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【第一幕】
クラリス
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突如、肩に衝撃を受け、クレールの神経は現実に引き戻された。
いつの間にか背中がイスの背から離れている。彼女は前のめりになって舞台に見入っていたことに気付いた。
肩の上に、ブライトの大きな掌が乗っている。
「頼みますよ姫若さま。やらなきゃならねぇことを忘れて貰っちゃ困ります」
苦笑いしながらわざとらしく下男の口調で言うブライトに、クレールは赤面と引きつった笑みを返し、は慌てて膝の上に広げた羊皮紙に目を落とし込んだ。
暗闇の中に目を凝らす。闇に目が慣れるまでしばらく時間がかかった。
読みづらい。
だがそれは灯りがないから、という理由だけのことではない。
羊皮紙の上には、ほとんど文章をなしていない単語の羅列が、滲んだ薄いインクで書き殴られている。どれもこれも断片的で、文章の体をなしていない。
最初の一枚の中でどうやら読める部分はヨルムンガント・フレキによる「文章」ではなないらしい。文字は確かに彼の物だったが、内容は別人の書いた物だ。
正史と呼ばれる古い歴史書の引用だった。
「皇帝サフサファ山にて野営を張る。足下戦多し。平定の誓いを立て、封禅となす」
引用された文章の「皇帝」という単語が、引用文を書いたのとは違う濃さのインクによって丸く囲まれていた。
このインクは単語を囲むばかりでなく、その上に二重の打ち消し線を引いている。
さらにそれは矢印を描く。太く引かれた矢柄をたどり、行き着いた矢羽の先には、単語が一つ書き留められている。
――クラリス――
クレールは息をのんだ。
顔を上げた彼女は声を上げることができず、無言でブライトの顔色をうかがった。
彼はうっすらと笑っている。
「場面は『帝、人心乱れるを憂いて聖山に上る』だな。つまりハーン皇室の、時を遡ること四〇〇年昔のご先祖が、挙兵の表明をしたってあたりのハナシだ。
で、だ。音楽は官製の楽譜と寸分違わない。あの阿呆が指揮者に刺した釘が、しっかり効いていやがる。演出は少しばかり違うが、筋立てそのものは公式な物と大差ない」
「あなたが演劇にも詳しいとは思いませんでした。本当に妙なことにばかり精通していらっしゃるのだから」
クレールはため息を吐いた。
自分自身のことをすっかり「忘れている」ブライト・ソードマンが、なぜか世の中の表裏については様々なことを「覚えている」のは、彼女もよく知っている。
ことさら市民の風俗についての見識は、その分野について全く疎い「折り紙付きの深窓の令嬢」にとっては、計り知れぬ深さのものだった。
エル=クレール・ノアールの生活能力は皆無に近い。その彼女が、今まで無事に生き延びてこられたのは、彼が傍らにいてくれたからこそである。
ただし、思いもよらない部分に関して、彼は酷く無知であった。
いつの間にか背中がイスの背から離れている。彼女は前のめりになって舞台に見入っていたことに気付いた。
肩の上に、ブライトの大きな掌が乗っている。
「頼みますよ姫若さま。やらなきゃならねぇことを忘れて貰っちゃ困ります」
苦笑いしながらわざとらしく下男の口調で言うブライトに、クレールは赤面と引きつった笑みを返し、は慌てて膝の上に広げた羊皮紙に目を落とし込んだ。
暗闇の中に目を凝らす。闇に目が慣れるまでしばらく時間がかかった。
読みづらい。
だがそれは灯りがないから、という理由だけのことではない。
羊皮紙の上には、ほとんど文章をなしていない単語の羅列が、滲んだ薄いインクで書き殴られている。どれもこれも断片的で、文章の体をなしていない。
最初の一枚の中でどうやら読める部分はヨルムンガント・フレキによる「文章」ではなないらしい。文字は確かに彼の物だったが、内容は別人の書いた物だ。
正史と呼ばれる古い歴史書の引用だった。
「皇帝サフサファ山にて野営を張る。足下戦多し。平定の誓いを立て、封禅となす」
引用された文章の「皇帝」という単語が、引用文を書いたのとは違う濃さのインクによって丸く囲まれていた。
このインクは単語を囲むばかりでなく、その上に二重の打ち消し線を引いている。
さらにそれは矢印を描く。太く引かれた矢柄をたどり、行き着いた矢羽の先には、単語が一つ書き留められている。
――クラリス――
クレールは息をのんだ。
顔を上げた彼女は声を上げることができず、無言でブライトの顔色をうかがった。
彼はうっすらと笑っている。
「場面は『帝、人心乱れるを憂いて聖山に上る』だな。つまりハーン皇室の、時を遡ること四〇〇年昔のご先祖が、挙兵の表明をしたってあたりのハナシだ。
で、だ。音楽は官製の楽譜と寸分違わない。あの阿呆が指揮者に刺した釘が、しっかり効いていやがる。演出は少しばかり違うが、筋立てそのものは公式な物と大差ない」
「あなたが演劇にも詳しいとは思いませんでした。本当に妙なことにばかり精通していらっしゃるのだから」
クレールはため息を吐いた。
自分自身のことをすっかり「忘れている」ブライト・ソードマンが、なぜか世の中の表裏については様々なことを「覚えている」のは、彼女もよく知っている。
ことさら市民の風俗についての見識は、その分野について全く疎い「折り紙付きの深窓の令嬢」にとっては、計り知れぬ深さのものだった。
エル=クレール・ノアールの生活能力は皆無に近い。その彼女が、今まで無事に生き延びてこられたのは、彼が傍らにいてくれたからこそである。
ただし、思いもよらない部分に関して、彼は酷く無知であった。
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