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その人の名前
アイデンティティーの崩壊
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没落貴族にとって自負であった血脈が否まれた……それも自分自身と、敬愛する二人の男によって。
確固たるたるものであると信じていた足下の地面が、突如として消えた。ひたすらに沈み込んでゆくばかりの薄寒い浮遊感に、クレールの魂は飲み込まれた。
翠色の目は茫漠と開いている。開いているだけだ。開ききった瞳孔は、何も見いだすことができない。
瞼を強く閉じた時に広がる、血潮の色を帯びた暗闇だけが眼前にある。
呼吸の荒さは喘ぎに、動悸の激しさは破裂の寸前に、眩暈は暗黒に。皮膚が蒸発し、肉が霧散し、骨が融けて流れ、己が無に帰し、存在が感じられなくなった。
深く、冷たく、強く、彼女は心身が堕ちてゆくのを感じていた。
すがる物を求めて手を伸ばした。実際にそうしたのかどうかは、彼女にも解らない。肉の手か、心の内の手か知れぬ、その指先が掴んだのは空だけだった。落胆のあまりに瞼を閉ざそうとした。
薄い隙間、仄暗い闇の奥から、赫い薄明かりを纏った逞しい拳が差し出されるのが見えた。節の太い食指がクレールの胸元を指し示す。
「お前はここにいる」
強い風のうねりのような低い声が、一点の輝きと共に頭上から降ってきた気がした。
大きな声ではない。強い声でもない。穏やかで力のあるその響きに、クレールは耳新しさを憶え、懐かしさをも感じた。
耳をそばだてる。声は続けた。
「源流がどこかなんてことは知ったことか。よしその一滴が無くとも、大河は時の果てから蕩々と流れ続け、お前という存在に受け継がれた。
間違いなくお前はここいる。血肉と魂を持って生きている」
瞬間、呼吸が止まった。心の臓の拍動も、闇を巻くめまいも、ぴたりと止んだ。
静寂があった。
「戻って来たか?」
聞き慣れた声を聞いた耳の奥に、清流の漣を感じた。それはクレールの体が発する生命の音だった。心の臓から流れ出る血潮も、肺に流れ込む呼気も、一定の拍子で強く整っている。
クレール・ノアールは大音響の中にいた。目の前にあるのは、古い田舎町の明るい風景だった。
「はっ」
クレールの肺の中に滞留していた重たい息が、塊となって口からあふれ出た。
憶えず、左右を見回す。小さな舞台の小さな客席に彼女は座っていた。
傍らで赤い光背を負った男が完爾として笑っている。
クレールは――彼女としては珍しい行儀の悪さだが――袖口で目を擦った。
尖った光が二筋、彼の額からあふれ出ているかのように思えたのだ……赤く禍々しい鬼の角のように。
再度目を開けたときに見たのは、無精髭を生やしたブライト・ソードマンの顔だった。櫛目の通らぬ前髪が隠す額に、鋭角な突起などは痕すらもあろう筈がない。
彼は顎で舞台を指し、呟く。
「二幕が開いた」
確固たるたるものであると信じていた足下の地面が、突如として消えた。ひたすらに沈み込んでゆくばかりの薄寒い浮遊感に、クレールの魂は飲み込まれた。
翠色の目は茫漠と開いている。開いているだけだ。開ききった瞳孔は、何も見いだすことができない。
瞼を強く閉じた時に広がる、血潮の色を帯びた暗闇だけが眼前にある。
呼吸の荒さは喘ぎに、動悸の激しさは破裂の寸前に、眩暈は暗黒に。皮膚が蒸発し、肉が霧散し、骨が融けて流れ、己が無に帰し、存在が感じられなくなった。
深く、冷たく、強く、彼女は心身が堕ちてゆくのを感じていた。
すがる物を求めて手を伸ばした。実際にそうしたのかどうかは、彼女にも解らない。肉の手か、心の内の手か知れぬ、その指先が掴んだのは空だけだった。落胆のあまりに瞼を閉ざそうとした。
薄い隙間、仄暗い闇の奥から、赫い薄明かりを纏った逞しい拳が差し出されるのが見えた。節の太い食指がクレールの胸元を指し示す。
「お前はここにいる」
強い風のうねりのような低い声が、一点の輝きと共に頭上から降ってきた気がした。
大きな声ではない。強い声でもない。穏やかで力のあるその響きに、クレールは耳新しさを憶え、懐かしさをも感じた。
耳をそばだてる。声は続けた。
「源流がどこかなんてことは知ったことか。よしその一滴が無くとも、大河は時の果てから蕩々と流れ続け、お前という存在に受け継がれた。
間違いなくお前はここいる。血肉と魂を持って生きている」
瞬間、呼吸が止まった。心の臓の拍動も、闇を巻くめまいも、ぴたりと止んだ。
静寂があった。
「戻って来たか?」
聞き慣れた声を聞いた耳の奥に、清流の漣を感じた。それはクレールの体が発する生命の音だった。心の臓から流れ出る血潮も、肺に流れ込む呼気も、一定の拍子で強く整っている。
クレール・ノアールは大音響の中にいた。目の前にあるのは、古い田舎町の明るい風景だった。
「はっ」
クレールの肺の中に滞留していた重たい息が、塊となって口からあふれ出た。
憶えず、左右を見回す。小さな舞台の小さな客席に彼女は座っていた。
傍らで赤い光背を負った男が完爾として笑っている。
クレールは――彼女としては珍しい行儀の悪さだが――袖口で目を擦った。
尖った光が二筋、彼の額からあふれ出ているかのように思えたのだ……赤く禍々しい鬼の角のように。
再度目を開けたときに見たのは、無精髭を生やしたブライト・ソードマンの顔だった。櫛目の通らぬ前髪が隠す額に、鋭角な突起などは痕すらもあろう筈がない。
彼は顎で舞台を指し、呟く。
「二幕が開いた」
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