ふわふわの熊とお殿様

神光寺かをり

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菊理媛神

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 浅草新町の弾左衛門屋敷の敷地の奥深い場所にはくさんじんじゃがある。祭神はくくひめのかみと、なみなぎの夫婦神だ。
 白山神社には縁結び、聞き入れ、夫婦円満、五穀豊穣、大漁満足、生業繁栄、などの御利益があるとされる。

 拝殿の右手に小ぶりな建物があった。
 ここは授与所と呼ばれている。普通は、おふだ・絵馬・ゆみくじ・お守り・はくさんごんげんじく、などの縁起物をはんする場所だ。
 ただ、浅草新町の白山神社の授与所には、他の神社には見かけられない物がある。
 それが『仕切り札』である。
 朱で枠飾りを引いた中に『仕切札』と書いてあり、墨判で弾左衛門の印が突いてある。ただそれだけの紙切れだ。

「しかしながら、その紙切れに当屋敷に属する者たちが全くそちら様へ寄らなくなるだけの……そちら様にとっての『御利益』がございますのです」

 に白のかりぎぬあさばかまを着た細面の若いぐうにふんわりと笑いかけられた丹波や半兵衛は、なぜか薄寒い恐怖のような感情を覚えた。手が震える。

「し……しかし、それにしてもあたいいっかんもんとは法外ではありませんか」

 一貫文とはぜに一千枚の事だ。
 穴あき貨幣である銭を保存する場合には千枚単位で紐に通す。そのひとつづりが一貫文である。
 一貫文は金貨のいちと同等とされる。四貫文あれば小判一枚、つまり一両相当となる。
 ちなみに二十一世紀の物価に、一両十万円(江戸初期の米価)~三十万円(腕の良い職人の賃金)としてざっくり換算すると、一文は二十五円~七十五円程度、一貫文は二万五千円~七万五千円相当となる。

 確かにタダの紙切れ一枚が七万五千円は高すぎる。

「この先、門付け芸人が店先に来る度に与える銭は、確かに一度には五文十文と少ないものですが、もし十度ならば五十文百文になります。それがいく年も続けば、あっという間に五百文そして千文、つまり一貫文になるのですよ。
 あるいはその度々に心張り棒を振り回すとかいう疲れるまねをせずに済みまするぞ。
 それがそちらさまのお望みなのでは?」

 宮司は笑っている。金のことは言ったが、心張り棒で物乞いを追い払った話は、ここではしていない。丹波やの背筋に冷たい物が走った。

「そうだ、そうだ。その通りだ。わたしは損をしたくないし疲れたくない。何年も近江の本家でこき使われて、やっとおたなをまかされるようになったのだ。儲けたい、だれよりも儲けたい」

 言ってから、丹波やは慌てて両手で口を塞いだ。
 本心だからといって、言って良いことと悪いことがあることなど、商人として、いや人として、百も承知の筈だった。

「お気になさらずに。商売をなさる方の中には少なからずそう思っておいでの向きもおいでですから。……実際に人前で口になさるかどうかは別として」
 
 宮司の笑顔は変わらない。柔らかく、優しく、恐ろしい顔だった。
 丹波や半兵衛は唾を飲み込んだ。

「わかりました。払います、お払いします」

 丹波やは懐から紙入れを取り出した。震える手指がつまみ出したのは、一分金一枚だった。この小さな四角い金貨には、銅銭千枚と同等の価値がある。
 宮司の前の縁起物を並べた台に一分金が置かれた。パチリという良い音がした。
 丹波やは強張った笑顔を宮司に向けた。

「これで『仕切り札』を……」

「いけませんな」

 喰い気味に否定の答えが帰ってくる。丹波やは目を剥いて驚いた。理由を問い返す言葉が出ない。

「私どもの取り扱う『仕切り札』のはつりょうは一貫文です、と申し上げたはずですよ」

 あくまでも優しく静かな声で宮司が言うのへ、丹波やは、

「でででで、ですから、一貫文分の黄金きん一分をこうして……」

 自分が出した一分金を指し示した。

「私どもは『銭一貫文』だと申し上げているのですよ」

「いや、ですが……」

「例えば、そちらのおたなの千両箱の中に『黄金一両二分、白銀六十もんめ、銅銭二貫文』があったとして、帳簿に『合わせて三両』とでもお書きになるのでしょうか?
 私どもでは『一両二分、六十匁、二貫』と別けて書くようにしておりまするが」

 江戸時代では『金貨』『銀貨』『銭貨』のそれぞれを『独立した本位貨幣』として取り扱っていた。従って、帳簿などにはそれぞれの額を別けて記載する。
 もちろん、互いに両替することは出来る。ただし、両替商たちに手数料を払う必要があった。

「私どもは先般より『仕切り札』のはつりょうは『一貫文』であると申し上げております。一分金一枚ではありません。銭千枚でございますよ」

「そんな無体な!」

 普通、千枚の硬貨を持って歩くことなどあるだろうか。メートル法でいうと三.七五キログラムの重量があるものを、である。

「これを無体と思われるのなら、初穂料は下さらなくても結構なのですよ。その代わり私共も『仕切り札』をお渡しできません、というだけです」

 宮司は一分金をまるで将棋の駒のように丹波や半兵衛の側へ押しやった。

「ううぅ……」

 丹波やは戸惑いをうなり声にして吐き出すと、一分金をつまみ上げて元通り紙入れに戻した。
 がっくりと肩を落とした丹波やは、無言で屋敷の出口方向へ歩き出した。力なく、ゆっくりと、トボトボと遠ざかって行く。
 遠く離れ、神社からは丹波や半兵衛の背中が見えなくなった頃、その遠く離れた辺りから屋敷の門番を務めている男が駈けてくるのが見えた。

「若頭、丹波やのしみったれが門の外へ出て、町駕籠に乗って行きやした」

「そうか」

 宮司……いや弾左衛門の倅の吉次郎がにっこりと笑い返す。恐ろしさも冷たさもない笑顔だ。

「あいつに『仕切り札』をお売りなすったんで?」

「いや」

 吉次郎は微笑みながら首を横に振る。

「じゃ、あいつは手ぶらで帰りやがったんですね? それで、店に『札』を貼れなくなった、と。ざまぁねぇな」

 門番はケラケラ笑った。吉次郎は微笑みながら首を横に振る。

「いいや、恐らく一貫文を持って帰ってくるよ。あのお人のおたなはたしかでんちょうだそうだから、一刻約二時間たたずに戻ってくるのではないかな」

「どうしてそう思われますんで?」

「あのお人はどうしても『仕切り札』が欲しいのだ。でなければこんな所まで丹波や半兵衛ご本人が出向いて来ることはないだろうね」

「ははぁ?」

「帰ったのは一貫文の手持ちが無かったから、だよ。少なくとも一遍は無駄足を踏んで貰うために『銭で払え』とお願いしたのだがね」

「じゃ、わざとなすったんですかい?」

 吉次郎の首が、今度は縦に振られた。

「あのお人のお店の品々が、目が飛び出るほど値の張る品ばかりだったとして、お客と金銀ばかりでやり取りしていたとしても、一貫文程度の銭の蓄えはあるだろう。
 もしも、銭の枚数が千に足らなかったとしても、お店からはそう遠くない日本橋むろまちとおりちょうあたりに出ている銭両替屋ぜにうりまでちょいと脚を伸ばせばいい。今の相場なら、金一分で銭九百六十枚ぐらいは買えるだろうからね。
 あのお人の紙入れの中には少なくとも一分は入ってた。さすがに四十文ぐらいの手持ちはあるだろうからね」

「それじゃ、おらぁ急いで持ち場に戻らねぇといけねぇや。丹波やが一貫文を担いで来るのを待ってねぇとなんねぇ!」

 門番は来た道を小走りに戻って行った。背中がケタケタと大笑いしている。
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