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『ユーダレウス』01
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遥か彼方。記憶の中に埋もれてしまったその日は、とても美しい満月の晩だった。
欠けのない銀の月を映した夜の泉。
水辺の草むらにおびただしいほどに生えている酔わせ草には精霊たちが集っていた。
酔わせ草とは精霊のみを酔わせる草だ。人間が嗅いでも酒のような香りがするだけで酒精は含まれていないから酔うことはない。
よせばいいのに、精霊は何故だかこれを見ると寄らずにいられない。そして、酷く酔っ払い、あちらへふらふら、こちらへふらふらとぼんやりとした光を散らしながら、踊り狂るうように飛ぶのだ。朝陽を浴びると勝手に我に返って各々で帰っていくから、放っておいても問題はない。おそらくは、精霊なりの嗜好の一つなのだろうと精霊に通じる者の間では結論が出ている。
酔わせ草に耽溺した精霊たちの光は不安定に明滅し、何の変哲もないただの泉の周りを幻想的に彩っていた。
そんな、美しい夜の水辺を歩くのを、その魔術師は好んでいた。
白っぽい外套のフードを目深に被り、背丈や身体つきだけでは彼か彼女かわからない風貌の魔術師は、左の手にカンテラのぶら下がっている杖を持っていた。杖は羊飼いが持つ杖のように長く、その長さは地面から魔術師の顔の辺りまである。ぶら下がったカンテラからは、金と銀に輝く光の玉が出入りし、魔術師の周りを楽しげに揺蕩っていた。
ゆるり、ゆるりと、まるで慎み深い貴人が散策をするがごとく歩いていたその人は、一本の木の陰に一人の痩せた子供を見つけた。
精霊の光にぼんやりと照らされた姿を見るに、年の頃は十かそこら。縄でくくられた手足はこれ以上無いほどに痩せきっており、棒切れのようだった。血の気のない白い肌はいくつもの痣によって不気味なまだら模様になっている。うさぎの姿に光る精霊たちが、ぐったりとして動かない子供の白っぽい髪にしきりに鼻を突っ込んでいた。
魔術師が憐れな子供の骸を可哀想に思っていると、骸が不意に頭に群がる精霊を払いのけるように頭を振り、小さく身じろいだ。
――生きている。
途端、魔術師は、楽しいものを見つけた若人よりも軽い足取りでそちらに向けて歩いていく。歩くたびに、草むらからは酔っ払った精霊がふらふらと羽ばたいて、魔術師の姿を闇に浮かび上がらせた。
子供のいるところまで辿りついた魔術師は、カンテラのぶら下がった杖を地面に寝かせ、子供の傍らに膝をつく。空気の塊をはらんだ外套の裾が軽やかに翻った。
魔術師はゆっくりと子供の顔を覗き込む。
少年だ。酷く痛んで煤けてはいたが、子供は月の色によく似た銀の髪をしていた。「道理で精霊が寄ってくるわけだ」と魔術師は内心で独り言つ。彼らは、その身に珍しい色を持つ人間を特に好む。
「……やあ少年。月から落っこちてきたのかい?」
低くも高くもない声が、冗談のような調子でそう言うと、少年はようやく瞼を開いて魔術師を見た。
途端、少年の瞼がいきなり開き、戸惑いの感情を浮かべた。声をかけられるまで、まるで気配がわからなかったのだ。
辺りは一面、大人の膝まである草むらだ。それが風になぶられるサワサワとした音がずっとしていた。なにがしかの虫の声も聞こえている。
なのに、この目の前の人間が側に来ることに気が付かなかった。衣擦れの音も、草が分かれる音も、足音すらもしなかったのだ。
いっそ不気味にすら思えるその人を、少年は呆然と見上げた。
「名前は? どこの子かな?」
「……ドレイだから、名前、ない」
口をきいてから、少年は戸惑いながら口をつぐんだ。なんでこんなにあっさりと答えてしまったのか不思議だった。
人が通らないからという理由で、少年はここに捨てられた。そんなところを、音もたてずに歩いている人間だ。フードからかろうじて見える口元は人の好さそうな笑みを浮かべてはいるが、どう考えても怪しさしかない。そんな大人に、自分の身の上を簡単に答えるなんて。
――魔術師だ。
体中の痛みで鈍った頭ではあったが、少年は直感でそう思った。
魔術師は、不思議な力を持った人間のことだ。少年は魔術師についてそれしか知らないが、きっと子供の口の滑りをよくするなんてことは朝飯前なのだろう。どんな小さな村にも一人はいると言われるほどありふれた職だが、なろうと思ってもそう簡単になれるわけではない。もしそんな簡単になれるのなら、人は皆魔術師になってしまう。
ただ、奴隷などより遥かに優れた価値ある人間であるというのは、少年をここに捨てた主がしょっちゅう言っていた。同時に、信用に値しない職であるということも言っていたが、それには「後ろめたいところのある者にとっては」という条件が付く。幼い奴隷には知る由もないことだ。
少年は目の前の人間を注意深くじっと見つめた。
不信と、不安と、少しの怯え。魔術師は、その視線を確かに受け取っていた。
少年の顔は傷つき、汚れて元の形も見えぬほどだったが、銀の瞳ばかりはギラギラとしていて、まるで危うい刃物のようだった。これも、精霊の好む色だ。
魔術師はこの稀有な色をふたつも持った少年との出会いに興奮していたが、決して表には出さずに、代わりにそっと微笑む。
「……ひどい主人のとこから逃げてきたのかい?」
「役立たず、もういらねえって」
素直に、けれど感情のない声でそう答えた少年に、魔術師は胸の痛みを覚えた。人から受けた暴言を当たり前と思って、心を痛める様子のないその態度が憐れだったからだ。
魔術師は「こんな幼子によくまあ酷いことをするものだ」と感情を殺した声で呟くと、少年を縛る縄の結び目に手をかける。結び目は硬く、簡単には解けそうになかった。
「おやおや。結ぶのだけは上手らしい」
侮蔑たっぷりに皮肉を言うと、魔術師は考え込むように、ゆっくりと首を傾げる。
魔術師のありふれた茶色の髪の束が、フードの陰からさらりと流れ落ちるのを、目の前で少年はやはり胡散臭そうに眺めていた。
少年に家族はない。一番古い記憶は、酒臭い男に小突かれながら連れられて、隊商の主の男に売られた記憶だ。物心ついたときには、奴隷として雑用を押し付けられていた。
もっとも、丁寧に仕事を教えてくれる者のいない隊商の中では、子供にできることなど少なかった。役立たずと詰られるのはまだいい方だ。八つ当たりのような理不尽な理由で食事を抜かれ、商売がうまくいかない憂さ晴らしに殴られた。あるいは、それがあの隊商における子供奴隷の仕事だったのかもしれない。
日々をぎりぎりで生きていた少年は、弱り切っていた。わざわざ縄で括られずとも、こんな森の真ん中からどこかへ行く体力も気力も残ってはいなかったが、少年をここに捨てた男はそうは思わなかったらしい。
「役に立たなくなったものは処分していく。それが古くからの我が隊商の習わしだ」
それが隊商の主の口癖だった。
安い値段で売られる奴隷は子供がほとんどだ。学もなく、大抵は何の才もない。運よく大人になれば儲けもので、できる仕事が増えるにつれ少しましな扱いを受ける。
しかし、わざわざ子供から手をかけて使えるようになるまで育てる事はしなかった。ダメになったら捨てて新しいものを買う方が、金のある者にとっては効率が良いらしかった。
隊商にいた他の子供奴隷が捨てられて、新しい顔に代わる度、自分もいつかそうなるのだろうと、少年は漠然とそう思っていた。
そして、予想通りのことが起こったのが昨夜だ。
朝から機嫌の悪かった主に食事を抜かれ、殴られ蹴られ。とうとう立ち上がることを諦めた奴隷は、森に捨てられることに決まった。残飯をどうするか決めるのと同じくらい、簡単に決まった。
「夜のうちに狼にでも食われちまえ」
「ああ、お前をくくるこの縄すらもったいねえ」
「その生意気な目が、死に際に泣くのを見られねえのが残念だ」
奴隷を捨てる仕事を押し付けられた男たちに、そういう風に嘲笑われても、絶望すらしなかった。
ああ、ようやく終わるのかと。どこか安堵にも似た感情で、ただそう思っただけだった。
痛みを訴える瞼をゆっくりと動かし、少年は思案顔の魔術師を見た。
着ている外套の布地。自分を捨てた主が相手にする上客が、似たようなものを着ているのを見たことがある。ぼろ以下の服しか着たことのない少年に生地の良し悪しはあまりわからないが、良い物なのだろう。
どうやらこの魔術師は、自分に興味があるらしい。縄を解こうとした。
自分を小間使いにするのに連れて帰る、という考えは、希望を持ちすぎていると早々に捨てた。金持ちの魔術師には、小間使いなんて掃いて捨てるくらいいるだろう。今更こんな弱り切った子供など拾って帰ったところで、食い扶持が増えるだけだ。
魔術師はどういうわけか歳をとらない。道理に外れた良からぬ術を使うのだといつだったか誰かが言っていた。
その良からぬ術を使うのに、人間を贄に使うということも聞いたことがあった。
どれも聞きかじりの噂話でしかないが、もしかしたら、それは本当で、その贄に使うために連れていかれるのかもしれない。
そこまで考えて、別にどうでもいいことだと思い至った少年は、ふっと目を瞑った。このままここで獣に食われるのを待つのと贄になるのとを比べても、大して変わりはないと思ったからだ。
「うん……アラキノでどうだろう?」
「なにが?」
唐突に良くわからない言葉を口にした魔術師に少年は思わず聞き返した。魔術師を見ようとしたが、傷がずきんと痛んでうめき声をあげた。少年の手首を縛った男に、最後の置き土産とばかりに蹴られた腹と踏まれた手足が、じくじくとした熱を持っていた。
魔術師が少年のぼさぼさの髪に触れる。その下の瘤がズキンと痛み、少年は顔を顰めて、微かに首を振ってその手を嫌がった。すると、それ以上手が伸びてくることはなかった。
「……アラキノとは、古い言葉で月という意味だよ。お前の髪はまるで月の色だから」
凪いだ湖面のように静かな声と、フードの下から感じる視線をかわすように、子供はわずかに身を捻る。
何故、今そんなことを言うのだろう。死ぬ前に古い言葉をひとつ知ったところで、何になると言うのだろう。相変わらず口元に柔らかな微笑を称えた魔術師は、立ち上がるとカンテラのついた杖を少し持ち上げた。
「アラキノツール・セラ」
かろうじて、そういう風に聞こえた。
子供は自分の耳がおかしくなったのかと思った。本当に人間が話したのかと疑いを持つほど、その言葉は聞き慣れない響きを持っていたからだ。同じように話せと言われても、どう舌を回せばいいのか見当もつかない。
ふわりと白銀の光の玉がカンテラから躍り出て、少年はさらに驚いた。精霊などあちこちにいるが、それを連れ歩く人間は初めて見たからだ。
魔術師は手を伸ばして光の玉に触れると、それを指先で愛おしそうに撫でた。
「コード ディス フォルド レリゼ」
カンテラのついた杖の先が地面をトンと突いた。
白銀の光の玉が子供の手首を縛っていた縄にとまり、一瞬で水のように沁み込む。
すると、驚いたことに、あれほどきつく結ばれていた縄が、はらりと解けた。
子供は、のそりと起き上がり、魔術師を見上げた。
「私はユーダレウス。見ての通り魔術師だ。よろしく、アラキノ」
――あれは、名を与えられたのか。
初めて見た魔術に、自由になった手足に、差し出された手に。そして、生まれて初めて名を付けられたことに。
怒涛の勢いで差し出されたものたちに、少年は呆気に取られてぽかんとするしかなかった。
ユーダレウスと名乗った魔術師がフードを脱いだ。
ありきたりな茶色の長い髪は艶やかで、水のように肩の上を流れ落ちる。月明かりに露わになったその顔は、やはり性別を感じられなかった。そして、どこかで見たような顔をしていた。
奴隷だった少年にとって、覚えている顔などほとんどないに等しい。だというのに、その顔は記憶の一番遠いところに霧のようにぼんやりと浮かんでいて、思い出したいのに思い出せないという妙に落ち着かない気分にさせた。青い瞳が優しくこちらを見ているのが尚更居た堪れない。
「我ながら、なかなか良い名付けだと思うんだけど。どうかな? ほら、一緒に暮らすなら呼ぶ為の名がいるだろう?」
子供の銀の瞳にじっと見つめられるのも気にせず、ユーダレウスはもう決まったことのような口ぶりで話を進めていく。
「さて、帰ろうか。おいで、アラキノ」
呼ばれたその名に対して返事をする前に、少年は差し出された手を掴んでいた。その手は、傷痕一つない綺麗な手だった。そして、とても温かい手だった。
魔術師は少年が手を掴むとひどく満足そうに笑った。その穏やかな表情を見た瞬間、少年は自分の視界が滲むのを感じていた。
自分は死にたくはなかったのだと、生きたかったのだと、もう少し生きられるとわかってから、ようやく思い知ったのだ。
乱暴に目をこすって涙を拭っていると、ふわりと少年の身体が浮きあがる。人の腕に抱かれていると気が付いたのは、いつもより地面が遠くて、月が近かったせいだ。
「……おろせ」
「おやおや、なんて軽さだろう。家の子になるからには、しっかり食べさせないといけないね」
何も聞いてないような顔をしたユーダレウスは、子供をあやすように少年の背中をとんとんと叩く。
少年は何度も「おろせ」と喚いたが、聞く耳どころか、そもそも耳が付いているのか疑いたくなるほど、ユーダレウスは頑なに少年を抱えて歩いた。元々弱り切っていたせいもあり、少年はすぐにぐったりと魔術師の肩に凭れかかる。
「いやあ、やっぱり良い月の晩には散歩をしてみるものだね」
腕に抱いた子供を抱え直したユーダレウスは、見事な満月を見上げると、満ち足りたようにそう零した。
この晩、少年は奴隷という檻から出て『アラキノ』という名前と、そして帰る場所を手に入れたのだった。
欠けのない銀の月を映した夜の泉。
水辺の草むらにおびただしいほどに生えている酔わせ草には精霊たちが集っていた。
酔わせ草とは精霊のみを酔わせる草だ。人間が嗅いでも酒のような香りがするだけで酒精は含まれていないから酔うことはない。
よせばいいのに、精霊は何故だかこれを見ると寄らずにいられない。そして、酷く酔っ払い、あちらへふらふら、こちらへふらふらとぼんやりとした光を散らしながら、踊り狂るうように飛ぶのだ。朝陽を浴びると勝手に我に返って各々で帰っていくから、放っておいても問題はない。おそらくは、精霊なりの嗜好の一つなのだろうと精霊に通じる者の間では結論が出ている。
酔わせ草に耽溺した精霊たちの光は不安定に明滅し、何の変哲もないただの泉の周りを幻想的に彩っていた。
そんな、美しい夜の水辺を歩くのを、その魔術師は好んでいた。
白っぽい外套のフードを目深に被り、背丈や身体つきだけでは彼か彼女かわからない風貌の魔術師は、左の手にカンテラのぶら下がっている杖を持っていた。杖は羊飼いが持つ杖のように長く、その長さは地面から魔術師の顔の辺りまである。ぶら下がったカンテラからは、金と銀に輝く光の玉が出入りし、魔術師の周りを楽しげに揺蕩っていた。
ゆるり、ゆるりと、まるで慎み深い貴人が散策をするがごとく歩いていたその人は、一本の木の陰に一人の痩せた子供を見つけた。
精霊の光にぼんやりと照らされた姿を見るに、年の頃は十かそこら。縄でくくられた手足はこれ以上無いほどに痩せきっており、棒切れのようだった。血の気のない白い肌はいくつもの痣によって不気味なまだら模様になっている。うさぎの姿に光る精霊たちが、ぐったりとして動かない子供の白っぽい髪にしきりに鼻を突っ込んでいた。
魔術師が憐れな子供の骸を可哀想に思っていると、骸が不意に頭に群がる精霊を払いのけるように頭を振り、小さく身じろいだ。
――生きている。
途端、魔術師は、楽しいものを見つけた若人よりも軽い足取りでそちらに向けて歩いていく。歩くたびに、草むらからは酔っ払った精霊がふらふらと羽ばたいて、魔術師の姿を闇に浮かび上がらせた。
子供のいるところまで辿りついた魔術師は、カンテラのぶら下がった杖を地面に寝かせ、子供の傍らに膝をつく。空気の塊をはらんだ外套の裾が軽やかに翻った。
魔術師はゆっくりと子供の顔を覗き込む。
少年だ。酷く痛んで煤けてはいたが、子供は月の色によく似た銀の髪をしていた。「道理で精霊が寄ってくるわけだ」と魔術師は内心で独り言つ。彼らは、その身に珍しい色を持つ人間を特に好む。
「……やあ少年。月から落っこちてきたのかい?」
低くも高くもない声が、冗談のような調子でそう言うと、少年はようやく瞼を開いて魔術師を見た。
途端、少年の瞼がいきなり開き、戸惑いの感情を浮かべた。声をかけられるまで、まるで気配がわからなかったのだ。
辺りは一面、大人の膝まである草むらだ。それが風になぶられるサワサワとした音がずっとしていた。なにがしかの虫の声も聞こえている。
なのに、この目の前の人間が側に来ることに気が付かなかった。衣擦れの音も、草が分かれる音も、足音すらもしなかったのだ。
いっそ不気味にすら思えるその人を、少年は呆然と見上げた。
「名前は? どこの子かな?」
「……ドレイだから、名前、ない」
口をきいてから、少年は戸惑いながら口をつぐんだ。なんでこんなにあっさりと答えてしまったのか不思議だった。
人が通らないからという理由で、少年はここに捨てられた。そんなところを、音もたてずに歩いている人間だ。フードからかろうじて見える口元は人の好さそうな笑みを浮かべてはいるが、どう考えても怪しさしかない。そんな大人に、自分の身の上を簡単に答えるなんて。
――魔術師だ。
体中の痛みで鈍った頭ではあったが、少年は直感でそう思った。
魔術師は、不思議な力を持った人間のことだ。少年は魔術師についてそれしか知らないが、きっと子供の口の滑りをよくするなんてことは朝飯前なのだろう。どんな小さな村にも一人はいると言われるほどありふれた職だが、なろうと思ってもそう簡単になれるわけではない。もしそんな簡単になれるのなら、人は皆魔術師になってしまう。
ただ、奴隷などより遥かに優れた価値ある人間であるというのは、少年をここに捨てた主がしょっちゅう言っていた。同時に、信用に値しない職であるということも言っていたが、それには「後ろめたいところのある者にとっては」という条件が付く。幼い奴隷には知る由もないことだ。
少年は目の前の人間を注意深くじっと見つめた。
不信と、不安と、少しの怯え。魔術師は、その視線を確かに受け取っていた。
少年の顔は傷つき、汚れて元の形も見えぬほどだったが、銀の瞳ばかりはギラギラとしていて、まるで危うい刃物のようだった。これも、精霊の好む色だ。
魔術師はこの稀有な色をふたつも持った少年との出会いに興奮していたが、決して表には出さずに、代わりにそっと微笑む。
「……ひどい主人のとこから逃げてきたのかい?」
「役立たず、もういらねえって」
素直に、けれど感情のない声でそう答えた少年に、魔術師は胸の痛みを覚えた。人から受けた暴言を当たり前と思って、心を痛める様子のないその態度が憐れだったからだ。
魔術師は「こんな幼子によくまあ酷いことをするものだ」と感情を殺した声で呟くと、少年を縛る縄の結び目に手をかける。結び目は硬く、簡単には解けそうになかった。
「おやおや。結ぶのだけは上手らしい」
侮蔑たっぷりに皮肉を言うと、魔術師は考え込むように、ゆっくりと首を傾げる。
魔術師のありふれた茶色の髪の束が、フードの陰からさらりと流れ落ちるのを、目の前で少年はやはり胡散臭そうに眺めていた。
少年に家族はない。一番古い記憶は、酒臭い男に小突かれながら連れられて、隊商の主の男に売られた記憶だ。物心ついたときには、奴隷として雑用を押し付けられていた。
もっとも、丁寧に仕事を教えてくれる者のいない隊商の中では、子供にできることなど少なかった。役立たずと詰られるのはまだいい方だ。八つ当たりのような理不尽な理由で食事を抜かれ、商売がうまくいかない憂さ晴らしに殴られた。あるいは、それがあの隊商における子供奴隷の仕事だったのかもしれない。
日々をぎりぎりで生きていた少年は、弱り切っていた。わざわざ縄で括られずとも、こんな森の真ん中からどこかへ行く体力も気力も残ってはいなかったが、少年をここに捨てた男はそうは思わなかったらしい。
「役に立たなくなったものは処分していく。それが古くからの我が隊商の習わしだ」
それが隊商の主の口癖だった。
安い値段で売られる奴隷は子供がほとんどだ。学もなく、大抵は何の才もない。運よく大人になれば儲けもので、できる仕事が増えるにつれ少しましな扱いを受ける。
しかし、わざわざ子供から手をかけて使えるようになるまで育てる事はしなかった。ダメになったら捨てて新しいものを買う方が、金のある者にとっては効率が良いらしかった。
隊商にいた他の子供奴隷が捨てられて、新しい顔に代わる度、自分もいつかそうなるのだろうと、少年は漠然とそう思っていた。
そして、予想通りのことが起こったのが昨夜だ。
朝から機嫌の悪かった主に食事を抜かれ、殴られ蹴られ。とうとう立ち上がることを諦めた奴隷は、森に捨てられることに決まった。残飯をどうするか決めるのと同じくらい、簡単に決まった。
「夜のうちに狼にでも食われちまえ」
「ああ、お前をくくるこの縄すらもったいねえ」
「その生意気な目が、死に際に泣くのを見られねえのが残念だ」
奴隷を捨てる仕事を押し付けられた男たちに、そういう風に嘲笑われても、絶望すらしなかった。
ああ、ようやく終わるのかと。どこか安堵にも似た感情で、ただそう思っただけだった。
痛みを訴える瞼をゆっくりと動かし、少年は思案顔の魔術師を見た。
着ている外套の布地。自分を捨てた主が相手にする上客が、似たようなものを着ているのを見たことがある。ぼろ以下の服しか着たことのない少年に生地の良し悪しはあまりわからないが、良い物なのだろう。
どうやらこの魔術師は、自分に興味があるらしい。縄を解こうとした。
自分を小間使いにするのに連れて帰る、という考えは、希望を持ちすぎていると早々に捨てた。金持ちの魔術師には、小間使いなんて掃いて捨てるくらいいるだろう。今更こんな弱り切った子供など拾って帰ったところで、食い扶持が増えるだけだ。
魔術師はどういうわけか歳をとらない。道理に外れた良からぬ術を使うのだといつだったか誰かが言っていた。
その良からぬ術を使うのに、人間を贄に使うということも聞いたことがあった。
どれも聞きかじりの噂話でしかないが、もしかしたら、それは本当で、その贄に使うために連れていかれるのかもしれない。
そこまで考えて、別にどうでもいいことだと思い至った少年は、ふっと目を瞑った。このままここで獣に食われるのを待つのと贄になるのとを比べても、大して変わりはないと思ったからだ。
「うん……アラキノでどうだろう?」
「なにが?」
唐突に良くわからない言葉を口にした魔術師に少年は思わず聞き返した。魔術師を見ようとしたが、傷がずきんと痛んでうめき声をあげた。少年の手首を縛った男に、最後の置き土産とばかりに蹴られた腹と踏まれた手足が、じくじくとした熱を持っていた。
魔術師が少年のぼさぼさの髪に触れる。その下の瘤がズキンと痛み、少年は顔を顰めて、微かに首を振ってその手を嫌がった。すると、それ以上手が伸びてくることはなかった。
「……アラキノとは、古い言葉で月という意味だよ。お前の髪はまるで月の色だから」
凪いだ湖面のように静かな声と、フードの下から感じる視線をかわすように、子供はわずかに身を捻る。
何故、今そんなことを言うのだろう。死ぬ前に古い言葉をひとつ知ったところで、何になると言うのだろう。相変わらず口元に柔らかな微笑を称えた魔術師は、立ち上がるとカンテラのついた杖を少し持ち上げた。
「アラキノツール・セラ」
かろうじて、そういう風に聞こえた。
子供は自分の耳がおかしくなったのかと思った。本当に人間が話したのかと疑いを持つほど、その言葉は聞き慣れない響きを持っていたからだ。同じように話せと言われても、どう舌を回せばいいのか見当もつかない。
ふわりと白銀の光の玉がカンテラから躍り出て、少年はさらに驚いた。精霊などあちこちにいるが、それを連れ歩く人間は初めて見たからだ。
魔術師は手を伸ばして光の玉に触れると、それを指先で愛おしそうに撫でた。
「コード ディス フォルド レリゼ」
カンテラのついた杖の先が地面をトンと突いた。
白銀の光の玉が子供の手首を縛っていた縄にとまり、一瞬で水のように沁み込む。
すると、驚いたことに、あれほどきつく結ばれていた縄が、はらりと解けた。
子供は、のそりと起き上がり、魔術師を見上げた。
「私はユーダレウス。見ての通り魔術師だ。よろしく、アラキノ」
――あれは、名を与えられたのか。
初めて見た魔術に、自由になった手足に、差し出された手に。そして、生まれて初めて名を付けられたことに。
怒涛の勢いで差し出されたものたちに、少年は呆気に取られてぽかんとするしかなかった。
ユーダレウスと名乗った魔術師がフードを脱いだ。
ありきたりな茶色の長い髪は艶やかで、水のように肩の上を流れ落ちる。月明かりに露わになったその顔は、やはり性別を感じられなかった。そして、どこかで見たような顔をしていた。
奴隷だった少年にとって、覚えている顔などほとんどないに等しい。だというのに、その顔は記憶の一番遠いところに霧のようにぼんやりと浮かんでいて、思い出したいのに思い出せないという妙に落ち着かない気分にさせた。青い瞳が優しくこちらを見ているのが尚更居た堪れない。
「我ながら、なかなか良い名付けだと思うんだけど。どうかな? ほら、一緒に暮らすなら呼ぶ為の名がいるだろう?」
子供の銀の瞳にじっと見つめられるのも気にせず、ユーダレウスはもう決まったことのような口ぶりで話を進めていく。
「さて、帰ろうか。おいで、アラキノ」
呼ばれたその名に対して返事をする前に、少年は差し出された手を掴んでいた。その手は、傷痕一つない綺麗な手だった。そして、とても温かい手だった。
魔術師は少年が手を掴むとひどく満足そうに笑った。その穏やかな表情を見た瞬間、少年は自分の視界が滲むのを感じていた。
自分は死にたくはなかったのだと、生きたかったのだと、もう少し生きられるとわかってから、ようやく思い知ったのだ。
乱暴に目をこすって涙を拭っていると、ふわりと少年の身体が浮きあがる。人の腕に抱かれていると気が付いたのは、いつもより地面が遠くて、月が近かったせいだ。
「……おろせ」
「おやおや、なんて軽さだろう。家の子になるからには、しっかり食べさせないといけないね」
何も聞いてないような顔をしたユーダレウスは、子供をあやすように少年の背中をとんとんと叩く。
少年は何度も「おろせ」と喚いたが、聞く耳どころか、そもそも耳が付いているのか疑いたくなるほど、ユーダレウスは頑なに少年を抱えて歩いた。元々弱り切っていたせいもあり、少年はすぐにぐったりと魔術師の肩に凭れかかる。
「いやあ、やっぱり良い月の晩には散歩をしてみるものだね」
腕に抱いた子供を抱え直したユーダレウスは、見事な満月を見上げると、満ち足りたようにそう零した。
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そこで待ち受けるのは数々の陰謀や危険な魔物たち。
生贄として魔物に捧げられた少年は、冒険者活動を続けながらゆるりと日常を満喫する!
※とりあえず、一時完結いたしました。
今後は、短編や別タイトルで続けていくと思いますが、今回はここまで。
その際は、ぜひ読んでいただけると幸いです。
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