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アルイマの森 01
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遠くで風に遊ばれた木々の葉がサラサラと擦れあう音がする。
森の中は、草木に湿った苔や土で満ちていた。人の手の入らない自然の芳香、そこに混じって甘く熟した果物のような香りがかすかに漂ってくる。
木々の下、無造作に上を見上げる背の高い男がいた。
その鋭い視線の先には、長身の男が見上げても足りないほど、巨大な木がそびえたっている。
幹の太さは小屋ほどもあり、広がった枝には針のように尖った葉が生い茂る。まるで緑の屋根のようだった。
男は手を伸ばし、その木肌に触れる。ごつごつとした外皮はうっすら湿っており、樹木の生を感じさせた。
見上げた木漏れ日に擽られたのだろう。後ろでひとつ、小さなくしゃみの音がした。振り返ると、あちこちに跳ねた曇天色の髪が、もう一つくしゃみをしてふるふると揺れていた。
「ティニ」
「はい、師匠」
名前を呼びかけると、驚くほど鮮やかな青い瞳が、すぐさま男を見上げた。
師匠、と呼ばれた男の名は、ユーダレウス。世界各地で「伝説」を冠する魔術師である。見かけは二十台も半ばといったところだが、これでいて人並ならぬ年月を生きていた。
月のような色の銀髪が木漏れ日にきらめく。まるで砕いた宝石か星空をまぶしたようで、いかにも神秘的に見えるが、実際は、丹念な手入れを怠るせいで傷んだ毛先が、そういうふうに見せているだけだった。
不機嫌でもないのに眉間に寄った皺は深く、眉の下の目つきは鋭く、初めて彼を見た者に、どこぞの悪党かと誤解を与えることが多い。ぶっきら棒な物言いと、少々粗野な振る舞いがそれを助長させていた。
しかし、その性根がただのお人よしであることを知る者も多い。
成り行きで出会っただけの幼い少年を、弟子として連れ歩いていることが、その確かな証拠である。
ユーダレウスは巨大な木の幹を手のひらでポンと叩く。
「……これは、アルイマだ。この世界で一番大きく育つ種で、この森にしか生えていない」
すん、とくしゃみの余韻で鼻を鳴らしながら、ティニは巨大な木を見上げ、見上げきれずによろめいて尻もちをついた。ユーダレウスは苦笑しながらティニの手を引いて立ち上がらせる。
「セカイマタギ、とも呼ばれるな。根っこ見てみろ」
ティ二は根を見上げた。根だというのに、ティニの背よりも高いところで別れていた。その上、普通の木の幹より一回りは太い。
その根は、人が一歩踏み出した途中でやめたかのように別れていた。それは何かを跨いでいるかのようで、ティニは「おー」と感嘆の声をあげる。
「この森は、巨大樹・アルイマが世界で唯一自生している森だ」
「じせいってなんですか?」
「人に管理されず、自然に生えてるってことだ」
ユーダレウスが触れている木だけでなく、育ち具合に差はあれど、辺りには似たような巨大樹ばかりが生えていた。
アルイマの木とは不思議なもので、その樹高も幹の幅も、他の種とは比べものにならないほどに巨大に育つのだが、それでいて、他の植物が生えなくなるほどの養分を必要としない。なのでこのアルイマの森には、あらゆる種類の植物で鬱蒼としていた。
ユーダレウスは拳でコツンと木肌を叩く。
「それとな。この木は人の手じゃ伐れねえんだよ」
この木は自然と朽ちて倒れるまで、伐ることはおろか、傷一つ付けることができない程、堅い木なのだ。
しかし、朽ちた後であればそれは変わる。道具を用いれば簡単に加工ができるようになるのだ。しかも、アルイマは朽ちてなお、その堅さを保ち、さらにはしなやかで軽いという材質を持つ。故にアルイマから生まれた木材は、家具や馬車などに姿を変え、人々の生活の中に組み込まれていた。
一体どうやってこのような巨木が育つのか。植物を専門とする学者たちは長らく研究しているが、未だ真実には辿りついていない。
このアルイマの森は、陸の東西にわたって、まるで北と南を遮る壁のように広がっていた。
人々は安全で確実な通行のために、森のアルイマ以外の木々を切り、森の北と南を繋ぐ街道を通していた。この街道は森を抜け、いくつかの主要な街を繋ぎ、その北端はこの辺りを統べる、ぺゼール王国の王都に向かう。
ユーダレウスは森が開けているほうへと向かう。後ろをついてくるティニを気にしながら歩くこと数分、ブーツの底が硬い石畳を踏んだ。
街道には滑らかに磨かれた石が敷かれており、それぞれの石にまじない師たちによって、獣除け、天災除けなどのあらゆるまじないが込められていた。
道幅の両端には等間隔に石の杭が打たれ、これにもまた石畳と同じまじないが込められている。街道にいる限り、ある程度の安全は保障されていた。
街道を歩み始めたユーダレウスだったが、数歩も行かないうちに、すぐに後ろを振り返り、幼い弟子を見下ろした。
「疲れたか?」
ティニは首を横に振ったが、その表情は普段よりいっそう、人形らしさに磨きがかかって無表情だった。抱き上げるかと一瞬思ったが、甘やかさないと決めていることを思い出してやめた。
代わりに手を差し出すが、その手が弟子の手を掴むことはなかった。
かすかな悲鳴を聞いたユーダレウスは、ティニの顔の前に手のひらを広げて停止させる。素直にその場に留まった弟子が、師の外套をしっかり握った。
進行方向、遠い前方には馬車が一台止まっているのがかろうじて見える。
ユーダレウスは耳を澄ます。
男の声が複数、女の声がひとつ、子供の声がひとつ――男の悲鳴が、ひとつ。
そう、まじない師がまじないを込めた守り石に、完全はない。必ずどこかに綻びがあり、通りがかった運の悪い者に厄が降りかかる。
「ティニ、被ってろ」
短く指示を出すと、ユーダレウスは自らの外套を脱ぎ、ティニの頭からすっぽりと被せた。
すぐさま腰に着けた小型の鞄に右手を入れると、小さく何かを呟き、カンテラのぶら下がった杖を引き抜く。
「アラキノツール・セラ」
すぐさまカンテラの中から澄んだ白銀の光の玉が踊るように現れた。
「コード ディスポド ヌィ シール」
取り急ぎ、外套に気配消しの術をかける。術は外套の下の存在をほとんど消し、余程鼻のいい獣でもなければ、気が付くことはないだろう。
踵を返し、ユーダレウスは走り出す。
「コード ディスボ ウォルコ」
風を切るように駆けながら、まだカンテラに帰っていない月光の精霊に向けて太古の言葉で話しかける。白銀の光はすぐにユーダレウスの胸の中心に吸い込まれて消えた。
――身体の重心が下がっていく。
いつの間にか「手」という感覚は失われており、ユーダレウスは全ての「脚」が地面を蹴るのを感じていた。
後方に弟子の匂いをくっきりと感じるようになった。大人しくしているようだ。血の匂いが混じる前方へと、ユーダレウスは走った。
鋭くなった聴覚が下卑た男たちの笑い声を捉え、ユーダレウスは銀の瞳を細めて獰猛な牙をむき出し、不快感をあらわにした。
進んだ先に止まっていた馬車は賊に襲われていた。
賊の男たちは各々が手に武器を持っていた。大ぶりな刃物は、人を脅しつけるには十分だ。それだけでなく、これ見よがしに銃を腰のベルトに挿している者もいた。
ティニよりもいくらか年上の少年が一人、賊に抵抗するように棒切れを剣のように構えて立っていた。吊り目がちな瞳は賊を睨みつけ、いかにも活発で勇敢そうで、向こう見ずな少年だ。
その傍らで、怪我をした額を抑え、力なく倒れ込む父親らしき男が「逃げろ」とうわ言のように繰り返す。馬車の中からは母親が悲鳴のように子供の名を呼び、手を伸ばして引き戻そうとしていた。
「こいつはおっかねえなあ!」
小馬鹿にしたようにベルトに銃を挟んだ男が言うと、賊たちは同調してゲラゲラと下品な声で笑った。
賊の男に向けて振り被った棒切れは容易く掴まれ、抵抗も虚しく子供の身体は投げ飛ばされた。地面に伏してせき込む子供を嘲りながら、賊たちは馬車の幌に手をかける。
ユーダレウスは地面を蹴ると、跳んだ。
男たちの頭上を越えて、倒れた子供の前に軽やかに着地すると、冷えた眼差しで賊を見据えた。それぞれの見開かれた目に、銀の毛並みの巨大な狼が映る。
大狼の雷のような咆哮が森に轟いた。
「ば……化け物……っ!?」
引き攣った喉でそれだけ呟いた男は、ベルトに挟んだ自慢の武器を抜く間もなく腰を抜かした。
ユーダレウスは、その太った胴に食らいつく。血の味は好みではない。皮膚を裂かないよう甘噛みにしたが、それだけで充分に効果はあったらしく、男はまるで今わの際のネズミのような、情けない悲鳴を上げた。
蜘蛛の子を散らすように逃げ出した賊の方へ、咥えた男を投げ飛ばす。べしゃりと地面に落ちた男は、最後の力を振り絞ったかのように這いずって、何とか立ち上がり、震える膝でよたよたと走り始めた。
ユーダレウスは、まるで仕事に慣れた牧羊犬のように、散り散りになった賊たちを悠々と追い回す。街道を外れ、森の中をひとまとまりに逃げていったところで満足して引き返した。
馬車のすぐ後ろで足を止め、その場で術を解く。
瞬きの間に、巨大な銀の狼が背の高い男の姿になったのを、尻もちをついた少年が呆然と見ていた。その少年に向けて、ユーダレウスは人差し指を己の口元に宛がうと、しーっと小さく息を零す。
こくんと素直に頷いた少年をそのままにして、馬車の幌をまくり上げた。
「おい、大丈夫……」
その瞬間、勇猛な女の叫び声と共に、鉄の鍋が頭目掛けて飛んできた。ユーダレウスが片手でそれを受けると、次はランプが宙を飛んだ。
「おい! ちょっ、落ち着け!」
次々に投げつけられるものを、手で受けたり、身を傾けて避けたりしながら、ユーダレウスは制止の声をかけ続けるが、女の耳に届いた気配はない。
果てにはスプーンまで投げ終えて、もう投げるものがなくなったのか、女は調理用のナイフを構えて獣のような眼差しでこちらを睨んだ。
ユーダレウスは手で額を抱えると、重苦しいため息をついた。
「……もういいだろう? 動けるようなら、旦那と子供を診てやれ。旦那の方は気を失っている」
女の返事を聞く間もなく、ユーダレウスは踵を返した。
なんとなくだが、嫌な予感がしていた。
賊が逃げていった方向は舗装された街道を逸れて、森の中だ。今頃、獣に追いつかれぬよう死に物狂いで逃げているだろう。
しかし、再び街道に戻れば、おそらくそこにはティニがいる。魔術で気配を消しているとはいえ一人だ。
ティニがもし、言いつけを守らず外套を脱いでいたら。もし、賊の一人が、そのティニを見つけたら。
怒りであれ、恐怖であれ、追い詰められて気が立った人間は獣と同じだ。何をするかわからない。
「ティニ……!」
「はい、師匠」
すぐ近くで声がして、ユーダレウスはたたらを踏んだ。
そう、ユーダレウスは「被ってろ」とは言ったが「動くな」とは、一度も言っていない。
声のした方に視線を下げて目を凝らすと、動く外套、もといティニがそこにいた。
引きずらないように裾をたくし上げているようだが、それでは足りず、外套はティニを足元までしっかり隠していた。視界も悪く、動きづらいその状態で、裾を踏まないようにゆっくりのそのそと歩き、今やっと追いついたところらしい。
ユーダレウスはティニの元に大股で近づくと、もそもそ動く外套の塊を抱き上げた。フードを脱がせると、曇天色の髪がぴょこんと跳ねる。人形のような顔の子供が、驚くほど鮮やかな青い目で、きょとんとこちらを見ていた。
傷の手当をしていた夫婦と少年は、突然そこに現れた子供に驚いて手を止めた。
「……大丈夫そうだな」
「はい」
全く気が付かなかった。なんとも完璧に術をかけたものだと他人事のように思いながら、魔術師は幼い弟子の胸に己の額を軽く押し付け息をついた。
森の中は、草木に湿った苔や土で満ちていた。人の手の入らない自然の芳香、そこに混じって甘く熟した果物のような香りがかすかに漂ってくる。
木々の下、無造作に上を見上げる背の高い男がいた。
その鋭い視線の先には、長身の男が見上げても足りないほど、巨大な木がそびえたっている。
幹の太さは小屋ほどもあり、広がった枝には針のように尖った葉が生い茂る。まるで緑の屋根のようだった。
男は手を伸ばし、その木肌に触れる。ごつごつとした外皮はうっすら湿っており、樹木の生を感じさせた。
見上げた木漏れ日に擽られたのだろう。後ろでひとつ、小さなくしゃみの音がした。振り返ると、あちこちに跳ねた曇天色の髪が、もう一つくしゃみをしてふるふると揺れていた。
「ティニ」
「はい、師匠」
名前を呼びかけると、驚くほど鮮やかな青い瞳が、すぐさま男を見上げた。
師匠、と呼ばれた男の名は、ユーダレウス。世界各地で「伝説」を冠する魔術師である。見かけは二十台も半ばといったところだが、これでいて人並ならぬ年月を生きていた。
月のような色の銀髪が木漏れ日にきらめく。まるで砕いた宝石か星空をまぶしたようで、いかにも神秘的に見えるが、実際は、丹念な手入れを怠るせいで傷んだ毛先が、そういうふうに見せているだけだった。
不機嫌でもないのに眉間に寄った皺は深く、眉の下の目つきは鋭く、初めて彼を見た者に、どこぞの悪党かと誤解を与えることが多い。ぶっきら棒な物言いと、少々粗野な振る舞いがそれを助長させていた。
しかし、その性根がただのお人よしであることを知る者も多い。
成り行きで出会っただけの幼い少年を、弟子として連れ歩いていることが、その確かな証拠である。
ユーダレウスは巨大な木の幹を手のひらでポンと叩く。
「……これは、アルイマだ。この世界で一番大きく育つ種で、この森にしか生えていない」
すん、とくしゃみの余韻で鼻を鳴らしながら、ティニは巨大な木を見上げ、見上げきれずによろめいて尻もちをついた。ユーダレウスは苦笑しながらティニの手を引いて立ち上がらせる。
「セカイマタギ、とも呼ばれるな。根っこ見てみろ」
ティ二は根を見上げた。根だというのに、ティニの背よりも高いところで別れていた。その上、普通の木の幹より一回りは太い。
その根は、人が一歩踏み出した途中でやめたかのように別れていた。それは何かを跨いでいるかのようで、ティニは「おー」と感嘆の声をあげる。
「この森は、巨大樹・アルイマが世界で唯一自生している森だ」
「じせいってなんですか?」
「人に管理されず、自然に生えてるってことだ」
ユーダレウスが触れている木だけでなく、育ち具合に差はあれど、辺りには似たような巨大樹ばかりが生えていた。
アルイマの木とは不思議なもので、その樹高も幹の幅も、他の種とは比べものにならないほどに巨大に育つのだが、それでいて、他の植物が生えなくなるほどの養分を必要としない。なのでこのアルイマの森には、あらゆる種類の植物で鬱蒼としていた。
ユーダレウスは拳でコツンと木肌を叩く。
「それとな。この木は人の手じゃ伐れねえんだよ」
この木は自然と朽ちて倒れるまで、伐ることはおろか、傷一つ付けることができない程、堅い木なのだ。
しかし、朽ちた後であればそれは変わる。道具を用いれば簡単に加工ができるようになるのだ。しかも、アルイマは朽ちてなお、その堅さを保ち、さらにはしなやかで軽いという材質を持つ。故にアルイマから生まれた木材は、家具や馬車などに姿を変え、人々の生活の中に組み込まれていた。
一体どうやってこのような巨木が育つのか。植物を専門とする学者たちは長らく研究しているが、未だ真実には辿りついていない。
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街道には滑らかに磨かれた石が敷かれており、それぞれの石にまじない師たちによって、獣除け、天災除けなどのあらゆるまじないが込められていた。
道幅の両端には等間隔に石の杭が打たれ、これにもまた石畳と同じまじないが込められている。街道にいる限り、ある程度の安全は保障されていた。
街道を歩み始めたユーダレウスだったが、数歩も行かないうちに、すぐに後ろを振り返り、幼い弟子を見下ろした。
「疲れたか?」
ティニは首を横に振ったが、その表情は普段よりいっそう、人形らしさに磨きがかかって無表情だった。抱き上げるかと一瞬思ったが、甘やかさないと決めていることを思い出してやめた。
代わりに手を差し出すが、その手が弟子の手を掴むことはなかった。
かすかな悲鳴を聞いたユーダレウスは、ティニの顔の前に手のひらを広げて停止させる。素直にその場に留まった弟子が、師の外套をしっかり握った。
進行方向、遠い前方には馬車が一台止まっているのがかろうじて見える。
ユーダレウスは耳を澄ます。
男の声が複数、女の声がひとつ、子供の声がひとつ――男の悲鳴が、ひとつ。
そう、まじない師がまじないを込めた守り石に、完全はない。必ずどこかに綻びがあり、通りがかった運の悪い者に厄が降りかかる。
「ティニ、被ってろ」
短く指示を出すと、ユーダレウスは自らの外套を脱ぎ、ティニの頭からすっぽりと被せた。
すぐさま腰に着けた小型の鞄に右手を入れると、小さく何かを呟き、カンテラのぶら下がった杖を引き抜く。
「アラキノツール・セラ」
すぐさまカンテラの中から澄んだ白銀の光の玉が踊るように現れた。
「コード ディスポド ヌィ シール」
取り急ぎ、外套に気配消しの術をかける。術は外套の下の存在をほとんど消し、余程鼻のいい獣でもなければ、気が付くことはないだろう。
踵を返し、ユーダレウスは走り出す。
「コード ディスボ ウォルコ」
風を切るように駆けながら、まだカンテラに帰っていない月光の精霊に向けて太古の言葉で話しかける。白銀の光はすぐにユーダレウスの胸の中心に吸い込まれて消えた。
――身体の重心が下がっていく。
いつの間にか「手」という感覚は失われており、ユーダレウスは全ての「脚」が地面を蹴るのを感じていた。
後方に弟子の匂いをくっきりと感じるようになった。大人しくしているようだ。血の匂いが混じる前方へと、ユーダレウスは走った。
鋭くなった聴覚が下卑た男たちの笑い声を捉え、ユーダレウスは銀の瞳を細めて獰猛な牙をむき出し、不快感をあらわにした。
進んだ先に止まっていた馬車は賊に襲われていた。
賊の男たちは各々が手に武器を持っていた。大ぶりな刃物は、人を脅しつけるには十分だ。それだけでなく、これ見よがしに銃を腰のベルトに挿している者もいた。
ティニよりもいくらか年上の少年が一人、賊に抵抗するように棒切れを剣のように構えて立っていた。吊り目がちな瞳は賊を睨みつけ、いかにも活発で勇敢そうで、向こう見ずな少年だ。
その傍らで、怪我をした額を抑え、力なく倒れ込む父親らしき男が「逃げろ」とうわ言のように繰り返す。馬車の中からは母親が悲鳴のように子供の名を呼び、手を伸ばして引き戻そうとしていた。
「こいつはおっかねえなあ!」
小馬鹿にしたようにベルトに銃を挟んだ男が言うと、賊たちは同調してゲラゲラと下品な声で笑った。
賊の男に向けて振り被った棒切れは容易く掴まれ、抵抗も虚しく子供の身体は投げ飛ばされた。地面に伏してせき込む子供を嘲りながら、賊たちは馬車の幌に手をかける。
ユーダレウスは地面を蹴ると、跳んだ。
男たちの頭上を越えて、倒れた子供の前に軽やかに着地すると、冷えた眼差しで賊を見据えた。それぞれの見開かれた目に、銀の毛並みの巨大な狼が映る。
大狼の雷のような咆哮が森に轟いた。
「ば……化け物……っ!?」
引き攣った喉でそれだけ呟いた男は、ベルトに挟んだ自慢の武器を抜く間もなく腰を抜かした。
ユーダレウスは、その太った胴に食らいつく。血の味は好みではない。皮膚を裂かないよう甘噛みにしたが、それだけで充分に効果はあったらしく、男はまるで今わの際のネズミのような、情けない悲鳴を上げた。
蜘蛛の子を散らすように逃げ出した賊の方へ、咥えた男を投げ飛ばす。べしゃりと地面に落ちた男は、最後の力を振り絞ったかのように這いずって、何とか立ち上がり、震える膝でよたよたと走り始めた。
ユーダレウスは、まるで仕事に慣れた牧羊犬のように、散り散りになった賊たちを悠々と追い回す。街道を外れ、森の中をひとまとまりに逃げていったところで満足して引き返した。
馬車のすぐ後ろで足を止め、その場で術を解く。
瞬きの間に、巨大な銀の狼が背の高い男の姿になったのを、尻もちをついた少年が呆然と見ていた。その少年に向けて、ユーダレウスは人差し指を己の口元に宛がうと、しーっと小さく息を零す。
こくんと素直に頷いた少年をそのままにして、馬車の幌をまくり上げた。
「おい、大丈夫……」
その瞬間、勇猛な女の叫び声と共に、鉄の鍋が頭目掛けて飛んできた。ユーダレウスが片手でそれを受けると、次はランプが宙を飛んだ。
「おい! ちょっ、落ち着け!」
次々に投げつけられるものを、手で受けたり、身を傾けて避けたりしながら、ユーダレウスは制止の声をかけ続けるが、女の耳に届いた気配はない。
果てにはスプーンまで投げ終えて、もう投げるものがなくなったのか、女は調理用のナイフを構えて獣のような眼差しでこちらを睨んだ。
ユーダレウスは手で額を抱えると、重苦しいため息をついた。
「……もういいだろう? 動けるようなら、旦那と子供を診てやれ。旦那の方は気を失っている」
女の返事を聞く間もなく、ユーダレウスは踵を返した。
なんとなくだが、嫌な予感がしていた。
賊が逃げていった方向は舗装された街道を逸れて、森の中だ。今頃、獣に追いつかれぬよう死に物狂いで逃げているだろう。
しかし、再び街道に戻れば、おそらくそこにはティニがいる。魔術で気配を消しているとはいえ一人だ。
ティニがもし、言いつけを守らず外套を脱いでいたら。もし、賊の一人が、そのティニを見つけたら。
怒りであれ、恐怖であれ、追い詰められて気が立った人間は獣と同じだ。何をするかわからない。
「ティニ……!」
「はい、師匠」
すぐ近くで声がして、ユーダレウスはたたらを踏んだ。
そう、ユーダレウスは「被ってろ」とは言ったが「動くな」とは、一度も言っていない。
声のした方に視線を下げて目を凝らすと、動く外套、もといティニがそこにいた。
引きずらないように裾をたくし上げているようだが、それでは足りず、外套はティニを足元までしっかり隠していた。視界も悪く、動きづらいその状態で、裾を踏まないようにゆっくりのそのそと歩き、今やっと追いついたところらしい。
ユーダレウスはティニの元に大股で近づくと、もそもそ動く外套の塊を抱き上げた。フードを脱がせると、曇天色の髪がぴょこんと跳ねる。人形のような顔の子供が、驚くほど鮮やかな青い目で、きょとんとこちらを見ていた。
傷の手当をしていた夫婦と少年は、突然そこに現れた子供に驚いて手を止めた。
「……大丈夫そうだな」
「はい」
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