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夏休みの間

48.普通でいることは特別なこと。

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 今度は龍の肩がびくっと揺れた。
 あり得ないものを見た気がした。見てはいけないものを見た気がした。
 そして見たくないものを見た気がした。

 龍にとって「トラ」はいつも笑っているヤツだった。
 打てば響くということわざを、この頃の龍はまだ知らなかったけれど、知っていたら『それは「トラ」のことだ』と思うだろう。「トラ」は龍が投げた質問に即座に答えを返してくるヤツだった。
 あんまりあっさり答えを返してくる様が、自分をバカにしているみたいに聞こえる事もあってシャクだったけれども、それでも「トラ」は自分よりずっと頭が良くて、ずっと優しくて、ずっと高いところにいて、見上げるのが当たり前のヤツだった。

 それでも、泣くのは仕方がないと思った。
 だって自分だって痛ければ泣くのだから。くやしければ泣くのだから。悲しければ泣くにちがいないから。
 だから「トラ」だって苦しくなったことを思い出せば泣きたくなるだろう。悔しく感じれば泣いて当然だ。悲しければ泣くのは当たり前だ。
 でも怒ることがあるなんてちっとも思わなかった。
 龍は「トラ」という人物に、怒るという感情があるなんてことを考えもしていなかった。

 龍が目を剥いて「トラ」を見つめていると、次第に「トラ」の白い怒り顔の上に薄い笑顔が被さってゆくのが判った。
 怒りが消えたのじゃない。怒った顔の上にペラペラに薄い笑顔のお面を付けたみたいだった。
 そして唇を小さく開けた。

「保健室」

 言い終わったとき、「トラ」の顔からは怒ったとげがすっかり見えなくなっていた。

「保健室?」

 龍は「トラ」が言ったのと同じ言葉を繰り返した。「トラ」うなずき、付け足した。

「学校に行ったときは」

「学校に行ったときは?」

 龍はまた同じ言葉を繰り返す。そしてまた「トラ」はうなずきを返す。
 ただし、今度は付け足しの言葉がない。
 何か説明してくれるだろうと思っていた龍は、それきり黙ってしまった「トラ」の、開かない唇にしびれを斬らして、ちょっとドキドキしながら小さな声で訊ねた。

「まるで、学校に行くのが特別みたいだね」

「特別だよ」

 ままごと人形のようにつるりとした笑顔で、「トラ」が答えた。
 その小さな声は、まるで川のそこから聞こえたようだった。白い顔は茶色い水の中で浮き沈みする紙切れみたいだった。
 龍はブルッと震えた。
 石を転がしながら流れる川の、轟々という水音が、頭の中にあふれた。その騒音の中で、龍は声を聞いた。

『どうしても教室にいるのが嫌な人は、担任の先生が許してくれればそれで良いんだよ』

 校長先生の声だ。
 あのとき……「トラ」が救急車で運ばれて、龍がパニックになったとき、校長先生が言った言葉。
 校長先生はほんの少し辛そうな顔をしていた。
 そうして、学校に毎日行くことも、教室で授業を受けることも、クラスメイト全員を友達と呼べることも、当たり前だと思っている龍を『優秀な小学生』だと言った。
 そしてその時聞いた、教室でない場所で給食を食べてもいいのだという話。

『あれは「トラ」の事なんだ!』

 龍は脳みその中で叫んだ。
 自分の中に心棒みたいにあった「当たり前の事」が、自分より高い場所にいると信じているトモダチにとっては「当たり前ではない」、そのことに気付いた。
 龍は、自分を空から吊していたまっすぐな蜘蛛の糸が、自分の直ぐ近くでプツンと切れたような気分になった。

「だって、『トラ』はこんなに頭が良いのに」

 まだ手の届きそうなところを漂っている細い「自分の常識」に、龍はもう一度捕まろうとした。

 すると「トラ」が鼻水をすすり上げて答えた。

「勉強は好きだ。でも学校は苦手だ」

 龍の掴んだ蜘蛛の糸は、彼の拳のすぐ上で、またプツンと切れた。

「学校に行かなくて、どうやって勉強するのさ」

 龍は「トラ」の両手をぎゅっと握った。
 それは、遙か上空できらめいている蜘蛛の糸。絶対に離したくない信念。
「トラ」は目を伏せた。彼女の両手は重たく動いて、龍の手の中からぽとりと落ちた。

「本を読む、レコードを聴く。テレビを見る。それからウチの人に……お母さんに教わる」

 龍の両手は空っぽになった。
 どこからともなく、ヒグラシの鳴き声と、お線香の煙が漂ってきた。
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