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大殿様
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「大殿にしては珍しく迂闊なことをなさったものだ」
矢沢頼康は白髪頭を横に振った。
大殿とは、真田伊豆守信之である。
迂闊なこととは、城の修築である。
信濃国上田城が破却されたのは、関ヶ原合戦の後のことであった。
いや、第二次上田合戦の後、と表現した方がしっくりくる。
局地戦に勝って大局的に負けた真田安房守昌幸が召し上げられたこの領地を、その長子である信之が大御所・徳川家康から与えられた慶長六年(一六〇一年)の時点で、この城には建物は一棟も残されていなかった。
建物どころではない。石垣も土塁も中半崩されて、その廃材によって、古い川筋を利用した水濠と深く掘り下げられた空壕が埋め立てられた。
つまりその頃の上田城といえば、千曲川の支流が削る崖の上にある、僅かに凹凸のある平地であった。
そんな謂わばただの地面である場所を政庁として、藩政を行ことができるはずもない。
それでも信之は城を直さないでいた。
将軍・徳川秀忠から、上田城を修繕する許しが降りないのだ。
真田信之は徳川に従順だ。従順でなければ、遠く九度山に流配となった父や弟たちの命を守ることができなかった。真田の家名を後世に残すことも望めない。
信之はかつての二の丸の濠の外、三の丸に館を作った。
作ったといっても、全く新たに造営したものではない。
元々は家臣で一族衆の一つである常田氏の居館だった。
だからこちらも修復の願いを立てたのだ。そして、こちらのみ許された、という格好だ。
大きな改修はせず、元の屋敷割をおおよそそのまま利用する形を取った。新しく作った設備はといえば、屋敷を取り巻く水濠ぐらいだ。
元々常田氏は上田の東部の常田鄕――いまは常田村としてその名が残っている――の支配者であったから、その館とは陣屋に等しい機能を持っていた。
狭くはない。それにしても領主の住処として、上田六万石の政を行う場所として、城の代わりにするとなれば、如何にも小さい。
その藩主館の内である。
「二十年もの間、我慢をなさったのだから、これからも我慢をなさればよろしいものを」
頼康は主君を前に臆面もなく言った。
信之は怒りを見せなかった。むしろ頬に微笑を浮かべてさえいる。
矢沢頼康といえば、三十郎と名乗っていた若い頃は三尺三寸五分の野太刀を振るって無双に働く荒武者だった。当たるを幸いに切り倒す暴れぶりで、多くの戦で真田に勝利をもたらしてくれた。
そんな彼も、亡父の跡を継いで沼田の城代を務める様になってからは、思慮深く真田家を支える家老となった。
矢沢頼康の父・頼綱は真田一徳斎幸隆の末の弟である。
真田幸隆は真田昌幸の父で、昌幸は信之の父であるから、この宿老は、殿様の父方の従兄弟伯父にあたる。
つまり一門衆なのである。
信之より年上の親族は、この頼康とその弟の頼邦の他には、母方の従兄弟伯父である河原綱家、あとは、ほぼ同世代ではあるが、姉婿の小山田茂誠と乳母子の禰津幸直が残るのみになってしまった。
そのほかに年上の、つまりは亡父と同年代の家臣といえば、父の代からの重臣の出浦昌相ぐらいしか残っていない。
他にも年寄が全くいないのではないが、殿様に真っ向厳しく意見ができる気骨のあるものは元より希少な存在であったし、なにより、殿様がその意見を素直に聞くことが誰から見ても許される立場のものは、今名を上げた者以外はもう殆どいなくなってしまった。
信之の楽しげな微笑の理由はそこにある。
頼康のような、若造の頃の自分を知っている親戚のお兄さんから叱りつけられることを、この殿様はむしろ楽しみ、喜んでいる節がある。
「やれ、源三郎と呼ばれた四十年の昔ならいざ知らず、わしも六十に手が届く年になったというのに、まだ叔父殿から叱られるとはなぁ」
そう言いながら、声音はうれしげだ。
「それがしも八十に手が届く年になったというのに、まだ若殿様に説教をせねばならぬとは思い寄りませなんだ」
頼康も目の奥に笑みを隠して、渋茶を飲み干したような苦い顔をしている。
この文字通りの家老の顔を、信之はしみじみと眺めた。
「このところ、よく昔のことを思い出す。若い頃のことを……神川の戦のことやらなにやら……。そうすると、どうしてもあの城のことが思い起こされてならぬ。イヤ、わしもまことに年をとった」
言葉の終わり頃には、その眼が見る先は、頼康の顔ではないところへ――二の丸濠、本丸濠のその中にあるあの城へ――移っていた。
上田城の縄張をし、建設の指揮をとったのは、間違いなく真田昌幸だ。しかしその資金は徳川が出している。
家康にとっては、上田が対上杉家の最前線基地として重要不可欠な場所だったからだ。
城が九分どおりできあがった頃、昌幸は――おそらくは熟考の上――徳川と手を切って上杉に付いた。ご丁寧に、次男・源二郎信繁と従兄弟である矢沢頼康その人を証人、つまり人質として上杉家に差し出している。
これに家康が怒るのは当然のことだろう。彼は自分の城を取り戻すために兵を送った。
そして、徳川軍は失敗した。
徳川方の家内外に様々な問題が発生していた、という理由はあるが、徳川の負けは負けだし、真田の勝ちは勝ちである。
上杉景勝の斡旋により豊臣秀吉が仲立ちをしてくれた。信繁は秀吉に取り立てられて一家を成し、長男・源三郎信幸が家康の養娘婿という形で一種の証人となり、徳川と真田は和議を結んだ。
そして改めて真田の城として完成を見た上田城は、若き日の真田信幸――後に訳あって「幸」の一字を「之」に改めるのだが――の脳裏に強烈な印象を与える物だった。
蛭沢・蛇沢の川筋を付け替えて城下を囲う外濠とし、その中に上州街道や善光寺街道の道筋を移し替え、海野・原の市を入れ込んだ総構えの城下町が形成されている。
沼や池を繋いで三の丸の濠割とし、土橋を組んだ上に町屋を建てて偽装した。いざとなればこの町屋ごと敵兵を巻き込んで橋を落とす算段だ。
海野の市の道筋と大手の門は鈎の手で結び、敵方の進軍を阻める。行き詰まってひとかたまりになった敵兵は、城方からの集中砲火の的となる。
南は崖を洗う千曲川の尼ヶ淵。付け替えた蛭沢の古い川筋を利用して掘り下げられた二の丸濠と丸馬出。その内側に広い武者溜りが作られた。
湧き水を湛える本丸壕、その土塁の辰巳の角をわざと削り落とした隅欠は、鬼門除けの役目も負っていた。
七基の二層の隅櫓を乗せた石垣の石材は、北方の太郎山から切り出し、蛇沢・蛭沢の川を伝って運び入れたもので、僅かに緑がかった灰色をしている。
濠と石垣に囲まれた本丸は二段に整地されていた。
下段は穀物倉と武器倉。その周囲には梅、松、箭竹を植えた。梅は保存食になり、松は燃料になり、箭竹は武器となる。
またここから深く掘り下げられた井戸からは、澄んだ水が豊富に湧き出た。
おかげで長く籠城をすることになっても、飲食に不自由はなかった。
他方、一段高く土盛された側が天守台だ。
そこには漆喰の白壁と、黒漆塗の下見板、金色に輝く甍を頂く三層の小天守があった。
後年、信之が上州沼田領に居城を縄張りするに当たって、この故郷の城を参考にもしたし、また父の城作りを超越する野望を抱きもした。
今、沼田の利根川と薄根川に囲まれた河岸段丘の上には、白壁と黒い下見板、金の甍を頂いた、五層の大天守を持つ城が建っている。
遠く若い日々を思い起こし、その眩しい懐かしさに浸っていた信之の魂は、呆れがまじった矢沢頼康の声で、老いの坂を下りつつある今に引き戻された。
「ならば、修復については、きっちりと御公儀にお伺いを立て、お許しを貰ってからになさればよろしい」
頼康の言は、まことに正論である。そしてそれに対する信之の答えも正論であった。
「頼康よ、わしが……この真田が上田に城を建てる事に、徳川が許しを出すと思うか?」
その頃の昌幸や信繁は、豊臣秀吉から認められた独立大名であった。
ただし昌幸は徳川の与力とされている。昌幸の嫡男として、徳川勢力圏である関東の沼田城に入っていた信幸は、家康の義娘婿ということも相まって、殆ど徳川の家臣のように動き、またそのような扱いも受けていた。
そういう訳であるから、豊臣秀吉の死後に徳川家と敵対すること甚だしくなった石田三成を「いよいよ征伐する」と家康が決めたからには、そのために「秀忠を信濃国の押さえとして派遣する」と発令したからには、真田家は父も息子達もそれに協力するのが本筋であった。
だが昌幸はそれを良しとせず、信繁と共に上田城に籠もった。
他方、信幸は秀忠に従って進軍した。
直接父や弟と戦うことは避けられた。
あるいは秀忠が、親子兄弟が戦わぬようにと配慮したのかも知れない。
あるいは昌幸が、親子兄弟が戦わぬようにと配慮したのかも知れない。
支城の砥石城の調略を命じられた信幸は、敵味方とも一人も損なうことなくこれを落とした。手勢も相手も、最初から戦う気が無かった。
占領したその山の上から、彼は上田城下の小競り合いを見守った。
その眼下で、徳川軍はまたしても失敗した。
二度の失敗を経て、上田城と真田家は徳川の鬼門と呼ばれるに至る――。
「大殿のお気持ちは、この頼康にもよう判りまする。さりとて、あれほどあからさまに木材やら石材やらを買い集められては……」
矢沢頼康が深く息を吐き出した。
「どうせやるならば、近郷に知られぬよう、こっそりとやれ、か?」
白髪頭の大殿様が、子供の様ににやりと笑う。
「そういう意味ではございませぬ!」
頼康が驚き慌てる様子を見て、信之はたまらず吹き出した。
「大殿! 笑い事にはございませぬぞ!」
真っ白な眉毛をつり上げる家老に、どこか悲しげな眼差しを注ぎ、真田信之は大柄な体を縮こまらせた。
「わしも元来は性急な質でな。お前やお前の父や兄や、奥たち……」
言葉が詰まった。無言はほんの一瞬で、すぐに、
「ともかくも家中皆々がわしを押さえ、引き戻し、諭してくれたからこそ、我慢も出来たし、これまで生きてこれた。だがもう年を取った。最近は、どうも殊更に気が急いていかぬ」
結句はため息になった。磨かれた床板の継ぎ目のあたりに視線を落としている。
頼康は口に出せる言葉を思い付くことなできなかった。
『お方様がお亡くなりになって以来、大殿は力を落とされること甚だしい』
言葉を呑み込んだ筆頭家老と、言葉を失った殿様が、そろって力無く頭を垂れた。
信之の正室・小松殿こと本多忠勝女・稲は二年前の元和六年二月二十四日に、側室・松尾殿こと真田信綱女・氷垂はその半年程前の元和五年九月二十五日に、この世を去っている。
あの戦から二十余年の月日が過ぎた。
天下は太平である。
さりとて、真田家の領地である信州上田と上州沼田は、長い戦乱の時代で蓄積された疲弊から、今にもって恢復ししきってはいなかった。
土地は荒れ、領民は疲れている。
真田信之は領地の内、上田小県の政治については、先にも名を上げた家老衆の、矢沢頼康や小山田茂誠、木村綱茂らに任せていた。
沼田領のそれは、当初は出浦昌相、禰津幸直、河原綱家、大熊勘右衛門、鈴木忠重といった、こちらも忠義の家老たちが行っていた。
数年前、信之が沼田城主の座を嫡男・信吉に譲った時、その体制が少しばかり変わった。
自身を城無き上田の城主とした信之は、沼田差配だった昌相と幸直を率いて上田に移った。
この二人だけは、信之は常に身近に置くことを望んでいる。
故に、信之が沼田に軸足を置いていた頃はこの二人は沼田領に置かれていたし、上田に軸足を移すと決めたからには、この二人は連れて行かねばならないのだ。
ひたすらに徳川に慮り、私心という物を表沙汰にしない真田信之は、滅多なことで我侭めいたことは云わぬし、また行わない。その信之が、殆ど唯一行っているいる我侭が、この二人の人事だった。
出浦昌相は、亡き父が「友」と頼んだ男である。そして、禰津幸直は己が「友」と頼んでいる男である。
矢沢頼康は白髪頭を横に振った。
大殿とは、真田伊豆守信之である。
迂闊なこととは、城の修築である。
信濃国上田城が破却されたのは、関ヶ原合戦の後のことであった。
いや、第二次上田合戦の後、と表現した方がしっくりくる。
局地戦に勝って大局的に負けた真田安房守昌幸が召し上げられたこの領地を、その長子である信之が大御所・徳川家康から与えられた慶長六年(一六〇一年)の時点で、この城には建物は一棟も残されていなかった。
建物どころではない。石垣も土塁も中半崩されて、その廃材によって、古い川筋を利用した水濠と深く掘り下げられた空壕が埋め立てられた。
つまりその頃の上田城といえば、千曲川の支流が削る崖の上にある、僅かに凹凸のある平地であった。
そんな謂わばただの地面である場所を政庁として、藩政を行ことができるはずもない。
それでも信之は城を直さないでいた。
将軍・徳川秀忠から、上田城を修繕する許しが降りないのだ。
真田信之は徳川に従順だ。従順でなければ、遠く九度山に流配となった父や弟たちの命を守ることができなかった。真田の家名を後世に残すことも望めない。
信之はかつての二の丸の濠の外、三の丸に館を作った。
作ったといっても、全く新たに造営したものではない。
元々は家臣で一族衆の一つである常田氏の居館だった。
だからこちらも修復の願いを立てたのだ。そして、こちらのみ許された、という格好だ。
大きな改修はせず、元の屋敷割をおおよそそのまま利用する形を取った。新しく作った設備はといえば、屋敷を取り巻く水濠ぐらいだ。
元々常田氏は上田の東部の常田鄕――いまは常田村としてその名が残っている――の支配者であったから、その館とは陣屋に等しい機能を持っていた。
狭くはない。それにしても領主の住処として、上田六万石の政を行う場所として、城の代わりにするとなれば、如何にも小さい。
その藩主館の内である。
「二十年もの間、我慢をなさったのだから、これからも我慢をなさればよろしいものを」
頼康は主君を前に臆面もなく言った。
信之は怒りを見せなかった。むしろ頬に微笑を浮かべてさえいる。
矢沢頼康といえば、三十郎と名乗っていた若い頃は三尺三寸五分の野太刀を振るって無双に働く荒武者だった。当たるを幸いに切り倒す暴れぶりで、多くの戦で真田に勝利をもたらしてくれた。
そんな彼も、亡父の跡を継いで沼田の城代を務める様になってからは、思慮深く真田家を支える家老となった。
矢沢頼康の父・頼綱は真田一徳斎幸隆の末の弟である。
真田幸隆は真田昌幸の父で、昌幸は信之の父であるから、この宿老は、殿様の父方の従兄弟伯父にあたる。
つまり一門衆なのである。
信之より年上の親族は、この頼康とその弟の頼邦の他には、母方の従兄弟伯父である河原綱家、あとは、ほぼ同世代ではあるが、姉婿の小山田茂誠と乳母子の禰津幸直が残るのみになってしまった。
そのほかに年上の、つまりは亡父と同年代の家臣といえば、父の代からの重臣の出浦昌相ぐらいしか残っていない。
他にも年寄が全くいないのではないが、殿様に真っ向厳しく意見ができる気骨のあるものは元より希少な存在であったし、なにより、殿様がその意見を素直に聞くことが誰から見ても許される立場のものは、今名を上げた者以外はもう殆どいなくなってしまった。
信之の楽しげな微笑の理由はそこにある。
頼康のような、若造の頃の自分を知っている親戚のお兄さんから叱りつけられることを、この殿様はむしろ楽しみ、喜んでいる節がある。
「やれ、源三郎と呼ばれた四十年の昔ならいざ知らず、わしも六十に手が届く年になったというのに、まだ叔父殿から叱られるとはなぁ」
そう言いながら、声音はうれしげだ。
「それがしも八十に手が届く年になったというのに、まだ若殿様に説教をせねばならぬとは思い寄りませなんだ」
頼康も目の奥に笑みを隠して、渋茶を飲み干したような苦い顔をしている。
この文字通りの家老の顔を、信之はしみじみと眺めた。
「このところ、よく昔のことを思い出す。若い頃のことを……神川の戦のことやらなにやら……。そうすると、どうしてもあの城のことが思い起こされてならぬ。イヤ、わしもまことに年をとった」
言葉の終わり頃には、その眼が見る先は、頼康の顔ではないところへ――二の丸濠、本丸濠のその中にあるあの城へ――移っていた。
上田城の縄張をし、建設の指揮をとったのは、間違いなく真田昌幸だ。しかしその資金は徳川が出している。
家康にとっては、上田が対上杉家の最前線基地として重要不可欠な場所だったからだ。
城が九分どおりできあがった頃、昌幸は――おそらくは熟考の上――徳川と手を切って上杉に付いた。ご丁寧に、次男・源二郎信繁と従兄弟である矢沢頼康その人を証人、つまり人質として上杉家に差し出している。
これに家康が怒るのは当然のことだろう。彼は自分の城を取り戻すために兵を送った。
そして、徳川軍は失敗した。
徳川方の家内外に様々な問題が発生していた、という理由はあるが、徳川の負けは負けだし、真田の勝ちは勝ちである。
上杉景勝の斡旋により豊臣秀吉が仲立ちをしてくれた。信繁は秀吉に取り立てられて一家を成し、長男・源三郎信幸が家康の養娘婿という形で一種の証人となり、徳川と真田は和議を結んだ。
そして改めて真田の城として完成を見た上田城は、若き日の真田信幸――後に訳あって「幸」の一字を「之」に改めるのだが――の脳裏に強烈な印象を与える物だった。
蛭沢・蛇沢の川筋を付け替えて城下を囲う外濠とし、その中に上州街道や善光寺街道の道筋を移し替え、海野・原の市を入れ込んだ総構えの城下町が形成されている。
沼や池を繋いで三の丸の濠割とし、土橋を組んだ上に町屋を建てて偽装した。いざとなればこの町屋ごと敵兵を巻き込んで橋を落とす算段だ。
海野の市の道筋と大手の門は鈎の手で結び、敵方の進軍を阻める。行き詰まってひとかたまりになった敵兵は、城方からの集中砲火の的となる。
南は崖を洗う千曲川の尼ヶ淵。付け替えた蛭沢の古い川筋を利用して掘り下げられた二の丸濠と丸馬出。その内側に広い武者溜りが作られた。
湧き水を湛える本丸壕、その土塁の辰巳の角をわざと削り落とした隅欠は、鬼門除けの役目も負っていた。
七基の二層の隅櫓を乗せた石垣の石材は、北方の太郎山から切り出し、蛇沢・蛭沢の川を伝って運び入れたもので、僅かに緑がかった灰色をしている。
濠と石垣に囲まれた本丸は二段に整地されていた。
下段は穀物倉と武器倉。その周囲には梅、松、箭竹を植えた。梅は保存食になり、松は燃料になり、箭竹は武器となる。
またここから深く掘り下げられた井戸からは、澄んだ水が豊富に湧き出た。
おかげで長く籠城をすることになっても、飲食に不自由はなかった。
他方、一段高く土盛された側が天守台だ。
そこには漆喰の白壁と、黒漆塗の下見板、金色に輝く甍を頂く三層の小天守があった。
後年、信之が上州沼田領に居城を縄張りするに当たって、この故郷の城を参考にもしたし、また父の城作りを超越する野望を抱きもした。
今、沼田の利根川と薄根川に囲まれた河岸段丘の上には、白壁と黒い下見板、金の甍を頂いた、五層の大天守を持つ城が建っている。
遠く若い日々を思い起こし、その眩しい懐かしさに浸っていた信之の魂は、呆れがまじった矢沢頼康の声で、老いの坂を下りつつある今に引き戻された。
「ならば、修復については、きっちりと御公儀にお伺いを立て、お許しを貰ってからになさればよろしい」
頼康の言は、まことに正論である。そしてそれに対する信之の答えも正論であった。
「頼康よ、わしが……この真田が上田に城を建てる事に、徳川が許しを出すと思うか?」
その頃の昌幸や信繁は、豊臣秀吉から認められた独立大名であった。
ただし昌幸は徳川の与力とされている。昌幸の嫡男として、徳川勢力圏である関東の沼田城に入っていた信幸は、家康の義娘婿ということも相まって、殆ど徳川の家臣のように動き、またそのような扱いも受けていた。
そういう訳であるから、豊臣秀吉の死後に徳川家と敵対すること甚だしくなった石田三成を「いよいよ征伐する」と家康が決めたからには、そのために「秀忠を信濃国の押さえとして派遣する」と発令したからには、真田家は父も息子達もそれに協力するのが本筋であった。
だが昌幸はそれを良しとせず、信繁と共に上田城に籠もった。
他方、信幸は秀忠に従って進軍した。
直接父や弟と戦うことは避けられた。
あるいは秀忠が、親子兄弟が戦わぬようにと配慮したのかも知れない。
あるいは昌幸が、親子兄弟が戦わぬようにと配慮したのかも知れない。
支城の砥石城の調略を命じられた信幸は、敵味方とも一人も損なうことなくこれを落とした。手勢も相手も、最初から戦う気が無かった。
占領したその山の上から、彼は上田城下の小競り合いを見守った。
その眼下で、徳川軍はまたしても失敗した。
二度の失敗を経て、上田城と真田家は徳川の鬼門と呼ばれるに至る――。
「大殿のお気持ちは、この頼康にもよう判りまする。さりとて、あれほどあからさまに木材やら石材やらを買い集められては……」
矢沢頼康が深く息を吐き出した。
「どうせやるならば、近郷に知られぬよう、こっそりとやれ、か?」
白髪頭の大殿様が、子供の様ににやりと笑う。
「そういう意味ではございませぬ!」
頼康が驚き慌てる様子を見て、信之はたまらず吹き出した。
「大殿! 笑い事にはございませぬぞ!」
真っ白な眉毛をつり上げる家老に、どこか悲しげな眼差しを注ぎ、真田信之は大柄な体を縮こまらせた。
「わしも元来は性急な質でな。お前やお前の父や兄や、奥たち……」
言葉が詰まった。無言はほんの一瞬で、すぐに、
「ともかくも家中皆々がわしを押さえ、引き戻し、諭してくれたからこそ、我慢も出来たし、これまで生きてこれた。だがもう年を取った。最近は、どうも殊更に気が急いていかぬ」
結句はため息になった。磨かれた床板の継ぎ目のあたりに視線を落としている。
頼康は口に出せる言葉を思い付くことなできなかった。
『お方様がお亡くなりになって以来、大殿は力を落とされること甚だしい』
言葉を呑み込んだ筆頭家老と、言葉を失った殿様が、そろって力無く頭を垂れた。
信之の正室・小松殿こと本多忠勝女・稲は二年前の元和六年二月二十四日に、側室・松尾殿こと真田信綱女・氷垂はその半年程前の元和五年九月二十五日に、この世を去っている。
あの戦から二十余年の月日が過ぎた。
天下は太平である。
さりとて、真田家の領地である信州上田と上州沼田は、長い戦乱の時代で蓄積された疲弊から、今にもって恢復ししきってはいなかった。
土地は荒れ、領民は疲れている。
真田信之は領地の内、上田小県の政治については、先にも名を上げた家老衆の、矢沢頼康や小山田茂誠、木村綱茂らに任せていた。
沼田領のそれは、当初は出浦昌相、禰津幸直、河原綱家、大熊勘右衛門、鈴木忠重といった、こちらも忠義の家老たちが行っていた。
数年前、信之が沼田城主の座を嫡男・信吉に譲った時、その体制が少しばかり変わった。
自身を城無き上田の城主とした信之は、沼田差配だった昌相と幸直を率いて上田に移った。
この二人だけは、信之は常に身近に置くことを望んでいる。
故に、信之が沼田に軸足を置いていた頃はこの二人は沼田領に置かれていたし、上田に軸足を移すと決めたからには、この二人は連れて行かねばならないのだ。
ひたすらに徳川に慮り、私心という物を表沙汰にしない真田信之は、滅多なことで我侭めいたことは云わぬし、また行わない。その信之が、殆ど唯一行っているいる我侭が、この二人の人事だった。
出浦昌相は、亡き父が「友」と頼んだ男である。そして、禰津幸直は己が「友」と頼んでいる男である。
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