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夏休みの間
32.押しボタン式信号機。
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油臭くて黒い煙が目の前に漂っている。
息を吸い込んだら、鼻の穴のと喉の粘膜がちくりと痛んだ。龍はくしゃみと咳をほとんど同時にした。
くしゃみも咳き、どっちも「息を強制的に吐き出す身体の働き」だ。
咳が止まらない。息を吸うとくしゃみも出る。くしゃみが止まるとまた咳が出る。
龍は肺の中の空気を吐き出し続けた。まともに息を吸い込むことができない。
でもそのあたりの排ガスがいっぱい混じった空気は、できることなら吸いたくない酷いものだったから、龍の体が表した反応は当然のことなのだ。
龍は着込んだばかりのしめった半袖シャツの裾をズボンの中から引き抜いて持ち上げた。
いつだったか、学校でやった避難訓練の時に、煙を吸わないようにするにはハンカチをしめらせて鼻と口に当てると良いと教わった。
家から首に掛けてきていたタオルは行方不明になっていたから、鼻と口を覆う布はシャツの裾しかなかった。お臍が丸出しになるのだけれど、呼吸ができなくなるよりましだ。
鼻と口をシャツの裾で覆うと、排ガスのニオイが少し薄まった。
そのお陰で、くしゃみと咳はどうにか収まった。
ただ、シャツを湿らせたのは溜池の水だ。吸い込んだ息は、排ガス臭の代わりに生臭い水苔のニオイが加わっていて、結局あまり気分の良い呼吸はできなかった。
とにかく、息はなんとかできるようになった。龍はあたりをきょろきょろと見回した。
ここがどこなのかさっぱり判らない。
家に帰る道順が判らない。
『道路沿いに進めば、なんとかなるんじゃないか』
と思った。
右へ行くのが良いのか、左にした方が良いのかもちっとも判らなかったのだけれど、ともかく歩かないといけない気がする。
あたりを見回すと、左の方にちょっと進んだ先に柱が一本立っていた。交差点ではないけど信号が付いている。押しボタン式の歩行者用信号だ。
道路の方を向いている自動車用の信号灯の上に、見覚えのある市章と、読めない地名の書かれた、青い看板が掲げられていた。
龍は一瞬ホッとして、すぐにゾッとした。
ホッとしたのは、少なくともここは自分の生まれ育った市の範囲だと判ったから。
ゾッとしたのは、全然知らない地名だったから。
龍の生まれた市は古くから大きな町だった。それで、その市街地を中心にして、周りの小さな町村を飲み込むような「合併」を、何度もくり返している。だから同じ「市内」でも、古くからの「旧市街」よりも、新しい「郊外」の土地の方が広い。そっちのほうのことは、龍は全然知らない。
遠足とか、社会科見学とかで、旧市街の外へ出て、山に登ったり大きな工場を見に行ったりした事はある。けれど、そういうときは引率の先生の後ろを列を作って付いていったり、バスで運ばれたりしたわけで、自分で道順を覚えたりはしなかった。
だから龍は、小学校の通学区より外の道路がどうなっているのか、全然知らない。
端っこの方は相当な山奥で、空気がとんでもなくキレイだから、昔は病気の人が町から離れて入院する特別な病院があったと聞いたことはある。
そのあたりまで行けば今でもトカゲやヘビだけでなく、タヌキやイノシシや、時々クマだって出るとも聞かされたことがある。
息を吸い込んだら、鼻の穴のと喉の粘膜がちくりと痛んだ。龍はくしゃみと咳をほとんど同時にした。
くしゃみも咳き、どっちも「息を強制的に吐き出す身体の働き」だ。
咳が止まらない。息を吸うとくしゃみも出る。くしゃみが止まるとまた咳が出る。
龍は肺の中の空気を吐き出し続けた。まともに息を吸い込むことができない。
でもそのあたりの排ガスがいっぱい混じった空気は、できることなら吸いたくない酷いものだったから、龍の体が表した反応は当然のことなのだ。
龍は着込んだばかりのしめった半袖シャツの裾をズボンの中から引き抜いて持ち上げた。
いつだったか、学校でやった避難訓練の時に、煙を吸わないようにするにはハンカチをしめらせて鼻と口に当てると良いと教わった。
家から首に掛けてきていたタオルは行方不明になっていたから、鼻と口を覆う布はシャツの裾しかなかった。お臍が丸出しになるのだけれど、呼吸ができなくなるよりましだ。
鼻と口をシャツの裾で覆うと、排ガスのニオイが少し薄まった。
そのお陰で、くしゃみと咳はどうにか収まった。
ただ、シャツを湿らせたのは溜池の水だ。吸い込んだ息は、排ガス臭の代わりに生臭い水苔のニオイが加わっていて、結局あまり気分の良い呼吸はできなかった。
とにかく、息はなんとかできるようになった。龍はあたりをきょろきょろと見回した。
ここがどこなのかさっぱり判らない。
家に帰る道順が判らない。
『道路沿いに進めば、なんとかなるんじゃないか』
と思った。
右へ行くのが良いのか、左にした方が良いのかもちっとも判らなかったのだけれど、ともかく歩かないといけない気がする。
あたりを見回すと、左の方にちょっと進んだ先に柱が一本立っていた。交差点ではないけど信号が付いている。押しボタン式の歩行者用信号だ。
道路の方を向いている自動車用の信号灯の上に、見覚えのある市章と、読めない地名の書かれた、青い看板が掲げられていた。
龍は一瞬ホッとして、すぐにゾッとした。
ホッとしたのは、少なくともここは自分の生まれ育った市の範囲だと判ったから。
ゾッとしたのは、全然知らない地名だったから。
龍の生まれた市は古くから大きな町だった。それで、その市街地を中心にして、周りの小さな町村を飲み込むような「合併」を、何度もくり返している。だから同じ「市内」でも、古くからの「旧市街」よりも、新しい「郊外」の土地の方が広い。そっちのほうのことは、龍は全然知らない。
遠足とか、社会科見学とかで、旧市街の外へ出て、山に登ったり大きな工場を見に行ったりした事はある。けれど、そういうときは引率の先生の後ろを列を作って付いていったり、バスで運ばれたりしたわけで、自分で道順を覚えたりはしなかった。
だから龍は、小学校の通学区より外の道路がどうなっているのか、全然知らない。
端っこの方は相当な山奥で、空気がとんでもなくキレイだから、昔は病気の人が町から離れて入院する特別な病院があったと聞いたことはある。
そのあたりまで行けば今でもトカゲやヘビだけでなく、タヌキやイノシシや、時々クマだって出るとも聞かされたことがある。
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