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公女クレールの夢
明晰夢
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「これは、夢だ」
公女クレール・ハーンは「自分の寝室」の小さなベッドの上で確信していた。
春の終わりの、穏やかな朝だった。
大きな窓から陽の光が天蓋のレースを透かして、編み模様の形で彼女の頬の上に影を落とす。
薄い絹の寝間着も、柔らかな羽根枕も、軽い肌掛けも、確かに「日頃使い慣れたもの」だった。吸い込む空気に古い書物のような甘い香りがするのもまたしかり。
「でも、違う」
姫君はベッドから飛び降りた。素足のまま硬い絨毯の上を駆け、ドアを開け放ち、廊下に出る。
隣室は侍女侍従たちの控えの間だ。ドアノブに手をかけ、引く。
開かれた空間は薄暗い。物音も人の気配もしない。
静かだった。
公女は身震いした。
瞼を固く閉ざすと、頭を振る。たった今見た冷え切った闇を脳漿から追い出したい。
細い自身の身体を抱きしめ、後ずさる。
大きく一息つくと眼を開き、しかし己が身体は固く抱いたまま、彼女は再び駆け出した。
大理石の床に素足の触れるひたひたという音が彼女の耳に聞こえた。
それ以外には、人の声も、衣擦れもの音も、日々の営みの気配も、空気の揺れさえも聞こえない。
しかし頭の奥では、侍女達の田舎娘らしい笑い声や、生真面目な侍従たちの挨拶、そして家臣達の声が、懐かしさを帯びて響いている。
公女は今一度頭を振った。
「違う。コレは夢。コレは幻。見えない、聞こえない。違う……違う」
頭の奥の声をかき消す為、彼女はつぶやき続け、ひたすらに駆けた。
いつしか彼女の無意識の足は、彼女を大広間へと運んでいた。
山奥の小城の「大広間」は、国会議事堂と謁見室とダンスホールを兼ねた、小さく地味な空間だった。
部屋の南側は一面が窓だ。
大きな窓は小振りな木枠で細かく仕切られ、その几帳面な四角の総てに板ガラスがはめ込まれている。
職人が丁寧に作ったガラスの板の表面には、味わい深い歪みがある。そこを通り抜ける日差しは柔らかく揺れ、室内はまぶしいほどに明るい。
クレール姫は広間をぐるりと見渡した。
窓の向かい、北側の壁には、大きな肖像画が掲げられている。
地位を奪われ都を追われた老齢の大公と、地位を奪い都を追った新帝の命で嫁いできた年若い妻。
いきさつは不幸であったかもしれないが、だからといってこの夫婦が不幸であったわけではない。
現にこの夫婦の肖像は、幸せを顔料に混ぜ込んであるとしか思えない、美しく荘厳で暖かい色合いで描かれていた。
――だが、公女の瞳にはそれが霧の彼方にあるがごとく霞んでいた。
両親を描いた肖像画であるのに、その両親の顔がぼやけて見える。暖色を基調にした色合いに、むしろ底冷えのする冷たさを覚えた。
恐怖。
「恐ろしい」
クレール・イールダベール・デュ・ハーン・ド・パンセス・ミッドは、冷たい腕で自分自身を抱きしめた。
歯の根が合わない。震えをこらえようと、紫色の唇を噛む。
頬に熱いものが流れる。涙はあふれることをやめない。彼女は顔を伏せた。
にじんだ視界に赤い絨毯の上の白く頼りない足先が見えた。靴も靴下も履いていないその足先だけが、やけに現実味を帯びて存在している。
クレールは桜色の爪をじっと見つめた。それ以外の、現実感のない、作り物のような空間が、ゆっくりと闇の中に消えてゆく。
その闇から、猛烈な腐敗臭が立ち上った。
悪臭は、破れた皮膚と溶けた肉をまとった無数の骸から発せられていた。
闇から生じ、蛆とぼろ布に覆われたその死骸達は、下手な人形遣いに操られているがごとく不自然に蠢いている。
腐敗ガスを呼吸し、腐汁を滴らせながら、それらはクレール姫の足下に群がり来る。
身の毛のよだつ様、とはこのことであろう。事実、クレールは震えていた。
「コレは、夢だ。質の悪い、嫌な夢」
つぶやく彼女は、恐怖していなかった。
震えていた青紫の唇に、ほんのりと赤みが差す。
「嫌な夢。夢の中でまで、こいつ等の相手をしなければならないなどとは」
頬には幽かな笑みが浮かび、翡翠色の瞳が輝く。
己を抱いていた腕を解き放つと、彼女は天を仰いだ。
公女クレール・ハーンは「自分の寝室」の小さなベッドの上で確信していた。
春の終わりの、穏やかな朝だった。
大きな窓から陽の光が天蓋のレースを透かして、編み模様の形で彼女の頬の上に影を落とす。
薄い絹の寝間着も、柔らかな羽根枕も、軽い肌掛けも、確かに「日頃使い慣れたもの」だった。吸い込む空気に古い書物のような甘い香りがするのもまたしかり。
「でも、違う」
姫君はベッドから飛び降りた。素足のまま硬い絨毯の上を駆け、ドアを開け放ち、廊下に出る。
隣室は侍女侍従たちの控えの間だ。ドアノブに手をかけ、引く。
開かれた空間は薄暗い。物音も人の気配もしない。
静かだった。
公女は身震いした。
瞼を固く閉ざすと、頭を振る。たった今見た冷え切った闇を脳漿から追い出したい。
細い自身の身体を抱きしめ、後ずさる。
大きく一息つくと眼を開き、しかし己が身体は固く抱いたまま、彼女は再び駆け出した。
大理石の床に素足の触れるひたひたという音が彼女の耳に聞こえた。
それ以外には、人の声も、衣擦れもの音も、日々の営みの気配も、空気の揺れさえも聞こえない。
しかし頭の奥では、侍女達の田舎娘らしい笑い声や、生真面目な侍従たちの挨拶、そして家臣達の声が、懐かしさを帯びて響いている。
公女は今一度頭を振った。
「違う。コレは夢。コレは幻。見えない、聞こえない。違う……違う」
頭の奥の声をかき消す為、彼女はつぶやき続け、ひたすらに駆けた。
いつしか彼女の無意識の足は、彼女を大広間へと運んでいた。
山奥の小城の「大広間」は、国会議事堂と謁見室とダンスホールを兼ねた、小さく地味な空間だった。
部屋の南側は一面が窓だ。
大きな窓は小振りな木枠で細かく仕切られ、その几帳面な四角の総てに板ガラスがはめ込まれている。
職人が丁寧に作ったガラスの板の表面には、味わい深い歪みがある。そこを通り抜ける日差しは柔らかく揺れ、室内はまぶしいほどに明るい。
クレール姫は広間をぐるりと見渡した。
窓の向かい、北側の壁には、大きな肖像画が掲げられている。
地位を奪われ都を追われた老齢の大公と、地位を奪い都を追った新帝の命で嫁いできた年若い妻。
いきさつは不幸であったかもしれないが、だからといってこの夫婦が不幸であったわけではない。
現にこの夫婦の肖像は、幸せを顔料に混ぜ込んであるとしか思えない、美しく荘厳で暖かい色合いで描かれていた。
――だが、公女の瞳にはそれが霧の彼方にあるがごとく霞んでいた。
両親を描いた肖像画であるのに、その両親の顔がぼやけて見える。暖色を基調にした色合いに、むしろ底冷えのする冷たさを覚えた。
恐怖。
「恐ろしい」
クレール・イールダベール・デュ・ハーン・ド・パンセス・ミッドは、冷たい腕で自分自身を抱きしめた。
歯の根が合わない。震えをこらえようと、紫色の唇を噛む。
頬に熱いものが流れる。涙はあふれることをやめない。彼女は顔を伏せた。
にじんだ視界に赤い絨毯の上の白く頼りない足先が見えた。靴も靴下も履いていないその足先だけが、やけに現実味を帯びて存在している。
クレールは桜色の爪をじっと見つめた。それ以外の、現実感のない、作り物のような空間が、ゆっくりと闇の中に消えてゆく。
その闇から、猛烈な腐敗臭が立ち上った。
悪臭は、破れた皮膚と溶けた肉をまとった無数の骸から発せられていた。
闇から生じ、蛆とぼろ布に覆われたその死骸達は、下手な人形遣いに操られているがごとく不自然に蠢いている。
腐敗ガスを呼吸し、腐汁を滴らせながら、それらはクレール姫の足下に群がり来る。
身の毛のよだつ様、とはこのことであろう。事実、クレールは震えていた。
「コレは、夢だ。質の悪い、嫌な夢」
つぶやく彼女は、恐怖していなかった。
震えていた青紫の唇に、ほんのりと赤みが差す。
「嫌な夢。夢の中でまで、こいつ等の相手をしなければならないなどとは」
頬には幽かな笑みが浮かび、翡翠色の瞳が輝く。
己を抱いていた腕を解き放つと、彼女は天を仰いだ。
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