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仲間の手柄

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『これは、いかぬ!』

 氷垂つららが何をするつもりなのかを源三郎が覚ったのは、まさしく「その直前」であって、彼にできた準備と言えば、両手で両耳を押さえることだけだった。

 直後、源三郎の予想通りに、氷垂つらら法螺貝ほらがいかまえ、胸に大きく吸った息を勢いよく吹き込んだ。

 空が割れるような大きな音が鳴った。
 繋いであった源三郎の騎馬が竿立さおだちになっていなないた。馬丁の水出太蔵が息を引いて立ちすくむ。
 典座てんざの僧侶達は慌てふためいておけかめをひっくり返し、足軽たちが寺の宿坊しゅぼうの中で身を伏せた。
 程なく音が止んだ。
 皆がそれぞれに顔を上げ、頭をもたげたとき、同じ轟音がもう一回鳴った。
 馬が暴れ、太蔵は腰を抜かし、僧侶達がしゃがみ込み、足軽達は頭を地に伏して、源三郎が苦笑いする。
 法螺貝の音は、周囲の山々に山彦やまびことなって響き、次第に小さく遠く変化してゆく。

 氷垂つららは法螺貝を口元から外した。左の耳を覆っていた布を持ち上げて、手を耳朶みみたぶの後ろにあてがう。
 細々とした法螺貝ほらがいの音が、はるか遠くから帰ってきた。
 聞き取った氷垂つららが満足げにうなずく。

連絡つなぎが付きましたよ」

 源三郎の耳の中にはまだ氷垂つららの吹いた法螺の音の余韻よいんが、うわぁんと響き残っている。
 頭を振るってそれをかき消すと、源三郎は己の耳のからあごのあたりをなでつつ、

「それで、五助は何と言っているのだね?」

 そう言った自分の声が、源三郎には「己の口から出たとは思えない遠さ」を持って聞こえた。
 それを見て取った氷垂つららは、源三郎のかたわらに寄った。精一杯の背伸びをする氷垂つららに、源三郎はごく自然に長身をかしげて彼女の口元に耳を寄せた。氷垂つららは口の横に手を添えて、

「明日の明け六つの一点日の出の30分ほど前

 大声でも小声でもない、普段通りの大きさの声で言った。

「その時刻に……?」

爺様とっつぁまは『抜け出す』そうです」

「攻め込むのなら、その後で……か」

「攻め落とされますので? 籠もっているのは全員が痩せたお百姓だそうですよ」

「……今の一吹きでそこまで解るものか?」

「まさかぁ」

 氷垂は左のてのひらをヒラヒラと振り、

爺様とっつぁまは、毎日毎晩、法螺を吹いていたんですよ。それから狼煙のろしも毎日。
 若様達には聞こえも見えもしなかった……いえ、聞こえ見えたとしても、何を伝えているのかの分別がつかなかったでしょうけども、はそれをちゃんと聞き分けて見分けてておりました」

 忍者くさたちのしたことを、まるで自分のの手柄かのように言い、胸を張った。

「だがそこまで詳しいことを、今までお前は私に教えてくれなんだ」

 子供のように口を尖らせて見せる源三郎に、

「だって、若様は子檀嶺こまゆみ城の事をそれほどはお尋ねにならなかったじゃないですか。
 訊かれぬ事は申し上げませんよ」

 氷垂つららも同じように口を尖らせて返した。
 源三郎は笑った。

「まあ、お前がそれをわきまえていてくれたのだから良いとしよう。お前が知っているということは、私が知っているのと同じことだ。お陰で私はいつも命拾いしている」

 そう言われた氷垂つららが嬉しげに微笑むのを見ると、源三郎は曲げていた身体を伸ばした。
 そして先ほど氷垂つららが山伏に化けた五助老からの返事の法螺の音を聞き取ろうとしたときと同じように、左手を左耳の後ろへ付けた。

「早馬か」

 ぽつりとつぶやく。

「はえ?」

 氷垂は夫が見ている方へ目を向けた。山門の向こうからこちらへ向かって早駆けしてくる馬のひづめの音が聞こえる。
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