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夏休みの間

49.ずっとずっと下の方。

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 柔らかい香りが、風に乗って流れている。
 それが伽羅きゃらという香木に由来する香りだなんて難しいことは、龍は知らない。
 龍のぼんやりとした顔から目を背けた「トラ」は

「姫ヶ池の、お姫様の事、だけれど……」

 ゆっくりと言った。あんまりゆっくり過ぎて、次の言葉がなかなか出てこないほどだ。
 止まってしまったのは言葉だけでない。
 横を向いた「トラ」は、視線を開け放った掃き出し窓の向こうに投げたまま、しばらく口をつぐんでいた。
 まるでゼンマイの切れたおもちゃが、ぴくりとも動かなくなった時のようだ。
 あんまり長く声を出さないので、龍の深く落ち沈んでいた心は、心配でドキドキと脈を打ちながら浮かび上がってきた。
 彼は「トラ」が見ているのと同じ方向を見た。
 きれいな庭があった。さっきまで自分がいたお風呂のある建物と、その反対側に小さなぬれえんのある「離れ」が建っている。

「姫ヶ池のお姫様の事だけれど」

 もう一度「トラ」が同じ事を言った。さっきよりちょっとだけ早口になっている。
 龍は、また黙ってしまうのではないかと心配して、慌てて「トラ」の顔に視線を戻して、じっと見た。
「トラ」は相変わらず庭を見ていたけれど、それはいらない心配だった。今度はすぐに次の言葉が出てきた。

「君がどこでどんな寅姫さまを『見た』のか、ボクにはわからないけれど、寅姫さまとボクが似ていても不思議はないのかもしれない」

「どうして?」

 すぐさま龍は訊ね返した。「トラ」は庭を見つめたまま、答えた。

「昔々、姫ヶ池で寅姫さまが人身御供ひとみごくうに成って、しばらく経った頃。
 池の工事の人足にんそくで、最後に人柱ひとばしらの穴を埋めた……つまり、寅姫さまを生き埋めにしたって事だけど……その人は、毎日池に通った。
 その人はとても優しい人だったから、
『寅姫さまがあの世で幸せに暮らせますように。寅姫さまのお父上の普請ふしん奉行ぶぎょうさまも苦しまなくなりますように』
 と願ったんだ。
 だから自分が知っている『ありがたいもの』を全部となえた。
 お念仏ねんぶつとか祝詞のりととかお題目だいもくとか、オラショとか、神さまも仏さまもごちゃ混ぜになってたけど、ともかく心を込めて一所懸命にお祈りをしていた」

 「トラ」はうっすらと微笑んだ。
 その途端、龍は自分の身体がデパートのエレベータに乗って一息にぐぅんと持ち上げられたみたいな、おかしな気分になった。
 おかげで少し気持ちが悪くなって、思わず目を閉じた。
 でもすぐに目を開けた。開けたつもりだった。
 そこにあるはずの「トラ」の横顔が無かった。
 あるのはキラキラと光を弾く水面。それも、ずうっとずうっと「下」の方に見える。
 龍の身体は、高い空の上にあった。そうして、低い地面を見下ろしている。
 思わず悲鳴を上げそうになったとき、

「うわぁ!」

 自分ではない誰かの口から出た大声が聞こえた。
 下の方へ目をこらしてみると、池のほとりの地面の上で、男の人が一人、腰を抜かして座り込んでいるのが見えた。
 男の人は皿のように目を見開いて、上を見ている。何か信じられない物を見てしまったというような目だ。
 上というのは、龍のいるところだ。
 男の人のまん丸な目は、龍の目を見ている。
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