったようだ。彼らは夢を見る度に、何度も何度も八つ裂きにされたそうだ。そうして精神を病み、最期には衰弱して死んでいった。皆が桔梗の祟りだと、口を揃えて言った。噂を聞いた時はなぜ、と疑問で仕方なかった。なぜ自分のところには現れてくれないのだと。夢でもいい。殺されても構わない。彼女に会いたかった。例え人に害を為す存在になっていても変わらない気持ちを伝えたかった。そんな資格が己にはないと知っていても。
『毎日』
壮碁が顔を上げる。そこには困ったように笑う叶絵がいた。
『毎日会いに来て下さいましたね』
きっと火事の後のことを言っているのだと気づく。
『雨の日も、風が強い日も、毎日、毎日、足を運んでくれましたね』
家族の反対を押し切って出家した後、彼女の亡くなった場所に欠さず通った。例え怨霊と騒がれ始めても、通うのを止めはしなかった。自分に出来ることは花を添え、彼女の死後の安寧を祈ることだけだった。
『嬉しかったです』
「……っ」
ようやく彼女の目を見ることが出来た。そこには生前と変わらず労りに満ちた色があった。
『あきとあなたの会話も聞いていました。ヒヤヒヤしましたよ、まったく』
「叶絵さん」
『あきには悪いですが、わたくしとの約束を破って貰っては困ります』
約束。そう、彼女と最期に交わした約束。
『約束通り、あきを助けてくれてありがとうございました』
「……っ、私は! 貴女も助けたかった!」
十年前、炎に包まれる部屋で、彼女は言った。
「もし、わたくしに負い目を感じているのでしたら、この子を助けて下さい。この子だけは死なせないで」
「貴女も助けます!」
「わたくしにはやることが残っています」
炎が彼女を覆い隠す。
「叶絵さん!」
「あきを助けて。わたくしを愛してくれているなら」
叶絵さんの腕を引っ張っても嫌々と首を振られた。足元には先に助けに入った女の子が意識を失って横たわっていた。身体が小さい分、この熱気に耐えられなかったのだろう。このままでは全員が呑まれてしまうと思い、まずは女の子を救うことにした。抱えて外に向かう。すぐ戻って今度こそ彼女を救おうと思っていた。しかし、外に出た瞬間、炎が一段と勢いを増し、私は悲鳴を上げた。急いで中に入ろうとした私を、消化に当たっていた人たちが押さえた。屋敷が崩れていくのを絶望した気持ちで見ていた。喉が裂けても叫び続け、血の味がした。まだそこにいるんだと。まだ助けていないんだと。
全てが墨と化した後も、その場を動けなかった。
「邪魔が入らなければ助けられた! あの時! 私を行かせてくれたなら……っ」
『それは無理でした』
「無理じゃなかった!」
『いえ、無理でした。あなたとあきが出た後、わたくしは更に油を炎にくべました』
「え?」
なら、あの時一気に燃えたのは……。
『最初から助かる気なんてなかったのです。だから、あなたが気に病むことはありません。わたくしは自ら死を望みました』
「なん、で……そこまで……、やはり、二乃助さん、ですか?」
彼女は二乃助さんの後をそれほど追いたかったのだろうか。自分が殺したも当然の彼の後を。すると叶絵さんは緩く首を振った。
『どうしても許せない人たちがいました』
「人、たち?」
『地獄に堕ちても構わない。あの人たちに復讐できるのなら。そう思ったのです』
「あの人たちとは?」
「おいこら、女の秘密をやたらに聞き出そうとするんじゃねぇよ。だからおめぇは鈍いんだよ」
心臓が跳ねた。この口調。この威圧感。
声のした方を見ると、二乃助さんが頭を押さえながら起き上がるところだった。
「チッ、おれとしたことが」
おおよそ優男の口から発しているとは思えないほどガラが悪い。線が細く小綺麗な顔に騙された女は数知れず。妙な色気を持った彼は客引きとしても優秀で、当時彼の権力は楼主を凌ぐとも言われていた。若さに反して真っ白な髪がまた目を引き、あの界隈では一番有名な妓夫だった。故に、彼の処刑は吉原中を騒然とさせた。その彼が、閉じていた瞳を開け、ゆっくりと叶絵さんを見つめた。
「カナ」
『……っ』
「すぐにわかってやれなくてすまねぇ」
『いえ! いえ!』
叶絵さんは子どものように二乃助さんの胸に飛び込んだ。ジクジクと胸を締め付ける感情。大人になったと思っていた。だが相変わらず矮小な自分に吐き気を覚えた。この気持ちが彼を殺したというのに。
「もう足抜けしかないと思うのです」
私は何度も身請けを申し出た。しかし花魁とまで登りつめた彼女を楼主が手放す筈がなく、彼女を娶るにはさらう道しか残されていなかった。当然、彼女は困惑した。
「足抜けは重罪です。もし失敗したらあなたも、わたくしの命もありませんよ」
「いえ、きっと貴女は大丈夫ですよ。罰っせられるとしたら私だけでしょう」
子どもだった。叶絵さんと出逢って一年、彼女はまだ十八で若かった。もっと時間を掛けて楼主を説得していれば良かったものを。ずっと二乃助さんの存在が目障りだった。共に過ごした年数が違うとわかっていても嫉妬せずにいられなかった。彼女を早く彼の目から遠ざけたかった。……本当にガキだったのだ。
商家の家に生まれ、大事に育てられ、仕事も継ぎ、それまで順風満帆だった私は、遊郭の世界を甘く見ていた。その闇を。
「それに、手引きは二乃助さんがしてくれるそうです。彼なら安心でしょう」
「なんですって!」
その時、初めて女性に打たれた。
「あの人を巻き込まないで!」
喧嘩もこれが初めてだった。
「……貴女は、いつも……」
いつもいつも彼を優先する。その度、嫉妬で身を焼かれる思い味わってる己を知らないだろう。
「とにかく、足抜けのことは考え直して下さい」
「……」
「壮碁さん?」
もう、限界だった。私はうっそりと笑った。
「ええ、勝手に先走って申し訳ありません」
「謝らないで下さい。わたくしが遊女でなければ……あなたも、他にいい女性が……」
「そのようなことおっしゃらないで下さい。私は貴女以外考えられません」
「ありがとう、壮碁さん」
叶絵さんを抱きしめながら私は他のことを考えていた。二人で遠くにいけないなら、あの人を遠ざければいい。
彼女と別れた後、私は楼主と会った。そして言った。
「二乃助さんと桔梗さんが足抜けするそうですよ」
桔梗とは、叶絵さんの源氏名だ。彼女は怒るだろうけど、たまには反抗してもいいじゃないか。ずっと我慢して来たんだ。楼主は顔色を変えてすぐに部屋を飛び出した。
叶絵さんも二乃助さんも見世には必要な人たちだ。きっとお咎めなしだろう。いや、二乃助さんに少しお灸が据えられたらいい。その程度の気持ちだった。
そして二乃助さんは処刑された。叶絵さんもその場にいたらしい。帰って来た彼女に何度も謝った。しかし彼女は私を責めなかった。
「あなたの気持ちをわかってあげられてなかった」
そう言って逆に謝られた。追いつめてごめんなさいと。
そんなつもりじゃなかったのに。
その日の夜、二乃助さんに続いて彼女も逝った。妓楼を道連れに。前以って忠告でもしていたのだろう。助けに向かった時は既に避難した人々で溢れかえり、彼女の禿だけが燃える建物の中に入ったと聞いた。
「で、なんだってこうなってるんだ?」
二乃助さんの声にハッと我に返る。
「おまえがいながら、なんでカナが死んでるんだ? あ?」
二乃助さんは人ひとり殺しそうなほど怒っていた。それもそうだろう。間接的とはいえ自分を殺した男だ。殺されて当然だと思った。
『怒らないであげて。わたくしが勝手にしたことなの』
「……おれ、おまえに言ったよな? 生きろって」
『……』
俯く叶絵さんに、二乃助さんは首を掻いた。
「つっても、おれも偉そうなことは言えねぇな。おれが死ななきゃよかったんだよな」
「違います! 私が! 貴方を!」
唇を噛み、預かった懐剣を差し出す。
「どうぞ一思いに」
「は?」
懐剣と私の顔を交互に見て、二乃助さんは呆れた顔をした。
「何バカ言ってんのおまえ。おまえをここで殺しておれに何の得があるんだ?」
「私は! 貴方を嵌めました!」
「あ? あ~……そういやそんなこともあったな」
「そんなことって!」
「つか、おまえ相っ変わらずクソ真面目だな。罪悪感に囚われて出家しましたってとこか? おまえが感じる罪悪感なんて存在しねぇってのに」
「え?」
「おれがおまえにキレてんのは、カナを護り切れなかったことだ。でもまぁ本人が許してるんだし、その場にいなかったおれがとやかく言えることじゃねぇ」
「で、ですが、そもそも私が嘘をつかなければ……っ」
「だからクソ真面目だって言ってんだ。あんなもん蚊に刺されたようなもんだ。楼主はずっとおれを煙たがっていたからな。利用されたんだよおまえは。そのきっかけに」
「楼主が?」
二乃助さんは一瞬しゃべり過ぎたという顔をした。そして間を置かずして昔と同じ意地の悪そうな表情を浮かべる。
「そもそも、おまえがおれを疎ましく思ってたのは知ってたし、知ってた上でいじめてたからな。いつ、どうやってやり返してくるか楽しみに待ってたぐれぇだ」
『そんなことしてらしたの!』
「そんなこと考えていらしたんですか!」
二乃助さんはツンとそっぽを向いた。おいこら二十五歳。当時十九歳だった自分に言いたい。この人、かなり大人げないぞと。
「だってよ? 可愛い可愛い妹が、おれ以外の男の話をするんだぜ? ぶっちゃけ殺してやりたかったわ」
い、も、う、と、が!
そうです。彼は恋敵である前に、恋人の兄だったのだ。普通兄妹に妬くか? と思われるでしょうが、この人たちの兄妹愛は度を超えていたのです!
「けど殺ったらぜってーあきは気づくだろうし、カナを哀しませたって責められるのは目に見えてたからなぁ。だからそこはグッと堪えて、おまえの目の前でいちゃつくだけで我慢してたんだ。わかるか? おれの気持ち?」
「そういう貴方は、恋仲なのに恋人がひたすら兄を優先する私の気持ちはわかります?」
「そりゃあおれを優先するだろ。思い悩むぐれぇならおれに直接文句言やぁよかったんだ。男ならそれくらいの気概見せやがれ」
「無茶言わんで下さい!」
「それに比べ、あきはなぁ、…………あきは?」
ようやく彼女がいないことに気づいた二乃助さんが立ち上がる。
「彼女なら、少し散策してくると」
二乃助さんは目を見開いた。
「いつから」
「貴方がお倒れになってからです。あれ? 結構経ってますね?」
『いけない。迷子になったのかしら』
「バッ!」
二乃助さんは一度大きく深呼吸した。
「このバカ! あいつが散策だけで済ませる玉かよ!」
『兄様! お下品ですわ!』
「おまえも大概だな! いいか? あいつはおれにもっとも近いんだ。おれが考えることはあいつも考える。逆に言えばあいつの考えることは手に取るようにわかんだよ!」
そう吐き捨て、二乃助さんは彼女を探すと言った。その前に、
「おいそーご! 今度こそカナを護れよ! もし危険な目に遭わせでもしたらいの一番にぶっ殺すからな!」
彼の姿が見えなくなってから壮碁は密かに感心した。
「本当に同じこと言ってる」
あきはカナの禿だった。まぁ簡単に言やぁ専属のお世話係りみてぇなもんだ。そして、ゆくゆくは遊女になる知識や振る舞いを姉女郎から教わるのだ。が、あきは異例の存在だった。まずは若すぎる年齢。買われた時が六歳だっつーから驚きだ。幼くても普通は十を超えている。しかし幼いながらも賢い頭と整った顔立ちに、遣手婆は可能性を見出したのだろう。そうしていつか見世の看板にでもするつもりだったんだろうが、生憎とあきは鳥かごに納まる器ではなかった。そもそも最初はカナの禿じゃなかった。色んな遊女たちからたらい回しにされて、一番大人しいカナに預けられたのだ。使えなかったとか、どんくさかったとかが理由ではない。全て姉女郎に逆らった為。いや、逆らうくらいなら可愛いもんだ。姉女郎が引きこもるってなんだ。何をしたんだ。昔から弁が立つあいつのことだ。どうせ逆鱗にでも触れたんだろう……あえて。つまりわざとだ。遊女たちの間を転々としていた頃のあいつは知らないが、カナのところに来て随分丸くなったと皆から聞いた。それでも生意気だったのだから、その前はどんだけじゃじゃ馬だったんだと思う。
(変わってなかった……)
記憶を失っていた時のやり取りを思い返してげんなりとした。気の強さも、すぐ手が出るところもまったく変わっていない。大人になれば少しは落ち着くものかと思っていたが、儚い幻想だった。あの若造だった壮碁の歳から逆算して、おれが死んでから十年経ったことになる。ということは、あいつは今十八か。って、カナと同じ歳じゃねーか。嘘だろおい。
あきと初めて出逢った時、おれは珍しく機嫌が悪かった。何もあの日あの時が最初でなくても良かっただろうに。神さまも人が悪い。初対面でさっそく犬猿の仲になるなんて早々ないだろう。そう、あれはおれが初めて人を殺めた翌日のことだった。
……その前に少しおれの秘密を明かそうか。そもそも、このおれが最愛の妹をむざむざ遊郭に置く訳がねぇ。嵌められたのだ。まさか妹に目を付けられているとも知らず、まんまと一杯食くわされた。もしも過去に戻れるなら……終わったことを考えても仕方がねぇな。
おれは十四から十八の間、陰間で春を売っていた。おれが色町の事情に通じてた理由もここにある。末端の位置とはいえ、陰間も遊郭の一部だ。ただひとつ違いがあるのなら、客が男というところか。おれのような奴は男娼と呼ばれ、あとすることは遊女と同じだ。初めて男を相手にした時は、さすがに胃の中のもんを全部ぶちまけた。当然その日は折檻され、金も貰えなかった。今思い出しても反吐が出る日々だった。しかしどうしても金が必要だった。
当時、おれには七つ下の妹に、五つ離れた兄貴と、仲の良い両親がいた。家は貧乏だったけど、それなりに幸せだった。けれど、その幸せは長くは続かなかった。まだ幼い妹を残して両親が流行り病で死んだ。そこまで仲良くしなくてもいいのによ。けどいつまでも感傷には浸っていられねぇ。うちは百姓で決して裕福じゃなかった。兄妹三人が食っていく為には誰かが稼がなきゃなんねぇ。そんな時に、うちに母方の叔父が現れた。今となっちゃあ、あれがほんとの叔父だったかも怪しい。叔父はおれを見てある商売を持ちかけてきた。美人と噂だったおふくろに似ていると言われてきたおれは、すぐにピンときた。きっと兄貴はわかっちゃいなかっただろうが。おれは腹をくくった。おれが稼ぎに出る代わりに、妹の面倒を兄貴に見て貰うことで問題は解決した。……あの文が届くまでは……。
「二乃助ぇ、いつもの文だよ」
女将の呼びかけに、逸る気持ちを抑えながら階段を降りる。十八になったおれは、見世の一番の稼ぎ頭になっていた。初めこそ躊躇したが、持ち前の要領の良さと美貌で人気を得るのは難しくはなかった。ひとつ変わったとしたらこの髪だろう。客の好みに合わせ肩まで伸ばした髪は、元からその色だったかのように真っ白だった。きっとまだ心に隙があったのだろう。でもおれはその色さえも武器にした。生まれつきだと。珍しい髪色は評判が良く、つくづく馬鹿が住む世界だと思った。そうして人気が出ると、今では見世側がおれに媚びを売るようになっていた。
「……兄貴?」
売り上げのほとんどは見世を潤すだけだったが、おれも馬鹿じゃない。敵娼に気に入られ同情を誘って金を巻き上げるのは朝飯前だ。どんなに汚い金でも、それで兄妹が食っていけるなら良かった。まぁバレたらただでは済まなかっただろうが、そこも覚悟の上だった。そして月に一度は寄越すように、兄貴に頼んでいたのが近況報告の文だ。主に妹のことが心配だったおれは、いつも文を心待ちにしていた。しかし、今回の文は開ける前からおかしかった。しわくちゃなのだ。それに墨で汚れていた。これはただ事ではないと思い、その場で開くと、殴り書かれた文字を追っていくうちに顔から血の気が引くのがわかった。
叔父はおれの送った金で鉄火場(※博打、賭博が行われている場所)に入り浸り、そして多額の借金を作っていた。そしておれに内緒で妹を吉原に売ろうとし、兄貴と揉めたらしい。墨と思った部分は血だった。気づいた時には、おれは見世を飛び出していた。
久しぶりの我が家は酷く荒れていた。もちろんそこに叔父の姿はなく、頭から血を流す兄貴だけが残されていた。おれは慌てて兄貴を抱き起した。
「に……の、すけ……」
「しゃべるな! 何か血を止めるもんを探してくるから待ってろ!」
「いや、いい……オレは、助からない……おまえも、わかってる、だろう……?」
おれは唇を噛んだ。こんな時でも敏い自分が嫌になる。兄貴の身体は大量の血を失って氷のように冷たくなっていた。今、生きているのが不思議なくらいに。
「まもれ、なかった……。ごめん、な……?」
誰のことを言っているのかわからない筈がない。兄貴はこれを言う為だけにおれの帰りを待っていたんだ。
「大丈夫だ。あいつは絶対取り戻す。安心してくれ」
精一杯の笑顔を向ける。すると兄貴はホッとしたように、静かに息を引き取った。
兄貴を埋葬し見世に戻ったおれは、泥の付いた恰好を見た女将に酷く心配された。
「あんた、どうしたんだい?」
事情を話そうとし、やめた。思い返すだけで悲しみと殺意で頭がおかしくなりそうだった。叫びだしたい感情を抑え、ゆっくり唇を開く。
「おれ、辞めますわ」
今はこれで精一杯だった。
「は?」
それだけ言って見世を出ようとした。一応義理を果たしたつもりだった。けれど背後から腕を掴まれ、おれは鬱陶しく思いながら振り返った。
「逃がす訳ないだろう! あんたが一番の稼ぎ頭なんだからな!」
「……兄貴が死んだ。おれはこれからさらわれた妹を見つけなきゃなんねぇ。あんたには世話になったと思ってる。できたらこのまま行かせてくれ」
「そんなもん知るか! あんたは見世のもんだ! 逃がすか!」
そんなもん。
おれは俯いてククっと笑った。おれの人生より大事なものが、そんなもん!
人間は金に目が眩むと人でなしになる。おれもそうだった。だから許そう。ここで解放してくれるのならば。
おれは女将の細い首にそっと右手を当てた。そして冷笑を浮かべて呟いた。
「折られてぇのかい?」
少しばかり手に力を込めると、女将は悲鳴を上げて後ずさった。それから人が集まる前にその場を去った。あれからあの見世には一度も行っていない。追手が掛からないところを見るとだいぶ脅しが効いたのだろう。
遊郭吉原は、話には聞いていたが夜でも昼間のような明るさだった。延々と並ぶ見世を訪ね歩き、妹が売られた見世を見つけた頃には翌朝になっていた。もちろん、既に叔父の姿はなかった。それからおれは、その妓楼『櫻花』の楼主に頭を下げ続け、その見世に妓夫として雇って貰うことに成功した。妹を連れて逃げても、その先安住できないなら意味がない。それなら、おれが妹が安心して暮らせる場所を護ろう。そしていつか、目の前の楼主と取って代わり、妹をこの苦界から解放しよう。その為ならいくらでも汚れてやる。
復讐の転機が訪れたのは、それから五年後、おれが二十三の時だった。おれが吉原にいるとも知らないでのこのこやって来た叔父は、また新たに作った借金を妹に背負わせようとしていた。おれは楼主が席を立った一瞬の隙をついて叔父を引きずり出すと、その口に布を噛ませ人気のない場所まで連れて行った。投げ込み寺と呼ばれる、いわゆる遊女の墓場だ。おれはそこで叔父を絞め殺した後、その寺に投げ入れた。ここには死んだ遊女を運びに来る奴以外誰も来ない。そして関心も抱かない。死体を隠すのにこれほど条件のいい場所はないだろう。
復讐は成った。
だがおれは、初めて人を殺めた衝撃を上手く処理できなかった。
翌日の客引きの仕事をサボり、庭の小さな池に掛かる橋に腰掛けていた。どういう顔をして妹に会えばいいのかわからず、ずっと揺れる水面を眺めていた。そんな時だった。幼い声がおれの名前を呼んだのは。
「そこにおわすのは、二乃助さまでありんすか?」
幼い声の割に流暢な廓言葉。また優秀な禿がいたもんだ、と皮肉気に視線だけ向けると、想像以上に幼い子どもが立っていて驚いた。
後で聞いた話によると、カナの禿になったあきは、一応実兄であるおれへの挨拶の機会を窺っていたらしい。それを、当時のおれは酷い言葉で追い払おうとした。いくら昨日の今日でイライラしていたといっても、子ども相手に大人げないことをした。この時友好的な態度で接していれば……少なくても風邪は引かなかっただろう。何があったんだって? 急かさなくても聞かせてやるよ。あいつとの出逢いから別れまで――。
愛しい者の声にハッとする。
「叶絵さん……。ええ……」
素直に認めると、彼女は柔らかい笑みを浮かべた。
初恋だった。十八の頃、仕事の取引相手に、半ば無理やり連れて来られた色街で彼女と出逢った。
「私のことがさぞや恨めしいでしょう」
皮肉気に言う。結果だけ見ると、彼女の人生を奪ったのは自分に等しい。
「本当に取り返しのつかないことをしてしまった。今更謝っても遅いですが、……申し訳ありませんでした……」
深々と頭を下げる。許して貰おうとは思っていない。むしろなぜ自分が生かされているのかが不思議だった。
叶絵さんが亡くなってから五年が経った頃、ひとり、またひとりと人が死んだ。彼らの死は叶絵さん……桔梗の怨念と噂された。うわごとで誰かが名を呼んだことから広まったようだ。彼らは夢を見る度に、何度も何度も八つ裂きにされたそうだ。そうして精神を病み、最期には衰弱して死んでいった。皆が桔梗の祟りだと、口を揃えて言った。噂を聞いた時はなぜ、と疑問で仕方なかった。なぜ自分のところには現れてくれないのだと。夢でもいい。殺されても構わない。彼女に会いたかった。例え人に害を為す存在になっていても変わらない気持ちを伝えたかった。そんな資格が己にはないと知っていても。
『毎日』
壮碁が顔を上げる。そこには困ったように笑う叶絵がいた。
『毎日会いに来て下さいましたね』
きっと火事の後のことを言っているのだと気づく。
『雨の日も、風が強い日も、毎日、毎日、足を運んでくれましたね』
家族の反対を押し切って出家した後、彼女の亡くなった場所に欠さず通った。例え怨霊と騒がれ始めても、通うのを止めはしなかった。自分に出来ることは花を添え、彼女の死後の安寧を祈ることだけだった。
『嬉しかったです』
「……っ」
ようやく彼女の目を見ることが出来た。そこには生前と変わらず労りに満ちた色があった。
『あきとあなたの会話も聞いていました。ヒヤヒヤしましたよ、まったく』
「叶絵さん」
『あきには悪いですが、わたくしとの約束を破って貰っては困ります』
約束。そう、彼女と最期に交わした約束。
『約束通り、あきを助けてくれてありがとうございました』
「……っ、私は! 貴女も助けたかった!」
十年前、炎に包まれる部屋で、彼女は言った。
「もし、わたくしに負い目を感じているのでしたら、この子を助けて下さい。この子だけは死なせないで」
「貴女も助けます!」
「わたくしにはやることが残っています」
炎が彼女を覆い隠す。
「叶絵さん!」
「あきを助けて。わたくしを愛してくれているなら」
叶絵さんの腕を引っ張っても嫌々と首を振られた。足元には先に助けに入った女の子が意識を失って横たわっていた。身体が小さい分、この熱気に耐えられなかったのだろう。このままでは全員が呑まれてしまうと思い、まずは女の子を救うことにした。抱えて外に向かう。すぐ戻って今度こそ彼女を救おうと思っていた。しかし、外に出た瞬間、炎が一段と勢いを増し、私は悲鳴を上げた。急いで中に入ろうとした私を、消化に当たっていた人たちが押さえた。屋敷が崩れていくのを絶望した気持ちで見ていた。喉が裂けても叫び続け、血の味がした。まだそこにいるんだと。まだ助けていないんだと。
全てが墨と化した後も、その場を動けなかった。
「邪魔が入らなければ助けられた! あの時! 私を行かせてくれたなら……っ」
『それは無理でした』
「無理じゃなかった!」
『いえ、無理でした。あなたとあきが出た後、わたくしは更に油を炎にくべました』
「え?」
なら、あの時一気に燃えたのは……。
『最初から助かる気なんてなかったのです。だから、あなたが気に病むことはありません。わたくしは自ら死を望みました』
「なん、で……そこまで……、やはり、二乃助さん、ですか?」
彼女は二乃助さんの後をそれほど追いたかったのだろうか。自分が殺したも当然の彼の後を。すると叶絵さんは緩く首を振った。
『どうしても許せない人たちがいました』
「人、たち?」
『地獄に堕ちても構わない。あの人たちに復讐できるのなら。そう思ったのです』
「あの人たちとは?」
「おいこら、女の秘密をやたらに聞き出そうとするんじゃねぇよ。だからおめぇは鈍いんだよ」
心臓が跳ねた。この口調。この威圧感。
声のした方を見ると、二乃助さんが頭を押さえながら起き上がるところだった。
「チッ、おれとしたことが」
おおよそ優男の口から発しているとは思えないほどガラが悪い。線が細く小綺麗な顔に騙された女は数知れず。妙な色気を持った彼は客引きとしても優秀で、当時彼の権力は楼主を凌ぐとも言われていた。若さに反して真っ白な髪がまた目を引き、あの界隈では一番有名な妓夫だった。故に、彼の処刑は吉原中を騒然とさせた。その彼が、閉じていた瞳を開け、ゆっくりと叶絵さんを見つめた。
「カナ」
『……っ』
「すぐにわかってやれなくてすまねぇ」
『いえ! いえ!』
叶絵さんは子どものように二乃助さんの胸に飛び込んだ。ジクジクと胸を締め付ける感情。大人になったと思っていた。だが相変わらず矮小な自分に吐き気を覚えた。この気持ちが彼を殺したというのに。
「もう足抜けしかないと思うのです」
私は何度も身請けを申し出た。しかし花魁とまで登りつめた彼女を楼主が手放す筈がなく、彼女を娶るにはさらう道しか残されていなかった。当然、彼女は困惑した。
「足抜けは重罪です。もし失敗したらあなたも、わたくしの命もありませんよ」
「いえ、きっと貴女は大丈夫ですよ。罰っせられるとしたら私だけでしょう」
子どもだった。叶絵さんと出逢って一年、彼女はまだ十八で若かった。もっと時間を掛けて楼主を説得していれば良かったものを。ずっと二乃助さんの存在が目障りだった。共に過ごした年数が違うとわかっていても嫉妬せずにいられなかった。彼女を早く彼の目から遠ざけたかった。……本当にガキだったのだ。
商家の家に生まれ、大事に育てられ、仕事も継ぎ、それまで順風満帆だった私は、遊郭の世界を甘く見ていた。その闇を。
「それに、手引きは二乃助さんがしてくれるそうです。彼なら安心でしょう」
「なんですって!」
その時、初めて女性に打たれた。
「あの人を巻き込まないで!」
喧嘩もこれが初めてだった。
「……貴女は、いつも……」
いつもいつも彼を優先する。その度、嫉妬で身を焼かれる思い味わってる己を知らないだろう。
「とにかく、足抜けのことは考え直して下さい」
「……」
「壮碁さん?」
もう、限界だった。私はうっそりと笑った。
「ええ、勝手に先走って申し訳ありません」
「謝らないで下さい。わたくしが遊女でなければ……あなたも、他にいい女性が……」
「そのようなことおっしゃらないで下さい。私は貴女以外考えられません」
「ありがとう、壮碁さん」
叶絵さんを抱きしめながら私は他のことを考えていた。二人で遠くにいけないなら、あの人を遠ざければいい。
彼女と別れた後、私は楼主と会った。そして言った。
「二乃助さんと桔梗さんが足抜けするそうですよ」
桔梗とは、叶絵さんの源氏名だ。彼女は怒るだろうけど、たまには反抗してもいいじゃないか。ずっと我慢して来たんだ。楼主は顔色を変えてすぐに部屋を飛び出した。
叶絵さんも二乃助さんも見世には必要な人たちだ。きっとお咎めなしだろう。いや、二乃助さんに少しお灸が据えられたらいい。その程度の気持ちだった。
そして二乃助さんは処刑された。叶絵さんもその場にいたらしい。帰って来た彼女に何度も謝った。しかし彼女は私を責めなかった。
「あなたの気持ちをわかってあげられてなかった」
そう言って逆に謝られた。追いつめてごめんなさいと。
そんなつもりじゃなかったのに。
その日の夜、二乃助さんに続いて彼女も逝った。妓楼を道連れに。前以って忠告でもしていたのだろう。助けに向かった時は既に避難した人々で溢れかえり、彼女の禿だけが燃える建物の中に入ったと聞いた。
「で、なんだってこうなってるんだ?」
二乃助さんの声にハッと我に返る。
「おまえがいながら、なんでカナが死んでるんだ? あ?」
二乃助さんは人ひとり殺しそうなほど怒っていた。それもそうだろう。間接的とはいえ自分を殺した男だ。殺されて当然だと思った。
『怒らないであげて。わたくしが勝手にしたことなの』
「……おれ、おまえに言ったよな? 生きろって」
『……』
俯く叶絵さんに、二乃助さんは首を掻いた。
「つっても、おれも偉そうなことは言えねぇな。おれが死ななきゃよかったんだよな」
「違います! 私が! 貴方を!」
唇を噛み、預かった懐剣を差し出す。
「どうぞ一思いに」
「は?」
懐剣と私の顔を交互に見て、二乃助さんは呆れた顔をした。
「何バカ言ってんのおまえ。おまえをここで殺しておれに何の得があるんだ?」
「私は! 貴方を嵌めました!」
「あ? あ~……そういやそんなこともあったな」
「そんなことって!」
「つか、おまえ相っ変わらずクソ真面目だな。罪悪感に囚われて出家しましたってとこか? おまえが感じる罪悪感なんて存在しねぇってのに」
「え?」
「おれがおまえにキレてんのは、カナを護り切れなかったことだ。でもまぁ本人が許してるんだし、その場にいなかったおれがとやかく言えることじゃねぇ」
「で、ですが、そもそも私が嘘をつかなければ……っ」
「だからクソ真面目だって言ってんだ。あんなもん蚊に刺されたようなもんだ。楼主はずっとおれを煙たがっていたからな。利用されたんだよおまえは。そのきっかけに」
「楼主が?」
二乃助さんは一瞬しゃべり過ぎたという顔をした。そして間を置かずして昔と同じ意地の悪そうな表情を浮かべる。
「そもそも、おまえがおれを疎ましく思ってたのは知ってたし、知ってた上でいじめてたからな。いつ、どうやってやり返してくるか楽しみに待ってたぐれぇだ」
『そんなことしてらしたの!』
「そんなこと考えていらしたんですか!」
二乃助さんはツンとそっぽを向いた。おいこら二十五歳。当時十九歳だった自分に言いたい。この人、かなり大人げないぞと。
「だってよ? 可愛い可愛い妹が、おれ以外の男の話をするんだぜ? ぶっちゃけ殺してやりたかったわ」
い、も、う、と、が!
そうです。彼は恋敵である前に、恋人の兄だったのだ。普通兄妹に妬くか? と思われるでしょうが、この人たちの兄妹愛は度を超えていたのです!
「けど殺ったらぜってーあきは気づくだろうし、カナを哀しませたって責められるのは目に見えてたからなぁ。だからそこはグッと堪えて、おまえの目の前でいちゃつくだけで我慢してたんだ。わかるか? おれの気持ち?」
「そういう貴方は、恋仲なのに恋人がひたすら兄を優先する私の気持ちはわかります?」
「そりゃあおれを優先するだろ。思い悩むぐれぇならおれに直接文句言やぁよかったんだ。男ならそれくらいの気概見せやがれ」
「無茶言わんで下さい!」
「それに比べ、あきはなぁ、…………あきは?」
ようやく彼女がいないことに気づいた二乃助さんが立ち上がる。
「彼女なら、少し散策してくると」
二乃助さんは目を見開いた。
「いつから」
「貴方がお倒れになってからです。あれ? 結構経ってますね?」
『いけない。迷子になったのかしら』
「バッ!」
二乃助さんは一度大きく深呼吸した。
「このバカ! あいつが散策だけで済ませる玉かよ!」
『兄様! お下品ですわ!』
「おまえも大概だな! いいか? あいつはおれにもっとも近いんだ。おれが考えることはあいつも考える。逆に言えばあいつの考えることは手に取るようにわかんだよ!」
そう吐き捨て、二乃助さんは彼女を探すと言った。その前に、
「おいそーご! 今度こそカナを護れよ! もし危険な目に遭わせでもしたらいの一番にぶっ殺すからな!」
彼の姿が見えなくなってから壮碁は密かに感心した。
「本当に同じこと言ってる」
あきはカナの禿だった。まぁ簡単に言やぁ専属のお世話係りみてぇなもんだ。そして、ゆくゆくは遊女になる知識や振る舞いを姉女郎から教わるのだ。が、あきは異例の存在だった。まずは若すぎる年齢。買われた時が六歳だっつーから驚きだ。幼くても普通は十を超えている。しかし幼いながらも賢い頭と整った顔立ちに、遣手婆は可能性を見出したのだろう。そうしていつか見世の看板にでもするつもりだったんだろうが、生憎とあきは鳥かごに納まる器ではなかった。そもそも最初はカナの禿じゃなかった。色んな遊女たちからたらい回しにされて、一番大人しいカナに預けられたのだ。使えなかったとか、どんくさかったとかが理由ではない。全て姉女郎に逆らった為。いや、逆らうくらいなら可愛いもんだ。姉女郎が引きこもるってなんだ。何をしたんだ。昔から弁が立つあいつのことだ。どうせ逆鱗にでも触れたんだろう……あえて。つまりわざとだ。遊女たちの間を転々としていた頃のあいつは知らないが、カナのところに来て随分丸くなったと皆から聞いた。それでも生意気だったのだから、その前はどんだけじゃじゃ馬だったんだと思う。
(変わってなかった……)
記憶を失っていた時のやり取りを思い返してげんなりとした。気の強さも、すぐ手が出るところもまったく変わっていない。大人になれば少しは落ち着くものかと思っていたが、儚い幻想だった。あの若造だった壮碁の歳から逆算して、おれが死んでから十年経ったことになる。ということは、あいつは今十八か。って、カナと同じ歳じゃねーか。嘘だろおい。
あきと初めて出逢った時、おれは珍しく機嫌が悪かった。何もあの日あの時が最初でなくても良かっただろうに。神さまも人が悪い。初対面でさっそく犬猿の仲になるなんて早々ないだろう。そう、あれはおれが初めて人を殺めた翌日のことだった。
……その前に少しおれの秘密を明かそうか。そもそも、このおれが最愛の妹をむざむざ遊郭に置く訳がねぇ。嵌められたのだ。まさか妹に目を付けられているとも知らず、まんまと一杯食くわされた。もしも過去に戻れるなら……終わったことを考えても仕方がねぇな。
おれは十四から十八の間、陰間で春を売っていた。おれが色町の事情に通じてた理由もここにある。末端の位置とはいえ、陰間も遊郭の一部だ。ただひとつ違いがあるのなら、客が男というところか。おれのような奴は男娼と呼ばれ、あとすることは遊女と同じだ。初めて男を相手にした時は、さすがに胃の中のもんを全部ぶちまけた。当然その日は折檻され、金も貰えなかった。今思い出しても反吐が出る日々だった。しかしどうしても金が必要だった。
当時、おれには七つ下の妹に、五つ離れた兄貴と、仲の良い両親がいた。家は貧乏だったけど、それなりに幸せだった。けれど、その幸せは長くは続かなかった。まだ幼い妹を残して両親が流行り病で死んだ。そこまで仲良くしなくてもいいのによ。けどいつまでも感傷には浸っていられねぇ。うちは百姓で決して裕福じゃなかった。兄妹三人が食っていく為には誰かが稼がなきゃなんねぇ。そんな時に、うちに母方の叔父が現れた。今となっちゃあ、あれがほんとの叔父だったかも怪しい。叔父はおれを見てある商売を持ちかけてきた。美人と噂だったおふくろに似ていると言われてきたおれは、すぐにピンときた。きっと兄貴はわかっちゃいなかっただろうが。おれは腹をくくった。おれが稼ぎに出る代わりに、妹の面倒を兄貴に見て貰うことで問題は解決した。……あの文が届くまでは……。
「二乃助ぇ、いつもの文だよ」
女将の呼びかけに、逸る気持ちを抑えながら階段を降りる。十八になったおれは、見世の一番の稼ぎ頭になっていた。初めこそ躊躇したが、持ち前の要領の良さと美貌で人気を得るのは難しくはなかった。ひとつ変わったとしたらこの髪だろう。客の好みに合わせ肩まで伸ばした髪は、元からその色だったかのように真っ白だった。きっとまだ心に隙があったのだろう。でもおれはその色さえも武器にした。生まれつきだと。珍しい髪色は評判が良く、つくづく馬鹿が住む世界だと思った。そうして人気が出ると、今では見世側がおれに媚びを売るようになっていた。
「……兄貴?」
売り上げのほとんどは見世を潤すだけだったが、おれも馬鹿じゃない。敵娼に気に入られ同情を誘って金を巻き上げるのは朝飯前だ。どんなに汚い金でも、それで兄妹が食っていけるなら良かった。まぁバレたらただでは済まなかっただろうが、そこも覚悟の上だった。そして月に一度は寄越すように、兄貴に頼んでいたのが近況報告の文だ。主に妹のことが心配だったおれは、いつも文を心待ちにしていた。しかし、今回の文は開ける前からおかしかった。しわくちゃなのだ。それに墨で汚れていた。これはただ事ではないと思い、その場で開くと、殴り書かれた文字を追っていくうちに顔から血の気が引くのがわかった。
叔父はおれの送った金で鉄火場(※博打、賭博が行われている場所)に入り浸り、そして多額の借金を作っていた。そしておれに内緒で妹を吉原に売ろうとし、兄貴と揉めたらしい。墨と思った部分は血だった。気づいた時には、おれは見世を飛び出していた。
久しぶりの我が家は酷く荒れていた。もちろんそこに叔父の姿はなく、頭から血を流す兄貴だけが残されていた。おれは慌てて兄貴を抱き起した。
「に……の、すけ……」
「しゃべるな! 何か血を止めるもんを探してくるから待ってろ!」
「いや、いい……オレは、助からない……おまえも、わかってる、だろう……?」
おれは唇を噛んだ。こんな時でも敏い自分が嫌になる。兄貴の身体は大量の血を失って氷のように冷たくなっていた。今、生きているのが不思議なくらいに。
「まもれ、なかった……。ごめん、な……?」
誰のことを言っているのかわからない筈がない。兄貴はこれを言う為だけにおれの帰りを待っていたんだ。
「大丈夫だ。あいつは絶対取り戻す。安心してくれ」
精一杯の笑顔を向ける。すると兄貴はホッとしたように、静かに息を引き取った。
兄貴を埋葬し見世に戻ったおれは、泥の付いた恰好を見た女将に酷く心配された。
「あんた、どうしたんだい?」
事情を話そうとし、やめた。思い返すだけで悲しみと殺意で頭がおかしくなりそうだった。叫びだしたい感情を抑え、ゆっくり唇を開く。
「おれ、辞めますわ」
今はこれで精一杯だった。
「は?」
それだけ言って見世を出ようとした。一応義理を果たしたつもりだった。けれど背後から腕を掴まれ、おれは鬱陶しく思いながら振り返った。
「逃がす訳ないだろう! あんたが一番の稼ぎ頭なんだからな!」
「……兄貴が死んだ。おれはこれからさらわれた妹を見つけなきゃなんねぇ。あんたには世話になったと思ってる。できたらこのまま行かせてくれ」
「そんなもん知るか! あんたは見世のもんだ! 逃がすか!」
そんなもん。
おれは俯いてククっと笑った。おれの人生より大事なものが、そんなもん!
人間は金に目が眩むと人でなしになる。おれもそうだった。だから許そう。ここで解放してくれるのならば。
おれは女将の細い首にそっと右手を当てた。そして冷笑を浮かべて呟いた。
「折られてぇのかい?」
少しばかり手に力を込めると、女将は悲鳴を上げて後ずさった。それから人が集まる前にその場を去った。あれからあの見世には一度も行っていない。追手が掛からないところを見るとだいぶ脅しが効いたのだろう。
遊郭吉原は、話には聞いていたが夜でも昼間のような明るさだった。延々と並ぶ見世を訪ね歩き、妹が売られた見世を見つけた頃には翌朝になっていた。もちろん、既に叔父の姿はなかった。それからおれは、その妓楼『櫻花』の楼主に頭を下げ続け、その見世に妓夫として雇って貰うことに成功した。妹を連れて逃げても、その先安住できないなら意味がない。それなら、おれが妹が安心して暮らせる場所を護ろう。そしていつか、目の前の楼主と取って代わり、妹をこの苦界から解放しよう。その為ならいくらでも汚れてやる。
復讐の転機が訪れたのは、それから五年後、おれが二十三の時だった。おれが吉原にいるとも知らないでのこのこやって来た叔父は、また新たに作った借金を妹に背負わせようとしていた。おれは楼主が席を立った一瞬の隙をついて叔父を引きずり出すと、その口に布を噛ませ人気のない場所まで連れて行った。投げ込み寺と呼ばれる、いわゆる遊女の墓場だ。おれはそこで叔父を絞め殺した後、その寺に投げ入れた。ここには死んだ遊女を運びに来る奴以外誰も来ない。そして関心も抱かない。死体を隠すのにこれほど条件のいい場所はないだろう。
復讐は成った。
だがおれは、初めて人を殺めた衝撃を上手く処理できなかった。
翌日の客引きの仕事をサボり、庭の小さな池に掛かる橋に腰掛けていた。どういう顔をして妹に会えばいいのかわからず、ずっと揺れる水面を眺めていた。そんな時だった。幼い声がおれの名前を呼んだのは。
「そこにおわすのは、二乃助さまでありんすか?」
幼い声の割に流暢な廓言葉。また優秀な禿がいたもんだ、と皮肉気に視線だけ向けると、想像以上に幼い子どもが立っていて驚いた。
後で聞いた話によると、カナの禿になったあきは、一応実兄であるおれへの挨拶の機会を窺っていたらしい。それを、当時のおれは酷い言葉で追い払おうとした。いくら昨日の今日でイライラしていたといっても、子ども相手に大人げないことをした。この時友好的な態度で接していれば……少なくても風邪は引かなかっただろう。何があったんだって? 急かさなくても聞かせてやるよ。あいつとの出逢いから別れまで――。
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