2 / 7
02
しおりを挟む
「エリィ!」
機嫌よく前を歩いていた子供が唐突に振り返る。手にはお気に入りの童話の本を持って、小さな体をじれったそうに前後に揺らしている。
エリオットはため息をついて、歩く速度を少し早めた。
子供の白銀の髪が曇り空の下で鈍く光る。濃い色のついたレンズの眼鏡が、無邪気なかんばせを遮るように目元を覆っている。それは、わずかな視力しか持たない目を保護するためのものだった。
そんな風に守っていても、残ったかすかな光も大人になる頃には失われてしまう。
この子供が外出を許されるのは、陽の光が弱い曇りの日だけ。それでも長くはいられない。子供はそのわずかな時間を、目一杯に楽しもうとしているようだった。
少し駆けては立ち止まり、何かを見つけてしゃがみこみ、手で探り。そうしてエリオットのいる方を振り返ってはにっこりと笑う。子供の顔は、いつも弱視を感じさせないほど正確にエリオットの方を向いていた。
「エリィ! 早く!」
言われるまでもなくすぐに追い付いたエリオットは、子供に合わせて芝生に膝をつくと小さな手を取って側にいることを知らせた。
「ねえ、エリィ」
「ご主人様、私の名は『エリオット』です」
「じゃあいい加減、ご主人様じゃなくてマリオンと呼んで。エリィ」
マリオンは遊び相手にいたずらっぽく微笑み、エリオットは子供の意趣返しにもう一つため息をつく。
エリオットはマリオンに付き従い、ゆくゆくは介助するために存在している。二人の間にあるのは『主従』という関係である。親しく名を呼んで良いはずがない。
マリオンとてそれは知っているが、マリオンには遊びや話しの相手をしてくれるのは彼しかいないのだ。友人や知り合いと呼べる相手すらいないから、どうしても傍に居てくれる彼に友人のように気安い対応を求めてしまうのだ。
マリオンは昼間に屋外で開かれる催しにはまず出られない。目を侵す病がそれを許さない。
屋内で催されるものも、姉たちに「あんなものにあなたの大事な時間を使う必要はないのよ」と甘く優しい言葉をかけられて欠席を許されていた。
優しげな言葉の裏で彼女たちは、普通とは違う身内を隠したいと思っているのだとマリオンはよく理解していた。
――理解した上で、これ幸いとばかりにありとあらゆる催しをすっぽかしていた。
そうして人とほとんど関わらずに生きてきたせいか、マリオンは酷い人見知りだ。場合によっては本格的に体調を崩す。
親族とその友人、知人をほんの数人よんだだけの、ささやかな自分の誕生日パーティーですら、終わったその日の晩には熱を出すのだから。
祖父がマリオンにエリオットを与えたのは、介助の為だけではなく、ほんの少しであっても人との交流を絶たぬようにとのお節介であった。
マリオンとて人の子だ。友人がいたらどんなだろうかと想像を膨らませることはある。しかしそれ以上に、エリオットを独り占めできなくなることを恐れていた。
「エリオットは美しい」
皆がうっとりとした声でそう言うのを、何度聞いたか知れない。友達とやらもきっと、エリオットを欲しがるだろう。手に入らないのなら束の間だけでもと、マリオンを放ってでもエリオットに自分の相手をさせようとするだろう。エリオットはきっと相手をするだろう。何故なら彼が持つ身分は『従者』だから。余程でない限り、断ることはできないはずだ。
幼い独占欲は、それを受け入れられないのだ。
マリオンは触れているエリオットの手をぎゅっと握り返す。
普通の従者とは違って手袋をしない彼の手は、ビスク・ドールのようにひやりと冷たかった。
「……ねえ、エリィ。ずっと私の側にいてくれる?」
「それが僕の役目です」
どこか機械じみた返事に、マリオンは思わずエリオットから手を離し、首から下げた懐中時計を握った。
この懐中時計は、蓋を開くと針を触って時刻を確認できる代物で、定刻になるとオルゴールが鳴る仕掛けもある。機械人形同様、祖父がマリオンの為に作ったお守りだった。
懐中時計が夕方を告げるオルゴールを鳴らす。それに背中を押されたのか、意を決したような顔つきのマリオンが顔を上げる。
夕空と同じ色の瞳がエリオットをまっすぐに射貫いた。
「――……エリィ、お願い。仕事じゃなくても、役目じゃなくても、私の側にいて」
そう言って、エリオットの手を握る手は、小さく震えて冷え切っていた。
エリオットは驚きに目を見開く。
どうやら、この子供はエリオットをエリオットとして必要としているらしい。
優れた性能の機械ではなく。美しい容姿の人形ではなく。ただ側にいるだけの存在として、自分を望んでいる。
その幼くも澄んだ思いがエリオットの心をくすぐった。
「……僕は、ずっとあなたの側にいます。何があろうとも」
自分には、こんなに柔らかな声が出せたのか。
エリオットは自分についての新たな発見に喉が震えるのを感じた。
涙で潤んだマリオンの瞳が歓喜を映して輝いていた。まるで白い可憐な花が咲くように、幼い頬に笑みが広がっていく。
これほど嬉しそうに笑うマリオンを、エリオットは初めて見た。
胸の中心がやけに温かい。けれど、不快ではない。もちろん、故障でもない。
これは何だろうか。エリオットは首をかしげる。存在しないはずの心臓が高鳴り、胸元が温かなものに満たされていく。
エリオットはマリオンが汚れた手で目元を拭おうとするのをそっと制止して、代わりにハンカチを出して眼鏡の向こうの目元を拭う。いるうちに気が付いた。
ああ、なるほど、そうか。自分にも『心』というものがあって、きっと、それはさっきまでがらんどうだったのだ。
マリオンの瞳にエリオットが映る。
この、美しい夕陽色の瞳が完全な夜の色となった時、その目は完全に光を失う。マリオンが侵されているのは、そういう病だった。
いずれそうなった時も、エリオットはきっとこの主の側にいるだろう。
誰かに与えられた役目だからではない。エリオット自身がそうしたいと、今この時に、心の底から望んだからだ。
「ねえ、エリィ。この本を読んで?」
手渡された大ぶりな本を受け取る。もう二人共諳んじられるほどに繰り返し読んだ童話だ。
「もちろんです……マリオン様」
それを聴いた小さな白い花は、再び幸せそうに綻んだ。
機嫌よく前を歩いていた子供が唐突に振り返る。手にはお気に入りの童話の本を持って、小さな体をじれったそうに前後に揺らしている。
エリオットはため息をついて、歩く速度を少し早めた。
子供の白銀の髪が曇り空の下で鈍く光る。濃い色のついたレンズの眼鏡が、無邪気なかんばせを遮るように目元を覆っている。それは、わずかな視力しか持たない目を保護するためのものだった。
そんな風に守っていても、残ったかすかな光も大人になる頃には失われてしまう。
この子供が外出を許されるのは、陽の光が弱い曇りの日だけ。それでも長くはいられない。子供はそのわずかな時間を、目一杯に楽しもうとしているようだった。
少し駆けては立ち止まり、何かを見つけてしゃがみこみ、手で探り。そうしてエリオットのいる方を振り返ってはにっこりと笑う。子供の顔は、いつも弱視を感じさせないほど正確にエリオットの方を向いていた。
「エリィ! 早く!」
言われるまでもなくすぐに追い付いたエリオットは、子供に合わせて芝生に膝をつくと小さな手を取って側にいることを知らせた。
「ねえ、エリィ」
「ご主人様、私の名は『エリオット』です」
「じゃあいい加減、ご主人様じゃなくてマリオンと呼んで。エリィ」
マリオンは遊び相手にいたずらっぽく微笑み、エリオットは子供の意趣返しにもう一つため息をつく。
エリオットはマリオンに付き従い、ゆくゆくは介助するために存在している。二人の間にあるのは『主従』という関係である。親しく名を呼んで良いはずがない。
マリオンとてそれは知っているが、マリオンには遊びや話しの相手をしてくれるのは彼しかいないのだ。友人や知り合いと呼べる相手すらいないから、どうしても傍に居てくれる彼に友人のように気安い対応を求めてしまうのだ。
マリオンは昼間に屋外で開かれる催しにはまず出られない。目を侵す病がそれを許さない。
屋内で催されるものも、姉たちに「あんなものにあなたの大事な時間を使う必要はないのよ」と甘く優しい言葉をかけられて欠席を許されていた。
優しげな言葉の裏で彼女たちは、普通とは違う身内を隠したいと思っているのだとマリオンはよく理解していた。
――理解した上で、これ幸いとばかりにありとあらゆる催しをすっぽかしていた。
そうして人とほとんど関わらずに生きてきたせいか、マリオンは酷い人見知りだ。場合によっては本格的に体調を崩す。
親族とその友人、知人をほんの数人よんだだけの、ささやかな自分の誕生日パーティーですら、終わったその日の晩には熱を出すのだから。
祖父がマリオンにエリオットを与えたのは、介助の為だけではなく、ほんの少しであっても人との交流を絶たぬようにとのお節介であった。
マリオンとて人の子だ。友人がいたらどんなだろうかと想像を膨らませることはある。しかしそれ以上に、エリオットを独り占めできなくなることを恐れていた。
「エリオットは美しい」
皆がうっとりとした声でそう言うのを、何度聞いたか知れない。友達とやらもきっと、エリオットを欲しがるだろう。手に入らないのなら束の間だけでもと、マリオンを放ってでもエリオットに自分の相手をさせようとするだろう。エリオットはきっと相手をするだろう。何故なら彼が持つ身分は『従者』だから。余程でない限り、断ることはできないはずだ。
幼い独占欲は、それを受け入れられないのだ。
マリオンは触れているエリオットの手をぎゅっと握り返す。
普通の従者とは違って手袋をしない彼の手は、ビスク・ドールのようにひやりと冷たかった。
「……ねえ、エリィ。ずっと私の側にいてくれる?」
「それが僕の役目です」
どこか機械じみた返事に、マリオンは思わずエリオットから手を離し、首から下げた懐中時計を握った。
この懐中時計は、蓋を開くと針を触って時刻を確認できる代物で、定刻になるとオルゴールが鳴る仕掛けもある。機械人形同様、祖父がマリオンの為に作ったお守りだった。
懐中時計が夕方を告げるオルゴールを鳴らす。それに背中を押されたのか、意を決したような顔つきのマリオンが顔を上げる。
夕空と同じ色の瞳がエリオットをまっすぐに射貫いた。
「――……エリィ、お願い。仕事じゃなくても、役目じゃなくても、私の側にいて」
そう言って、エリオットの手を握る手は、小さく震えて冷え切っていた。
エリオットは驚きに目を見開く。
どうやら、この子供はエリオットをエリオットとして必要としているらしい。
優れた性能の機械ではなく。美しい容姿の人形ではなく。ただ側にいるだけの存在として、自分を望んでいる。
その幼くも澄んだ思いがエリオットの心をくすぐった。
「……僕は、ずっとあなたの側にいます。何があろうとも」
自分には、こんなに柔らかな声が出せたのか。
エリオットは自分についての新たな発見に喉が震えるのを感じた。
涙で潤んだマリオンの瞳が歓喜を映して輝いていた。まるで白い可憐な花が咲くように、幼い頬に笑みが広がっていく。
これほど嬉しそうに笑うマリオンを、エリオットは初めて見た。
胸の中心がやけに温かい。けれど、不快ではない。もちろん、故障でもない。
これは何だろうか。エリオットは首をかしげる。存在しないはずの心臓が高鳴り、胸元が温かなものに満たされていく。
エリオットはマリオンが汚れた手で目元を拭おうとするのをそっと制止して、代わりにハンカチを出して眼鏡の向こうの目元を拭う。いるうちに気が付いた。
ああ、なるほど、そうか。自分にも『心』というものがあって、きっと、それはさっきまでがらんどうだったのだ。
マリオンの瞳にエリオットが映る。
この、美しい夕陽色の瞳が完全な夜の色となった時、その目は完全に光を失う。マリオンが侵されているのは、そういう病だった。
いずれそうなった時も、エリオットはきっとこの主の側にいるだろう。
誰かに与えられた役目だからではない。エリオット自身がそうしたいと、今この時に、心の底から望んだからだ。
「ねえ、エリィ。この本を読んで?」
手渡された大ぶりな本を受け取る。もう二人共諳んじられるほどに繰り返し読んだ童話だ。
「もちろんです……マリオン様」
それを聴いた小さな白い花は、再び幸せそうに綻んだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
旦那様の愛が重い
おきょう
恋愛
マリーナの旦那様は愛情表現がはげしい。
毎朝毎晩「愛してる」と耳元でささやき、隣にいれば腰を抱き寄せてくる。
他人は大切にされていて羨ましいと言うけれど、マリーナには怖いばかり。
甘いばかりの言葉も、優しい視線も、どうにも嘘くさいと思ってしまう。
本心の分からない人の心を、一体どうやって信じればいいのだろう。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました
らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。
そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。
しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような…
完結決定済み
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる