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その人の名前
注釈のみに記される名前
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「これで良かろうよ。……それで、お前さんはアレをどう見たね?」
ブライトは己の腿の上に肘をついた。背中が丸まり、上背が縮む。ついた肘の上の、握り拳のそのまた上に置かれた頑丈そうな顎が、舞台を指している。
クレールは乾いた唇を開いた。
「……初代皇帝の役、つまり男性を、あの娘……シルヴィと言いましたか……女性が演じています」
「お前さんを迎えに来て卒倒した娘だな。なるほど、舞台に上がると人間が変わるタイプか。
中々に巧いじゃねぇか。もっとちゃんとした所でも……現状じゃ主役はキツかろうが……第一舞踏手は演れるかもしれん」
ブライトはクレールが望んでいる回答を返さなかった。
「娘ばかりの劇団だから、しかたなく娘に男の役を割り当てている……?」
クレールはあえて間違いなく否定されるであろう「好意的な意見」を口にした。
「あの阿呆のことだ。件のお偉いさんにゃぁそう言い張る腹づもりでいるンだろうがね」
ブライトは唇の端に意地の悪い微笑を浮かべた。『続きは言わなくても解る筈だ』の意である。
クレールはうなずいた。
『その人物が女であったから、当然女の踊り手に役が振り当てられている』
彼女は膝の上の羊皮紙をじっと見た。闇の中で一つの単語が踊っている。インクの色は心もとないほどに薄いが、筆圧は高い。その女性名が強い確信を持って書かれたことの証だった。
「フレキ叔父は……なぜそう思われたのでしょう?」
文字の上を指でなぞりつつ、クレールは呟いた。
ブライトはくぐもった声で、
「四〇〇年の間にゃいろんな史料が作られちゃぁ捨てられるを繰り返してるだろう。そうやって捨てたつもりが捨てきれなかった物も、中にはあらぁな」
彼の視線は舞台に注がれていた。閉ざされた幕が重く揺れている。
「捨てられるはずだった物の方が、伝わっている物よりも正しいと?」
当然ともいえる疑問を投げかけられたブライトは、深く二つ息を吐いた。
「残った物にだって正しい物はある。
例えば、正史の本文にゃクラリスって名前は書いてねぇんだぜ。かっ攫われたときにゃ『美姫』、その後は『皇后』。それっきりさ」
「え?」
人気のない劇場の中に、クレールの声が反響した。驚愕の大きさが、そのまま声の大きさとなっていた。
「一カ所だけその単語が出てくるところは、ある。
『ガップの古書による。后の諱、クラリスと伝わる』
だがこいつは、正史を書き始めたヤツがおっ死んでから百年ぐれぇ後に、別の研究家が付けた注釈だ。
まあ、それくらい古い注になっちまうと、ほとんど本文と同じ扱いにされちまってるから、普通に学問するときにゃ区別もしねぇがね」
「あ……」
クレールは急速に己の記憶を十年ほど巻き戻させた。父の友であり、ミッド公国随一の学者であったセイン・クミンに師事して学んでいた幼い日のことを思い出すためだ。
史学を学ぶに際し、師は古い書物を書写させた。物事を記憶するには、それが一番良い方法だというのが、彼の持論であった。
ブライトは己の腿の上に肘をついた。背中が丸まり、上背が縮む。ついた肘の上の、握り拳のそのまた上に置かれた頑丈そうな顎が、舞台を指している。
クレールは乾いた唇を開いた。
「……初代皇帝の役、つまり男性を、あの娘……シルヴィと言いましたか……女性が演じています」
「お前さんを迎えに来て卒倒した娘だな。なるほど、舞台に上がると人間が変わるタイプか。
中々に巧いじゃねぇか。もっとちゃんとした所でも……現状じゃ主役はキツかろうが……第一舞踏手は演れるかもしれん」
ブライトはクレールが望んでいる回答を返さなかった。
「娘ばかりの劇団だから、しかたなく娘に男の役を割り当てている……?」
クレールはあえて間違いなく否定されるであろう「好意的な意見」を口にした。
「あの阿呆のことだ。件のお偉いさんにゃぁそう言い張る腹づもりでいるンだろうがね」
ブライトは唇の端に意地の悪い微笑を浮かべた。『続きは言わなくても解る筈だ』の意である。
クレールはうなずいた。
『その人物が女であったから、当然女の踊り手に役が振り当てられている』
彼女は膝の上の羊皮紙をじっと見た。闇の中で一つの単語が踊っている。インクの色は心もとないほどに薄いが、筆圧は高い。その女性名が強い確信を持って書かれたことの証だった。
「フレキ叔父は……なぜそう思われたのでしょう?」
文字の上を指でなぞりつつ、クレールは呟いた。
ブライトはくぐもった声で、
「四〇〇年の間にゃいろんな史料が作られちゃぁ捨てられるを繰り返してるだろう。そうやって捨てたつもりが捨てきれなかった物も、中にはあらぁな」
彼の視線は舞台に注がれていた。閉ざされた幕が重く揺れている。
「捨てられるはずだった物の方が、伝わっている物よりも正しいと?」
当然ともいえる疑問を投げかけられたブライトは、深く二つ息を吐いた。
「残った物にだって正しい物はある。
例えば、正史の本文にゃクラリスって名前は書いてねぇんだぜ。かっ攫われたときにゃ『美姫』、その後は『皇后』。それっきりさ」
「え?」
人気のない劇場の中に、クレールの声が反響した。驚愕の大きさが、そのまま声の大きさとなっていた。
「一カ所だけその単語が出てくるところは、ある。
『ガップの古書による。后の諱、クラリスと伝わる』
だがこいつは、正史を書き始めたヤツがおっ死んでから百年ぐれぇ後に、別の研究家が付けた注釈だ。
まあ、それくらい古い注になっちまうと、ほとんど本文と同じ扱いにされちまってるから、普通に学問するときにゃ区別もしねぇがね」
「あ……」
クレールは急速に己の記憶を十年ほど巻き戻させた。父の友であり、ミッド公国随一の学者であったセイン・クミンに師事して学んでいた幼い日のことを思い出すためだ。
史学を学ぶに際し、師は古い書物を書写させた。物事を記憶するには、それが一番良い方法だというのが、彼の持論であった。
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