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松代転封
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真田信之が松代・海津城への改封を下知されたのは、元和八年(一六二二年)十月のことであった。
松代は、旧領信州上田から北国街道をたどっておおよそ十六里(約63km)。千曲川岸の土地だ。
遠く離れているようにも思えるが、これは宿駅間の距離である。上田領の内でも、その北端である真田の郷からならば、峠を一つ超えればすぐに松代領に入ることが出来る。
松代の石高は表向き十万石を数える。
上田は表高六万石だったのだから、差し引き四万石の加増ということになる。
しかも旧領のうち、上野国沼田の三万五千石はそのままに、というありがたい条件だ。
真田家の総石高は合わせて十三万五千石となる。
大殿様が急に江戸城に呼び出された時、家中の士たちは不安を隠さなかった。急仕立ての大名行列は、総じて青白い顔をしていた。
最悪の事態――取り潰し――を懸念していたのだ。
顔色が変じていないのは、お駕籠の中の殿様だけだ。
真田信之は普段通りに具合悪げな顔つきをして、狭い駕籠の中で大きな体を縮こまらせていた。
信之が加増の下知を頂戴して戻ってきても、その後に噛んで含めるような信之や重臣たちの説明を聞かされても、家臣も領民もすぐに安堵することは出来なかった。
特に上田領内に広がった動揺の波は激しい。
上田城の城下で、ひとたび戦があれば――城とは戦のために建てられたものであるから――領民達も城に入り、弓を取って戦う。
犠牲者は出た。
戦には勝った。
死人は懇ろに弔われ、怪我人や遺族は十分な保証を受け、恩賞は充分に出た。
だから領民は城主である真田家を強く慕った。
上田の藩領にあって上州との境である真田鄕は、その名が示すとおり、真田氏の発祥の地である。
城下の原町は真田鄕の原村から呼び寄せられた人々が住み、海野町は真田氏の本流である海野氏の発祥地である海野宿から移った人々の町である。これら町の発展には、信之自身が丹精している。
家臣たちは近郷の村落に所領を与えられている。領民たちと共に鋤鍬を持って新田を開き、川筋を整え、道を通して、故郷を作り上げてきた。
侍たちは自分たちが作り上げたこの地から離れがたく、民も自分たちと働いてきた主人たちと離れがたく思っている。
この土地では、支配者と被支配者とが強く結びついていた。
それこそが、徳川幕府が「真田信之を移封させたい、させねばならない」と決心させた原因の一つだ。
領主と領民が結束し、幕府に反抗する力を蓄えることを防がねばならない。
徳川が天下様となった後、多くの大名小名は幕府に従ったが、そうでない者もいた。
たいていの場合、反感は芽のうちに摘み取られ、多くは反乱にも争いにならなかった。
なればこそ、今後もその平穏を保ち続けるために、反抗は目に見えるほど育つ前に、徹底的に踏み潰す必要がある。
その一心が、幕府を守り継ぐ使命を負った徳川秀忠に、心とは裏腹の冷酷とも取れる行動を起こさせている。
「どうあっても納得なりませぬな」
父の代からの重臣である出浦対馬守昌相が、主君の前であからさまに不満を言った。日頃、むしろ恐ろしくなるほどに穏やかな彼に似合わず、語気が荒い。
信之もこの老臣が素直にこの度の加増を喜ばぬだろうとは予想していた。それ故に、その沙汰が下った直後、上田へ向かう途中の武蔵国・鴻巣の本陣で、中風の後遺症で動きの悪い手指に筆をとり、わざわざ直筆の手紙を書き送って説得を試みている。
返書はなかった。
書簡のをやりとりする暇が無いほどの素早さで、信之は上田入りした。
昌相を筆頭に、そのほかにも僅かながら存在する反対派の家臣達と、直接話をするためだった。
江戸表から急ぎ帰国した大殿の自らの説得した意義は十二分にあった。反対派の家臣の大半が転封に納得をしてくれた。
もっとも、本来なら家臣を説得する必要など無いのだ。主君であれば、家臣に命令を下せば良い。地名を示して「お前の領地はここだ」と云い、数字を示して「禄高は何貫、何俵だ」と下知すれば良いだけのことである。
だがこの殿様は、それができなかった。
そして、真田信之自らが行った説得でも納得がゆかぬ者のもいくらかはいた。彼らは暇を願い出、ある者は故郷であり領地であった村に戻って帰農し、あるいは脱藩して松代でも上田でもない土地で浪人となった。
出浦昌相は近年の上田領運営を殆ど任せていたといって良い人物だった。
ことさら、町分の治安と村分の治水に関して、彼は、丹精に丹誠を込めて行ってきた。
用水を引き、ため池を掘り、新田開発をする。人々の声を聞き、罪人を捕らえ、裁決を下す。森と山を見、木材・石材を切り出し、町並みを作る。
こうして作り上げられた上田領の村や町は、彼にとって、謂わば手放しがたい作品であった。
藩主館に藩士達が集められ、大殿様自ら諄々と説いて聞かせたその時、昌相は反論も異論も唱えなかった。
何も言わなかった。明確な同意の言葉も、である。
それゆえに、信之は彼が納得をしてくれたものと思っていた。
だが、違っていた。
出浦昌相は腹の内の異論や反論を口に出さなかっただけだった。
とはいえ、この期に及んで文句を言ったところで仕様のないことだ。
海津城へ移転の下ごしらえは八分通り済んでいた。
すでに筆頭家老の矢沢頼康が松代へ出向き、やはり加増転封――出羽国庄内十三万八千石――となる領主・酒井忠勝からの城受渡を済ませていた。
受け入れの体制は万端整えられており、頼康らが主君の到着を待ちかねている。
他方、上田城を仙石忠政に受け渡す準備も、禰津幸直の差配によって着々と進められている。
城の備品の目録は、備え付けの道具類、戸、畳の枚数に至るまで事細かに書き整えられていた。領内諸村の税収なども「総貫高寄帳」にまとめられている。
今まさに幸直が藩主館内の一室で、冷や汗と脂汗を流しながら書き整えつつあるこれらの引き継ぎ資料は、一端すべて幕府に提出される。その内容を幕府が精査した後に仙石氏に引き渡す手はずになってるから、間違いは寸分も許されない。
上田の藩主館の内外も、すっかり片付いていた。
いや、幾分か片付き過ぎのきらいもある。
建物の中には調度品は一つも無く、書庫の棚にに紙の一枚もなく、部屋部屋の仕切りは、障子と板戸が残されているばかりで、書画の描かれた襖の類いは殆ど取り払われている。
柱ばかりの屋敷の中を通り抜ける秋風が寒々しい。
庭も綺麗さっぱりとしている。
築山に紅葉の一葉もなく、池には鯉一匹の影もなく、生け垣に箭竹の一本も生えていない。
「有り体に申さば、同意をいたしかねます」
柔和そうに見える出浦対馬守昌相の丸い顔から、下唇がぐいと突き出されている。
「有り体に言ってくれるでないぞ、対馬。松代は彼の川中島を有する北国の要地。そこを守れとの御命だ。これほど栄誉なことはあるまい」
がらんとした領主館の大書院で、真田信之は高い上背をぴしりと伸ばした。家臣を諭す言葉は、鴻巣の本陣で書いた手紙の内容を、そのまま繰り返しているに等しい。
今に限ったことではない。今日のこのときに至るまで、この主従はもう何遍も同じやりとりを繰り返していた。
それでも昌相の不満は治まることがなかった。
出浦昌相という男は、若い頃から一見ぼんやりとした狸面であったが、年を経てますます目尻が下がり、眼窩は黒々とした隈に囲まれるに至って、今ではすっかり狸そのものの風貌となっていた。
そんな彼の垂れ目が、ぎりぎりとつり上がっていた。
「上田城はご先代の長谷寺殿……いや、安房守殿が若殿に残された形見にござる。上様には、若に親の形見を捨てろ、と仰せですか?」
長谷寺殿とは、長谷寺殿一翁千雪大居士、すなわち信之の父・真田安房守昌幸のことだ。真田鄕の長谷寺には、真田昌幸の遺髪が納められた「墓」がある。
それ故に、徳川家に背いたがためにその名を呼ぶことがはばかられる存在となってしまったその人を呼ぶ時、人々はその寺の名で呼ぶ。
出浦昌相は真田昌幸に臣下の礼を取っていたが、若い頃はむしろ盟友ともいうべき間柄であった。数え年五十七で孫もおり、本来なら大殿と呼ぶべき親友の倅のことを、時折、若殿呼ばわりにするのは、それ故であろう。
これは矢沢頼康などもそうであるが、彼らのような古くからの家臣は、無意識で先代の息子に「若」と呼びかけてしまうことがある。いや、希に、意識的にそのように呼ぶこともあるらしい。
発言の主の意識の有る無しは信之には関係が無かった。老将には、この若造扱いが溜まらなくうれしい。
うれしいが、このときばかりは眉が曇った。
「親父殿の形見だからこそ、捨てよと仰せなのだ……。上様はわしに二心のない事など重々御承知であられよう。だが、他の者はどうだ? わしの父が真田昌幸であり、弟が真田信繁であることを知っている者たちは、わしをどう思っていようか」
関ヶ原合戦以後に徳川の旗下に入った武家は「外様」と呼ばれている。
幕府は『支配力を強化する為』『領地を治める能力の無いものを除き、優れた者に加増するため』という理由から、外様大名の取り潰しや、譜代大名の領地替えを行った。
真田家の改封も、そんな『外様潰し』の一環だと、陰でささやく者たちもいた。
徳川に仕えて三十余年、二年前に没した正妻小松殿は徳川家康の養女、という真田信之は、譜代として遇されている。
それは、並みの外様以上に危険視されている、その裏返しでもあった。
徳川にことあるごとに反発した表裏比興の者「真田昌幸」の嫡男。豊臣方最後の猛者、大御所・徳川家康を追いつめた男「真田信繁」の実兄。その二点が、幕閣の心に暗鬼を生ぜさせている。
信之自身の赤心、徳川家への忠義の心は――家康や秀忠自身の個人的な感情を除いて――全く無視されている。
「憎むべき仙石兵部め。彼の者が殿が木材石材をお集めになったと幕府に上訴したと……」
出浦昌相の狸顔が朱に染まった。
仙石忠政が本当に上訴をしたのかどうか、判然としない。
大体、この領地替えについて事実として知れているのは、
『出羽国の最上源五郎義俊がお家騒動のため領地の大半を没収された』
『甲斐甲府の徳川中納言忠長の加増にあたって、小諸領が選ばれた』
『小諸の仙石兵部大輔忠政が加増され、上田に移る』
『上田の真田伊豆守信之が加増され、松代に移る』
『松代の酒井宮内大輔忠勝が加増され、最上家の領地の一部だった出羽庄内・鶴ヶ岡城に移る』
ということだけなのだ。
「人が聞くぞ、対馬」
信之が小さく鋭く言う。
人の口はさがないものである。判らないこと、事実でないことも、そのさがない口から出でる内に、真実であるかように広まってしまう。
ため息のような間を一つ吐き出した後、信之は小声で、気恥ずかしげに、
「大体、わしが建材を集めたのはまあ事実であるし、それがご政道からちいとばかり外れていることではあることに間違いは無い。ならばその『正しくない事』を咎めたという兵部殿は、むしろ正しい」
信之の苦笑いを見る昌相の下唇が、さらに突き出た。反論はない。信之は続ける。
「生まれ故郷だだの親の形見だなどというのは、それこそ言い訳にもならぬよ。現に、生まれた土地以外に領地を頂戴し、引っ越していった大名が、昨今どれほど多いことか」
信之は具体例は挙げなかったが、手指を折って数える仕草をして見せた。
関ヶ原の戦いで功があり、徳川家康の養女を嫡子の嫁に迎えていた福島正則は、城の無断改築を口実に減転封されている。
その福島正則改易の立会人を務めた最上義俊は、前述の通り、家中に騒動があったため、出羽秋田五十七万石から近江大森一万石へ大減封された。
三河以来の家柄であり、関ヶ原の折は秀忠に従って信濃平定上田城攻めに同行していた――そして真田昌幸・信繁親子の助命に力を貸してくれた――本多正信の子・正純も、城の修築で許可の無い工事を行ったことを理由の一つとして失脚している。
「よろしいか出浦殿よ。この改封は上様直々の有り難い御命だ。万一、家中に従わぬ士があれば……あると知れれば、謀反を疑われる。さすれば、真田家はたちまち取り潰しだぞ」
口ぶりは柔らかく、口元に苦笑いという笑みがある。が、信之の顔つきは険しかった。
ことにその眼の光は、射込むように鋭くありながら、悲しげである。
背筋に冷気が走った。昌相は口を曲げ、下唇を引っ込めた。
直後、信之は苦笑いを真の笑顔に変えた。
「ま、相応の形見分けはしてもらうつもりだがな。……対馬よ、来てくれ」
主君は年上の家臣の袖を引いて館を出た。
三の丸の屋敷を出て二の丸へ向かう。
松代は、旧領信州上田から北国街道をたどっておおよそ十六里(約63km)。千曲川岸の土地だ。
遠く離れているようにも思えるが、これは宿駅間の距離である。上田領の内でも、その北端である真田の郷からならば、峠を一つ超えればすぐに松代領に入ることが出来る。
松代の石高は表向き十万石を数える。
上田は表高六万石だったのだから、差し引き四万石の加増ということになる。
しかも旧領のうち、上野国沼田の三万五千石はそのままに、というありがたい条件だ。
真田家の総石高は合わせて十三万五千石となる。
大殿様が急に江戸城に呼び出された時、家中の士たちは不安を隠さなかった。急仕立ての大名行列は、総じて青白い顔をしていた。
最悪の事態――取り潰し――を懸念していたのだ。
顔色が変じていないのは、お駕籠の中の殿様だけだ。
真田信之は普段通りに具合悪げな顔つきをして、狭い駕籠の中で大きな体を縮こまらせていた。
信之が加増の下知を頂戴して戻ってきても、その後に噛んで含めるような信之や重臣たちの説明を聞かされても、家臣も領民もすぐに安堵することは出来なかった。
特に上田領内に広がった動揺の波は激しい。
上田城の城下で、ひとたび戦があれば――城とは戦のために建てられたものであるから――領民達も城に入り、弓を取って戦う。
犠牲者は出た。
戦には勝った。
死人は懇ろに弔われ、怪我人や遺族は十分な保証を受け、恩賞は充分に出た。
だから領民は城主である真田家を強く慕った。
上田の藩領にあって上州との境である真田鄕は、その名が示すとおり、真田氏の発祥の地である。
城下の原町は真田鄕の原村から呼び寄せられた人々が住み、海野町は真田氏の本流である海野氏の発祥地である海野宿から移った人々の町である。これら町の発展には、信之自身が丹精している。
家臣たちは近郷の村落に所領を与えられている。領民たちと共に鋤鍬を持って新田を開き、川筋を整え、道を通して、故郷を作り上げてきた。
侍たちは自分たちが作り上げたこの地から離れがたく、民も自分たちと働いてきた主人たちと離れがたく思っている。
この土地では、支配者と被支配者とが強く結びついていた。
それこそが、徳川幕府が「真田信之を移封させたい、させねばならない」と決心させた原因の一つだ。
領主と領民が結束し、幕府に反抗する力を蓄えることを防がねばならない。
徳川が天下様となった後、多くの大名小名は幕府に従ったが、そうでない者もいた。
たいていの場合、反感は芽のうちに摘み取られ、多くは反乱にも争いにならなかった。
なればこそ、今後もその平穏を保ち続けるために、反抗は目に見えるほど育つ前に、徹底的に踏み潰す必要がある。
その一心が、幕府を守り継ぐ使命を負った徳川秀忠に、心とは裏腹の冷酷とも取れる行動を起こさせている。
「どうあっても納得なりませぬな」
父の代からの重臣である出浦対馬守昌相が、主君の前であからさまに不満を言った。日頃、むしろ恐ろしくなるほどに穏やかな彼に似合わず、語気が荒い。
信之もこの老臣が素直にこの度の加増を喜ばぬだろうとは予想していた。それ故に、その沙汰が下った直後、上田へ向かう途中の武蔵国・鴻巣の本陣で、中風の後遺症で動きの悪い手指に筆をとり、わざわざ直筆の手紙を書き送って説得を試みている。
返書はなかった。
書簡のをやりとりする暇が無いほどの素早さで、信之は上田入りした。
昌相を筆頭に、そのほかにも僅かながら存在する反対派の家臣達と、直接話をするためだった。
江戸表から急ぎ帰国した大殿の自らの説得した意義は十二分にあった。反対派の家臣の大半が転封に納得をしてくれた。
もっとも、本来なら家臣を説得する必要など無いのだ。主君であれば、家臣に命令を下せば良い。地名を示して「お前の領地はここだ」と云い、数字を示して「禄高は何貫、何俵だ」と下知すれば良いだけのことである。
だがこの殿様は、それができなかった。
そして、真田信之自らが行った説得でも納得がゆかぬ者のもいくらかはいた。彼らは暇を願い出、ある者は故郷であり領地であった村に戻って帰農し、あるいは脱藩して松代でも上田でもない土地で浪人となった。
出浦昌相は近年の上田領運営を殆ど任せていたといって良い人物だった。
ことさら、町分の治安と村分の治水に関して、彼は、丹精に丹誠を込めて行ってきた。
用水を引き、ため池を掘り、新田開発をする。人々の声を聞き、罪人を捕らえ、裁決を下す。森と山を見、木材・石材を切り出し、町並みを作る。
こうして作り上げられた上田領の村や町は、彼にとって、謂わば手放しがたい作品であった。
藩主館に藩士達が集められ、大殿様自ら諄々と説いて聞かせたその時、昌相は反論も異論も唱えなかった。
何も言わなかった。明確な同意の言葉も、である。
それゆえに、信之は彼が納得をしてくれたものと思っていた。
だが、違っていた。
出浦昌相は腹の内の異論や反論を口に出さなかっただけだった。
とはいえ、この期に及んで文句を言ったところで仕様のないことだ。
海津城へ移転の下ごしらえは八分通り済んでいた。
すでに筆頭家老の矢沢頼康が松代へ出向き、やはり加増転封――出羽国庄内十三万八千石――となる領主・酒井忠勝からの城受渡を済ませていた。
受け入れの体制は万端整えられており、頼康らが主君の到着を待ちかねている。
他方、上田城を仙石忠政に受け渡す準備も、禰津幸直の差配によって着々と進められている。
城の備品の目録は、備え付けの道具類、戸、畳の枚数に至るまで事細かに書き整えられていた。領内諸村の税収なども「総貫高寄帳」にまとめられている。
今まさに幸直が藩主館内の一室で、冷や汗と脂汗を流しながら書き整えつつあるこれらの引き継ぎ資料は、一端すべて幕府に提出される。その内容を幕府が精査した後に仙石氏に引き渡す手はずになってるから、間違いは寸分も許されない。
上田の藩主館の内外も、すっかり片付いていた。
いや、幾分か片付き過ぎのきらいもある。
建物の中には調度品は一つも無く、書庫の棚にに紙の一枚もなく、部屋部屋の仕切りは、障子と板戸が残されているばかりで、書画の描かれた襖の類いは殆ど取り払われている。
柱ばかりの屋敷の中を通り抜ける秋風が寒々しい。
庭も綺麗さっぱりとしている。
築山に紅葉の一葉もなく、池には鯉一匹の影もなく、生け垣に箭竹の一本も生えていない。
「有り体に申さば、同意をいたしかねます」
柔和そうに見える出浦対馬守昌相の丸い顔から、下唇がぐいと突き出されている。
「有り体に言ってくれるでないぞ、対馬。松代は彼の川中島を有する北国の要地。そこを守れとの御命だ。これほど栄誉なことはあるまい」
がらんとした領主館の大書院で、真田信之は高い上背をぴしりと伸ばした。家臣を諭す言葉は、鴻巣の本陣で書いた手紙の内容を、そのまま繰り返しているに等しい。
今に限ったことではない。今日のこのときに至るまで、この主従はもう何遍も同じやりとりを繰り返していた。
それでも昌相の不満は治まることがなかった。
出浦昌相という男は、若い頃から一見ぼんやりとした狸面であったが、年を経てますます目尻が下がり、眼窩は黒々とした隈に囲まれるに至って、今ではすっかり狸そのものの風貌となっていた。
そんな彼の垂れ目が、ぎりぎりとつり上がっていた。
「上田城はご先代の長谷寺殿……いや、安房守殿が若殿に残された形見にござる。上様には、若に親の形見を捨てろ、と仰せですか?」
長谷寺殿とは、長谷寺殿一翁千雪大居士、すなわち信之の父・真田安房守昌幸のことだ。真田鄕の長谷寺には、真田昌幸の遺髪が納められた「墓」がある。
それ故に、徳川家に背いたがためにその名を呼ぶことがはばかられる存在となってしまったその人を呼ぶ時、人々はその寺の名で呼ぶ。
出浦昌相は真田昌幸に臣下の礼を取っていたが、若い頃はむしろ盟友ともいうべき間柄であった。数え年五十七で孫もおり、本来なら大殿と呼ぶべき親友の倅のことを、時折、若殿呼ばわりにするのは、それ故であろう。
これは矢沢頼康などもそうであるが、彼らのような古くからの家臣は、無意識で先代の息子に「若」と呼びかけてしまうことがある。いや、希に、意識的にそのように呼ぶこともあるらしい。
発言の主の意識の有る無しは信之には関係が無かった。老将には、この若造扱いが溜まらなくうれしい。
うれしいが、このときばかりは眉が曇った。
「親父殿の形見だからこそ、捨てよと仰せなのだ……。上様はわしに二心のない事など重々御承知であられよう。だが、他の者はどうだ? わしの父が真田昌幸であり、弟が真田信繁であることを知っている者たちは、わしをどう思っていようか」
関ヶ原合戦以後に徳川の旗下に入った武家は「外様」と呼ばれている。
幕府は『支配力を強化する為』『領地を治める能力の無いものを除き、優れた者に加増するため』という理由から、外様大名の取り潰しや、譜代大名の領地替えを行った。
真田家の改封も、そんな『外様潰し』の一環だと、陰でささやく者たちもいた。
徳川に仕えて三十余年、二年前に没した正妻小松殿は徳川家康の養女、という真田信之は、譜代として遇されている。
それは、並みの外様以上に危険視されている、その裏返しでもあった。
徳川にことあるごとに反発した表裏比興の者「真田昌幸」の嫡男。豊臣方最後の猛者、大御所・徳川家康を追いつめた男「真田信繁」の実兄。その二点が、幕閣の心に暗鬼を生ぜさせている。
信之自身の赤心、徳川家への忠義の心は――家康や秀忠自身の個人的な感情を除いて――全く無視されている。
「憎むべき仙石兵部め。彼の者が殿が木材石材をお集めになったと幕府に上訴したと……」
出浦昌相の狸顔が朱に染まった。
仙石忠政が本当に上訴をしたのかどうか、判然としない。
大体、この領地替えについて事実として知れているのは、
『出羽国の最上源五郎義俊がお家騒動のため領地の大半を没収された』
『甲斐甲府の徳川中納言忠長の加増にあたって、小諸領が選ばれた』
『小諸の仙石兵部大輔忠政が加増され、上田に移る』
『上田の真田伊豆守信之が加増され、松代に移る』
『松代の酒井宮内大輔忠勝が加増され、最上家の領地の一部だった出羽庄内・鶴ヶ岡城に移る』
ということだけなのだ。
「人が聞くぞ、対馬」
信之が小さく鋭く言う。
人の口はさがないものである。判らないこと、事実でないことも、そのさがない口から出でる内に、真実であるかように広まってしまう。
ため息のような間を一つ吐き出した後、信之は小声で、気恥ずかしげに、
「大体、わしが建材を集めたのはまあ事実であるし、それがご政道からちいとばかり外れていることではあることに間違いは無い。ならばその『正しくない事』を咎めたという兵部殿は、むしろ正しい」
信之の苦笑いを見る昌相の下唇が、さらに突き出た。反論はない。信之は続ける。
「生まれ故郷だだの親の形見だなどというのは、それこそ言い訳にもならぬよ。現に、生まれた土地以外に領地を頂戴し、引っ越していった大名が、昨今どれほど多いことか」
信之は具体例は挙げなかったが、手指を折って数える仕草をして見せた。
関ヶ原の戦いで功があり、徳川家康の養女を嫡子の嫁に迎えていた福島正則は、城の無断改築を口実に減転封されている。
その福島正則改易の立会人を務めた最上義俊は、前述の通り、家中に騒動があったため、出羽秋田五十七万石から近江大森一万石へ大減封された。
三河以来の家柄であり、関ヶ原の折は秀忠に従って信濃平定上田城攻めに同行していた――そして真田昌幸・信繁親子の助命に力を貸してくれた――本多正信の子・正純も、城の修築で許可の無い工事を行ったことを理由の一つとして失脚している。
「よろしいか出浦殿よ。この改封は上様直々の有り難い御命だ。万一、家中に従わぬ士があれば……あると知れれば、謀反を疑われる。さすれば、真田家はたちまち取り潰しだぞ」
口ぶりは柔らかく、口元に苦笑いという笑みがある。が、信之の顔つきは険しかった。
ことにその眼の光は、射込むように鋭くありながら、悲しげである。
背筋に冷気が走った。昌相は口を曲げ、下唇を引っ込めた。
直後、信之は苦笑いを真の笑顔に変えた。
「ま、相応の形見分けはしてもらうつもりだがな。……対馬よ、来てくれ」
主君は年上の家臣の袖を引いて館を出た。
三の丸の屋敷を出て二の丸へ向かう。
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