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時は流れ。マリオンは十六の年を迎えていた。
夕暮れの中を馬車に揺られながら、エリオットはいつになく着飾った主をちらりと見やる。マリオンは屋敷を出発したときと変わらず、浮かない顔で俯いていた。
「初めての夜会ですね」
「そうだね……」
「お加減はいかがですか」
あまり良いとはいえなさそうだ。答えを待たず、主の観察を終えたエリオットは心の内で結論を出した。
声に反応して、マリオンの瞳がエリオットを見た。
その瞳の色は、もうほとんど夜になりかけていた。言うなれば、黄昏時の、金色から藍へと向かう空の色だ。美しくも、光を失いかけているその瞳は、愁いを帯びていても澄んでいた。
マリオンはとうとう、この日まで社交の場にほとんど出ずに、エリオットと家族、慣れている使用人、そして膨大な数の本と共に過ごした。
病の進行を遅くするには、目に刺激を与えずに安静にしているのが一番だ。ありとあらゆる催しを欠席するためのこの建前も、じきに使えなくなるだろう。
マリオンの瞳は、日を追うごとに光による刺激とは関係のない闇の世界へと向かっていた。幼い頃はエリオットの姿も幾らか見えていたが、今やもう、明るいか暗いかの判別しかできない。
完全に闇一色になれば、もう「光が目に悪いから」などという言い訳は通用しない、今のうちから夜会に慣れておいて損はない。そんな風にマリオンの両親は言ったが、エリオットはその考えにはあまり賛同できなかった。
二人いたマリオンの姉たちは、二人共首尾よく嫁ぎ先を見つけて家を出た。どちらもそれなりの家名と財産を持った若者だった。
残ったのはマリオンだけだ。ゆくゆくは盲目となることがわかっていては、家を継がせることなどできはしない。しかし、子供がいつまでたっても屋敷にいるのでは、外聞が悪い。
彼らは屋敷に引きこもるマリオンを何とかせねばと焦っているのだ。
けれど、マリオン自身が夜会に出ると言ったのだ。あの酷い人見知りのマリオンが。
そうとなれば、エリオットにできるのはその手助けだけだ。
エリオットは夜会でマリオンが着る衣装の一式を全て手ずから拵えた。マリオンは人見知りで体調を崩す。普段着ならいざ知らず、夜会の衣装となると職人とただ一度会っただけでは仕上がらない。マリオンと他人との接触を少しでも減らせるのならと、全てエリオットが請け負った。
しかし、ダンスはそうもいかなかった。
エリオットにもダンスは教えられる。見えなくとも、完璧に正しいステップへと導けるだろう。
しかし、マリオンがエリオットがやるような扱いに慣れてしまったら困るのだ。夜会の当日に踊る相手は、確実にエリオットではないのだから。
そのことを思うと、エリオットの心臓部では不愉快な動きがあった。もちろん、故障ではなかった。
エリオットは断腸の思いでダンスの家庭教師と何人も面談し、選りすぐりの人物を選び抜いた。
何が起きるかはわからない以上、万全とは言いがたいが、やれるだけのことはやった。あとは、緊張しきっている主を何とか解きほぐすことだけだ。
「ご安心ください。先方も目のことはご存知です」
今宵の夜会の主催者はマリオンの病にも理解のある人で、何かあれば気兼ねなく言うようにと気遣ってくれていた。マリオンを社交界に慣らすにはもってこいの場だ。
もってこいだと言うのに躊躇ってしまう自分に、エリオットは気が付いていた。どうしても、今宵の主の姿を衆目に晒すことを惜しいと思ってしまうのだ。
エリオットの瞳が主の姿を言葉通り頭の先からつま先まで走る。
藍色の光沢のない生地が白銀の髪によく似合っていた。衣装は流行りの型は足元があまり機能的には見えなかったので避けた。流行遅れと笑われるのは遺憾なので、エリオットが新たに考案したものだ。
次のシーズンにはこれと同じ型が流行っていることだろう。それほどマリオンが身に纏っているそれはマリオン自身を魅力的に見せていた。
――実際は、マリオン自身が美しいだけなのだが。
ふとそんなことを思って、自分は随分と従者馬鹿になったものだと不躾にならない程度に微笑んだ。
マリオンは、相変わらず両手をきつく組んで、可哀想なほどに震えている。
まだ会場に着いてもいないのにこの有り様では先が思いやられる。馬車から降りた瞬間に、ふっと気を失ってしまうのではないだろうか。
段々と心配が膨らんできたエリオットは、マリオンの膝にそっと触れる。
「引き返しましょう。欠席の連絡を――」
「良い! 大丈夫だから」
いつになく気負った様子で声を張り上げるマリオンを、エリオットは注意深く見る。
「何故、それほど今日の夜会にこだわるのです?」
「……踊ってみたい人がいるんだ。多分、今日しか許されない」
あっさりと口を割ったマリオンの言葉に、エリオットの胸が不快にざわめいた。
「……マリオン様。ダンスはお控えになった方が懸命です。先生との練習ではお上手でしたが、慣れぬ相手では勝手が違いましょう」
――醜い。
エリオットは自らの選択をそう断ずる。
主の身を案じるふりをしながら、その実、自らのためにマリオンの小さな望みを訳知り顔で潰そうとしている。身の程を知らぬ愚かな行為は、なんと冷たく醜いことか。
マリオンは諦めきれないような表情で、唇を噛み、こちらを見つめていた。見えているわけではないとわかっているはずなのに、エリオットはその視線から逃げるように顔をそむけた。
「ねえ、エリィ。夜会の間も側にいてくれる?」
「はい。あなた様に危険が及ばぬよう、お側に」
――けれど、知らない人間と踊るあなたを見ているのは嫌です。
エリオットは口をついて出そうになった本音を危うく飲み込んだ。
「……きっと、みんなに注目されるよね。エリィはとても綺麗だから」
わざと話題を逸らしたマリオンは、緊張を滲ませながらも、気丈に微笑んだ。幼い頃から変わらない、純粋で愛らしい笑みに、エリオットの胸がチクリと痛んだ。
「……あなた様の美しさには、及びません」
口に出してから、従者として行き過ぎた発言だったと気がついた――否、口に出す前からエリオットにはわかっていた。それでも言わねば気が済まなかった。
マリオンは美しい。長年傍に居た従者の欲目などほとんど関係がない。誰が見たとしても同じ感想を抱くことだろう。
きらめく白銀の髪。絹のように白く艶やかな肌。病に侵されていく瞳すら、その美しさを引き立たせる飾りでしかない。
容姿もさることながら、その心根の純粋さはまるで聖なる人のようで。
マリオンと交流を持ったことのある数少ない人間は皆、マリオンの容姿だけではなく、その心の方にも惹かれていたのは明白だった。
それでも、マリオンの目の病はかなりの障壁となるようで「盲目でさえなければ」と口惜しそうに零した者たちに、エリオットは何度、人知れず拳を握ったことか。
マリオンの美しさの前では、病のことなど些事である。何故わからないのか。いや、わからなくていい。誰にも知られず、このまま、自分だけが――……
「ねえ、エリィ」
「はい、何でしょう、マリオン様」
主の呼びかけに、エリオットは弾かれるように顔を上げた。
――自分は今、何を考えようとしたのか。
名を知らぬ感情の気配に怖気づく心を叱咤して、エリオットは何事もなかったかのように背筋を伸ばす。
懐中時計の蓋の細工を指先でなぞっていたマリオンが、小さな声で呟いた。
「……ダンスの、ことなんだけど」
またしてもエリオットの胸の内が不愉快に捩れる。膝の上の手が無意識に拳を形作った。それに気が付いているのかいないのか、マリオンは話し続ける。
「目の見えない私を導いて踊れる程、上手な人はいないだろうね」
聞き分けの良いマリオンの言葉に、嵐だったエリオットの心が凪いでゆく。
「けど……けど、エリィなら、できるでしょう?」
躊躇って、絞り出すような声で呟かれたそれが、凪いで行く途中にあったエリオットの胸中を再び騒がせた。
「エリィ、お願い。私は君と踊りたい」
マリオンの華奢な手がエリオットのそれに伸びてくる。手探るようにして触れるその手は、緊張のせいか哀れな程に冷たく震えていた。
エリオットはその手を迷わず握り返す。黄昏色の瞳が歓喜に揺れ、白い花が綻んだ。
それを目の当たりにした瞬間、エリオットは胸の内で蠢いていたその感情の名前を知った。
夕暮れの中を馬車に揺られながら、エリオットはいつになく着飾った主をちらりと見やる。マリオンは屋敷を出発したときと変わらず、浮かない顔で俯いていた。
「初めての夜会ですね」
「そうだね……」
「お加減はいかがですか」
あまり良いとはいえなさそうだ。答えを待たず、主の観察を終えたエリオットは心の内で結論を出した。
声に反応して、マリオンの瞳がエリオットを見た。
その瞳の色は、もうほとんど夜になりかけていた。言うなれば、黄昏時の、金色から藍へと向かう空の色だ。美しくも、光を失いかけているその瞳は、愁いを帯びていても澄んでいた。
マリオンはとうとう、この日まで社交の場にほとんど出ずに、エリオットと家族、慣れている使用人、そして膨大な数の本と共に過ごした。
病の進行を遅くするには、目に刺激を与えずに安静にしているのが一番だ。ありとあらゆる催しを欠席するためのこの建前も、じきに使えなくなるだろう。
マリオンの瞳は、日を追うごとに光による刺激とは関係のない闇の世界へと向かっていた。幼い頃はエリオットの姿も幾らか見えていたが、今やもう、明るいか暗いかの判別しかできない。
完全に闇一色になれば、もう「光が目に悪いから」などという言い訳は通用しない、今のうちから夜会に慣れておいて損はない。そんな風にマリオンの両親は言ったが、エリオットはその考えにはあまり賛同できなかった。
二人いたマリオンの姉たちは、二人共首尾よく嫁ぎ先を見つけて家を出た。どちらもそれなりの家名と財産を持った若者だった。
残ったのはマリオンだけだ。ゆくゆくは盲目となることがわかっていては、家を継がせることなどできはしない。しかし、子供がいつまでたっても屋敷にいるのでは、外聞が悪い。
彼らは屋敷に引きこもるマリオンを何とかせねばと焦っているのだ。
けれど、マリオン自身が夜会に出ると言ったのだ。あの酷い人見知りのマリオンが。
そうとなれば、エリオットにできるのはその手助けだけだ。
エリオットは夜会でマリオンが着る衣装の一式を全て手ずから拵えた。マリオンは人見知りで体調を崩す。普段着ならいざ知らず、夜会の衣装となると職人とただ一度会っただけでは仕上がらない。マリオンと他人との接触を少しでも減らせるのならと、全てエリオットが請け負った。
しかし、ダンスはそうもいかなかった。
エリオットにもダンスは教えられる。見えなくとも、完璧に正しいステップへと導けるだろう。
しかし、マリオンがエリオットがやるような扱いに慣れてしまったら困るのだ。夜会の当日に踊る相手は、確実にエリオットではないのだから。
そのことを思うと、エリオットの心臓部では不愉快な動きがあった。もちろん、故障ではなかった。
エリオットは断腸の思いでダンスの家庭教師と何人も面談し、選りすぐりの人物を選び抜いた。
何が起きるかはわからない以上、万全とは言いがたいが、やれるだけのことはやった。あとは、緊張しきっている主を何とか解きほぐすことだけだ。
「ご安心ください。先方も目のことはご存知です」
今宵の夜会の主催者はマリオンの病にも理解のある人で、何かあれば気兼ねなく言うようにと気遣ってくれていた。マリオンを社交界に慣らすにはもってこいの場だ。
もってこいだと言うのに躊躇ってしまう自分に、エリオットは気が付いていた。どうしても、今宵の主の姿を衆目に晒すことを惜しいと思ってしまうのだ。
エリオットの瞳が主の姿を言葉通り頭の先からつま先まで走る。
藍色の光沢のない生地が白銀の髪によく似合っていた。衣装は流行りの型は足元があまり機能的には見えなかったので避けた。流行遅れと笑われるのは遺憾なので、エリオットが新たに考案したものだ。
次のシーズンにはこれと同じ型が流行っていることだろう。それほどマリオンが身に纏っているそれはマリオン自身を魅力的に見せていた。
――実際は、マリオン自身が美しいだけなのだが。
ふとそんなことを思って、自分は随分と従者馬鹿になったものだと不躾にならない程度に微笑んだ。
マリオンは、相変わらず両手をきつく組んで、可哀想なほどに震えている。
まだ会場に着いてもいないのにこの有り様では先が思いやられる。馬車から降りた瞬間に、ふっと気を失ってしまうのではないだろうか。
段々と心配が膨らんできたエリオットは、マリオンの膝にそっと触れる。
「引き返しましょう。欠席の連絡を――」
「良い! 大丈夫だから」
いつになく気負った様子で声を張り上げるマリオンを、エリオットは注意深く見る。
「何故、それほど今日の夜会にこだわるのです?」
「……踊ってみたい人がいるんだ。多分、今日しか許されない」
あっさりと口を割ったマリオンの言葉に、エリオットの胸が不快にざわめいた。
「……マリオン様。ダンスはお控えになった方が懸命です。先生との練習ではお上手でしたが、慣れぬ相手では勝手が違いましょう」
――醜い。
エリオットは自らの選択をそう断ずる。
主の身を案じるふりをしながら、その実、自らのためにマリオンの小さな望みを訳知り顔で潰そうとしている。身の程を知らぬ愚かな行為は、なんと冷たく醜いことか。
マリオンは諦めきれないような表情で、唇を噛み、こちらを見つめていた。見えているわけではないとわかっているはずなのに、エリオットはその視線から逃げるように顔をそむけた。
「ねえ、エリィ。夜会の間も側にいてくれる?」
「はい。あなた様に危険が及ばぬよう、お側に」
――けれど、知らない人間と踊るあなたを見ているのは嫌です。
エリオットは口をついて出そうになった本音を危うく飲み込んだ。
「……きっと、みんなに注目されるよね。エリィはとても綺麗だから」
わざと話題を逸らしたマリオンは、緊張を滲ませながらも、気丈に微笑んだ。幼い頃から変わらない、純粋で愛らしい笑みに、エリオットの胸がチクリと痛んだ。
「……あなた様の美しさには、及びません」
口に出してから、従者として行き過ぎた発言だったと気がついた――否、口に出す前からエリオットにはわかっていた。それでも言わねば気が済まなかった。
マリオンは美しい。長年傍に居た従者の欲目などほとんど関係がない。誰が見たとしても同じ感想を抱くことだろう。
きらめく白銀の髪。絹のように白く艶やかな肌。病に侵されていく瞳すら、その美しさを引き立たせる飾りでしかない。
容姿もさることながら、その心根の純粋さはまるで聖なる人のようで。
マリオンと交流を持ったことのある数少ない人間は皆、マリオンの容姿だけではなく、その心の方にも惹かれていたのは明白だった。
それでも、マリオンの目の病はかなりの障壁となるようで「盲目でさえなければ」と口惜しそうに零した者たちに、エリオットは何度、人知れず拳を握ったことか。
マリオンの美しさの前では、病のことなど些事である。何故わからないのか。いや、わからなくていい。誰にも知られず、このまま、自分だけが――……
「ねえ、エリィ」
「はい、何でしょう、マリオン様」
主の呼びかけに、エリオットは弾かれるように顔を上げた。
――自分は今、何を考えようとしたのか。
名を知らぬ感情の気配に怖気づく心を叱咤して、エリオットは何事もなかったかのように背筋を伸ばす。
懐中時計の蓋の細工を指先でなぞっていたマリオンが、小さな声で呟いた。
「……ダンスの、ことなんだけど」
またしてもエリオットの胸の内が不愉快に捩れる。膝の上の手が無意識に拳を形作った。それに気が付いているのかいないのか、マリオンは話し続ける。
「目の見えない私を導いて踊れる程、上手な人はいないだろうね」
聞き分けの良いマリオンの言葉に、嵐だったエリオットの心が凪いでゆく。
「けど……けど、エリィなら、できるでしょう?」
躊躇って、絞り出すような声で呟かれたそれが、凪いで行く途中にあったエリオットの胸中を再び騒がせた。
「エリィ、お願い。私は君と踊りたい」
マリオンの華奢な手がエリオットのそれに伸びてくる。手探るようにして触れるその手は、緊張のせいか哀れな程に冷たく震えていた。
エリオットはその手を迷わず握り返す。黄昏色の瞳が歓喜に揺れ、白い花が綻んだ。
それを目の当たりにした瞬間、エリオットは胸の内で蠢いていたその感情の名前を知った。
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