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しおりを挟む連れられてきたユーダレウスの家は、アラキノの予想よりも小さく、そしてありふれた家だった。
無駄な抵抗によって力を使い果たし、ユーダレウスの腕に揺られてぐったりと目を閉じていたアラキノだったが、途中で何度か土地の匂いが変わったことには気が付いていた。
自分が捨てられていた場所から、とんでもなく遠いところに来たのかもしれないと、ぼーっとする頭で漠然と考えていると、背後でドアが開く音がした。
穏やかで、温かな光に満ちた家だと思ったのもつかの間。
アラキノはまず全身まるごと風呂で洗われた。怪我には丁寧な手当を施され、温かな食事を食べ終わって、気が付いたときには既に、アラキノは柔らかなベッドに腰かけていた。
ベッドを与えられたのは、言わずもがな初めてだった。それどころか、満足な掛布すら与えられたことがなかった。手首に巻かれた包帯はまっさらで、その下の傷に塗られた薬も安価とは言い難い。温かな食事だって、アラキノは初めて食べたのだ。
普通ならば何か怪しいと警戒したり、困惑しているところだが、正直なところ、今すぐにでも横になりたかった。腰かけているベッドが尚更眠気を誘う。
アラキノがそれをしないのは、目の前のユーダレウスが木の椀にいくつかの液体を少しずつ測り入れ、混ぜ合わせてなにかを用意しているからだった。
「骨が折れていなくてよかった。後に残りそうな傷はないけど、随分な怪我だったから、今晩は熱が出るだろうね」
そう言って、ユーダレウスは戸惑うアラキノの額に手を当てた。はっとなって、確かめるように手のひらを額に押し当てると「もうこんなにあったかくなってきた」と悲し気な顔をした。
アラキノは、目の前のこの人が悲しい顔をする理由がわからなかった。熱を出しているのは自分であって、この人が苦しいわけではない。
「他人の心配をする」という心をアラキノが知るのは、まだ先のことだ。
「はい。痛み止めと、熱さましの薬だ。飲みなさい」
ユーダレウスから差し出された椀の中には、澄んだ液体が入っていた。匂いは何もない。
これが薬なのだろうか。アラキノは首をかしげる。ただの何の変哲もない水に見えた。
何はともあれ、飲まなければ横になる許しを得られないだろうと、アラキノは受け取った椀に口をつけ、中身を呷る。
「っぐ!?」
液体が舌に触れた瞬間。舌がもげそうなほどの鋭い苦みを感じた。思わず吐き出してしまいそうなところを、何とか堪える。そんなことをしたら、この魔術師の不興を買うかもしれないという考えがちらりと脳裏をよぎった。
椀を傾けたまま無理やりゴクリと飲み込めば、空になった口の中には当たり前のように次が入ってきた。その暴力的な苦みは、どれほど飲んでも慣れるということはなく、身体が強張り、震える程のそれにとうとう涙が滲んでくる。
しかし、アラキノは何も言わず、必死の思いで薬を飲み干した。
「おやおや。この薬、大人でもひと口で勘弁してくれと泣いて縋るのに、よく飲んだね」
ユーダレウスは、驚いた顔で二、三度パチパチと手を叩いた。死にそうなほど渋い顔のアラキノを見て、慌てて水差しを取り上げ、空になった椀に正真正銘ただの水を注いだ。
差し出された水を一息に飲みほしたアラキノだったが、口の中はびりびりと苦みに痺れており、通り過ぎていった災禍を忘れてくれそうにない。
しかめっ面のままのアラキノの頭に、ユーダレウスの手が乗った。次は何だと内心戦々恐々としながら大人しくしているアラキノの頭の上で、温い手はそっと左右に動いた。
本当に、何だろう。
きょとんとするアラキノをよそに、上機嫌なユーダレウスはどこからともなく小さな壺と木の匙を取り出した。
「偉かったね。口直しの時間だ」
ユーダレウスは、ふんふんと鼻歌を歌いながら匙を壺の中に入れ、とろりとした赤いものを掬いとる。血の塊にも見えるそれに、アラキノは思わず眉を寄せた。
「大丈夫大丈夫、今度は美味しいよ。私が作ったんじゃないから」
血生臭さはなく、花のような良い香りがする匙の先で急かすように唇をつつかれ、アラキノはおそるおそる唇を開く。
その隙を見逃さず、ユーダレウスは匙をアラキノの口の中へ、えいやと突っ込んだ。
発熱のせいで熱くなった口の中に、ひんやりとした感触が心地良い。次第に匙に載っていたどろりとした物体の味が広がっていく。
「今年採れたアルイマベリーのジャムだよ。甘いだろう?」
これが甘いという感覚なのだと、アラキノは初めて知った。甘い物など、その日一日食べ物にありつけるかすらわからない奴隷に与えられるわけがない。
苦みでじんじんと痺れていたアラキノの舌が蕩けるような甘味と、そして少しの酸味に癒されていく。酸味に関しては、食べると腹を壊すものと理解していたが、これは食べても大丈夫なものだと不思議と信じられた。
ユーダレウスの問いかけには何も答えずに、アラキノは匙をくわえたままジャムとやらの余韻を夢中で味わっていた。
ふと気が付けば、青い瞳がこちらをじっと見ていた。何が面白いのか、また笑っている。
ふいに、アラキノは強制的に意識が遠のく感覚を覚えた。急に瞼が重たくなり、開けていられずにまばたきを繰り返す。
「あの薬はね、とんでもない味だけど効き目は早いし、良く効くんだ」
静かにそう言ったユーダレウスは、アラキノの口から味のしなくなった匙を引っこ抜いた。眠気のせいで左右にふらふらしているアラキノを慣れた手つきでベッドに仕舞うと、火照る額に冷たく濡らした布をのせた。
「さあ、もうおやすみ」
瞼の上に温い手が乗り、反射的にアラキノは目を瞑る。目を瞑った瞬間、今宵はもう瞼を開けることはできないことを悟った。
おやすみ。その言葉は、どういう意味なのだろうか。それを尋ねる時間はなく、アラキノは夢も見ない深い眠りへと落ちていった。
起きたらすべてがまやかしだったりしないだろうかという不安を、アラキノは一度も抱かなかった。
ずっと昔、それこそ生まれたその日からこの人が側にいて、こうして世話を焼いてくれていたのではないか。そう思うくらいに、ゆったりとした声も、触れる手のひらの温度も、しっくりと身体に馴染んでいたからだ。
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